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座禅と瞑想の違いは何なのでしょうか・・。

よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

早速のお返事、ありがとうございました。


ご要望がありましたので、補足を(笑)。

「禅」自体は、日本で言う平安時代初期~平安時代中期に中国で生まれた発想であるといわれています。
俗に「禅宗」と呼ばれる宗派は、菩提達磨というインド僧(「だるま」のモチーフになった人物ですね)を始祖としていますが、最近になって歴史学的に(宗教的にではなく(笑))菩提達磨の実在性を疑う意見が提起され始めました。実際にはおそらく達磨から直接法を授かったとされる「慧可(えか)」という中国僧およびその一派が現在風の座禅のシステムを作り上げたといわれています。

この一派、俗に「山林学派」と呼ばれます。
中国の歴史が唐から宋に変わろうとする激動期に、仏教弾圧が行われました。寺院が焼かれ、大半の僧侶が還俗させられ、中国仏教は崩壊寸前まで行ったといわれています。
その折に、弾圧を逃れ深い山奥に行った一派があります。
当然これらの僧侶たちも普段は経典を使った研鑽に励んでいたのでしょうが、そういう「資料」はこの弾圧で全て失ってしまったといわれています。
そうやってすべてを失った僧侶たちがたどり着いた答えが「教義」ではなく「実践」だった、ということなのでしょう。

中国・山林学派の仏教者たちがたどりついた「実践」は、静かに坐しながら自分の心の奥にある「真理」にたどり着くという、釈迦自身が導き出したスタイルでした。
釈迦自身は、「苦行が流行」だった釈迦当時のインド社会(仏教以前)の中で、ただ一人苦行を否定し、逆に怠惰も否定する「中道」の道にたどり着き、静かに坐して瞑想することで悟りに到達した…というのはご存知かもしれません。
「山林学派」は、それを踏襲したのです。

ただ、山林学派の禅も、時代を追うにつれて進化していきます。
「進化」という言葉を使いましたが、もっと突っ込んだ言い方をすれば「濃厚に中国的なものを吸収していった」ということです。

仏教に限らず、インド思想全体に共通して言えることなのですが、本来それらの思想は非常に抽象的なものだったといわれています。つまり、「漫然と自分の深層心理を探る」という方法ではなく「言葉」を使って、あるいはその言葉によって一度既成概念を破壊することで、真理に近づこうという手法を用いるようになります。

これが、臨済宗系の禅で言うところの「公案」と呼ばれるものです。私たちには「禅問答」という言葉のほうがピンと来るかもしれません。
中国は「言葉」を文化における中核とみなしていた背景があります。唐の時代には(私たちが古文の授業でさんざん悪戦苦闘するような(笑))詩の名作を作り上げるだけの文化があったわけですから、その「言葉」を瞑想に有効に取り入れようとしたのは当然の成り行きといえるでしょう。

更に時代が下り、その「言葉による内面への到達」という方法を(半ば言葉遊び的になりすぎてしまったことに反発して)ひっくり返したものが、曹洞宗系の禅、「只管打座(しかんだざ)」です。こちらは、逆に徹底的に空白になっていくことを目指した禅。徹底的に頭を空っぽにして、空白にすることで見えてくる「真理」にたどり着こうとする手法です。

どちらにも共通して言えることは「俗に【真理】と呼ばれるものは、実は自分の心の中にあるのだ」という考え方です。「座禅」では、それらを導き出すことをひとつの目的にします。
まさに「他に頼るものの何もなくなった」山林学派の僧たちが生み出すに相応しい考え方だと思います。

広く「瞑想」という場合、どちらかというと「眠っている深層心理を揺さぶり、それを覚醒させる」的な側面が重要視されますが、「座禅」が生み出した瞑想方法では、それとはまったく逆のプロセスを取る、ともいえるかもしれません。

以上、長文な上に走り書きなので、若干まとまりにかけます(^^ゞが、ご参考まで。
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この回答へのお礼

ふおお!!感動
凄い、何点でもさしあげたい気持ちです(笑)
本当にありがとうございます!

時代の背景もよくわかって
とてもよかったです。

それにしても、深い世界が待っていそうですね(笑)
夏の時間でも利用して、座禅に挑戦してみようかと思います

俗に【真理】と呼ばれるものは、実は自分の心の中にあるのだ」という考え方<これが、座禅などの根柢を成していたのですね

感謝の気持ちでいっぱいです

お礼日時:2005/07/19 03:09

No.1さんの補足的になりますが…



広く「瞑想」と言った場合、いわゆる「座禅」的な、結跏趺坐や半跏趺坐のような坐ったポーズで行うもの以外にもたくさんの種類が存在します。
ヨガ入門ビデオなどででてくるポーズの大半は、「瞑想」のときに行うのが本来のものです(笑)

「座禅」という用語は、どちらかというと禅宗で行う瞑想法と、そのテクニックの問題です。
座禅をしながら「公案」と呼ばれる禅問答に取り組む臨済宗系の座禅と、No.1さんのおっしゃるとおり「頭を空っぽにする」曹洞宗系の座禅、の2種類がありますが、これ以外の宗派にももちろん「座禅」と同様に坐って行う瞑想法が存在します(たとえば真言宗は「阿字観」、天台宗は「止観」という具合に)。ただし、これらは厳密に「座禅」とは分類されません。

「座禅」という言葉には、その思想的な背景があります。「じゃあ禅宗って、座禅って、何?」という話は長いのではしょりますが(笑)。
必要であれば細く要求を書いてください。書き足します。

長くなりましたが、No.1さんの「座禅は瞑想法のひとつ」の補足です。
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この回答へのお礼

本当に丁寧にありがとうございます。
とても役立つ話でした!

ところで、さらにご迷惑をおかけして
「座禅という言葉の思想的背景」について
教えていただきたいのですが、大丈夫でしょうか。
とても興味がわいて・・笑。

お忙しいところ、
どうかよろしくお願いします

お礼日時:2005/07/18 23:25

「座禅」は瞑想法のひとつです。


「座禅」の一番の特徴は姿勢ですね。
「原則としては座布団の上に尻を置き、結跏趺坐(けつかふざ)し、手に法界定印を結び、呼吸を緩やかにして、宗教的な精神の統一を実現する。」

姿勢を気にせず「目を閉じて心を静め、無心になって想念を集中させること。」が瞑想です。
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この回答へのお礼

ぁ、なるほど。簡単に言えば
座禅は瞑想に含まれるという事
でしょうか。

本当にありがとうございました!

お礼日時:2005/07/18 23:02

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Q煩悩ってどういう意味ですか?

煩悩(ぼんのう)ってどういう意味ですか?
辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
  あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。極楽じゃ。しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。
 
  また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。
 
  大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。
 
  仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。
 
  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
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Q「禅」って何ですか?

「禅」って何のことですか?

外国にいて、たまに外国人に「ボク『禅』が好きなんだよ~」と話をふられます。
わたしが日本人だからいってるのでしょうか?
座禅の話ではないですよね?

老荘思想と関係していますか? 関係性もよくわかりません。


"Zen" は、好きな人の間ではけっこう流行ってるみたいです。
Zen House などというシェアハウスもチラホラあるようです。
なんかステキな感じの家の写真でした。どことなく和風というか。
でも高い! 高収入者の趣味なのでしょうか・・


お手数ですが、「禅」って何なのか、
基本のとこを
バカでもわかるように、やわらかくお願いします。

Aベストアンサー

外の物事に対して心の動揺が静まっていること、だったように記憶しています。
ですから、座って目をつむることが禅と言うわけではなく、禅は心の状態を表す語句と思われます。
ヨーロッパでは、ライフスタイルの一環のように思われている節があるようです。
日本で言うロハス?みたいに。原義を理解するのは難しいかもしれないですね。

Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

Q「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。

「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。
自分なりに調べてみたのですが「諸行無常」と「諸法無我」の意味や違いが理解できません。できれば具体例をまじえながら説明していただければ幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q「仏に逢うては仏を殺せ」の意味

「仏に逢うては仏を殺せ」というこの言葉を画家の岡本太郎さんの著書の中でみつけました。
大変ショックに思い、少し調べてみたところ、もとの文章は、臨済宗の開祖・臨済のことばで、
「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」
というのが全文のようです。

この文章、意味があまり理解できません。 自分なりに無理矢理解釈すると「既成の概念や権威にとらわれるな」という意味なのでしょうか? でも、それで「父母を殺せ」だと、家族までも否定したクメール・ルージュ的臭いがします(たぶん、私だけだと思いますが)。結局、あまりわかりません。

この言葉の正しい意味は、どのようなものなのでしょうか? また、手に入りやすい参考文献などありましたらおしえてください。 お願いします。

Aベストアンサー

この言葉は有名ですね。「殺仏殺祖」などとして広く使われる言葉ですが、その意義は、常に決まった枠にとらわれてしまう私たちの認識のあり方に禅的な警鐘を鳴らしたもの、と言えると思います。

私たちが物事を認識する時には、必ず分節化という作業が行われています。あるものを認識する時には、そのものを世界から切り出してこないといけないのです。
岡本太郎にならって絵画で言えば、図と地という一種の対立関係を設定することで初めて、「地に対するもの」としての図が認識されるわけです。同じように、善について考えることは悪を考えることと不可分ですし、美を論じることは醜を論じることに他なりません。

言いかえれば、我々の行う認識という作業は、そのままでは混沌である世界にかりそめの線を引いて、枠組みを与えるということに他ならないのです。我々人間が普通に生きていくうえでは、こういう二項対立を通じた認識を拒否することはほとんどできません。

実際に臨済の言葉のなかの「仏」という概念も、「衆生」つまり悟りを得ていない一般人との間に線を引いて生み出された概念です。悟りを求める僧侶にとってみれば、ひとまずこの「仏」はありがたい目標ですし、これがなければ修行もおぼつかない最重要の概念に違いありません。

けれども、特に大乗仏教では法界一如などといって、世界の全ての存在や現象に等しい価値があるのであって、人間が勝手に線を引いて区別する善悪や美醜、上下といった区分に価値を置かないのです。野に咲く名もなき一輪の雑草も、美しくあでやかな大輪の花も仏の世界にあっては優劣をつけられないものだし、世界をそのように見られる存在こそ真の仏である、とするのです。

従って、「仏を殺せ」というのは文字通り殺人を勧めるものではなくて、仏や衆生といった所詮はかりそめの区分にとらわれてはいけない、ということを強調したものなのです。そういう認識をすることが人間の常ではあるけれども、それを当り前と受け止めてはいけない、その認識そのものに安住することなく超える努力をすることこそが仏への道である、というのが臨済義玄の本意でしょう。

この言葉もそうですが、公案のように全く理論を外れていたり殊更に耳目を集めるような奇矯な言葉を弄するのは禅宗の特徴でもあります。少し難しくなるので詳しくは書きませんが、禅宗は、我々が当然だと思っている二項対立による世界把握が言語というものと密接に関わっていることに十分意識的だったので、言語による認識に疑問を起こさせるような言葉による指導を行ったのです。健康であることに意識を向けさせるために敢えて傷をつける指導を行ったようなものです。

「父母を殺す」という点は確かに心情のうえで引っかかりが大きいと思いますが、しかしこれも実際に殺すわけではありません(実際の「殺父母(=せつぶも)」は仏教ではもちろん大罪です)。言わんとするところは、法界一如の観点にたって血縁によって親・疎を分ける二項対立の生き方をやめよ、ということです。つまり、肉親を特別視することをやめ、父母から受けた恩愛を広く世界から受けたものと受けとめよ、という意味ですから、むしろ殺されるべきは自分の側の認識なのです。

臨済義玄から五代さかのぼる大鑑慧能(中国での禅宗の第六祖)はもともと薪を売って細々と老母を養っていたのですが、薪売りに訪れた町でふと金剛般若経の講義を耳にし、即座に出家してしまいます。今の感覚で言えば母を捨てたわけで誠に薄情なはなしですが、そこには仏教に対する揺るぎない信頼があったわけで、たとえ世間の価値観で不義理とされたとしても必ず自分の出家がより意味のある報恩になる、という確信があったのでしょう。この慧能の出家のエピソードは大変よく知られていましたから、臨済が「父母を殺す」と言った時にこれを踏まえていたことは間違いないでしょう。

曹洞宗の開祖である道元も、弟子から「出家は父母の供養をどのようにすべきか」と尋ねられた際、出家は父母からの恩を父母に限定せずに広く世間に返すことを心掛けるべきで、父母に限定した供養はするものでない、という意味の答えをしています。これなどは「父母を殺す」という臨済の言葉の意味をわかりやすく伝えるものだと思います。

この言葉は有名ですね。「殺仏殺祖」などとして広く使われる言葉ですが、その意義は、常に決まった枠にとらわれてしまう私たちの認識のあり方に禅的な警鐘を鳴らしたもの、と言えると思います。

私たちが物事を認識する時には、必ず分節化という作業が行われています。あるものを認識する時には、そのものを世界から切り出してこないといけないのです。
岡本太郎にならって絵画で言えば、図と地という一種の対立関係を設定することで初めて、「地に対するもの」としての図が認識されるわけです。同じように、...続きを読む

QJR京都駅の近くの、阪急の駅

京都関連の質問ばかりですが(苦笑)

JR京都駅に一番近い阪急の駅が何処かをご存知の方、いらっしゃいましたら教えてください。ついでに、徒歩だと何分くらいかかるのかも、教えてくださると嬉しいです・・・。

Aベストアンサー

京都駅から烏丸通をまっすぐ北に向かって行って、四条通との交差点にある烏丸駅でしょう。
地下鉄の京都駅から2駅目の四条駅と連絡してます。

地下鉄で5分程度、歩くと20分~30分といったところでしょうか。

Q■瞑想をやめるべきでしょうか?瞑想をしていると危険な時はありますか?■

■瞑想をやめるべきでしょうか?瞑想をしていると危険な時はありますか?■

書籍やネットで瞑想は体やストレスに聞くと知り、瞑想を始めました。

その中でも特に有名でたくさん関連書籍もあったTM瞑想を習いました。(25万円くらい)

TM瞑想をして丸6年になります。

25歳の時に受け翌年シダー(TMの上級 費用およそ100万円)にもなりました。


瞑想は不安を打ち消す、ストレスに効果がある、健康増幅によい、幸運が舞い込むなど様々な効果があるとされています。
(宣伝されています。)

それを信じ、自分を変えたい、人生をよりよくしたいという思いで今日に至るまで、毎日TM瞑想を実践してきました。

確かに、TMをしたことにより実年齢うより5歳以上若く見られ、これもTMのいうところの「ストレス減少による若返り効果」
なんかなとも思っています。


しかし、TM瞑想をしてから人生が悪い方に一変しました。

たくさんの投資詐欺にあったり、あげくに周りの人に金銭面で迷惑をかけるは、信頼していた人からことごとく裏切られ・・・

あげくのは果ては多額の借金を背負い、1年半前からうつ病になり、薬がないとすぐに体に変調をきたします・・


TM瞑想をやるとストレスが取れ、静寂さの中でより活発に日常生活を送れる、とありますが、私の場合は静寂というより、
頭がボーーーとして無気力状態になるような気がします。

そのせいか、こんな年になってもぼやーとした状態が続き仕事にも魂が入らず、何もかも中途半端な状態です。



またTM瞑想をやると、消化不良をよく起こします。


TM瞑想に費やした時間、費用など考えたり、やはり書籍や企業や海外のエクゼクティブ達もTMを導入していることから、何かしらいい効果をもたらしているんだろうと思っていましたが、このままではいつまでも無気力ですぐに疲れやすい自分を変えることができない気がします。

TM瞑想は危険なものなのでしょうか?

また上記の状態から私は瞑想をしてはいけない体質なんでしょうか?

本当にどうしたらいいか自分でもよく分からなくなっています。


皆さんのご意見お待ちしています。

よろしくお願いします。

■瞑想をやめるべきでしょうか?瞑想をしていると危険な時はありますか?■

書籍やネットで瞑想は体やストレスに聞くと知り、瞑想を始めました。

その中でも特に有名でたくさん関連書籍もあったTM瞑想を習いました。(25万円くらい)

TM瞑想をして丸6年になります。

25歳の時に受け翌年シダー(TMの上級 費用およそ100万円)にもなりました。


瞑想は不安を打ち消す、ストレスに効果がある、健康増幅によい、幸運が舞い込むなど様々な効果があるとされています。
(宣伝されています。)

それを信...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは

>TM瞑想は危険なものなのでしょうか?
>また上記の状態から私は瞑想をしてはいけない体質なんでしょうか?
TM瞑想法が暗示で、瞑想に導入していく方法なら避けるべきでしょうね。

理由は自己・他者暗示で暗示状態を繰り返すと、被暗示性が高まる。
つまり、第三者からの暗示にも容易くかかり、操られる恐れがあるからです。
マインドコントロールされ易いと言えます。
自己暗示を使う「自律訓練法」でも、繰り返すと被暗示性が高くなります。
ですから、消去動作(覚醒動作)を行なう際に、「他者の暗示にはかからない」
「身の危険を感じたら、直ぐに覚醒し動ける」と暗示を加える事が薦められています

もう1つは、自律訓練法の第6公式「額が涼しい」でも言われている事ですが
目的意識もなく漠然と瞑想状態を続けていると、現実社会を超越してしまう事です。
具体的に言えば、世俗を離れ、霞を食する仙人状態になってしまうのです。
これは著しく社会生活や日常生活に支障を来たします。
質問者さんはこの様な状態に陥っていませんか。

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Qターボとは何ですか?

ターボとは簡単に言うと何なのでしょうか。
「車の馬力が上がって速くなる装置」くらいの認識でしかありません。
また、ターボがついていることによるデメリットや、国産車に占めるターボ車の割合等も教えてください。

Aベストアンサー

エンジンは、ガソリンと空気を混ぜたものを燃焼室に送り込んで爆発(燃焼)させて動力にしています。

燃焼には、ガソリンと空気中の酸素が必要ですが、
ガソリンが多すぎても酸素が多すぎてもうまくいきません。
勿論、送り込むガソリンと空気の両方が多ければ、爆発の力も大きくなります。

燃焼室を大きくすれば、多量の空気とガソリンを入れられますが、エンジン全体が大きくなってしまいます。(排気量が大きいエンジン)

燃焼室の大きさを変えずに、空気とガソリンを多く送り込もうとするアイデアから生まれた装置が、ターボなどの過給器です。
最初は、第二次大戦中、空気の薄い高空を飛ぶ爆撃機のエンジンに採用されました。

空の注射器の先をふさいで、ピストンを押さえると、力は要りますが、中の空気は圧縮されますよね。
エンジンの中に空気を余計に送り込もうとすると
力が要ります。

その必要な力をエンジンの排気ガスを利用して得るのがターボ(ターボチャージャー)です。

また、エンジンの回転の力そのものを利用するのが、スーパーチャージャーです。(正確には「スーパーチャージャー」は、過給器の総称なのですが、なぜかこう呼ばれています。)

また、最近の殆どのターボエンジンには、空気を送り込む前に、インタークーラーという冷却装置を備えています。単純に空気を圧縮すると「断熱圧縮」(理科で習いました?)となり、温度と圧力が高くなります。圧力が上がると押し込もうとしても十分押し込めません。そこで、空気を冷却すると空気の分子の運動が弱まり、圧力と温度が下がります。そうすれば、より多くの空気をエンジンに押し込めることになります。


メリット
・小排気量のエンジンでも、排気量以上の性能が得られること。同じ条件のエンジンなら、ターボエンジンのほうが強烈な加速が得られる。
・ターボの効果が、回転数によって一定ではないので、不自然な加速感となるが、これを好む人もいる。

デメリット
・当然、ガソリンを多く消費する。
・部品の数が増え、また、デリケートな部品を使うため、その分故障の確率が高くなる。(当然ながら、ターボ装置のない車のターボの故障はありえない)
・オイル等のエンジンメンテナンスに気をつかう。
・値段が高い。
・ターボの効果が、回転数によって一定ではないので、不自然な加速感となり、これを好まない人がいる。

申し訳ないのですが、ターボ車の割合は、私には分かりません。ターボは簡単に高出力のエンジンを作れますが、環境問題、排ガス規制、低燃費を追及する今のご時世では、だんだんターボ車が無くなって来ています。仕方ないですね。

エンジンは、ガソリンと空気を混ぜたものを燃焼室に送り込んで爆発(燃焼)させて動力にしています。

燃焼には、ガソリンと空気中の酸素が必要ですが、
ガソリンが多すぎても酸素が多すぎてもうまくいきません。
勿論、送り込むガソリンと空気の両方が多ければ、爆発の力も大きくなります。

燃焼室を大きくすれば、多量の空気とガソリンを入れられますが、エンジン全体が大きくなってしまいます。(排気量が大きいエンジン)

燃焼室の大きさを変えずに、空気とガソリンを多く送り込もうとするアイデア...続きを読む

Qメタファーとは

メタファーとはなんでしょうか?まったく意味がわかりません。
何かわかりやすく説明しているいいサイトなどありましたら合わせてよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
メタフォア(メタファーとも言います。metaphor)は、比喩の一種で、シミル(simile)と並んで、代表的な比喩の修辞技法です。

メタフォアは、「暗喩・隠喩」と呼ばれ、シミルは「直喩・明喩」と呼ばれます。形の上からは、「……のような」「……に似た」というような言葉が入っているのがシミルで、入っていないのがメタフォアだという区別がありますが、内容的にはかなり難しいです。

易しい例を挙げると、一般的に、次のように対比させます:

「彼は、キツネのようにずるい」……「ように」がありシミル。
「彼は執念深いこと、蛇のようだ」……「ようだ」がありシミル。

メタフォアはこれに対し、

「彼はまさに希代のキツネだ」
「彼は蛇だ」

前者のシミル(直喩)では、「ように」などがあるのとは別に、「何を喩えているのか」が、明示されています。彼がキツネなのは、「ずるさ」が比喩されています。彼が蛇なのは、「執念深さ」で比喩されています。

しかし、後のメタフォア(暗喩)では、どこがキツネで、どこが蛇なのか、明示されていません。「ように」とか「似て」は、「キツネのように狡猾だ」「蛇に似て執念深い」などで使うので、何を比喩しているのか明示する言葉が来るのです。

彼はキツネだ。彼はイヌだ。彼は蛇だ。……などは、よく使う比喩なので、メタフォアの形をしていても、前後の関係から、何がキツネで、何がイヌか分かります。「キツネだ」というと、狡賢いになりますし、「イヌだ」というと、誰かの忠実な手先だという意味です。

シミルの形をしていても、どこが比喩なのか分からないシミルもあります。例えば、「青い湖水を静かに泳いで行く白鳥のように彼は穏やかに微笑した」というのは、「穏やかさ」を比喩するシミルですが、「青い湖水を静かに泳いで行く白鳥」が、どういう関係で、「微笑の穏やかさ」になるのか、よく分かりません。

こういうのは、形の上では、シミルですが、実質はメタフォアになっています。

メタフォアというのは、「詩」で多く使われますし、効果的に使うと、非常に印象的になります。

「兵士は、獲物を探す鷹の目で、遙か眼下の平野を見下ろした」というのは、おそらく、「鋭い視線・注意深い視線・鷹のように獰猛な意志」などの比喩なのでしょうが、読む人によって色々なものが、想像され、了解されます。

「西欧中世の古風な宮廷舞踊会の毎日のように、時が傍らを過ぎ去って行った」というのは、「ように」がありますが、これはシミルではありません。時間が経過したというのは、分かるのですが、どういう風に経過したのか、その部分がメタフォアになっています。

華麗に過ぎ去ったのか、繰り返しのように過ぎ去ったのか、静かに過ぎ去ったのか、典雅に過ぎ去ったのか、退屈に過ぎ去ったのか……読む人により、前後の文章により、色々なイメージや意味になります。

つまり、何か「比喩」なのですが、意味が明白でない代わり、イメージや雰囲気があり、「暗示的な比喩」であるのです。

メタフォアが多い文章というのは、イメージや雰囲気は豊かなのですが、それで何なのかが分かりにくいような文章です。メタフォアのイメージや雰囲気を味わうことが意味あることになります。

「新月の夜の緑の沼の眸で、スレートの笑いを彼は頬に浮かべた」では、何のことかよく分かりません。「暗い緑の眸で、スレートのように硬い笑いを彼は頬に浮かべた」なら分かります。「スレートの笑い」は、シミルで言えば、「スレートのように硬い」になるのです。

しかし、そう言ってしまうと、イメージや雰囲気の余韻が出てこなくなるので、メタフォアという、何をどう比喩しているのか、イメージなどは分かるが、それが何を意味するのか、自分で味わって了解しなければならない修辞の形式を使うのです。

メタフォアというのは、文章修辞の典型で、詩の本質は、このメタフォアのできぐあいに係っているという見解もあります。

また、以上は、文章修辞のメタフォアですが、メタフォアは、人間の概念思考に常に付随するもので、あらゆる芸術や日常生活にも、メタフォアが関係するというのが、一般的な考えです。三番目のURLは、かなり難しい文章ですが、メタフォア論になっています。

>日本語の修辞法―レトリック
>http://www.sanseido.net/Main/hyakka2/Rheto/rheto_rhe.html#two

>特別企画 第六回 比喩
>http://plaza5.mbn.or.jp/~gendaibun/kikaku/kikaku0601.html

>メタファーと認知
>http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html
 

参考URL:http://www.sanseido.net/Main/hyakka2/Rheto/rheto_rhe.html#two,http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html

 
メタフォア(メタファーとも言います。metaphor)は、比喩の一種で、シミル(simile)と並んで、代表的な比喩の修辞技法です。

メタフォアは、「暗喩・隠喩」と呼ばれ、シミルは「直喩・明喩」と呼ばれます。形の上からは、「……のような」「……に似た」というような言葉が入っているのがシミルで、入っていないのがメタフォアだという区別がありますが、内容的にはかなり難しいです。

易しい例を挙げると、一般的に、次のように対比させます:

「彼は、キツネのようにずるい」……「ように」がありシミ...続きを読む


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