なぜ260有余年も長い年月江戸時代が続いたのか?

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A 回答 (4件)

簡単に言ってしまえば、江戸幕府の初期の政策のせいでそうなったと考えざる負えません。

なぜなら江戸幕府のしてきた事で、大名の財力が衰えそれに反抗する力ももぎ取られてしまったわけです。
その例が参勤交代と貿易の禁止かなと思います。まあ隠れてやっていたところも多いと思いますが、
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>なぜ260有余年も長い年月江戸時代が続いたのか?



すごく大きなテーマですね。

政権交代の仕組みから考えるとどうでしょうか。
本来、政権交代は現政権が民衆の求める機能を失ったときにおこるものです。(クーデターやテロは別にして)

分かりやすい例でいうと、鎌倉幕府の倒幕です。
鎌倉幕府の政権の目的は、鎌倉武士の領地の保証と、武功にたいする新しい領地の支給にあります。
鎌倉後期になると貨幣経済の発達に伴い鎌倉武士は貧乏になり、借金のかたに領地を奪われるという事態が発生しました。鎌倉幕府は徳政令を何度か出しますが、時代の流れには抗しきれず、領地の保証という機能が低下します。また、NHKの「北条時宗」でもやっていますが、元寇の時の功績に対して領地の支給はほとんど行われていません。(時宗は自分の所領から自腹を切って分け与えていますが、鎌倉武士が使った戦費に比べれば焼け石に水です)
以上のように、政権が本来なすべき機能が不全になり、民衆の生活が圧迫されれば、新しい政権への期待が高まり、政権交代へとつながります。

徳川幕府について、この視点で見てみます。
徳川幕府は、鎌倉幕府と同様に武士政権で封建制度を採っているため、やはり領地の保証と、武功にたいする新しい領地の支給が本来の目的です。
鎌倉武士のように借金のかたに領地をとられた大名は幕末まで見あたりません。領地を保証する機能は幕末まで失われていません。武功にたいする新しい領地の支給ですが、元和偃武以降、徳川幕府では大きな戦がないので、実際に機能していたかは不明ですが、海外との戦争が起きない限り問題はないレベルでしょう。
徳川幕府は、幕末まで政権の機能不全は起こしていません。

では、なぜ明治政権へと政権交代したかというと、やはり西欧列強の脅威に対する危機感からでしょう。
江戸時代は鎖国していたといえ、海外の情報は相当入っていました。インドが植民地されたばかりでなく、清王朝まで圧迫されてのは分かっていたし、当然次は日本だとも理解していたはずです。その圧力をはね返すには、強力な中央集権国家による日本一体となった行動が必要です。
しかし徳川幕府の政権構造は、今のシステムで言うと、国連とアメリカ合衆国の中間のような仕組みです。徳川幕府は大名の領地を取り上げたり、領地替えをする権限を持っていますが、それぞれの大名の領地内のことまでは口を出せません(治外法権のようなもの)。三百諸侯といいますが、300の独立国家の集合体のような政権です(実際は300ありませんが)。そのような緩やかな連合体で列強の圧力をはね返すことはできません。
つまり、徳川幕府の政権のシステムが時代の流れに合わなくなっていたのです。

では、西欧列強のアジアへの進出がなければ、徳川幕府は260年以上続いたかと言えば、たぶん続いたでしょう。
討幕運動も元は攘夷運動が変化して起きたものと考え合わせれば、幕府本来の機能をはたしている徳川幕府を倒す必要性はないはずです。

ただ、西欧列強の圧力がなければ、延々徳川幕府が続いたかと言えば疑問です。幕末の頃には多くの大名が経済的に苦しくなっていて、多額の負債を抱えていました。ジリ貧の大名にしてみれば、この状況を解決してくれる政権が現れればすがりたくなるものです。

あと、江戸時代が長く続いた理由としては、

○徳川幕府が他の大名に対して圧倒的な領地を持っていて、強大な正規軍が反乱を起こす気さえ失せさせた。
○領地の配置を巧みに行い、幕府への反乱がしづらくなるばかりでなく、大名同士が敵対心を持つようにし向けた。
○朱子学の普及により上下関係の観念が定着し、道徳的に反乱しづらい環境が整っていた。

など、検討する視点は多々あります。
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たしか「竜馬がゆく」(著者;司馬遼太郎)に記述されていたかと思いますが、


司馬サンは江戸時代が長く続いた理由を、国内ではなく海外に求めています。

つまり「黒船(=蒸気船)」が開発されて、容易に西洋人が東洋にやってこれる
ようになったことと考えています。

戦国末期に既に西洋人は帆船で日本にきていましたが、帆船は難破率が高く
大勢の西洋人がくることができませんでした。
それで、武力の劣る日本も西洋人を追い出して鎖国をすることができたわけです。

しかし、蒸気船が開発されると、船もそれほど難破せずに西洋から東洋に来ること
ができるようになりました。ただやってくるわけでなく、帝国主義とそれを支える
強大な軍事力とともにです。

西洋人は主に西からやってきますから、西国の大名の方が外国の脅威に敏感です。
幕府が外国と対抗できないとなると、自衛のために西国大名は結束して行動する
ようになるでしょう。簡単に言ってしまえば、それが明治維新の一つの側面です。

なお司馬サンによると、仮に元禄時代の頃に黒船がやってきたとしても、やはり
西国大名が結束して幕府を倒したであろう、という考察をしています。
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答え 


しょうゆが発明されたからである(笑)。


詳細は、川勝平太「文明の海洋史観」(中央公論社)31頁参照のこと。かなり詳細に論じてある。

↑この本は、鎖国と近代世界のシステムの関係を、通説的見解と違った観点から論じていてとても面白い。一読の価値有り。第8回読売論壇賞受賞作。
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元号は現在、天皇陛下が代わられると元号を変える事ですが、江戸時代やそれ以前の時代では、どのタイミングで変わっていたのでしょうかか?

Aベストアンサー

今のように、天皇の代替わりのときにだけ元号を変える制度になったのは、明治からです。その結果、天皇と年号が1対1に対応するようになりました(ということと関係があると思いますが、明治以降の天皇は、明治天皇のように年号で呼ばれています)。
それ以前は、めでたい事があった、天変地異、疫病がはやったとか、いろいろの理由で年号を変えていました。

Q江戸時代はなぜ260年も続いたの?

社会の宿題でこの答えを明日朝までに出さないといけませんが、厳しい決まりが多くて、辛い人も多かったはずなのになぜ長続きしたのか、納得できません。意見を聞かせて下さい。

Aベストアンサー

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗じての侵略意図はありましたが本国の遥か彼方の日本への遠征軍を派遣する力がありませんでした。
国内では関ヶ原に勝利した徳川家に対する反感はあったようですが、多くの大名は領国を移動させられています。この状態で戦争を起しても足元の農民と敵の徳川家に挟み打ちの形になっていしまい勝負にさえなりません。当時の農民は大名の統治が気に食わなければ平気で他国へ逃げ出して税収を悪化させたり一揆の形で武力行使する油断のならない人々です。

2相互監視制度と諜報活動の発達
この二つは関連しています。まずは前者なんですが、これは地域行政と幕府・諸藩の政治体制に深く入り込んでいます。集落では数世帯で一つの班を作り相互扶助(災害・冠婚葬祭等)と犯罪取締りに役立てています。相互扶助はまだしも犯罪の方は連帯責任なので周囲で監視することで相当に抑えられます。政治体制では目付け(公認のスパイ)を常時放つ事で反乱等を事前に潰す事と幕府が諸藩に密偵を放つことで二重に管理しています。今でも御庭番といえば単なる園芸管理の職ではない事は知れ渡っていますし、薩摩飛脚は特に幕府が薩摩に放ったスパイとして知られています。もっとも方言やその他の理由で薩摩飛脚は成功例が少なかった様ですが・・・

3国内貿易・農業の発達。
これは幕府が主導したと必ずしも言えませんが、北陸や三陸沖などの航路の開拓により国内貿易が盛んになっています。それからこれも意図したわけではありませんが幕府が諸藩の財政を圧迫するために江戸城などの建設や諸国の水利事業などの土木作業によって水害が減り農地が豊かになった事。それから諸藩が干拓事業を盛んに行い財政再建の努力もあります。例えば倒幕勢力となった長州藩は一応は三十数万石の収入だったのが幕末までに実質百万石に達したという説もあります。人間は生活が安定すれば力ではなく秩序や言論で問題解決を図る傾向にあるためこれらの施策は有効だったのでしょう。勿論国内貿易での商品開発も見逃せません。やはり外貨獲得の為とは言え現在の日本各地の名産物(伝統工芸・農産物等)の多くはこの時代に育成された物が多くを占めている事実はその証拠です。

4身分制度
ここでは士農工商での差別は取り扱いません。ここではそのしたの身分であるエタ・非人についてや身分間の流動性についてです。
まず下の二つは身分制度の負の方向でのガス抜き効果です。人は悲しい生き物で、自分が恵まれなくても自分より下の立場の人間を見つけて優越感に浸ったり差別する事で現在の境遇の不遇を紛らわせる性質があります。次に身分間の流動性です。百姓(本来は英語でピープルの意味ですがここでは農民とします)や町民でも学問や武術に秀でれば武士に取り立てられる事は実例は少なくてもままありました。人は実現するかはさて置き希望さえ持てればその立場でベストを尽くそうとするものです。それこそが現在の不遇な境遇を打開する手段ならば尚更の事。実際に医者や学者に剣術家で著名人は武士出身以外の身分の人は多いのです。他には俗な事ですが遊郭の存在です。ここでは金さえあれば一晩は大名並みの扱いがなされます。元々の大名でも無一文からの出世人でもここでの基準は金次第です。ここでも不満と言う名のガス抜きがなされた様です。

以上の飴と鞭が260年の理由の一つだと個人的に思います。

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗...続きを読む

Q江戸時代の人は元号を言えたか

 
 以前どこかで前世療法というものの動画を見た際、前世にもどったひとに「年号は何年ですか」と質問すると、「安永○年」とか「天明○年」と、“前世”の人が答えていました。

 最近思い返してふと疑問に思ったのですが、江戸時代の人はその時々の元号を知っていたのですか?
 知っていたとすると、元号が変わったときはどのようにしてその情報が伝わったのでしょう?

 ちょっと不思議に思いました。
 ざっくりしていますがお答えいただければ幸いです。

Aベストアンサー

>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月何日と言う概念すらありませんでした。そもそも日本では中国由来の暦が数百年に渡って使われており。年号では無く「今年は甲子(きのえね)の年」と言った風に考えていました。いわゆる「干支暦」と呼ばれる暦です。

>Wikipediaによる解説:干支 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

江戸時代以前と明治以降の現代文明社会とでは時間の流れ方が全く違います。江戸時代では手紙を送って、その返事が来るのを1ヶ月以上も待って、それからまた返事を送って相互確認を取り、それで互いに了解して~と言った風に物事が運ぶ時間感覚です。厳密に何月何日の何時までに返信を!~みたいな感覚は一切ありません。また個人で時計を所有してる人も居ません。1日は朝昼晩で良かったし、1週間と言う区分も明治以降に西洋文明と共に入ってきた制度です。

江戸時代は主に住んでる地域の神社仏閣で月に行われる「お祭りの日付」を基準に月日を勘定するのが一般的な習慣でした。例えば今ならデートの約束を「明日、2月3日の15時に駅前で」みたいに行います。江戸時代なら「お稲荷さんの次のお祭りの前の日に六角地蔵の前で」みたいになります。現代人みたいに正確に何時何分と言う概念自体がありません。早く来過ぎたり、或いはのんびり出掛けて相手を何時間も待たせて、特に怒ったりはしません。だってそう言うものだからです(なので待ちぼうけやすれ違いも当たり前でした)。

>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月...続きを読む

Q江戸時代で「太平の世」が200年以上続いた理由

はじめまして。

江戸時代は「太平の世」と呼ばれる戦乱の無い時代(由井正雪やら大塩平八郎やらはありましたが・・・)が200年以上も続いているのは、一体どういう背景が原因だったのでしょうか?
平安時代も400年近く続いていますが、それとは全く別種の200年だと思うのです。

ろくに勉強もしていない私の個人的な意見ですが、
列強さえ来なければ、あと100年以上続いていてもおかしくないのでは?と思っています・・・


以下、私がいくつか推測したものです
・儒教理念の援用による封建的身分秩序の確立から、反乱因子を減らした
・鎖国政策のため情報が寡占化され、愚民化が推し進められた
・参勤交代などで、軍事動員権の周知・更新を図っていた

的外れの予想かもしれません、どなたかご教授いただけると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問者さんは国内の要因だけに目を向けているし、他の回答者も同様のようですね。
しかし、外的要因も見落としてはいけません。
つまり、日本が島国で外国からの侵略を受けにくいという点と極東と呼ばれていたように欧米列強国から遠くに位置していたという、地理的な条件が、200年間の太平をもたらしたと言えると思います。
また、大した資源もない国なので列強の関心を買わなかったという点も挙げておきましょう。
17~18世紀というのは西、葡、英、仏等の列強が植民地政策を繰り広げ、激しい戦争を繰り広げておりました。
日本も、列強に狙われていたら国内で英、仏等が争奪戦を繰り広げ、諸藩も英派、仏派に分かれて戦争していたでしょう。

Q江戸時代の元号の文字 画像あり

添付は、私の先祖(たぶん江戸時代の後期)が、将来の子孫のために、その子孫が亡くなった際の戒名を付けるルールを予め寺と定めたものです。大金を支払い、戒名の文字数の確保や、戒名の下二文字のルールを決めたそうです。

その寺からの許容書の実際の画像です。
左には、元号が見えます。十二月の前は 何と云う元号でしょうか

八良衛門 は 私の先祖の名前です

また、他の文字も読めれば 教えてください

Aベストアンサー

rodste さん、こんばんわ。

たぶん、慶応二寅の年と書かれていると思います。

後半の部分ですが、「永世に○○○居士、大姉を許容せしむものなり。」でしょうか?

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q江戸時代の大名家、官位・伺候席などの一覧

江戸時代の大名家の官位や伺候席、石高等が一覧できるサイトを以前見た事がありました

詳しく見られるサイトをご存知の方、お教えください

Aベストアンサー

参考URLの江戸三百藩HTML便覧のことではないでしょうか。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸幕府が260年という

長い年月において政権が続いた理由について
ご存知の方がいらっしゃいましたら御投稿お願いします。

Aベストアンサー

政権が長続きする理由として、二つの面
から考える必要があります。

第一は、支配する側の力の強さです。
第二は、支配される側の納得の強さです。

力が強ければ強いほど長続きするように思えますが
北朝鮮を観ても判るように、力だけでは不安定に
なります。
反対に、納得の力が強ければ強いほど、支配する
力は弱くても長続きする訳です。

こういう処から、徳川支配を考えてみます。

1,支配する力の強さ。
 (1)軍事力
  旗本八万騎と言われるように、幕府には強大な軍事力があった。
  もっとも、八万というのは誇張だ、という説もありますが、
  旗本の子弟や、御家人を入れればその位になったと言われています。
 (2)経済力
  当時の日本は、全国で2400万石でしたが、徳川家は
  400万石も占めていました。1/6です。
  さらに、貿易を独占し、金銀山を開発しました。
 (3)大名の力を削ぐ
  参勤交代や普役を課しして、大名の経済力を削ぎました。
 (4)厳格な身分制度による、社会の固定化。
 (5)幕府内部においては、権力の分散を図った。
  例えば、老中に成れるのは、石高の小さな領主だけ。
 (6)鎖国。

2,納得する力の強さ。
 (1)永く続いた戦乱に対する反動。
 (2)改易などの処置が公平適切であったことが
  近年の研究で判って来ました。
 (3)百姓、商人などの意見を良く聞いた政治を行った。
  文献には、百姓を説得するのに苦労したとか、
  百姓の賛同が得られなかったので、ダメだったという
  記述が発見されています。
  又、近年の研究では、百姓ほど気楽な商売は無い、という
  文献さえ発見されています。
 (4)生産性が上がり、税金が、5公5民が実質上4公6民、さらには
  3公7民にまでなって、庶民に暮らしが楽になっていた。
  現代よりも低い。

政権が長続きする理由として、二つの面
から考える必要があります。

第一は、支配する側の力の強さです。
第二は、支配される側の納得の強さです。

力が強ければ強いほど長続きするように思えますが
北朝鮮を観ても判るように、力だけでは不安定に
なります。
反対に、納得の力が強ければ強いほど、支配する
力は弱くても長続きする訳です。

こういう処から、徳川支配を考えてみます。

1,支配する力の強さ。
 (1)軍事力
  旗本八万騎と言われるように、幕府には強大な軍事力があった。
  もっとも、八...続きを読む

Q【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆

【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆に順番に回って行きたいです。

1番最初は京都御所で、2番目が確か兄が弟を殺して、恨みや祟りで平城京を平安京に都を移す際に最初に建てて弟の祟りから逃れたとされるお寺です。3番目はどこか忘れましたが京都の名所が3巻に纏められていた気がします。

Aベストアンサー

都名所図会(みやこめいしょずえ)

Q江戸時代のお姫様やお嬢様の爪は長かったのか

 テレビの時代劇を見ていましたら、お姫様やお嬢様クラスの女性の爪がチョッと長かったので気になりました。
 長いといっても少しだけです。手のひら側から見て、先が少し覗く程度です。今のOLさんくらいかな。色はついていませんでした。
 江戸期の働かなくてもよい女性に、爪のおしゃれというか、形状による美醜の感覚というものはあったんでしょうか。
 

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「大江戸ものしり図鑑」という本に錦絵や、浮世絵がたくさん出ていまして、残らず見ましたが、爪の長い女性、染めている女性は、いませんでした。
ただ、指先のしぐさというのは、かなり、重要なファクターだと思いました。
江戸時代は、指先の器用さを要求される作業が職業、立場に関わらず、大変多いので、伸ばせなかったのだと思います。
爪みがきは、当時あったアイテムで、できますので、やっていた可能性もあると、思います。
今ごろ・・・ですが、深川の辰巳芸者の羽織は、男装だそうです。


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