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禅宗のお寺では、仏像を拝まないと聞きました。神様もいないとか。

京都の龍安寺って、禅寺ですよね? でも配置図には仏殿があるんです。どんな歴史があるのでしょうか?

また、宇治市にある黄檗宗のお寺も、たしか大きな仏像がありました。どんなのか忘れてしまいましたけど。

禅寺に仏像がないというのは、曖昧な定義なのでしょうか?

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A 回答 (4件)

またしゃしゃり出てしまいました(^^ゞ


なにとぞご容赦を。

>何かオススメ書物があれば教えて下さい!

えぇ…人により賛否はあるのですが…
学研「ブックス・エソテリカ」シリーズの「禅の本」が、歴史的な背景などかなり客観的にかいているのでオススメです。
(参考URLからどうぞ。gooショッピングになかったので、他社です(笑))

このシリーズ、かなりカルトな側面ばかりがクローズアップされるし、この本についてもかなりカルトな部分が散見されるのは確かですが、禅の歴史、思想などの部分についてはかなり客観的に書かれています。

宗派の本だと、その宗派の教義に基づいた主観がどうしても入ってしまうので、客観的に知りたいのであれば、実は一番相応しい本なのではないかと思います。

ちなみに、臨済宗・曹洞宗それぞれについてもう少し…ということであれば、ベタですが「うちの宗派」シリーズがおすすめ。日本の二大禅宗がどのような経緯で発達したのかがキッチリと描かれています。各宗派の教えを個別に参照するにもオススメです。上記とあわせて読むと良いでしょう。
特に、「宗派の寺院で祀られる主要な仏像」の紹介があったりするので、当初の疑問の解消にもつながるかもしれません(笑)。

もうひとつ。

>ところで、ダルマさんて、ブッダのように悟られたのでしょうか?

「悟った」といわれています。
菩提達磨は、インドから中国にわたり、中国の山中で「面壁九年」…つまり9年間にわたり洞窟の壁に向かって座禅を続け悟りを得た…と言われています。
「禅の開祖」とされる所以です。

で、その噂を聞きつけた、中国仏教の現状に絶望していた僧(「慧可」という人物です)が、達磨に弟子入りを申し出た…というところから禅の歴史が始まります。
慧可は達磨に弟子入りを断り続けるのですが、慧可もめげず、ついに自分の左手を切り落として差し出し、達磨に覚悟の程を見せることで弟子入りを許された…という伝説です。
(もっともそれは伝説であって…というのは、「禅の本」を読んでいただくと詳しく書かれています)

禅の世界も相承の社会なので、師僧から「悟った」という認定(印可といいます)を受けなければ後を継ぐことが出来ません。
だから一応全員「悟った」ことになる(笑)。
「何をか?」は素人だからわかりませんが(笑)。

>禅宗って仏教から独立した宗教ではないか?

平たく言うと、今世界中に存在している仏教はすべて「釈迦の仏教から独立した」存在だといってしまっても過言ではありません。少なくともボクはそう思います。

阿弥陀も法華も、禅も密教も(笑)、釈迦の時代にはもちろん存在しなかったわけだし、何より釈迦は偶像崇拝を禁止しています(笑)。経典も弟子たちがまとめたものだし、書いたものに対するこだわりというのも、本来はなかったはずなんです。

ただし、「釈迦の本物」にこだわると、全ての仏教は釈迦とは別物、と考えなけらばならなくなってしまいます。ボクはそれは違うと思っています。

大学教授で仏教学を専攻し、かつ仏教界から嫌われているらしい(笑)中沢新一氏が、夢枕獏ほかとの対談集「ブッダの方舟」(河出書房新社)の中で「釈迦って言うのは触媒でしょ?」という趣旨の発言をしています。
つまり自ら思想を作り上げただけでなく、その後の膨大な思想体系を生み出す強力な問題提起を行ったのだろう、と。

ボクはこの考え方に賛成です。
少なくとも歴史学的に「釈迦本人の思想」である仏教はもう存在しない(たとえそれをかなり忠実に持っていったとされるタイやカンボジアのいわゆる南伝仏教であっても)ということはほぼ明確になってきている以上、「どれが本物」という定義はどんどん難しくなってきているし、解明が進むにつれますます難しくなっていくでしょう。

今「仏教」と呼ばれている宗派は、釈迦の「運動」をコアにあらゆる形で肉付けをされた「巨大ムーブメント」として考えるほうが理に適っているし、釈迦という「巨人」が破壊したインドの常識(「輪廻」であるとか「苦行」であるとか(笑))は、単なる否定ではなく、「再定義のための問題提起」として十分機能したわけですから。

禅は、比較的釈迦への「原点回帰」に近い運動だと捉えられています。それも、時間の経過によって「再定義」されなければ生まれてこなかったもの…しかも、中国等思想風土の中で、ちゃんと中国に定着するように再定義されたものですから、それも立派に仏教だといえるでしょう(笑)。

強要をするわけではありませんが、そういう目で見るとそれぞれの宗派の、それぞれの個性が見えてきて楽しくなってきますよ(^^)

ごめんなさい。いつもえらそうなことばかりでm(__)m

参考URL:http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=07603 …
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この回答へのお礼

仏教って、身近なものだとおもっていたけれど、知れば知るほど、疑問がでてきます。
お勧め本読んで見ます。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/02 17:09

No.2です。


まだ質問を閉じていないようなので、蛇足ですが補足を(笑)

中国における初期の禅宗は、正真正銘、仏像崇拝を否定しました。
べつの質問でちょっと書いたのですが(参考URLを参照)、それは中国の歴史が唐から宋に移る動乱期に起こった宗教弾圧により「全てを失ってしまった」僧侶たちの仏教回帰運動の結果であったといえます。

「開祖崇拝」は、日本よりむしろ中国、それも儒教の影響によるものと考えるほうがスッキリするかもしれません。もともと(一般人も含め)祖先崇拝は中国で習慣化されたもので、日本にはそれが流入しました。
インドには、そういう思想は希薄です。「輪廻」の概念が存在するくらいですから、祖先は祀らなくてもどこかに生まれ変わっている…そう考えるようです。

釈迦を本尊にするにあたっても、禅の相承の系譜(として今に至るまで伝えられているもの)の、その基点になるから、というのが理屈としての根拠だと思います。

総じて、中国の禅宗より日本の禅宗のほうが積極的に仏像を取り入れているように(あくまで主観ですが)感じています。
布教、あるいは民衆への教化の過程で、もうすでに崇拝された対象としての仏像を全て否定し去ってしまうことが難しかった(つまり、民衆はそれには従ってくれないだろうという考え方)が現実問題として存在していたのだと思います。禅宗では基本的に「焼香・礼拝・読経・祈祷」は全て否定されているはずですが、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗とも、現在はすべて取り入れています。
「在家向け」を少しでも考慮に入れれば(布教とそれによる信者の獲得は、信者からの寄進で成り立っている仏教宗派に不可欠である以上)止むを得ない結果かもしれません。

臨済宗・円覚寺には、座禅堂(一般に開放されているもの)の本尊として不動明王を祀っています。これは臨済宗全体を通しても珍しいのだとか。
他にも鎌倉・建長寺の水月観音あたりは非常に有名ですし、曹洞宗では「観音・地蔵」をセットで「放光菩薩」として三門の楼閣に祀るなど、広く見回すと仏像は禅宗のなかにもかなり浸透しています。
大半は(修行や心構えの)お手本、として位置づけられていますが、理屈はともかく、禅宗でも仏像は広く受け入れられていると考えたほうが良いでしょう。

禅的に言うと「仏像を否定する」ということに「こだわって」しまうことそのものが煩悩、ということになるのかもしれませんね(笑)

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1522462

この回答への補足

ありがとうございます。
読めば読むほど、奥が深いなと痛感。外国人にお寺を案内するのですが、たいてい表面的なこと(お庭とか仏像とか)しか案内できていません。自分の知識の無さにがっかりです~。
コメントを読ませていただくと、禅宗って仏教から独立した宗教ではないか?と、思えてきます。
何かオススメ書物があれば教えて下さい!
ところで、ダルマさんて、ブッダのように悟られたのでしょうか?

補足日時:2005/07/29 20:30
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「禅寺に仏像はない」は、厳密には誤りです。



確かに、仏像崇拝は、教義としては否定しますが、だからといって「仏像そのものの存在」は否定しなかったのが禅の面白いところでしょう。

たとえば本殿には釈迦牟尼仏、僧堂には文殊菩薩…など、シンボルになる仏像は、どこの禅宗寺院にもあったりします。

また、臨済宗も曹洞宗も、その布教、寺院を改宗させるにあたり、元の本尊を尊重する姿勢をとりました。
当時真言宗や天台宗などの密教寺院から禅宗に改宗した寺院は多数あったわけで、それらの本尊はみな尊重されましたから、禅寺には多彩な「本尊」がいます。

ちなみに禅宗における釈迦牟尼仏の扱いは先ほども書いたとおり「大先輩」というのが一番近いでしょう。
釈迦像そのものが崇拝対称なのではなく、自分たちの手本として、あるいは理想の姿として自分に照らし合わせて礼拝する…という説明がいちばん私たちには理解しやすそうです(笑)。

また、曹洞宗などは四世・瑩山(けいざん)禅師の代に観音信仰を濃厚に取り入れたといわれています。

禅寺とは家、その「仏像」は結構多彩です(笑)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
禅宗は柔軟なものと考えたらいいですね。
基本的には、仏像の崇拝はないけど、仏像そのものがなんでかあるって感じですね。

お礼日時:2005/07/25 15:59

禅宗も仏教ですから仏像を拝まないというわけではありませんが、師が仏という考え方をしますので、仏像よりも開祖の像が祀ってあることが多いです。


仏像の場合は仏教の開祖である釈迦如来を祀るということが多いようです。

参考URL:http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/butu-kamakura.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏像の国宝が鎌倉以降ないというあたり、納得しました。
開祖の方がえらいなんて、日本独特なのでしょうか?

お礼日時:2005/07/25 16:01

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Q日蓮宗と創価学会の関係

先日初めて日蓮宗の葬儀に参列しました。
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検索したところ、「創価学会」とつながりがあることがわかりました。
具体的にどういう関係なのか教えてください。

あと、日蓮宗って仏教ですよね(違っていたらごめんなさい)
なぜ、仏壇の中に仏様がいらっしゃらないのでしょうか?

Aベストアンサー

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

創価学会なんですが、最初は創価教育学会といいまして、
宗教団体ではありませんでした。それが、道徳教育には宗教が必要だという考えもあって
日蓮正宗へ参加します。でもって袂を分かつんですが、日蓮正宗方の言い分は
邪流に走ったから破門なんですが、創価学会方の思いは「散々、貢がせておいて
いらなくなったらポイっかい」というものです。
なので、創価学会は寺院も坊さんもおらず、葬式も友人葬として学会員で行います。
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悪く言えば、しいたげられても尽くしてきたのに、必要がなくなったら
あっさりとフラれたときの逆恨みとでもいいましょうか、
聖教新聞なんかを見るとあからさまな攻撃記事がありますね。
共通点と言えば、双方とも何か言えば必ず反論してくるところです。

仏壇に仏像がない理由ですが
現在の仏像というのは仏教を広めるために他の宗教の神様が仏に帰依したという
考えのもとできあがったもので、本来、釈迦が説いたものには偶像という概念が
ありませんでした。日蓮大聖人もまた釈迦が説いた仏法への回帰を目指していたため
正統な日蓮系には偶像崇拝はないんですね。

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
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法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
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