世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

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A 回答 (8件)

 


  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
---------------------------
  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

この回答への補足

凄い・・・、待ってました。こういうのを。本当に長文ご苦労様です。質問した甲斐がありました。得るものが多かったです。質問に対してこれほどご理解頂けるとは・・・。私よりも質問の意味を解っていらっしゃいます。

非常に難解でクラクラしますが、思うところを述べます。

確かに私の思考モデルには設定が色々散りばめられていて、外的世界という前提やまたそれらの階層について勝手に指定した部分があります。つまり「彼の精神という存在と、その外側に客体としての世界があり、客体は精神を超越するから、精神は客体から生ずる」というように意味の無い主張になる、ということですよね?こうなる決まりがあるからこうなるのだと。問題に無理があることは、少なくとも現象学的な認識を踏まえるとなれば認めざるを得ません。なぜなら私の問題設定とは、主観的存在と客観的存在とを分離するような構造を無前提で与えたことが明らかであるからです。つまり私の問はただトートロジーを複雑に記したに過ぎない・・・。この点に付きましてはこれで宜しいでしょうか?

デカルトの懐疑については、私はこれを誤解していたつもりは無く、私にとっての「我」にしてもそれは自明です(私は我があると信じるしかありません)。しかし私がいいたいのは(子供の例えで言うと)、存在物の存在了解が出来ないから存在物はない、いうことではなく、そもそも存在了解が出来なければ「認識主体」では無いのでは?ということです。例の子供の場合には「認識主体」そのものの存在了解が出来るのかという話なのです。逆に、存在了解するものこそ認識主体と考えられますので、その認識主体というものが、他の事象と一切の関連を持つことなく、己のみで存在し得ないだろうと思ったのです。仮定として彼に「認識主体」(定義不能ですが)のみを与えるとして、彼が何を想像するのかとなると、奇妙になります。彼に認識主体のみがあるとすれば、認識主体は、何かを認識するでしょうか?そして認識主体はそれ自身を認識し得るでしょうか?私は何も認識しないだろうと考えます。そのような認識主体は「ある」と仮定しても「ない」ことと同様だと思えてなりません。なぜなら認識主体がそれ自身を対象概念化するような手続きを含んでいないからです。何も認識できない認識主体は、認識主体たり得ないということです。

以上のような考えから、主観とは現象存在諸々の関係概念の一部であるか、またはあくまで補完的役割を担うものであって、その存在の独立性は保障できない、と思ったのです。ただ、上の例では外的世界が存在する仮定が採られており,もしこれが事実ならば認識主体は独立ではない、ということを主張したかった訳です。言わば主観と客観についての分離不可能性を述べたものです。

私事で恐縮ですが、私は「意識」が科学的なレベルで解明されるのだと信じています。それは主観や客観などを含む関係概念が定式化された上で導かれるというイメージです。ですけど、単なる思い込みなので突っ込まないでください。こういう指針で私がこれまで考えてきた結果の産物であるということです。

アプリオリな思惟については、これを当てはめていいのか迷いますが、数理論理的な実体の総合(曖昧な言葉です)をイメージしておりまして、それと関連している何か(曖昧ですね)としてその存在(アプリオリな思惟)を信じています。しかしそのような思惟は実体的存在から分離できない概念と考えています。つまり、人はいなくても思惟体系はあるが、ある実体存在なければ思惟はないと信じています。そして思惟の生じない実体存在の体系はないという考えです。平たく言えば、ここに自分の思考がある限り世界は存在するか、または、ここに世界が存在する限り思考は存在する、ということです。古典的かもしれませんが・・・。あくまでこれは私個人の信仰に過ぎませんので、この件に関しましてはあまり分析的にならないように願います。

この教えてGOOを知るようになって日が浅いのですが、面白いし為になりますね。特にフッサールの現象学への興味が持てたことには非常に感謝するしだいです。以前の補足でも述べてあるように、私の考え(オリジナルと言い張るつもりは一切有りません)は20世紀以降の形式論理学の発展における数理哲学的解釈が元になっておりまして、自我意識理解の為のヒントが数理や物理学に隠されているのではないかという動機から始まったものです。特に興味深いのは数学者ペンローズの見解でありまして、多大な影響を受けました。

自分で書いておいて注意するのもなんですが、ここでは「意識とは何か」という議題には触れないようにしましょう。問題がどんどん拡大してきりがありません。

有難うございました。

補足日時:2001/10/20 10:48
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 「我思う、故に我有り」というのは、単に自分の存在の根本を意識と考える、という流儀ではないのですか。

ここでの例で言えば、「我思わない、故に我なし」で、同じくデカルトのままですが・・・・。

 デカルト的流儀に疑問を呈したければ、例えば、意識以前の情報処理機能、行動機能が、神経科学の世界などで明らかになっていますが、そういうことでは駄目なんですか?robkingさんが提出されている子どもの例では、意識はないけど、様々な機能が個体として進行しているので、それが存在ともなっているということになります。
 そもそも、感覚がある、感覚がない、の区別が非常に難しい問題だと思いますが、それよりも、こういう問題設定というのは、何のために行われているんでしょう。哲学をやっている方なら、論理の恣意性や限界もご存じのはずですが。
 非難しているわけではありませんので、教えていただければ幸いです。

この回答への補足

「我思う、故に我有り」ついて、私が問題視したのは、その「我」の部分でありまして、その論理構造ではありません(あれ、違うかな?)。存在論的証明を例にとりますと、

神は完全である

完全には「存在」を含む

故に神は存在する

というような三段論法と同じように「我あり」というわけにはいきません。そこで「我」そのものを改めて考えなければならんと思ったのです。上のものはあくまで古典的な三段ですから、現代論理では通用しません。形式論理では「存在」を扱えないからです。そのうえで「我思う、故に我あり(存在す)」や「我思わない、故に我無し(存在しない)」は共に「真」であるようですが、「存在」の意味合いがもっと超越的であるために論理として成り立たないのです。それは単に確信に過ぎないという訳です。「思う」も「我」も同様です。従ってこれは論理的なテーマとは無関係だと考えます。彼の命題は、私を含めた無数の人々の確信なのであって、「論理命題」とはいえません。何かこんな事を言っていると「神」を信じたくなる誘惑に負けそうです。


>> デカルト的流儀に疑問を呈したければ、例えば、意識以前の情報処理機能、行動機能が、神経科学の世界などで明らかになっていますが、そういうことでは駄目なんですか?robkingさんが提出されている子どもの例では、意識はないけど、様々な機能が個体として進行しているので、それが存在ともなっているということになります。

それは私の問題の意図と違います。彼は「存在している」ことにしても差し支えありません。また、世界が存在していても構いません。つまりそこに世界があるのに彼は自分自身を知らない。ということです。
ところで、意識以前の情報処理能力、行動機能などは、定義からいって「有限機械」と同様です。もしこれらの機能がもとで「意識以前」を設定するのならば、自分の意識が「あるメカニズムによって与えられる」のであって、根本事象とは言えません。ですから「ある存在物があり、関係論的構造があり、故に我有り」の構図をとることになります。

この問題を何故作ったかというと、自分の為です。不思議に思ったのです。で、よくわからないので皆さんに知恵を頂こうと思ったのです。そしてこういう問題が好きなだけです。私はロック音楽が好きですが、「血が沸騰するような過激なナンバーを教えてくれ」というのと動機の質は変わりません。そしてあるCDを教えてもらって「いや違うんだよ、俺が求めているのは」とかそういう展開があるのは不思議なことではありません。私が知りたいと思うことを聞いて、さまざまな見解や反論を垣間見ようと思ったんです。でも「意識とはなにか」って聞くわけにもいきませんので、具体的な設問をしたのです。


例の子供の、わたしにとっての物理的なイメージは、こうなります。

彼は何も感じない、空間も感じない(知らない)、時間も感じない(変化を知らない)。だから自分を知らない。

単なるイメージです。流してください。

私にとって、論理は非常に重要です。ただ、どこまで適用し得るかは現時点では推し量りかねます。論理学は発展途上でもあるからです。この発展の中に哲学的な展望がひらけてくるのかどうか、楽しみです。私自身不勉強なのはいうまでもありません。

有難う御座いました。

補足日時:2001/10/21 08:32
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デカルトに関係ない世界に突入しつつありますが^^;


存在物の了解なくしては認識主体にはなり得ない、というお話でしたら、
その存在物を外部対象としており、内部の対象あるいは表象などは
外部の対象の経験もしくは働きかけによってのみ認識対象として成立ということでしょうか。

この場合、自己認識が問題になりますよね。
認識能力がアプリオリなものであるなら、それは存在が在る時点で自己認識をするわけです。
ただ認識能力が外部の対象を媒介にせねば働かないという限定をした場合、自己認識は不可能になりますが
この場合、私的に不可知です^^; 私は外部の対象を知っておりますので。
思考の遊戯に妥当性を見出すことが難しいです。

ただ、自己を対象とする認識の「自己」を肉体を含めるにせよ、精神に限るにせよ(誤解を招きそうな言い方・・・・・・)
自己認識は外部の対象なしに働き得るという考え方はあるでしょう。
外界が認識できない場合は自己が全てになるだけです。

……少し乱暴ですが、可能性の列挙まで。ミスもあると思いますがすいません^^;

私事ですが、トピカルな議論をここでするのは日ごろから避けておりますので、この辺でお暇いたします。すいません^^。

この回答への補足

再び有難う御座います。

デカルトの話にあえて立ち返らなければいけません。彼は「我が有る」ことを自明だとして、二元論を構想したという流れがある訳です。物的あるいは外的な客観世界と精神的世界とを分離し、それぞれを別の概念対象として捕らえたはずです。
度々述べてきたことですが、もし二元論を前提とするなら、存在実体と思惟実体は不可分であると主張したつもりです。二元論を元にした概念の展開は結局二元論にはならない可能性がある、ということです。説明不足であるのは往々にし承知ですが、以前の補足を参照頂きたく存じます。

>>ただ、自己を対象とする認識の「自己」を肉体を含めるにせよ、精神に限るにせよ(誤解を招きそうな言い方・・・・・・)
自己認識は外部の対象なしに働き得るという考え方はあるでしょう。
外界が認識できない場合は自己が全てになるだけです。

 とおっしゃいますが、これはちと疑問です。自己が全てになるという表現に意味を見出すことが困難だからです。純粋な「自己認識」が己れを認識することで、自己が全てになることを認識する必然性がありません。そして自己が全てになるからといって、それが即「自己認識」を果たしているのだとは思えません。更に「全て」という概念の定義を設定する必然性は「自己認識のみ」という定義からは導き得ないと思います。
記号を使うのもどうかと思いますが、例え話をひとつ。「あるAが存在する」として、「Aは全てである」ということは、Aが一体何であるのかの意味が皆無です。

最近タイピングをする事が多くなって少々疲れました。でも、頭の体操にはもってこいです。

ふと思ったのですが、「デカルト」はあくまで中世の哲学者であって、それ以降の知識を使って問題視するのは難儀ですね。ただ、彼の哲学は現代においても色あせることのないさわやかさと説得力を持っていて、重大な課題と教訓を与えてくれます。根本問題として扱うには格好の材料と思ったのですが、視点がずれてしまったようです。発端としまして、私自身「我」についての拡大解釈をしていたことが原因にあげられるでしょう。その結果「何ともいえない」ことについて話が展開していったように自覚しています。そして、しまいには「世界」の話になってしまった・・・。
アプリオリな知覚などがとり沙汰されるような難解な論議になったことはお詫びしなければなりません。この先この問題について「デカルト」をたてるのは不向きなように思えてきました。ただ、個人的にこの問題が「二元論」と無関係のようには思いません。

2度目の回答(アドバイス)有難う御座いました。

補足日時:2001/10/21 06:43
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 robkingさんの問題意識は、「人間の自己意識一般の成立条件」にあるのでしょうか。

だとしたら、デカルトを持ち出すことは、全くの範疇誤謬(カテゴリー・ミステーク)です。
 これはおそらく、robkingさんが「我」「自己」という言葉に混乱されているためだと思われます。つまり、「我思う、故に我有り」における「自己」とは代替不可能な<今、ここ>にいる<この私>のことですが、robkingさんの「自己」とは、むしろ人間一般について心理学で言う<自我>に近いもののように思われます。
 
 もちろん、robkingさんの問題意識は重要なものです。しかし、それを考える場合は、とりあえずデカルトは忘れた方がよいでしょう。
 そして、まずは外界の存在を前提にしていることは明確にせねばなりません。これを前提にしないと、さしあたって「科学」の対象になり得ません。

 しかし、それだけでは十分ではありません。次に、意識主体として<自我>を持つ他人が「実在」することを前提とせねばなりません。
 これを前提にしないなら、質問文のような複雑な事情は不要です。単に「『道端の石ころ』は意識主体か」と問うだけでよいのです。
 人は、他人を意識主体と認知し、サルを意識主体と認知しまず。何故でしょう。さらに、場合によっては人形やコンピュータを意識主体と認知します。雪の中のお地蔵さんには傘をかぶせてやりたくなるのです。
 或いは「おそらく意思はあるのだろうけど自己を表現できない質問文の子供」と「自己を表現できるけどおそらく意思はないだろうロボット」の違いは?
 人間行動論では、他者を意識主体と認知してしまう人間の認知構造を"theory of mind(TOM)"と呼んでいます。

 外界がある。普通の人間は意識主体である。これを前提として始めて、質問文のような子供に「自己」があるか問う実益があります。
 このような問題には特に詳しくはないので何とも言えませんが、自己と外界の区別ができなくなる病気に、例えば「自己漏出」と言うものがあります。認知心理学ではこのような<自我>の問題をアイデンティティー論として扱っています。また幼児が自己と外界を区別し<自我>を確立していく過程は発達心理学が扱います。
 このような分野が参考になるのではないでしょうか。

※robkingさんの問題意識を勝手に忖度して、話を展開してしまいました。もし間違っていたら、許してください。
 

この回答への補足

有難う御座います。sukemasaさんのおっしゃることは一々ごもっともです。私の質問に対して真正面で受け止めていらっしゃるという印象を受けます。

ところで、私がまるでデカルトを攻撃しているように受け取られがちですが、そういう目的はありません。念の為。

デカルトの「認識主体としての我」や発達心理における「自我形成」、そして数理論理的な「自己言及」などを扱うものは、元々違う対象として扱うべきであることは承知しています。

質問文の文脈からは解りにくかったかもしれませんが、子供は「今、ここにいる私」は恐らく認識され得ないだろうと推論したのです。
さて「自我形成」や「自己言及」などの「自分自身」を表した概念は違うカテゴリのもの同士ですが、「代替不可能な我」は論理でいうところの俳中律と似たような響きを持っています。「AかAでないかのどちらかである」ことは「AはAである」ことを意味しますから、「AはAでないものではない」とか当たり前の話になります。まさにデカルト的な「我」のその「当たり前さ加減」とそっくりで、それらに関連がないとは思えないといった直感を(妄想?)を生み出します。しかしまあこれは論題として不適切です。
心理学的「自我」につきまして、もうこれはどこまでいっても客体としての対象として「自我」を扱うべきであるというのは承知しました。私は無論例の可哀想な子供にこのような自我の発達が無かったことを主張していたのではありません。sukemasaさんは「おそらく意思はあるだろうが自己を表現出来ない質問文の子供」とあげていますが、私は、この子におそらく意思はないだろうと主張したのです。自己の概念があることを前提とした質問内容でしたが、あれでいっているのは自己の概念を知っているというだけの「自己」はあり得ないということです。例えば「Aが存在する」とあって、そして「Aのみが存在する」となるとAは何に対して存在しているのかという超越的な問いが付随します。私はこのようなAは存在せず、BがあってCがあって・・・のように無限の対象事象を想起しているのです。そして・・・の中にAは存在すると考えるのです。

また、改めて断っておきますが、「我」、「自我」、「自己」を混同していた節があることは認めますが、私自身の立場(大層なもんじゃございません)としましては、これらの統一的見解を模索するといった狙いがあります。特に認識主体の存在と、数理論理における「自己言及性」には何かつながりがありそうだな、と踏んでいます。この時点ではただの勘だし、それどころか勘違いかもしれないので控えます。

ところで、自己漏出についての病理学的解析や解釈が現時点でいかほどかわかりませんが、それは自閉症の症状の一端にも現れますよね?「オウム返し」や「スプーン重ね」というのが有名ですけど、難しい問題だと思います。患者さんは「自我の認識が出来ない」のか、「自我の対象が広い」すなわち「あれ」のことも自分だと思うのかを区別しかねます。自分と外との境界が無くなると、自分の思考の「主語」として「私」の意味がわからない可能性がありますね。まあ病気の場合なら、その症状の度合いも考慮に入れるべきですから深入りは出来ません。自己漏出の患者さんが皆一様の区別不能性の程度をもっているとは考えにくいからです。
この件では、病気の解釈問題が多難であることがうかがえます。しかし認識主体の存在様式の性質を解くヒントがあるのかもしれません。

どちらかというと私は夢見主義でして、究極の物理理論や自由意思、人工知能やタイムマシンなどは「あってほしい」と願っています。そして知識の全てがある統一的立場によって解釈されてほしいと思っています。科学者がよく言うことですが、「世界は単純」なことを信じている1人です。

sukemasaさんはアドバイスという形をとっておられますが、これは立派な回答ですよ。質問文の前提がおかしい、ことを指摘されることはある種の問題解決にも結びつく訳ですから。
 
くどい様ですが、私はデカルトのファンです。有難う御座いました。

補足日時:2001/10/20 17:10
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これは経験論の立場でしょうか。


アプリオリな思惟は成立し得るかという段階の問題であって
それはコギトを出す以前の問題になってしまい
難解な認識論に突入します(苦笑)

過去から現在に至るまでこういう立場の哲学は沢山あります。
有名どころをあげるならロックでしょうか。

ちなみに大脳生理学的な反則を使うと例のような人間の場合でも
思考しているかどうかは判別可能ではないか、と思います。
思考している時点で[cogito ergo sum]は証明可能になるので(デカルトに立って言うなら)
まあ成り立つと言えてしまうのですが。
余談としてデカルトの生得観念というと
方法的懐疑は神の存在証明と関わり、神概念の問題が出てくるので(批判されてますが)
その辺を念頭に置いた方が、デカルトに優しくなれるかもしれません^^;

あ、ちなみに何で思考かと言うと人間が本性的に思考するものだからです^^

この回答への補足

有難う御座います。うれしい限りです。

私もまだまだ不勉強ですが、必ずしもロック的な解釈を信じているのではありません。むしろデカルトの考えに惹かれてこの世界に興味を持ったくらいです。そして二元論は素晴らしいと感じました。そこでこれを擁護するにはどうしたら良いか考えるのと同時に、もし批判する(される)ならどのような問題があるか思い、このような質問を生んだ次第です。

大脳生理学を用いるのならば、「外部から大脳を刺激する」ことになるのでやはり反則ですよね?なぜなら「思考」を判別するには何らかの検知によります。検知するには最低限の外部刺激(電気刺激)が必要です。この様な体系は「子供と刺激」のセットとして想定させるものですので、「思考が検知された」のか「刺激を与えたから思考した」のか区別不可能です。よって証明にはなり得ないだろうと考えられます。お風呂のお湯は何度か?というのにも似ています。本当の温度は「温度計を入れる前のお湯の温度」ですが、温度計を挿入するとわずかながらお湯の温度が下がるので、厳密には「温度計とお湯」セットの温度を測るということなります。余談ですのでこれは軽く流してください。

しかし、次の様な反論もあるでしょう。

「血液の循環やホルモンの移行は脳への(一応外部の)刺激といえるのではないか?」

しかし,このような刺激が思考を促すかはともかく、「我」概念を知るほどのものか?と疑います。

例えば私などは深い睡眠時に、その自覚はありません。覚醒後「寝ていた」ことは自覚されますが、「寝ている」ことを知りません。まして「自分」の存在や、世界の存在も意識されません。例の子供はこのような状態にあると思えます。また、物心つく前の子供は自分自身と外の世界との境界が曖昧で、「確固たる我」は無いのだろうと想像します。

そのようなことから、「我」「自分自身」といった概念はある関連事象に基づいた複次的概念だと思うのです。

私の考え方のルーツはロック的伝統とは違います。質問では一切触れていませんが、数理哲学的な影響を強く受けています。まだ勉強も知恵も足りませんが、実はロックらと異なり、心や精神、神といったものを見届けたいといったクチです。
デカルトの神存在証明は、その茶目っ気ぶり(こう言ったら失礼?)が大好きです。

今回の質問の参考になっているものは「自閉症の症状群」他「精神病理」と、「ゲーデルの不完全性定理」、「量子力学」などです。

いずれの研究はどれも「自己」に対しての示唆を与えています。特に数理では「自己無矛盾性」など「自己」というものの論理的なありかたについて非常に深いテーマを与えます。ですがここでそれを問題にするつもりは有りません。

質問のタイトルがまさに「デカルトへの挑戦状」てな感じで誤解を招きやすいのですが、目を引きやすい題にしようという姑息な動機がいけなかったのでしょうね。
要するに「自己」や「意識」が形而上学的な問題かどうかを扱いたいのです。

kayako2さんは私よりも断然詳しそうですね。宜しくお願いします。

補足日時:2001/10/20 07:25
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世界が感じられる、られないは問題ではなく、その子に「世界はあるのか?」


という思考が働くのなら「我思う、ゆえに我あり」を言っているのだと思います。

逆に、外界からの刺激がなく、その子が何も感じたり考えられないのであれば、
その子は「知能を擁する」と呼べるのでしょうか?

この回答への補足

ご回答有難う御座います。

もし世界を感じられなければ、「世界はあるのか?」という疑問も生まれないと思います。

 そして「感じたり考えられないから知能を持たない」ということは、「自分自身」という概念を認識する為には最低限の知識が必要である、と考えられます。つまり「知能」を持つ条件としての最低限の刺激が必要ではないか?と考えた訳です。

有難う御座います。

補足日時:2001/10/20 07:03
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デカルトの唯識論については、デカルトが思う故にデカルトが存在するのでは。

本に書いてあることも外部からの刺激もすべて存在を疑ったすえに、自分の存在を、自分が考えている、という事実を根拠に認定したわけですね。ということは、デカルトでなく私にとって、同様にデカルトの存在は疑わしい。会ったこともありませんし。例にあげられた子供さんについて言えば、その子が何か考えているかどうか、その子以外にはわからないですよね。だからといって「この子は存在しない」と存在自体否定できるわけじゃないし。われ思う、故にわれ有り、はあくまで「われ」の話で「かれ」について演繹できないのではないでしょうか。

この回答への補足

ご回答有難う御座います。

さて、「我」を「彼」に演繹できない、というのはまことにごもっともな意見です。問題点を補足していただき恐縮です。

私はこの問題を設定するにあたり、「彼」の部分に「我」を代入(適切な表現かどうか解りません)することで想像しました。私は、もし私がその子供のような立場にあれば、何かを考えること、極端にいうと「我有り」を認識できないのではないか?と問うたのです。その意味において、「絶対的主観」は無く、「相対的」主観ならば有ると考えます。

また宜しくお願いします。

補足日時:2001/10/20 06:43
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「胎児の夢」とは「我」だろうかなどとふと思いましたわ。


あれはそもそも「見る」物なのだろうか。

感覚はないだろうが、呼吸はするし、声も出す(?明記はなかったので)「生」自体が「我有り」と思うが、もちろん精神論では無い。

この回答への補足

ご回答有難う御座います。

ところで、「呼吸はするし、声も出す」ことは否定しませんが、あくまで外からの第三者的判断です。
 
デカルトは認識主体そのものの存在(精神)を世界の根源的な体系と見なしています。ですから「呼吸している」ことを「自覚」出来なければいけないと考えます。延長し、「生を自覚する」ことが出来なければ、彼の「認識主体」は疑われる余地があるように思えます。

 つまり、「この子の心臓は脈打ち、胸で息をしている。ああ、生きている」と判断することと、「故に彼の認識主体が存在する」こととの間には因果的なつながりが有りません。ところで、デカルトの二元論は認識主体としての「我」を扱っていますが、「自分自身」という概念が認識され得ないのならば、そもそも「認識主体」たりえません。

有難う御座いました。

補足日時:2001/10/20 05:50
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「野球中継が30分延長した」とかいう時の「延長」とは違うのですよね。素人にもわかるように説明いただけますでしょうか。

Aベストアンサー

空間的広がりのことです。
デカルトの二元論において、物質は空間的広がりを持つもの、
精神は空間的広がりを持たないもの(思惟するもの)とされています。

もとの語はextensionですか。
「延長」という訳語は多少わかりにくいですが、
要するに、四方八方に延びているというイメージです。
野球中継は時間的に延びるわけですが、
ここでは空間的に延びる(というか、延びを持つ)ことを言っています。

Q「我思う、故に我あり」とは?

デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉の意味が良く分かりません。

何かを見たり触ったりしているのも、夢の中の出来事かもしれないけど、どれだけ疑ったとしても疑っていると思っている事実は動かない・・・ということだと思うのですが、だから何が言えるのか良く分からないです。

また、疑っていると思っていることも夢かもしれないと思うのですが、どうなんでしょうか?

どなたか分かりやすく説明をお願いします。

Aベストアンサー

6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。

私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読まないといけない、とされてます)。

そこで、そこから出発したら、絶対まちがわん、という一点を必死に探した。あらゆるものを疑ってみて、論破できたら、全部疑わしいものとして切り捨てた。

で、感覚的世界も全部私を間違わせるから、全部無視して、自分がどこにいるのかも分からなくなりながら、必死に疑いえない一点を探した。

あらゆる命題を疑い、論破し、苦しんだあげく、最後に「われ思うゆえにわれあり」を見つけた。
これはどんなに疑いの目を向けても、真実だ、とデカルトには思えた。

というわけでここから出発して真理を探究することにした。全ての学問の出発点はここ以外にありえない、と。

そこから哲学について、感情について、いろいろ探求したけれど、一番凄いのは神様の存在証明まで考えたことだと思います。
われ思う、から出発して、神様まで証明しちゃう。
『省察』のその戦いっぷりは偉大です。
全然デカルト主義者じゃないですが、泣けます。

話がそれましたが、「われ思うゆえにわれあり」は、全ての哲学が、全ての学問がそこから出発すべき一点だ、とデカルトは主張します。

感覚的なものは私を間違わすことがあるので、切り捨てます。だからこの「われ」は肉体ではなく精神です。(デカルトは肉体と精神を思いっきり分けて考えます)

夢の中で思っていても精神としての私はある。
ホントは体を全て失っていて、実験室で脳に電極さされて、本当は肉体なんてないのに、あるように思わされていたとしてもかまわない。
究極的には脳なんて物質があろうがなかろうが、どうでもよい。
それでも、もし私が考えてるなら私の精神は存在する。

そんな感じだと思います。

6番さんのおっしゃること、アホとは全く思わないですが、伝統的なデカルト解釈からはかなり外れているように見受けます。

私なりに噛み砕いてまとめてみます。

当時、デカルトが、真理を探究していこう!とまじめに思って回りを見渡してみると適当なことばかり言ってる人ばかりだった。

特にスコラ哲学者は、偉そうな顔して適当なことばっかり言ってた(デカルトは仮想敵として、スコラ哲学を思い浮かべていることが多いようです。だからデカルトを真に理解するためにはスコラ哲学を腰をすえて十年は読...続きを読む

Qデカルト『方法序説』は何が言いたかったのか?

 デカルトの『方法序説』を読みました。
疑問に思うのは、『方法序説』で彼は何が言いたかったのでしょうか?
 単なる自分の今後の予定と自分の自慢話を展開させているだけに思えたのですが・・・。
 自分としてはセカネの着眼点に関心しただけでした(セネカの本を岩波文庫は出版しろよ!と思ったり)。
 デカルトの偉そうな口調に耐えて、耐えて、疑問に思ったのですが、デカルトは医者だったのでしょうか?
心臓の仕組みに詳しくないですか?(デカルトが、『方法序説』の中で書いていた心臓に対する記述が正しいものかは不明ですが。)
 あの傲慢な口調からして見れば、「こいつ知ったかだろ。」としか思えないです、汗。

1・デカルトは『方法序説』を通じて、何を言いたかったのでしょうか?
2・何故、人間の身体の仕組みについて、あれ程詳しいのでしょうか?

Aベストアンサー

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義しなきゃいけないストレスで早死にしたとも言われてますし
実際は繊細な人がそういうスタイルを演じていたのかもしれません。好意的過ぎるかな?




1:『方法序説』について。
従軍時代の経験から、4つの方法論(精神を導く基準)を導き出しました。
一言で言うと要は「疑え」。つまり「自分で考えて検証しろ」。
その上で信ずるに足る基準を見つけたのならば、それを変えないということです。
この方法論こそが、日本語訳のタイトルになっているんでしょうね。


この考え方で現在の数学の根幹部分を作り上げ人類史に名を刻んだデカルト先生は、
世界の学問の根幹部分である"哲学"に飛び込んでいきます。

真理を求め、数年の旅で世界を観察したデカルト先生はあることに気づいてしまいます。
社会が信じる基準とは絶対的な真理ではなく、みんなが広く認めている旧来の風習であると。
最終的には真理へ変えることが必要であっても、
今現在において「幸福な生活を送るためにはその国の習慣やルールに従う必要がある」
と考えるようになります。
最後に付記されているガリレオの話や、公表しなかった自身の「宇宙と光の考察」は
その端的な例であると言えます。


では、真理が世界に無いのなら、いったいどこにあるのか?
デカルト先生は驚くべき結論に達します。
その結論により人類という生物は最後の進化を遂げることとなったのです!



続きは「方法序説」でね☆




2;人間のしくみについて
もちろん、学生時代にも勉強していますが
デカルト先生は真理を探究する過程で、「自然科学」者と多くの交流を持っています。
現在の常識とはことなり、当時は現在「応用科学」に分類される医学であっても
その「自然科学」に含まれるのです。

当時の自然科学の探求者が物理学と医学の両方を修めているという例は普通のことです。
デカルト先生が最も影響を受けたという従軍時代に会った人物も、多数の学問を修めていました。

なるべく平たく書きます。高尚な考察ではない、俗っぽい文章であることをご容赦ください。


最初に余談ですが、我らがデカルト先生は
「疑うことを教えてくれたから、間違った理論を教えてくれた教師たちには本当に感謝してる」
というような趣旨の発言をしちゃう、元々からして嫌な奴です。
とはいえ、それを指し引いても偉そうな口調は自身を権威付ける第一歩であり
近代以前では当時ではごく普通の論調であると思います。
自信の無さそうな文を書いても誰も納得しませんよね。
最後は朝起きて講義し...続きを読む

Q反症してください。我思う、故に我あり。

デカルトのこの言葉、どこかおかしい気がします。反症できますか?

Aベストアンサー

 No.9です。もう少しくわしく書きます。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  *(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。

 我れに還った我れをもうたがうなら それは悪しき無限に落ち入ります。と我れは知っているようです。

 No.9です。もう少しくわしく書きます。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しています。わたしとは何か? あるいは 主体のあり方がどうであるか? の問題です。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえ...続きを読む

Qデカルト and self

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).

蝋燭に火を灯せば、やがてその物体は以前とは違う形に変わって行きますが、その残り(remain)から、私たちはそれが何であるか想像することができる、と述べた後のこの一節なんですが、”思考により理解する”また”目で見た物”とデカルトは述べていますが、”目で見る”行為はすでに五感の一つであり、これは体と思考の繋がりを述べているようにも思えるのです。デカルトは肉体と思考の関係(二元論)をどのように考えていたのでしょうか? またデカルトはselfとworldを分けて考えていたのでしょか?

今、self, individuality, subject, subjectivity について勉強しているんですけど、今回まずデカルトとselfについて質問があります。

デカルトはまず全てに懐疑的に考え、そこから『cogito ergo sum』に辿りついたと思いますが、彼は体と思考を本当に分けて考えたんでしょうか?彼は”meditation2”の中で蝋燭を論点として論述していますが、その中の一節でこのように述べています。

i comprehend, by the faculty of judgment alone which is in the mind, what i believe i saw with my eyes (Descrtes).
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Aベストアンサー

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。しかし、自然界が数学的に観測可能なものであるためには、それが生き物のように不規則な変化をしない、という前提を要求します。すなわち、後の時代に「ラプラスの魔」と評されるように、自然界は、(人間の肉体をも含めて)数学的必然性と原因性とに支配されていなければならなかったのです。
 ところが、当時の自然界についての考えの正当な流れは中世以来のスコラ哲学であり、その考えに従えば、自然界は神の意志に充たされたものであり神の意志によって息づいていました。福音書の言葉で言えば、神の許しがなければ一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)、ということになるのです。そのため、デカルトは自然の諸現象の説明原理から、物体に内在する意志とか魂のようなものを払拭する必要があったのです(また、デカルトよりも少し前の、ルネサンス期は、自然界を汎神論的に捉える神秘主義的傾向を強く有していたという問題もあります)。
 そのため、デカルトの、cogito ergo sum はデカルト自身の身体(物体)と思惟とを媒体にして物体と精神との分離を試みる考察をなしています。デカルトは、自分自身の身体が無かろうと疑っているかぎり思惟する精神は存在するのであるから、精神は物体とは独立に存在するとし、精神が物体とは別物であるならば、物体(身体)には何の精神的属性も、例えば、意志だとか欲求だとか思惟だとかいったものは属さない、とすることによって物体から精神的性質のすべてを除去することができると考えたのです。このような証明が果たして妥当なものかは、大きな疑問を残しますが、物体から精神的なもの全てを取り除くことによって、数学的要素、デカルトが重きを置くものとしては、特に幾何学的性質、すなわち、幅とか長さとか奥行きなどによって、自然界を精密に観測することが可能になると考えられていたのです。
 ですから、デカルトは、self と world とを、より厳密には、mental なものと corporeal なものとを分けて考えていましたし、少なくともそれらを分けて見せようとしていました。
 それゆえ、また、肉眼によって何かを見てそれが心の中に入ってくる、という立場は、基本的には、デカルトの存在論に反するものです(とはいえ、デカルトの研究には視神経がどのように脳に情報を伝えるのかを扱ったものなど、『省察』とは異なった性格の著作物もあります。私は、これらが、一体どのような企図からなされた研究なのかちょっと分かりません)。デカルトの認識論は、心の中に散在する様々な観念のうち、正しい観念とは何か、宇宙を忠実に再現(represent)している観念はどれなのか、を見出すことに終始しておりそれは一貫して心の中でのみ展開されます。
 示して下さったテクストのラテン語原文が手もとに無いのでちょっと自信がありませんが、英文テクストで指摘させていただくと、

what i believe i saw with my eyes

となっており

what i saw with my eyes

とはなっていないことがポイントです。つまり肉眼で何を見ていようとそれはどうでもよく、私が肉眼で見ていると「信じている」もの、心の中のものが認識の直接的な対象なのです。デカルトの立場に従えば、身体は身体で独自に感覚を持ちますが、それとは全く別に感覚についての観念が心の中でうごめいているのです。デカルトは、このような立場を支持する例として幻影肢すなわちケガや手術などで失った手足の感覚を持つという奇妙な現象を挙げていたと思います。すなわち、身体は感覚を持っていないのにもかかわらず、心はその感覚があるという観念を抱くのです。
 したがって、デカルトの理論によれば、自然界には魂を抜かれたパペット人形のようなものが練り歩いているのであって、その心はどこか別のところで自然界とは関係ない観念をあれこれと抱いているのです。このような結論は、あまりにも非常識で、デカルトという一人の人間が全面的にこれを支持していたとは少々考えにくいところがありますが、自然界を数学的に観測可能なものとして捉え直すというデカルトの哲学の動機に基づくかぎり、理屈上、物体(身体)の中に精神の諸属性を溶け込ませるわけにはいかなかったのです。
 そしてまた、この理論には、重大な欠陥がありました。それは、心の中において正しい観念を捉えたとして、それは、自然界とどう関わっているのか、それが自然界についての数学的な認識である以上、何らかの仕方で自然界と関わっているはずなのに、心と自然界とが完全に切り離されているとしたら、数学的な自然科学の基礎付けはやはり不可能になってしまうのではないか、という問題です。デカルトは、この問題を意識していた著作を残していなかったようです。それゆえ、これらの問題は、マールブランシュ(「すべての事物を神において見る」)、スピノザ(神という一個の実体の中での精神と物体という二つの属性)、そしてライプニッツ(予定調和説)といったいわゆる大陸合理論の大家に引き継がれていきます。なお、subject という哲学用語を今日のように「主観」「主体」の意味へと転換したのはライプニッツの業績です。それ以前は、subjective というと主観的なものではなく人間の思惟とは独立にある実体に関するものを指していたのに対し、objective というと客観的なものではなく人間の思惟に現れてくるものを指していました。

 端的に申し上げますと、デカルトの叙述自体は曖昧で、感覚は身体に属するとしながらも思惟が感覚を持つと述べることは珍しくありません。しかし、デカルトが辿り着こうとした結論が、思惟と身体(物体)とは別の実体であるという二元論であるということには、あまりブレはないと思われます。それは、デカルトが哲学に取り組んだ動機にあります。
 デカルトは、ガリレイなどと同時代の自然科学者であり、自然界を数学的原理に基づいて認識することができることを主張することをライフワークとしていました。し...続きを読む

Q我思う故に我あり

デカルトの言葉だったと思うのですが、
「コギト・エルゴ・スム」って何語ですか?
つづりも教えていただきたく、
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

ラテン語です。
Cogito, ergo sum. ですね。
cogito=「私は考える」
sum=「私は存在する」(英語のbe動詞)

Q原爆はデカルトがつくった?

原爆はデカルトがつくった、という言葉を聴きました。
デカルトの説いた合理主義、心身二元論といった言葉がキーワードになっているようです。

もちろん、原爆の理由をデカルト一人に帰すつもりはありませんが、
近代科学や近代資本主義に対して、デカルトがどういう役割を果たしたのか、教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かったことを言い出したことが、本質的に重要なことだと思います。この神懸かりは多分西洋文化を除いて、他の文化には出て来なかった不思議な視点だと思います。確かに、ピタゴラスがそのことについて触れておりますが、ギリシャも凋落し、アラビヤが辛うじてギリシャやローマの知的集積を細々と伝えていた状況でした。やはり、それより千数百年を隔てたガリレオの数学に対する神懸かりを待つしか無かったのでしょう。ガリレオがその当時知っていた数学は、現在日本で言う、足し算引き算掛け算割り算の算数と、幾何学と言う超初等的な数学だけでした。微分積分などの高度な数学は、ガリレオより数十年後に生まれたニュートンを待たなくては,生まれて来ませんでした。こんな未熟な算数しか知らないガリレオが、「数学は自然を記述する言語である」などと、ほとんど証拠もなしに言い出し狂気が、現在の技術と原爆への道を切り開いたのです。デカルトは、ガリレオの引いたレールの延長上を歩いていただけです。

また、近代科学と近代資本主義を並列に置くとは、何とも乱暴な対置ですね。例えば、現在の銀行制度のほとんど全ての制度が、戦国時代の堺の町で存在していたそうです。その堺人で知らなかった制度はクレジットカードだけでした。何故なら、その時代まだプラスティックが発明されていなかったからだ、という古典的なジョークがあるくらいです。

金儲けの資本主義制度と、科学的認識を一緒くたにするとは、何ともはや、乱暴と言うか、物の本質を見ていない見解ですね。経済活動は合理的でなくては出来ませんが、必ずしも科学的でなければ出来ないわけではありません。非科学的ではあるが合理的である社会の良い例が、現在のアメリカです。今現在アメリカ人の80%以上がダーウインの進化論を認めておらず、キリスト教の神による創造説を信じていると言う統計結果が出ています。しかし、アメリカ人は本質的にビジネスマンですので、彼らは大変合理的です。合理的でなければ,ビジネスは出来ませんからね。また、経済活動は軍事力の発展も促すのもであり、その結果、欧米が経済的にも軍事的にも覇を握っているのです。覇権を握っていることと、高度な知的文化を持っていることを混同しては行けません。

こと程左様に科学的であるとこと、合理的であることは,同じことではないのです。それなら何処が違うのか、質問者さんご自身でその答えを見付けて下さい。我々は、科学的な社会を目指しているのか、合理的な社会を目指しているのか、それともそれとは何か違った社会を目指しているのか、面白い問題ですね。

人類のあらゆる文明や文化で大局的に見て合理的でなかったものはありません。そんな一般的な歴史的経験の中で、ヨーロッパの中世の暗黒時代というキリスト教に毒された非合理的な経験は、特殊な事例だと思います。ですから合理主義であれば現在が出てくると言う主張は、何も情報を含んだ主張ではなく、人間なら現在の状況が出て来たという以上のことを言ってはおりません。従って、現在を理解するキーワードが合理主義であるはずがありません。

原爆に関しては、自然界を数学を使って記述しようと言う神懸かっ...続きを読む

Q我思う、故に我ありに対する反論

この前デカルトの我思う、故に我ありについて話していたのですが、
「僕は自我は真実だし疑うことはできない」といったのですが「自我、つまり意志は言葉を使う。言葉なしでは意志できない。言葉が嘘なら自我も嘘だ」といわれました。
僕もその通りかなと思ってしまいました。
これはデカルトの反論になりえるでしょうか?

Aベストアンサー

なりえません

『方法序説』をお読みになれば理解できると思うのですが、
デカルトの「我思う、故に我あり」は

 ~仮に全能のデモンが私を(世界があるかのように)欺いているとしても、欺かれている私(の意思)は存在する~

と言う意味です。

言葉云々と言う反論をデカルト風に返すならば
「言葉と言う概念は嘘でも、その嘘を認識している私は存在している」

また、「言葉なしでは意志できない」の根拠は何でしょうか?
言葉を持っている人間の傲慢のようにも感じられます。

Qチョムスキー「デカルトの問い」

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの問いであり、それは我々が、言語使用の創造的一面とでも呼ぶモノを説明している。
(大雑把な解釈で申し訳ありません)
その後に、
Descartes and his followers observed that the normal use of language is constantly innovative, unbounded, apparently free from control by external stimuli or internal states, coherent and appropriate.
(訳:デカルトと彼の弟子たちは、通常の言語使用は制約がなく、斬新で、刺激や抑制から独立したものだが、それでいて、首尾一貫して状況にふさわしいものであることを発見した。)

とあります。
デカルトの思考は
「無生物の物体や生物の世界と人間の身体の作用のあらゆる現象は、機械のふるまいという観点から説明することができ、すべて機械の部分部分の振る舞いと外部環境から決定することができる」
(デカルトの身体論より引用)
ではないのですか?
これでは上記の文と相反する内容になってしまうと思うのですが…

デカルトの問いに関して、チョムスキーが何を述べているのかよくわかりません。
ご回答よろしくお願いします。

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの...続きを読む

Aベストアンサー

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門ではないので、あまり深入りしないことにしましょう。

さて、チョムスキーが「言語使用は創造的だ」というとき、それは、「人はこれまでに見たことも聞いたこともない文を発することができるし、理解することができる」と言う意味です。

また、「言語使用に制限がない」とは、「人は無限の数の文を発する(理解する)ことができる」ということです。

とすると、人間の「心/脳」(mind/brain)の中に、全ての言語表現が収められているはずがない。では、「心/脳」には何があるのか? 無限の数の文を発する(理解する)ためのシステム、つまり文法である。言い換えれば、無限の言語表現を生成できる有限の計算機構である。

システム(文法)自体は一種の機械のようなものです。
これでつながりませんか?

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。

ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門では...続きを読む

Q【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高

【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高校で習って知っているんですか?

梵我一如の意味を高校の倫理の授業でどのように習うのか教えてください。

梵我一如ってどういう意味ですか?

Aベストアンサー

ウパニシャッド哲学(インド哲学)の、バラモン教(教典ヴェーダ)の中で学習すると思います。
梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一だと言う事を自覚する境地を「梵我一如」と言う言葉で表現します。(バラモン教の場合は、これにより輪廻から解脱できると考えます)
梵は、宇宙の根本原理を意味します、我は不変の自己(輪廻する自己そのもの)を意味します。
仏教(原始仏教)の場合は、正覚、正道により、一切の執着を捨て、悟りの境地に至る事により解脱出来るとしているのが、違いです。


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