※このカテゴリでよいのか自分では判断がつきかねますので、もし何かお気づきでしたらご指摘ください。
 
「覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。」
これは某ベストセラー本にある一節です。(文面は変えてありますが。)
これが私には至極ひっかかってしまうのです。

―「忘れてしまった、または忘れてしまっている、ようなもの」は自分の人生という大きなものさしの上では(長期的にみれば)価値がないものだ―
私はこのように解釈しました。つまり自分の記憶というものにも重要度に応じて
淘汰が起こりうるということでしょう。実際脳内神経のしくみからも、使われない回路(シナプス)はだんだんと消えていくのだそうですが。

しかし私は、単に電気信号が伝わらなくなったニューロン=自分にとって全く無価値であるが為、というのは当てはまらないと思うのです。本当は自分の求めている真理に触れているような大事な記憶であるのに、ただそれを永久保持するのが機能的に不可能なだけであって、一時期他のことに傾倒したばっかりに忘れてしまったことというのもあるはずではないのでしょうか?もしくはそういうことを考慮にいれてもやはり忘れたものはしかたがない、のでしょうか?
それは個々の意思次第ともいえるでしょう。しかし、例えば義務的強迫的に覚えさせられたものの割合が高い人はこれに当てはまらないでしょう。

長文で申し訳ありませんが私にとってとても大きな命題なので意識してまわりくどく表してみたつもりです。こんな私の疑問にじっくり付き合ってくれる方の意見ぜひおまちしています。

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A 回答 (12件中11~12件)

全くの私見を言わせてもらえば


>覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。
というのはかなり正しいように思います。
記憶というのは大きな外傷がない限りはカケラぐらいは残っているものです。

自己の人生に少しでも必要性があるものならば、その記憶は必ずいつか蘇り(様々な方法で…時には自分の発想として)、自分の中で血となり肉となると思います。
そして、その通り自分の人生にさほど意味を持たないものは消えていく…そういったものだと僕は判断しています。

…と、いった簡単な答えを出してしまいましたがあなたにとっての何らかの答えになれば幸いです。
もし、お役に立てなかったらごめんなさい

この回答への補足

いえいえとんでもないです。とてもポジティブな意見ありがとうございます。
 
補足というか、もしよろしければ考えていただきたいことがあります。ちなみに私は現在大学2年生、ついこのあいだハタチになったばかりの青二才です(笑)。
たった20年という、私の人との交流を例にあげて意見するということ自体、恐縮で勘違いしているかもしれませんが、私の見地からはっきりいって最近では「忘れる」ということを肯定している人の方が大勢を占めている気がします。これは必ずしも適切な仮定でないかもしれませんが、こうしてネットも普及して人との交流機会や、やりとりされる情報量が爆発的に大きくなってくると、直接現在の自分に利害関係のないことをわざわざ思い出そうとする人も少なくなってくるのではないでしょうか。そうなるとよりいっそう、「自分の現在」にばかり目が向けられ、忘れたものはしかたない、という割り切った結論をもつことこそが処世術だということになってこないでしょうか。私は確かにそういうイデオロギーの浸透が進行していると思います。

皆さんぜひ意見を聞かせてください。

補足日時:2001/10/21 12:46
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その本は読んでませんので、質問文からのみお答えします。



私もO-jiroさんと同じ意見ですね。
人間の脳みそは確かに優秀ですが、だからってそんなに都合よく出来てるとは
思えない(笑)単に永久保持する事が機能的に不可能なだけでしょう。

でも、逆に考えますとある意味での真理も見えてくるように思えます。
それは、現代の風潮として「忘れる事」についてすごく罪悪感を覚える人が
多数いるってことです。
忘れてしまう事で救われる事ってたくさんありますよね?でも、なんだかんだで
忘れるって意識的に出来ないじゃないですか?

それに「忘れてもいいんだよ、そんなたいして重要な事じゃない」なんて
誰にも言ってもらえない言葉じゃないですかね?
そう考えていくと、その理論的な事柄よりもむしろ言葉そのものに私は
重要性を感じました。

一度その「某ベストセラー」読んでみたいですね。
最近本屋さんにも行って無いからたまに覗きにいってみようかな(笑)
あんまり参考にならないと思いますが、ごめんなさいです。

この回答への補足

早速の回答どうもありがとうございます。

>現代の風潮として「忘れる事」についてすごく罪悪感を覚える人が
多数いるってことです。
ここすごく考えさせられます。受験勉強とか仕事上のマニュアルとか、皆一度は気が乗らないようなことでも覚えさせられますよね。モチベーションはその対象を拒絶しているのに「大学にはとりあえず入らなきゃ」とか「自分の専門外だけどおぼえなきゃ食べていけない」とか無理やり事後的に理由付けをさせられる―

またその逆ですごく興味のあることに取り組んでいても、あるときふと「あれ?なぜ私はこんなことをしているんだろう?」と思うことがあります。プロスポーツ選手なんかはだいたいまずそれが好きでなければやっていけないような世界で生きていると思いますけど、どんな人でも大小違いはあれど個々にモチベーションスランプを経験しているでしょう。好きで始めたもののはずなのに気づくと義務的になっている、こともありえるのではないでしょうか。

「大切なのは同じことを長く続けない、ということだ」
私の父はよく自己啓発的な本を読むのが好きなようでしたけれど、彼のメモにこのような言葉が記してありました。たぶんこれは、自分の意欲の源泉でさえ忘れてしまうのだから<状況が許してくれるのなら>対象が自分の中で義務化されないうちに、次の意欲対象を探せ、ということだと解釈しました。本当に正直に生きるってことはこういうことなのかもしれません。

ただ、私はpco1633さんのいうように「忘れるって意識的に出来ない」というのにも疑問が残るんです。インプットの方は意識的にある程度操作できる、じゃあデリートはどうなのか。これもあくまでその内容次第ですけれど、たとえばすごく嫌なことがあってそれを忘れるために、意識して他のことに没頭する人と思いつめて原因を特定しようとする人に分けると、たぶん前者の方が忘れやすいでしょう。ここが私を惑わせている、のです。

よろしければまたこれについて意見を聞かせてください。

補足日時:2001/10/21 12:27
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Q「歌を忘れた哲学」にどのような価値があるのか?

おそらく 西洋の哲学は 最初からけっこう いろいろと間違った出発をしてしまったのではないでしょうか?

 「考えるが故に我あり」  ?

考えることが出来たって もし何か感じなければ そこにどんな意味や価値が生まれうるのでしょう。

五感を失ったかのような(完全に失ったとかではないのですが、ある種の病気でいろいろな能力が まるで無くなってしまったかのようになってしまう時がある)体験ありますか?

私は 3年も それで苦しい想いをした体験があります。

私の場合運よく、 川原に ドテっと 長い長い間寝転んでいたら その川の音が すこし何かを変えてくれ、その少しの扉みたいなのが  急速に 治してくれることになりましたが  何もかも灰色に見えるような世界です。

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人間が考える存在であることは(あたりまえですが)そのとおりでも、なぜ 葦なのでしょう?

まあ 葦みたいな 弱い生物でもあるということでしょう。 そして 考えることは、それでもできるということでしょう。

しかし 葦と人間では 感じる脳が 無限に違います。 当たり前のことですけどね^^。

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みなさんのお考えをお聞かせください。

おそらく 西洋の哲学は 最初からけっこう いろいろと間違った出発をしてしまったのではないでしょうか?

 「考えるが故に我あり」  ?

考えることが出来たって もし何か感じなければ そこにどんな意味や価値が生まれうるのでしょう。

五感を失ったかのような(完全に失ったとかではないのですが、ある種の病気でいろいろな能力が まるで無くなってしまったかのようになってしまう時がある)体験ありますか?

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Aベストアンサー

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Qあなたの生き方を大きく変えた知識や気づき

宜しくお願いします。



「ある知識や気づきを得たことで、生き方が大きく変わった!」

という方に質問します。


あなたの生き方を大きく変えた知識や気づきとは、どのようなものですか?

その内容を教えて下さい。


回答例

「以前は人間が嫌いだったけど、○○を知ったことにより、人間が好きになった」

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「前は短気で喧嘩っ早かったけど、○○という道理を知り、温和な平和主義者になった」



ご回答お待ちしてます。

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どんなことにも腹が立たなくなりました」

また
「仏教や儒教を勉強して、自分が何を信じていて、それが何の根拠もない危ういものだと知ってから、客観視が容易にできるようになりました」

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タイトルのとおりです!
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Aベストアンサー

 
  「価値」が、例えば、ステーキとすれば、それを食べ経験し、認識あるいは判断する人間の「精神」または「主観」のなかにあるのか、または、ステーキという或る意味超越的な「事物(レース)」のなかにあるのかというのは、質問の立て方がおかしいというべきでしょう。
  
  一応、事物(レース)は、外在的に、超越的であっても、プラグマティックに存在するとして、この場合、認識あるいは判断は、ステーキだけで成立するものではなく、また、いかにグルマンであろうと、粗食家であろうと、それを食するものの精神内部だけで成立するものでもないでしょう。事物と精神の中間領域というか、両者があい交わる「機能的な空間」において「成立または現成」しているというべきでしょう。「現成」という言葉を使うのは、お金や金銀宝石がそうであるように、事物との直接的な実践の交わりなしに、精神内部において、「仮想の価値」を形式的に与えられているものは、皮相的に考えると、精神のなかに価値があるようにも、金銀や宝石それ自体に価値があるように思えても、実は、それらは、精神における「仮想あるいは仮象」なのだと言えるからです。
  
  人間の精神は、生存の活動や、精神の志向性の行為発動において、外在的世界の事物と、何らかの「関係」を結ぶのであり、この関係は、先に「交わりの機能的空間」と呼んだものと同じであって、主体と対象のあいだに生存の活動あるいは精神の行為によって、「関係・交わりの空間」が成立し、この空間の場において、価値などは、現に成り立っているということです。間主観というのは、主観と主観のあいだで、客観へと通底するように成立する精神の位相ですが、このような事物と精神の「関係・交わりの空間」も、また、広い意味の間主観的事態でしょう。
  
  間主観的に成立している事態は、純粋の主観でもなければ、純粋の客観でもないのです。そして現実にわたしたちが生きている世界は、こういう世界・現成する・しつつある世界であるのです。ステーキだと思っているものが、実は巧妙に造られた大豆蛋白の模造牛肉かも知れないし、本物の牛肉ステーキでも、味付けや料理の仕方で、客が、これは鯨のステーキではないのかということにもなります。客観としての事物が本当は何であるのか、主観には分からないのです。しかし、それでは、主観の思い通りに何でもなるのかといえば、そうでもないのです。これは最上級のステーキですと言って出された料理を食べて、「素晴らしい味だ。これこそ本物のサーロインだ。最高の価値がある」と判断した時、この「価値判断」は、主観と客観の丁度あいだというか、「関係・交わりの空間」で、その時に現成しているものなのです。
  
  先の最上級のステーキだと言って出された肉が、実は、大豆蛋白から造られた合成牛肉である可能性もあり、反対に、本物の牛肉サーロインのステーキを、これは、我が社が開発した大豆蛋白の合成牛肉のステーキですと言って出された客が、食べてみて、「これはうまい。本物のステーキのようだ。だがやはり、合成牛肉は限界があるようだ」と判断した場合、これらの主観的判断にある「価値」は、どこに帰属するのかということです。それは、牛肉ステーキだ、あるいは大豆蛋白ステーキだ、と言われてステーキを出された「状況」、その肉の実質、客の味覚と記憶などが絡む判断の総合的事態として、その「場」で成立しているものでしょう。同じ人でも体調によってものの味の感覚が変化し、化学調味料で造った味か、本来の味か、区別が付かない事態も起こるでしょう。ステーキという事物があり、それが食事に供されるという場にあって、食べる人の主観と、事物のステーキの客観のあいだで、「関係の場」という相互主観・間主観において、ステーキはうまいという価値あるいは、これはまずいという否定価値が、現成するのです。
  
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  ものの価値は、それを経験する相互関係の場で・現成する場面で成立するのですが、そこから離れて、抽象的形式ともなりえるのです。「事物自身に価値がある」と言えば、確かにあるとも言えます。しかし、それは、「関係の場での相互主観における、価値現成」において、具現化するのです。また、価値は、精神主観のなかにあるかと言えば、主観のなかにあるのは、現成の場を離れれば、抽象的認識とその命題でしょう。「サーロインステーキは最高に美味で価値ある」というのは、抽象命題であり、一種の「仮象」の認識なのです。
  
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  ものや商品について、「使用価値」とか「交換価値」ということが言われます。使用価値が、事物の備える客観価値で、交換価値とは、主観精神のなかの判断命題における価値付与で、実体事物の価値とは別に、仮象として成立しているものだとも言えます。金銀宝石は、使い方によって使用価値がありますが、使い方を知らないものには、たいへん美しいものだ、という程度のことでしょう。金は、物性からして優れた金属なのですが、その使用価値よりも、交換価値の方が優越しているのです。また、交換価値しかほとんどないものは、紙幣の形の貨幣でしょう。あるいは紙の形の有価証券などでしょう。大インフレーションが起これば、一万円札千枚も、ただの紙の山になります。株式は、会社が倒産すれば、これも紙屑でしょう。
  
  しかし、「実在としての・レアルな価値」は、使用価値にも交換価値にもなく、両者も含めた認識における、生存や行為の場での「関係空間」で「何が」主観と間主観にあって現成するかで決まってくるのです。
  
  ステーキは旨いという価値判断は精神のなかにありますが、それは抽象形式の命題で、仮象なのです。その極端な例が、紙の貨幣や有価証券です。逆に、旨いステーキがあるのだというのは、それを食べて味わい判断する主体がいないと、どこにも価値はないというか、現成していないのです。
 

 
  「価値」が、例えば、ステーキとすれば、それを食べ経験し、認識あるいは判断する人間の「精神」または「主観」のなかにあるのか、または、ステーキという或る意味超越的な「事物(レース)」のなかにあるのかというのは、質問の立て方がおかしいというべきでしょう。
  
  一応、事物(レース)は、外在的に、超越的であっても、プラグマティックに存在するとして、この場合、認識あるいは判断は、ステーキだけで成立するものではなく、また、いかにグルマンであろうと、粗食家であろうと、それを...続きを読む


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