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古代ローマ、ギリシャのよき時代の人間らしさを見直す・・
すみません・・こんな簡単な事ではないと思いますが、そんなに
ローマ、ギリシャは自由で人間らしさを謳歌できた時代だったのでしょうか?

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A 回答 (3件)

他の方々が書いてらっしゃるように本当は文芸「復興」ではないのですが、そういう形式というか捏造というか(もっとも捏造した意識があったかどうかはまた別)が行われたのは事実です。


ギリシアとローマの文化といっても数百年の歴史があり、ホメロスとヴェルギリウスを同日に論じることはできませんが、はっきりいえるのは古代ローマにせよ、ギリシアにせよ奴隷制の国家であり、「自由」であったのは奴隷以外の人間だけです。聖書のパウロの書簡の中にも(ローマ時代です)奴隷がでてきますし、エピクテトスは解放奴隷です。

で、中世ヨーロッパはゲルマン人というギリシアやローマにとっては外来の侵入者によって始まります。彼らがあまりに非文化的であったがゆえに、ローマの制度や文化の一部を利用せざるを得なかったこと、それゆえカール大帝の帝国は「ローマ帝国」を自称し、またキリスト教もいろいろ変形しつつもヨーロッパの宗教に変化していったわけですが、これに対しギリシア、というよりヘレニズム的ローマの文化を保持、「発展」させたのがビザンツ帝国であり、また独自の仕方でギリシア文化を継承、発展させまたオリジナルなものをも作り出したイスラム(というかペルシア)文化があります(アリストテレスやプラトンの哲学の影響、ギリシア数学の影響と天文学や方程式論などの発展)。

こうしたものを輸入ないし密輸入して、主に中世末期の都市文化として、発展したのがルネサンスということになります。
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1の方の回答が、正しいと思います。

暗黒の中世や、その中世からの解放という、一昔前の見方が誤りだということは、もう常識と言っていいでしょう。
補足すると、アラブ文化と、ビザンチン文化が融合した、シチリア王国の文化が、イタリア本土に与えた影響が大きいです。
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ルネッサンス(文芸復興)とは?



古代のローマやギリシャとは関係ない、
「現代ヨーロッパ人」(金髪碧眼、キリスト教)
の御先祖様が、
勝手に「文芸復興(ルネッサンス)」と銘打って、
(古代のローマ、ギリシャが)
あたかも「自分達の文化のルーツ」の様に、
歴史を捏造した事件。

実際の所、ルネッサンスは、
ローマ数字(I、II)がアラビア数字(1,2)に置き換えられたように、
イスラム文化圏からの流入も、大きかったが、
それはキリスト教徒としては認めたくないので、
ローマやギリシャの「文芸復興」とした。

その意義。
数学、科学の発達へと寄与する。
近代への大きな変化点となった。

学校の教科書通りの回答では無いと思いますが、
以上、参考までに。
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Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。


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