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聖書「ヨハネによる福音書」1-1にある、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」の「言(ことば)」の意味は、キリスト教ではどのように解釈されているのでしょうか?

神は「抽象概念」だという意味ですか、それとも、この世界は「言語」でできているという意味ですか、あるいは、全く違う解釈があるのでしょうか?

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A 回答 (8件)

ギリシャ語の Logos を「言(ことば)」と訳しているんでわかりにくいんでしょう。



ロゴスというのは「行いをともなう言葉」であり、「理性」であり、「宇宙の理法」のことでもあります。つまり「はじめにロゴスがあった」というのは、それまでの「カオス」の中から秩序が生じたことを意味し、「ロゴスは神とともにあった」とは、神の「言葉=行い」によって秩序が生じたことを示し、「ロゴスは神だった」とは、神が宇宙の原理であることを示している、と考えられます。

翻訳というものの限界を如実に示した例だと思いますね。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「言(ことば)」はロゴスだということでしたので、ロゴスについて以下のURLで調べてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4% …

「ゼノンをはじめとするストア派の哲学者は神が定めた世界の神的な論理をロゴスと呼び、ときにこれを神とも同一視した。」と書いてありますが、このようなロゴスは、「論理」であり「天の摂理」を連想させ、理性的な感じがします。よく怒る人格神とは程遠い定義のように思うのですが、キリスト教の中では、ロゴスとしての神と人格神をどのように統一させて解釈しているのでしょうか?

これは、個人様への補足ではなく、皆様への補足です。(話はそれますが、gooでは、皆様への補足が書けないのが、ちょっと困っています)

補足日時:2005/08/04 22:13
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まず皆さんのお礼は閉める時最後の人にありがとうございましたと書きましょう



神は抽象概念ではありません。世界を創造し、私たちを創造された神です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/05 21:11

素直にとるべきでしょうね。

神=言葉 だったということですね。モーゼもイエスも神の言葉を聞いて伝えた人なんですね。つまり、聖書には、預言者(神の言葉を預かる者)は存在したが神自身はいなかったということなんですね。だから神は言葉であったということでしょうね。イエス自身も我が父といっているだけですね。父の言葉は聞かせられないが、我が言葉、我が振る舞いこそが父のみわざなりといっているでしょう。イエスにもモーゼや他の預言者にも天からの言葉はあったわけですから全知全能の神はいるということですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/05 21:11

#5の方の言う「下手糞なギリシア語」というのは言い得て妙でして、実作者はアラム語話者だったと考えられています。

いわゆる「日本人英語」というのと同じで、アラム語の構造が書かれたギリシャ語の中に残っているわけです。これは聖書研究の足がかりの一つになっています。

キリスト教の神概念は旧約と新約でかなり違っていると思います。旧約の神がそれ以前のフェニキア文明の神々の特徴をいろいろ取り込んだ「混生的な」神なのに対し、新約では一神教として整合性を保てるように、いろいろと整理している感じがします。ミトラ教の教義を借りてきたという説もあるようです(ちょっとあやふや)。ですから旧約の神に古代神話によく登場するような「荒ぶる神」の側面があり、新約ではこれが「理性の神」に変化していることは、とくに不思議なことではないと思います。

教会がどう考えているのかというのは、ちょっとわかりません。信仰の世界は論理では割り切れないところがありますし。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/05 21:10

田川健三氏によると、ヨハネ文書のギリシア語は、インテリ外国人の書いた下手糞なギリシア語であり、新約文書の中でも一番下手糞だそうです。


gooを見ていると、時々、外国人の方が、わけのわからない日本語で、わけのわからない質問していることがありますが、あんな感じなのでしょう。
したがって、大まじめに考え込むことは無いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/04 22:36

これは、聖書の天地創造からですが、神が「光あれ」と言うと、光が誕生しました。



つまり、「光」ができる前に「光」という言葉が有ったという事を言っているのだと思います。

つまり、神が創造したものは、始めにその言葉(名前)があり、神がその名をよぶことによって、その物が創られたと解釈してよいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/04 22:19

 「言」は「神」と同一であり、「神」の属性であり、その意志です。


 岩波版新約聖書では、この部分を「初めに言がいた」と訳しています。つまり「言」を擬人化しています。
 それは、このあとの14節にある「言は肉(なる人)となって・・・」に続くからです。ここでいう「肉なる人」とはイエスです。すなわち、神の意志をイエスという人になり、彼の口から「神の言葉」が人々に伝えられるようになります。

参考:「聖書名言辞典」、「聖書の名句」

この回答への補足

> 「言」は「神」と同一であり、「神」の属性であり、その意志です。

宗教なので、しょうがないのでしょうが、これだけだと正直言って、何を言っているのか私には、さっぱりわかりませんでした。済みません。(^_^;

補足日時:2005/08/04 22:15
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現代のキリスト教諸派でどのように解釈されているのか は知りませんが、



宇宙人である神からのテレパシーを受けた(テレパシーを受けたことで言葉が聞こえた)(そこから、ヨハネならヨハネ自身の不思議な体験が始まった) という意味だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/04 22:14

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  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
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底の底から変えてしまうような、鮮烈で強力な力です。何よりも、
「我々の既成概念を根本から変えてしまうこと」を含意している
ことが、重要だと思います。胸躍る言葉でもありながら、危険と
隣り合わせのニュアンスも感じます。
政治であれ美術や建築であれ、ラディカリズムを標榜する思想は、
急激で落差の大きい変化を求めるでしょう。既成概念を覆すこと
が目的ですから、より戦闘的であり、挑戦的でもあります。

先進資本主義国では、社会が安定化し、規制のシステムが固定化
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現在、おそらく「ラディカルな」という形容詞をつけた場合に、
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(このような答えで質問者様の要望にあっているか疑問なのですが、
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「ラディカル」と聞いて私がイメージするのは、物事を根本的に、
底の底から変えてしまうような、鮮烈で強力な力です。何よりも、
「我々の既成概念を根本から変えてしまうこと」を含意している
ことが、重要だと思います。胸躍る言葉でもありながら、危険と
隣り合わせのニュアンスも感じます。
政治であれ美術や建築であれ、ラディカリズムを標榜する思想は、
急激で落差の大きい変化を求めるでしょう。既成概念を覆すこと
が目的ですから、より戦闘的であり、挑戦的でもあります。

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Q本能寺の変 信長の「是非も無し・・・」とはどんな意味?

本能寺の変で、謀反が明智だと知らされた信長は
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 「是非もなし」でも「是非に及ばず」でも同じなのですが、日本語としては「良し悪しを論じても意味が無い(実力行使しかない)」という意味です。

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Q旧約聖書の創世記はいつ頃に書かれたものですか?

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http://www.youtube.com/watch?v=demGXvUgT14&feature=related

長い動画の中で、謎解きの部分をピックアップしてみました。


イエスの後光、仏像の後光。 その意味がわかったと思います。
古代の太陽信仰ですね。

何故イエスはまた来るという話になったのか。
プラトン年です。

地球はいつも同じ方角を向いているのではなく、首振り運動をしており、地球からみると星座が移動してみえる。
長い年月かかって、黄道(地球から見える太陽の移動する軌跡)上にある星をグループ化して12の星座郡とした。
イエス(太陽)が、12使徒(12星座)と旅をしており、2万5千800年くらいかけて、またもとの位置に戻る。
実際は地球が首を一周振るのに2万5千800年くらいかかる。
だから次イエスの時代の象徴のうお座の方角を地球が向くのは約2万3千年後。

聖書に書いてあるでしょ?
弟子:
イエス:「この世の(この時代の)終わりはどうなるのでしょうか」 「水の瓶を持った男の屋敷に入る」

はい この世 つまりうお座の時代の次はみずがめ座の時代なので、「次はみずがめ座の時代です」って天文学的に地球がどっちの方角を指すか答えただけの話。
この世が終わるわけではなく、時計の針のように次の時代に想像上はいるだけの話。
ゆっくり動くので、引力によって地球の動きが急激におかしくなるってことはない。

それより太陽が盛んに燃えたり、沈静化したりするので、それによる気象の変動の方がきつい。
太陽が沈静化しているときは、それだけ地球に届く熱量が少なくなるので冷夏になるわけで、そうなると作物は取れず、それを食べていきてた動物・人間も食べ物が減るので飢餓が起こる。

古代の人は生命と太陽が密接な関係にあると知ってたので、太陽信仰ができたわけです。

太陽を擬人化して物語を作ったのがホルス。
天文学的な空の現象をホルスの生誕としたわけです。
ギリシャ神話だって、星座を擬人化して物語を作ってますよね。
実在の 人物 ではなく 星座を観察して、物語を書いたわけです、人間が。

記憶喪失になったというより、その知識を持つ図書館を閉鎖し、一般人がその知識を知ることのないようにキリスト教はしたわけです。
情報コントロールして、自分たちに都合のいいことだけ、信者に与えた。
「聖書だけ読めばいい」と。
長い間そういう情報操作がされたので、古代の人の天文観察が新約聖書だとは、ずっと後にならないと気づけなかった。

19世紀に粘土板が出たとき、もう オリジナルだと言い張れなくなった。
まさか 聖書の元ネタが今頃になって出てくるとは 思っていなかったと思う。

キリスト教会の主流となった派閥は、自分たちの都合が悪くなるようなものは燃やさせた。
証拠隠滅。 これで人々は気づくことが永久にできないと たかくくった。

悪いことはできないもので、何千年もたってでてきてしまった。

最初は楔形文字だったので、いったいなにが書かれているのかわからなかった。
突然解読可能になり解読したら、聖書の内容の元ネタだとわかった。

あらま・・・・

というわけで、何故粘土板に書いたのかという話になっており、私が聞いた情報だと、観劇のためにストーリーを粘土板に残して、後世の人が覚えて観劇を引き継げるようにってことだったのではないか だそうです。
いわゆる台本ですね。

農業を発明したことで、移動して食べ物を探さなくてよくなり、人々は食べものを探す時間が減り、観劇などを催して楽しむ余暇が増えたってわけですね。

農業を発明しなければ、いまだに 食べ物を探して人々は移動し続けていたと思います。
定住したことで、文化が花開き、文学ができたってわけです。

農業の発明で定住できて、食料が計画的に手に入るようになると、子供が死亡する確率が減り、女は授乳の間、次の子供を妊娠しないが、農業の発明で離乳が早くなり、次の子供をすぐ妊娠できるようになり、人口が急激に増えて、集団をまとめる共通了解である法律が必要になったってわけですね。

聖書の中に結構ハンムラビ法典からパクった というか 重なる部分ありますよ。

あっちこっちの文化をつぎはぎしたものが聖書。
だから、そのあっちこっちの文化がいつその物語を作ったのか ってことになるわけです。

http://www.youtube.com/watch?v=demGXvUgT14&feature=related

長い動画の中で、謎解きの部分をピックアップしてみました。


イエスの後光、仏像の後光。 その意味がわかったと思います。
古代の太陽信仰ですね。

何故イエスはまた来るという話になったのか。
プラトン年です。

地球はいつも同じ方角を向いているのではなく、首振り運動をしており、地球からみると星座が移動してみえる。
長い年月かかって、黄道(地球から見える太陽の移動する軌跡)上にある星をグループ化して12の星座郡とした。
イエス...続きを読む

Q卒業検定に落ちた人!

卒業検定に落ちた人!
(ペーパー試験じゃなくて、実技の方)

どの理由で落ちたか教えてください。
あと10日程で、卒業検定です。
参考にさせてください。

Aベストアンサー

一般的なことは,皆様が書かれている通りです
自分は一発合格でしたが
私の卒業した学校であった,変わったエピソードがあります
参考まで

交差点手前でで一台のトラックが止まっていたのですが
検定車5台の内,先頭の運転手が信号待ちと判断
トラックの後ろに停止,残り4台も同様に停止しました
ところが,トラックは信号待ちではなく
交差点近くの電話ボックスで電話する為に停車していただけだった
検定者は誰も気付かず教官に指摘された
ところが,車間距離が近すぎて,免許所持者なら切り返しで
抜けられるところ,未熟なため列から抜け出せず
全員が100点原点で不合格になった(実話ですよ)

ポイントは状況判断ミスと走行不能による検定中断になったため
一般的なことは皆様書かれているようなことで
おそらく,質問者様もある程度予測できていることも
あると思います
上のような,予測不可能な事態に巻き込まれたとき
如何に判断して抜け出せるかだと思います

運とか,こういう場面に出くわす確立とか
ありますが,平常,冷静を保つことが大事です!!

一般的なことは,皆様が書かれている通りです
自分は一発合格でしたが
私の卒業した学校であった,変わったエピソードがあります
参考まで

交差点手前でで一台のトラックが止まっていたのですが
検定車5台の内,先頭の運転手が信号待ちと判断
トラックの後ろに停止,残り4台も同様に停止しました
ところが,トラックは信号待ちではなく
交差点近くの電話ボックスで電話する為に停車していただけだった
検定者は誰も気付かず教官に指摘された
ところが,車間距離が近すぎて,免許所持者なら切り返し...続きを読む

Q「仏に逢うては仏を殺せ」の意味

「仏に逢うては仏を殺せ」というこの言葉を画家の岡本太郎さんの著書の中でみつけました。
大変ショックに思い、少し調べてみたところ、もとの文章は、臨済宗の開祖・臨済のことばで、
「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」
というのが全文のようです。

この文章、意味があまり理解できません。 自分なりに無理矢理解釈すると「既成の概念や権威にとらわれるな」という意味なのでしょうか? でも、それで「父母を殺せ」だと、家族までも否定したクメール・ルージュ的臭いがします(たぶん、私だけだと思いますが)。結局、あまりわかりません。

この言葉の正しい意味は、どのようなものなのでしょうか? また、手に入りやすい参考文献などありましたらおしえてください。 お願いします。

Aベストアンサー

この言葉は有名ですね。「殺仏殺祖」などとして広く使われる言葉ですが、その意義は、常に決まった枠にとらわれてしまう私たちの認識のあり方に禅的な警鐘を鳴らしたもの、と言えると思います。

私たちが物事を認識する時には、必ず分節化という作業が行われています。あるものを認識する時には、そのものを世界から切り出してこないといけないのです。
岡本太郎にならって絵画で言えば、図と地という一種の対立関係を設定することで初めて、「地に対するもの」としての図が認識されるわけです。同じように、善について考えることは悪を考えることと不可分ですし、美を論じることは醜を論じることに他なりません。

言いかえれば、我々の行う認識という作業は、そのままでは混沌である世界にかりそめの線を引いて、枠組みを与えるということに他ならないのです。我々人間が普通に生きていくうえでは、こういう二項対立を通じた認識を拒否することはほとんどできません。

実際に臨済の言葉のなかの「仏」という概念も、「衆生」つまり悟りを得ていない一般人との間に線を引いて生み出された概念です。悟りを求める僧侶にとってみれば、ひとまずこの「仏」はありがたい目標ですし、これがなければ修行もおぼつかない最重要の概念に違いありません。

けれども、特に大乗仏教では法界一如などといって、世界の全ての存在や現象に等しい価値があるのであって、人間が勝手に線を引いて区別する善悪や美醜、上下といった区分に価値を置かないのです。野に咲く名もなき一輪の雑草も、美しくあでやかな大輪の花も仏の世界にあっては優劣をつけられないものだし、世界をそのように見られる存在こそ真の仏である、とするのです。

従って、「仏を殺せ」というのは文字通り殺人を勧めるものではなくて、仏や衆生といった所詮はかりそめの区分にとらわれてはいけない、ということを強調したものなのです。そういう認識をすることが人間の常ではあるけれども、それを当り前と受け止めてはいけない、その認識そのものに安住することなく超える努力をすることこそが仏への道である、というのが臨済義玄の本意でしょう。

この言葉もそうですが、公案のように全く理論を外れていたり殊更に耳目を集めるような奇矯な言葉を弄するのは禅宗の特徴でもあります。少し難しくなるので詳しくは書きませんが、禅宗は、我々が当然だと思っている二項対立による世界把握が言語というものと密接に関わっていることに十分意識的だったので、言語による認識に疑問を起こさせるような言葉による指導を行ったのです。健康であることに意識を向けさせるために敢えて傷をつける指導を行ったようなものです。

「父母を殺す」という点は確かに心情のうえで引っかかりが大きいと思いますが、しかしこれも実際に殺すわけではありません(実際の「殺父母(=せつぶも)」は仏教ではもちろん大罪です)。言わんとするところは、法界一如の観点にたって血縁によって親・疎を分ける二項対立の生き方をやめよ、ということです。つまり、肉親を特別視することをやめ、父母から受けた恩愛を広く世界から受けたものと受けとめよ、という意味ですから、むしろ殺されるべきは自分の側の認識なのです。

臨済義玄から五代さかのぼる大鑑慧能(中国での禅宗の第六祖)はもともと薪を売って細々と老母を養っていたのですが、薪売りに訪れた町でふと金剛般若経の講義を耳にし、即座に出家してしまいます。今の感覚で言えば母を捨てたわけで誠に薄情なはなしですが、そこには仏教に対する揺るぎない信頼があったわけで、たとえ世間の価値観で不義理とされたとしても必ず自分の出家がより意味のある報恩になる、という確信があったのでしょう。この慧能の出家のエピソードは大変よく知られていましたから、臨済が「父母を殺す」と言った時にこれを踏まえていたことは間違いないでしょう。

曹洞宗の開祖である道元も、弟子から「出家は父母の供養をどのようにすべきか」と尋ねられた際、出家は父母からの恩を父母に限定せずに広く世間に返すことを心掛けるべきで、父母に限定した供養はするものでない、という意味の答えをしています。これなどは「父母を殺す」という臨済の言葉の意味をわかりやすく伝えるものだと思います。

この言葉は有名ですね。「殺仏殺祖」などとして広く使われる言葉ですが、その意義は、常に決まった枠にとらわれてしまう私たちの認識のあり方に禅的な警鐘を鳴らしたもの、と言えると思います。

私たちが物事を認識する時には、必ず分節化という作業が行われています。あるものを認識する時には、そのものを世界から切り出してこないといけないのです。
岡本太郎にならって絵画で言えば、図と地という一種の対立関係を設定することで初めて、「地に対するもの」としての図が認識されるわけです。同じように、...続きを読む

Q「プロデューサー」と「ディレクター」の違いについて

 テリー伊藤氏の或る本を読んでいたら、次の一節が出てきました。
  「テレビ業界にも、ディレクターとしてはダメだったけれどもプロデューサーとしては優秀だという人たちが少なからずいる」
 これってどういう意味なんでしょうか?
 プロデューサーは「企画する人」、ディレクターは「指示を出す人」だというのはわかるんですが、プロデューサーは自分の頭の中に企画のイメージやアイデアがあるということで、ディレクターの代わりにディレクションをすることはないんでしょうか?
 また、「プロデューサーとしてはダメだったけれどもディレクターとしては優秀」というのならなんとなくわかるんですが(自分で企画を立てられるほど発想が豊かでない、アイデアマンではないけど、他人に指示を出すのはうまい)、その逆ってどうも今ひとつイメージできません。
 テレビ業界に限らず、映画・アニメ・音楽などの業界での話として、どなたか説明してくださる方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。

まず、

>「プロデューサーとしてはダメだったけれどもディレクターとしては優秀」というのならなんとなくわかるんですが(自分で企画を立てられるほど発想が豊かでない、アイデアマンではないけど、他人に指示を出すのはうまい)

という認識が、理解を妨げている気がします^^;

ディレクターとは、No.3の回答者さんが仰る通り、演出を行なう者の事です。
演出とは頭の中の考えを表現する事ですから、それこそ『発想が豊か』かつ『他人に指示を出すのがうまい』事が求められます。

一方、「プロデューサー」が行なう事は、制作全般の運営・管理です。
企画立案、資金調達(企画売り込み営業等)、スタッフや出演者のキャスティング、スケジュール管理、予算管理、作品のクオリティー管理などなど。
従って、プロデューサーはこれら制作管理の立場から、場合によってはディレクションに口を出すこともあり、ポジションとしては紛れも無くディレクターの上司に当たります。

即ち、ディレクターは演出力のみ発揮すれば良いですが、
プロデューサーは制作の全責任を負う職務な訳です。
従って、これまで投稿された回答がプロデューサーを軽んじてるように思えるのが少し気になるところです。
とりわけ、企画を通す、とか予算を引っ張って来る、なんて事はどんな業務より困難なのは明らかですよね。

しかしながら、以上は理想であり建前です。
現状は演出力のないディレクターや何もやらないプロデューサーを大勢見てきました。
ですから、『プロデューサーは「企画する人」』というのは、本来は間違いではありませんが、自分で企画を起さない人も多数いますから、むしろプロデューサーに絶対必要な資質というわけではないのでしょう。
現にテリー氏の会社には構成作家を何人も抱えていて、プロデューサーが企画を立てたい時は彼等を自由に使える仕組みになっています。

「営業」も然りで、テレビ局等との関係によっては勝手に仕事が舞い込む場合もあったりして、自らの営業力を発揮しないプロデューサーも少なくありません。

では、テリー氏の言う優秀なプロデューサーとは何を指すのかと言うと、
『企画を“然るべき”作家に立てさせる』
『その企画を“然るべき”スポンサーやテレビ局に通して資金を調達する』
『企画を遂行できる“然るべき”スタッフや出演者をブッキングする』といった、
当該企画に必要な“然るべき”人物達を見極められるだけの十分な【人脈】と、
それらと折衝を行ない使いこなす【コミュニケーション能力】ではないでしょうか。

私が業界に入った当初、私の師匠から「ディレクターになれなくてもプロデューサーにはなれる」と教わりました。
その意図するところは、ADや制作進行、助監督など(現場によって呼び名や職務は様々ですが)下積み業務をこなしているうちに自ずと制作管理全般の知識は身に付き、加えて、多くの人々に出会い人脈も構築できる。だから仮に演出能力がない場合に備えて人望を磨いとけ、というものでした。
ちなみに、テリー氏と私の師匠は元同僚なので同じ教育を受けて同じ考えを持っていても不思議ではありませんし。

加えて、
他の方々も指摘してらっしゃる通り、ディレクター達は往々にしてコスト意識が薄く、
それに対してプロデューサーは「金がかかり過ぎ!」などと怒ったりぼやいたりするのが常ですが、ディレクターのアイデアが実現できるように立ち回りつつも、同等の効果が得られしかも安く上がるような提案を積極的に行なうようなアグレッシブな予算管理を行なう事なども良いプロデューサーの資質だと思います。
また、それをしないと商業映画のプロデューサーなら即失格でしょう。

それから、

>ディレクターとしてはダメだったけれどもプロデューサーとしては優秀

ご承知かも知れませんが、
プロデューサーになるには必ずディレクターを経るというわけではなく、ディレクターを目指して業界入りしても修行半ばでプロデューサーに目標を変える人や、最初からプロデューサーを目指して業界入りする人も大勢います。
要するに、ディレクターはプロデューサーへの通過点ではなく、
プロデューサーはディレクターの成り損ないでもないという事をご理解下さい。

こんばんは。

まず、

>「プロデューサーとしてはダメだったけれどもディレクターとしては優秀」というのならなんとなくわかるんですが(自分で企画を立てられるほど発想が豊かでない、アイデアマンではないけど、他人に指示を出すのはうまい)

という認識が、理解を妨げている気がします^^;

ディレクターとは、No.3の回答者さんが仰る通り、演出を行なう者の事です。
演出とは頭の中の考えを表現する事ですから、それこそ『発想が豊か』かつ『他人に指示を出すのがうまい』事が求められます。

一...続きを読む

Q黒檀(こくたん)て何の木ですか?

木刀に使われている黒檀(木刀の中で一番高価な木材)というのは、柿の木だと聞きましたが本当ですか?
違うとしたら教えて下さい。

Aベストアンサー

黒檀は、柿の木の仲間で、
南洋(主に東南アジア)が原産地の樹木です。
(干し柿とかの「柿」の木そのものではありません)

柿の木も硬いのですが、
黒檀はもっと硬いです。
ちなみに紫檀はマメノキの仲間です。

【黒檀】(エボニー)
http://www.fuchu.or.jp/~kagu/mokuzai/kokutan.htm

【紫檀】(ローズウッド)
http://www.fuchu.or.jp/~kagu/mokuzai/88.htm

ご参考になれば幸いです。

Q進化論VS創造論の決着は?

結局どうなんですか?一ヶ月前あたりにビートたけしさんとYOUさんが出ていた番組の中で、「木から下りたサルは二足歩行を始めさまざまな環境に行き進化を遂げ、今のヒトになっていった」(すごく略しました)というようなこと言っていたのですが、ということはヒトの祖先はサルだったということでよろしいのですか?

Aベストアンサー

進化論も、完璧ではなく穴だらけの理論ですが、地球上に生命が発生して人類になったという、人類が行き着いた唯一の科学的理論です。そのバリエーションはいくつかありますけど、どれも、決定的な理論確立には至ってません。

一方、創造論は「神が創った」で片つけてしまう、宗教上の理論というよりは、話であって、進化論の弱点や未完成な部分をつつくだけで、創造論として科学者を納得させる理論はその中には含まれてないといえます。

アメリカ(合衆国)のいくつかの州で、進化論と創造論の双方を教えるようになったのは、単にアメリカが、当時からのキリスト教的文化背景だけでなく、それ以上にそれだけ進化論自体も完成されていないとい発展途上の理論だということです。

それ以外の科学的理論は、ローマ法王庁のいう折衷理論以外ないということです。それすら、反対するガチガチのキリスト教徒もいます。

よって、日本では、特定の宗教の教義を教えることはできませんから、進化論だけを教えるという事になってしまいます。

特に日本の学生などからは、進化論にしてもビッグバンにしても、完璧な科学理論のような発言が随所に見られますが、科学を学べば学ぶほど、分からないことが出てきます。まして、人類がこの期間で森羅万象全てを極めたなんてのは、それこそ科学信仰です。それを謙虚に受け止め、さらに科学的姿勢を崩さずに追求するという姿勢は必要です。

蛇足ながら、宇宙人が人類を作った云々は、SFの世界で問題外です。

進化論も、完璧ではなく穴だらけの理論ですが、地球上に生命が発生して人類になったという、人類が行き着いた唯一の科学的理論です。そのバリエーションはいくつかありますけど、どれも、決定的な理論確立には至ってません。

一方、創造論は「神が創った」で片つけてしまう、宗教上の理論というよりは、話であって、進化論の弱点や未完成な部分をつつくだけで、創造論として科学者を納得させる理論はその中には含まれてないといえます。

アメリカ(合衆国)のいくつかの州で、進化論と創造論の双方を教える...続きを読む


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