痔になりやすい生活習慣とは?

江戸時代の公家というのはあまりドラマなどでも題材に取り上げられないのですが、特に女性はどのような姿をしていたかが気になります。
以前テレビドラマ「大奥」では、和宮や和宮の侍女たちは平安時代のままの十二単のような服装でしたが、結髪が普通になった時代でも公家の女性は垂髪だったのでしょうか。
また、小袖は公家の女性には着られなかったのでしょうか。そして袴ははいていたのでしょうか。
ちなみに↓のようなサイトも見つけました。
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/kosode/21.htm
若い公家の女性の服装は、大名の姫君とあまり変わらなかったのでしょうかね?

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A 回答 (4件)

お礼をありがとうございます。



> 時代劇などで農民の女性が結髪しているのは間違いなんですね。
うーん。
「間違い」と言われてしまうと悩んでしまうのですが…。
自分が書いた回答を後から読み直して、「『農民』とひとくちに言っても、名字帯刀を許された大名主や庄屋みたいな農民もいれば、水呑百姓のような農民もいるなぁ。」と考えました。
裕福な、農民といっても小作人に農作業をさせて、自ら農作業をしない(現代の)経営者のような農民の奥方ならば、髪を結う余裕もあっただろうし、その日の食べ物にも困るような百姓ならば、髪を結うような余裕は、時間的にもなかったのではないかな-と。

いろいろ調べているうちに、
> 農民等は「束髪」が「普通」
とも言い切れないのかなぁ、と感じました。
私は、「労働の邪魔になる髪を1まとめにして束ねる」ことの意味で「束髪」と書きましたが、それを「結髪」と説明してある文献やサイトもあったものですから。
maddy-kz23さんがおっしゃっている「結髪」が、特に『江戸時代の中期から後期に一種の芸術の域にまで達した結髪』のことではなくて、『働く時に邪魔な髪の毛を束ねておくという自然な形での結髪(この中には束髪も含まれる)』のことを言われているのでしたら、確かに「結髪が普通」ということになりますが、これは江戸時代に始まったことではないし…。

調べれば調べるほど、資料の少なさに驚かされます。
江戸時代って、現代から近いので衣装等は現存していても、写真がない時代ですから「どんな格好をしていたか。」は見ることができないんですよね。
「絵」などは、特定の地域の特定の階層の人間しか描かれていませんし。

> 公家の女性はやはり江戸時代を通じて下げ髪だったんでしょうか。
> つぶいち頭などは特別な例だったのでしょうかね。

こちらも、普段は下げ髪にしていて、行事ごとの時に「つぶいち(葵髱島田)」に結った-という可能性もありますし…。
京でも町方ですと、若い女性は島田髷を結っていたようですしね。
私自身、次から次へと疑問が沸いてきてしまいました(今度まとめて質問を出してみようかしら)。

いろいろ調べている間に、またまた、こんなサイトも見つけましたので、ご参考までに。
http://kouseimir.s97.xrea.com/yokocho/mc358/mc35 …
http://hana.merseine.nu/j/kamigata/kami_frame.htm
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/edokesy …
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/nendaik …
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この回答へのお礼

何だかすいませんねえ…。
好き勝手に質問ばかりしてしまって。
サイト教えていただきありがとうございます。
確かに庄屋のおかみさんと貧しいお百姓さんでは
髪型も違っていたでしょうね。
写真がないのでわからない部分が多いですよね。
教えていただいたサイトの中には、御所風の結髪も
あったようでちょっと驚きでした。
女官こそ垂髪のイメージが強いので。
思うに、時代劇のように同じような髪型ばかりではなかったのでしょうね。

お礼日時:2005/08/22 15:27

そうですね、公家の女性達と武家の女性達は


江戸時代においてはほとんど服装に変わりがなくなって
いきます。
これは、鎌倉時代・室町時代あたりから武家の
「小袖」文化が宮中に
入り込んで来た頃に端を発し
将軍・徳川秀忠の娘、東福門院和子が帝の后に
なったことでピークとなります。

公家と武家との間での結婚が盛んになることで
両方の文化(特に力のある武家方の文化が優位だったでしょうが)
が交流し始めるんですね。

それで宮中や公家社会では武家の小袖・打掛(公家方では「掻取」といいます)を
取り入れて、宮中では略礼装や日常着に用い、一般公家社会でも大体同様だったんでは
ないでしょうか? 掻取の様式(使う地紋様や色、模様の付け方や染模様のみか刺繍を入れるか)を変
えることで、
TPOを多少付けたようですが、武家方と違ってあくまで「略式」のものだったのでルールはおおざっぱ
だったようです。 

逆に武家の方は小袖や打掛のTPOや身分によるルールは細かく定まっていたようです。
そして、逆に公家風の伝統的装束の様式は将軍や大名の正室(公家や皇族出身が多い)の正装に採用さ
れ、
それが武家方の「権威付け」にも役だったようです。

掻取は、小袖の上に着流しで着ていましたが、宮中、特に皇族方には
小袖・掻取の上から伝統的な「長袴」を着る、なんてことも行われていたようです。(「着込み」)
帝側近の女官達は普段は「白小袖」に肩に紐を引っかけて着る長袴です。

そして、ちゃんとした儀式の時には「小袿に袴」とか「十二単」のような「伝統的装束」を着ました。

一方で一般の公家女性達がこうした伝統的な「公家装束」を着ることはたぶんほとんど
なかったと思います。あるとしたら、婚礼衣装くらいでしょうか・・?

和宮が家茂のもとに嫁入りしたとき、十二単を着ていて、家茂が束帯姿だったのは
たしかのようです。これは記録に残っています。
その後も和宮は「御所風」を通したそうですが、これがいわゆる「装束姿」だったのか
御所風の「掻取」に小袖、袴 という姿だったのかはどうやらわかっていないようです。


江戸時代の半ばくらいまでは少なくとも宮中の女性は垂髪でした。
垂らした髪に長いかもじをくっつけ、十二単を着る、というのが正装でした。(普段は白小袖に長袴)

ただし、帝の前を下がった後には小袖に結髪(垂髪をぐるぐる巻いたような素朴なもの)に
していたようです。江戸時代の後半くらいから、庶民の影響を受けてか??
日本髪のように横髪を張り出した、あの(お雛様で有名な)「大すべらかし」を
結い、これのバリエーションのような感じで「公家風の日本髪」もいろいろ出てきました。
「つぶいち島田」は公家の姫や宮中の若い女官見習いが結っていたそうです。
この頃にはおそらく公家階級でも頭を垂髪にすることはなかったのではないでしょうか。

長文失礼いたしました。


最後に参考になりそうな資料置かせて頂きますね・・・

ネットで
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_n …
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_n …
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_n …
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_n …
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_n …
つぶいち
http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post- …
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_n …
http://kimagurecp.kitunebi.com/komagaisameba/kus …
小袖について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A2%96# …
6.E5.B7.AE
公家小袖について
http://www.tuad.ac.jp/adm/arthistory/newpage_200 …

ビジュアル中心

日本の髪型―伝統の美 櫛まつり作品集 (文庫)
京都美容文化クラブ (編)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81 …

日本の女性風俗史 (紫紅社文庫) (文庫)
切畑 健 (著)  ←江戸時代の公家女性の雰囲気がわかります
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81 …

黒髪の文化史 (単行本)  ← 公家・御所風の髪型に詳しいです、おすすめです!
大原 梨恵子 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E9%BB%92%E9%AB%AA%E3%81 …

花洛(みやこ)のモード―きものの時代 (大型本)
京都国立博物館 (編集)  ←「公家好み」の小袖が出てきますよ^^
http://www.amazon.co.jp/%E8%8A%B1%E6%B4%9B-%E3%8 …

文章中心

服装の歴史 (中公文庫) (文庫)
高田 倭男 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%8D%E8%A3%85%E3%81 …

日本女性服飾史 (大型本)
井筒 雅風
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A5 …
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うーん。

懐かしい。
服飾史は、短大のゼミ担当教授の専門でした。(なので、一応「経験者」ということで。)

私は、TVドラマ「大奥」は、名前だけ歴史上の人物の名前を使っている「時代小説系のドラマ」だと思って見ていましたから…。(要するに時代考証がお粗末な、フィクション性の強い「ドラマ」と思っていたんです。)

いわゆる「十二単」は女房装束で、身分が下の者が上の人の御前に侍る時の「仕事着」の一種です。
ですから、和宮の侍女たちが十二単を着用する可能性はあっても、その主人である和宮が十二単を着用する可能性はありえません。
「源氏物語」でも六条院の女楽(若菜下)で「小袿着て羅の裳のはかなげなる引きかけてことさら卑下したれどけはひ思ひなしも心にくくあなづらはしからず」と、1人出自の劣る冬の御方(明石の上)が、他の女君に遠慮して「裳」を着用していたとあります。

宮廷、公卿の夫人の服装には晴の装束と褻(け)の装束があり、質問文中にあるページ(「風俗博物館」ですね)で紹介されているとおり、「公家の姫君が自家の儀礼に出る時の晴れ姿」ですから、儀式や特別な行事の際に着用した「晴の装束」です。
対して、褻(け)の装束というのは普段着です。

> 若い公家の女性の服装は、大名の姫君とあまり変わらなかったのでしょうかね?
江戸時代の公家は大変貧乏だったので(皇室の御料ですら3万石程度と小大名クラス)、生活のために内職をせざるを得なかったくらいですから…。
宮中女官の装束が「白小袖に緋袴」となったくらいですし、ましてや宮廷に出仕するわけでもない、内つ方である夫人や姫君が、大名の姫君のような豪華な衣装を着ることはできなかったと思います。
箔や縫取や刺繍にお金をかけるどころか、染すら充分にはできなかったのではないでしょうか。

ご存知かもしれませんが、こちらのサイトも、結構参考になりますのでご紹介させていただきます。
http://www.kariginu.jp/kikata/index.htm

> 結髪が普通になった時代

とありますが、何を以って「普通」とおっしゃっているのか理解しかねます。
結髪は、「江戸」という町では「普通」であったかもしれませんし、どちらかというと武家や町方での流行のような気がします。
同じ江戸時代であっても、農民等は「束髪」が「普通」でしょうし、公家社会では、下げ髪、垂髪が「普通」であったと思われます。
こちらのサイトなどは参考になるでしょうか?
http://www.geocities.jp/konta3737/hair3.html

尤も、大垂髪(おすべらかし)といわれる垂髪についても、「民族衣装文化普及協会」のサイトに、以下のとおり説明がされていました。

『垂髪は古代から現代までの基本の髪型であるが、大垂髪は、平安時代に始まり、室町時代、江戸時代へと三段階、三様の変化を遂げながら、現代に至っている。平安時代の垂髪は裾を引くほどに長いのが理想とされ、黒く艶があり、豊かなことが要求された。成人すると「鬢批ぎ(びんそぎ)」の儀式があり、頬にかかる一部の髪を目より30センチほど下で短く切る習慣があった。
室町時代は額を四角く出し、髢(かもじ)を繁いで、背中でいくつも結び目を作って垂らした。江戸時代になると、結髪式に鬢を張らせるので、後から見た形が杓子に似ている。この杓子の最も大きいのを「お大(おだい)」と称し、仙花紙を幾枚も張り重ねて堅くし、黒く塗って作った「つとうら」を用いて形を作る。次に二メートルに近い丸髢を髪上げの道具につないで、前髪の位置から後に垂らす。前髪は上げずに、垂らした髪は元結で四か所結ぶ。上から首の後の辺りで絵元結を結び切りに、二番目は少し下がった所に紅の水引きを片鉤(かぎ)に結び、三番目、四番目は共に「こびんさき」と言って、縦四つ織りにした白い紙を、いずれも片鉤に結ぶ。』

短大時代を懐かしみながら、回答をさせていただきました。
ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございます。
雅なお公家さんも、あまり豪奢な衣装は着れなかったんですね。
石高など見ると、天璋院の実家の今和泉家ですら、公家筆頭の近衛家よりも多くの石高をもっているぐらいですからね。
>同じ江戸時代であっても、農民等は「束髪」が「普通」でしょうし、公家社会では、下げ髪、垂髪が「普通」であったと思われます。
なるほど。じゃあ時代劇などで農民の女性が結髪しているのは間違いなんですね。
公家の女性はやはり江戸時代を通じて下げ髪だったんでしょうか。
つぶいち頭などは特別な例だったのでしょうかね。

お礼日時:2005/08/18 15:43

後宮勤めの女性と、奥方や姫君などとでは多少違うところもあったようですが、基本的には日常の服装は武家の女性とそれほど違ってはいなかったようです。


これは男性でも一緒で、朝廷へ出仕したときこそ古来からの奥ゆかしい衣装を身につけていましたが、日常の生活での服装は武士といっしょだったようです。
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この回答へのお礼

お礼遅れて申し訳ありません。
回答ありがとうございました。
なるほど、やはりあまり違いはなかったんですね。

お礼日時:2005/08/18 15:35

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江戸時代の武家の女性の装束ですが、庶民とはTVなどで異なるようです。ネットで画像を検索しているのですが中々、ヒットしません。
髪型や衣などについて詳しく解説されているサイトがあったら教えてください。髪形も武家は違うのですね。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBMQsAQwAA
島田髷の由来は、東海道島田宿の遊女が結ったのが名の起こりです。

衣服について。
武家も大商人たちもそうでしたが、女の元服19歳までは「振袖」で、結婚したり、元服を過ぎると「留袖」を着ました。
現代は、「留袖」と言うと「冠婚葬祭用」を言いますが、昔は、「振袖」に対して、袖が短い・・・という意味でした。
http://www.weblio.jp/content/%E7%95%99%E8%A2%96

また、一般的には「小袖(こそで)」といって、「留袖」よりは気軽な服装でした。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B0%8F%E8%A2%96&um=1&ie=UTF-8&ei=cE76SoXGOMuSkAW4vojDCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBwQsAQwAA

また、高貴な武家の奥方になると、その上に「打掛」を着ていました。
http://wedding-gyao.usen.com/glossary/word/006044002

この「打掛」も今では、結婚式の花嫁の衣装と思われがちですが、江戸時代は、身分の高い武家などでは一般的に羽織っていました。

写真を添付します。
解説には、
上流の女の装い
中央の武家の奥方は「打掛」(小袖の上に着る小袖)姿。
左右にいる祐筆と御側女中は半模様の小袖。
とあります。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=...続きを読む

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 おはようございます。

 江戸時代においては、天皇は政治的実権を奪われ、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかったようです。
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http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000100

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 あんまり知らんですが、お答えがほかにないようなので、たたき台として一言。
 武家諸法度に次の一項がありますように、幕府は大名間の勝手な婚姻による反幕府勢力の増大を警戒していますね。幕府は武家間の婚姻を、積極的に大名統制に利用していたと思います。
「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」
 神君家康公は豊臣時代に、同様の禁止令を勝手に破ったくせに、おかしいですね。
 公家は身分が高いだけで力もなく、無色透明に近いですから、公家の姫をもらうことについては、それほど警戒されないでしょう。
 由緒正しき家柄の大名は、その血統のよさを維持するためにも高位の公家から、そして出自の定かではない大名は当然貴種を好みますから、公家の血を入れたいということはあったと思います。
 江戸時代の大名の婚姻について、どんなルートでどうやって話が進んでいったのか詳しくは知りません。
 大名としては、自分で勝手に伝手を頼って話を進め、幕府に承認を求めてもダメと言われたら沽券にかかわる、また幕府にヘンな疑いをかけられても困るということで、頭から幕閣有力者にお願いした例が多いのじゃないでしょうか。それの方が後腐れがなく、地位保全のためにはよろしいかと存じます。
 以下は当方の勝手な想像ですが、頼まれた幕閣有力者は、この大名には大名統制上からいって、特にどこかの大名の姫をあてがう必要がないと判断した場合は、自分の家来に対し「適当な公家の姫を探せ」と命じます。
 命ぜられた家来はその大名家の家来を通じて、公家の姫でいいかと大名の内意を伺い、そして朝廷と付き合いのある高家などに周旋を依頼します。そして高家は朝廷の武家伝奏に適当な公家の姫君の紹介を頼む・・・・と、こんなように話が進んで行ったんじゃないかと想像してみましたが、どうでしょうか。
 

 あんまり知らんですが、お答えがほかにないようなので、たたき台として一言。
 武家諸法度に次の一項がありますように、幕府は大名間の勝手な婚姻による反幕府勢力の増大を警戒していますね。幕府は武家間の婚姻を、積極的に大名統制に利用していたと思います。
「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」
 神君家康公は豊臣時代に、同様の禁止令を勝手に破ったくせに、おかしいですね。
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Qお公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住

お公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住の四条家や京都在住の冷泉家は裕福そうですが、旧五摂家や他の旧公家はどうでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

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私の知人は藤原北家隆家流の堂上家で、ご本家は明治維新後は子爵でしたが、曾祖父の代で傍流になり、祖父が変な修験道に凝って土地を切り売りして没落、父親はそれでも一流企業の役員として悠々自適の生活でしたが、子ども(私の知人ですけど)の代で相続争いで残った資産も散逸し、現在は何とか暮らしているという状況です。

別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

両方ともご本家ではなく、傍流ですけど、ご本家は神社関係の仕事をしています。

Q平安時代の一般人について

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったのか。
  中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。

2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。

3.一般人と貴族が交流することはあったのか。
  貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。
  よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。

4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。

5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。

6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。

質問が多すぎてすみません。
レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、
どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったの...続きを読む

Aベストアンサー

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
あったと思います。直感的にも、今ほど自由さはないにせよ、今も昔も、男女の仲が身分で隔てられるとは思われません。
たとえば、源氏物語の夕顔は貴族とはいえません。通っていた愛人の家の隣に、たまたまあったあばら家に住んでいただけです(実は友人のもと愛人だったわけですが)。逆に貴族の女に下衆の男を紹介する、ということもあったようです。こんなことの手引をやっていたのが、前述の「仲人」「仲媒」といわれる人達(主に女性)だったわけです。源氏物語や伊勢物語でも明示はされていませんが、たくさん出てくる仲介している女のなかには、職にしていたものも含まれていると思います。下女のサイドビジネスでもあったかもしれません。

4.
没落貴族もたくさんいましたし、そのひとたちの影響うけたりして、下々の方へも少しは広まっていたと思います。

5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
年貢の取立てよりも、自然との闘いと村・部落クラスの行政官の不法徴収・不法雑役などが厳しかったと思います。年貢は貨幣でもありませんし、農民は米だけしか作らなかったわけではなく、実際は野菜や雑穀、油、織物などで自足したり商売していたりして、それほど苦しくはなかったと思います。生活が破綻してしまうくらい苦しくなる原因の多くは自然だったでしょうね。

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは...続きを読む

Q徳川将軍の正妻は子を生んでいないのか?京都の女は身分を鼻にかけ嫌われる?

1.徳川将軍の正妻は、大概、、大大名の娘か、藤原家か内親王/女王ですが、なぜ一人も(女子すらも)子どもを産んでないのですか?子どもを産んで後継者とすれば、京と将軍家の結びつきは強固なものになったはずなのに。
そういった正妻は、一人の女性として悲しくないですか?

2、よくドラマや小説なので、公家や内親王出身の京都の妻は、「プライド高く、身分を鼻にかけ、愛嬌がなく、ツンツンとしていて夫から愛されない女」として描かれていますが、、、本当でしょうか?

Aベストアンサー

こんばんわ。
NO3.です。

>>それならば、平安、鎌倉、室町時代の天皇家や公家に嫁いだ公家や皇家の女性たちも同様に体が弱かった(更にこの時代のほうが食料事情がもっと悪かったのでは)ということになりますが、、、平安・鎌倉・室町時代には弱そうな姫君からも子どもがちゃんと生まれて、家系を維持できているのは、なんででしょうか。道長の娘たちも男子をちゃんと産んでいますし。。

中々「するどい」ところに気付かれましたね。
平安、鎌倉、室町時代は、「幕府」は開かれていますが、朝廷を中心とした、朝廷を「敬う(うやまう)」政治体制で、「荘園」なども持っていましたので、「朝廷」や「公家」もまあまあ「裕福」でした。従って、「食事」なども、かなり、「贅沢」を極めています。
やがて、室町幕府の15代足利義昭あたりから、「武士」が世を動かすようになりました。もちろん、それ以前にも「平氏」なども「武士」ですが、「朝廷」にとりいっての天下でした。また、「足利氏」や「源氏」なども武士ではありますが、朝廷を大いに「守り立てて」の政(まつりごと)でした。
しかし、信長はご存知の通り、朝廷に頼ることをしませんでした。自らの力で、逆に、朝廷を動かそうとしていますよね。
そこで、朝廷は「官位」の「大安売り」をして生活費を賄っています。
例えば、「左京太夫(さきょうだいぶ、または、さきょうだゆう)の職は、京都の東側を統括して、司法、行政、警察権を司る役目ですが、本来は、「四職家」と呼ばれる「山名氏」「赤松氏」「一色氏」「京極氏」だけに代々継がせていましたが、多額の献金により、「大内氏」がその「職」を手に入れたことで、東北の「伊達氏」も「それでは、わしも・・・」と、「献金」と引き換えに「左京太夫」に任じられました。となると、「我も、我も」と、地方の中小大名たちも「真似」をして、実態としては、京都で活動することなく、「官職名」だけを取得するようになりました。こうした「献金」で、朝廷や公家衆は「生き延びて?」きました。
やがて、秀吉の時代になると、秀吉の「関白職」を得るため莫大な「献金」をして、再び、朝廷や公家衆は「豊か」になりました。
まあ、この頃あたりまでは、公家の姫君も「健康体」だったと思います。
次に、秀吉の後の徳川幕府になると、再び、朝廷や公家衆に対する「献金」がなくなり、ただ一つの拠り所としては、将軍家が公家の様式を取り入れたい、と、いうことで、公家の姫君を将軍家に嫁がせることで、「引き換えに」公家への「献金」がありました。将軍家と「親戚」になった公家は、まあ、そこそこに生活はできましたが、他の公家衆はというと「貧乏公家」と呼ばれ、住居の壁が壊れたり、屋根から雨漏りがしても「修繕費」さえ支払えないありさまでした。
朝廷は、と、言うと、やはり「左京太夫」などの「官職」を切り売りしての存続でした。
江戸時代は、「朝廷」や「公家衆」は大変な「貧乏」でした。
従って、姫君が将軍家や大名家に嫁ついでも、立派な「男子」を産むことができなかったのでしょう。

>>歴代の徳川将軍の正妻は子なし、というのは、単純に、将軍のお渡りが無かった、少なかったからではないでしょうか

それは言えますね。特に、元禄時代(1688~)あたりから、早くも、将軍家にしても大名家にしても、公家の姫君は「権威付け」であって、「徳川実記」などにも書かれていますが、丸顔で腰の座った「健康美人」を求めるようになり、そうした「側室」に子どもを産ませる傾向が強くなったとありますね。

余談ですが、あなたの「歴史感」は「素晴らしい!!」。
「一般的な」「常識的な」回答ではなく、その「奥」まで知りたい、と、いう姿勢には、こちらも、「覚悟して」答えなければならない、と、思っています。

こんばんわ。
NO3.です。

>>それならば、平安、鎌倉、室町時代の天皇家や公家に嫁いだ公家や皇家の女性たちも同様に体が弱かった(更にこの時代のほうが食料事情がもっと悪かったのでは)ということになりますが、、、平安・鎌倉・室町時代には弱そうな姫君からも子どもがちゃんと生まれて、家系を維持できているのは、なんででしょうか。道長の娘たちも男子をちゃんと産んでいますし。。

中々「するどい」ところに気付かれましたね。
平安、鎌倉、室町時代は、「幕府」は開かれていますが、朝廷を...続きを読む

Q公家、実際の呼称について

武家ではなく、公家の世界での敬称・呼称について教えてください。

公家ではその家の長を殿様とか、その家の長男や次男を若さま、
のように呼びますか?

また、武家ではお姫様の読みが、将軍家とその他の家では違うそうですが、
公家のお姫さまは、なんと呼ばれていたのでしょうか?

※よく、ひいさんとかひい様という呼び方を聞きますが、
これは関東でもお嬢様、のような感じで使われていたようですね。

Aベストアンサー

例えば、「レファレンス協同データベース>レファレンス事例詳細」では、
「江戸時代に公家・公卿が使用していた言語(特に口語)に関する資料はあるか。」の
質問に対しては、下記URLのとおり
「御所言葉(御所詞、女房詞とも。)に関する資料はいくつかあるが、
江戸時代の公家・公卿の使用していた言葉(口語)について
まとめられた資料は見つからなかった。」とあります。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000021684

そこで、ネット限定ではありますが、
上記URLの参考資料を手懸かりに少し調べてみますと、

〇「門跡の言語生活からみた女房詞の研究(I):御所ことばを訪ねて/井之口有一・堀井令以知」
『西京大學學術報告. 人文 9/京都府立大学/1957-11-15』(115-84頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000412544
※要注意、前後逆順※<32/32→1/32>
<6/32>(110頁)&<5/32>(111頁)
『公家言葉集存』
(一)敬称(二)人称 公家衆の自称及その家中よりの称呼
(三)小児語 敬称
の「1~64」の語などが見出せます。

<32/32>(84頁)~<30/32>(86頁)の冒頭文からは近世から引き続き使用されていたとの
様子も伺えますが、明確ではありません。

続いて、下記URLでは、
「ここに収めた語彙は尼門跡で現用されている御所ことばを、
尼門跡の言語生活の録音や方言調査表などによって調査するとともに、
従来の女房詞文献所収のものを広く集成したものである。」とあって、
近世を含む情報ではあるようです。

〇「<資料>御所ことば語彙の調査研究:続編,食物を除く/井之口有一・中井和子・堀井令以知」
『京都府立大學學術報告. 人文 15/1963-11-25』(52-22頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000057145
※要注意、前後逆順※<31/31→1/31>
<20/31>(33頁)
V 人倫・官職
914/うえさま/上様。天皇
915/うもじ/お内儀様。妻の敬称。
[915-2/おおもじ/915-3/おかもじ/916/おまえさま/917/かかさま/918/かもじ/]
919/おうらさん/お裏様。武家から降嫁の室、清家以上で用いる。
920/れんちゅうさん(御簾中様)
921/おかみさん(御督様)/一般公家の家庭で用いる。
922/おおごっさん/大御所様。摂家・清家・大臣家以上のご隠居
923/おおじご/領主殿。先祖。女または子供の言

<19/31>(34頁)
930/おおとのさん/大殿様。諸家殿上家の主人のご隠居
931/おおみやさん/大宮様。皇太后宮。
932/おかたさん/お方様。方領米を拝受する公家の息
933/おかた(お方)
934/おかみ/お上。天皇
[935/きんちゅうさん(禁中様)/937/しゅしょう(主上)/938/とうぎん(当今)]
938-2/おかみがた/宮様方
941/おこたち/子供たち
[942/おさない(子供)/943/こたち/944/とりとり/945/わかご]
946/おごりょう/女。御御料は御御料人の略
949/おそもじさま/「あなた」の敬称。「おまえさま」「そなたさま」より
身分の低い人にいう。なお書くときは「おそもじさま」。
950/おたたさん/御多々様。宮中・宮家・摂家・精華・大臣家で、
母君をいう小児語
/おたあさん/「おたあさん」諸家・堂上家・賀茂の社家で使用する小児語。

<18/31>(35頁)
962/おちごさん/諸家・諸上家の子息
966/おもうさん/父。宮中・宮家・摂家・精華・大臣家で父を称する小児語。御申様。御孟様。
967/おでえさん(お出居様)/諸家・堂上家で父を称する
宮廷では「サン」、武家では「サマ」を用いた
969/きみさん/君様。皇太子妃。皇族の妃、宮様からご降嫁の室
[970/みやすどころさん(御息所様)]
971/~きみさん/皇族の妃殿下または摂家・清家の子息及び子女。
975/ごしょさま/御所様。天皇・上皇・法皇をはじめ、宮門跡にもいう。
なお、摂家・清家のあるじにも用いることがある。
[976/ごっさん(御所様)/977/いんごしょさま(院御所様)]

<17/31>(36頁)
997/(だい)さま/(大聖寺)様。頭文字だけをとり後を省略する呼び方が、
公家社会ではよく用いられる。
1001/とおさん/諸家・堂上家の子息・子女。特に父母から子を呼ぶ時に用いる。
1002/とのさん/殿様。諸家・堂上家の主人。
1007/はるのみやさん/春宮様。皇太子
1008/ひもじ/姫
[1009/おひもじ/1010/ひめ/1011/ひめご/1012/むらさき/
1013/~ひめさん(諸家・堂上家の子女)]

<16/31>(37頁)
1106/~まるさん/丸様。諸家・堂上家の子息の元服までの呼方
1019/みだいのかた/御台の方。貴人の妻の敬称。
1025/わかごっさん/若御所様。摂家・清家・大臣家以上の若主人
[1026/わかとのさん/若殿様/1029/わかさん/若様。諸家・堂上家の子息]

以上 「女房詞」の断片情報に過ぎませんが

少しでも 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

例えば、「レファレンス協同データベース>レファレンス事例詳細」では、
「江戸時代に公家・公卿が使用していた言語(特に口語)に関する資料はあるか。」の
質問に対しては、下記URLのとおり
「御所言葉(御所詞、女房詞とも。)に関する資料はいくつかあるが、
江戸時代の公家・公卿の使用していた言葉(口語)について
まとめられた資料は見つからなかった。」とあります。
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000021684

そこで、ネット限定ではありますが、
上記URLの参考資料を手懸...続きを読む


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