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こんにちは。スパルタの奴隷制度について質問です。
 スパルタは国有奴隷で、大半が奴隷ですよね??それでリュクルゴスの制度があることは知っているのですが。

 スパルタの奴隷制度は国家のしくみとどのような関わりがあるのでしょうか?そもそもスパルタの奴隷制度ってどのようなものなのですか?(上記に記入した感じで認識してよろしいのでしょうか?)
なるべく分かりやすく間接にお願いします★

A 回答 (1件)

スパルタ市民は他の場所からきて、原住民を征服した征服民なので、奴隷が全ての生産活動を請け負い、市民が行うのは政治と軍事だけ、と言っても過言ではない状態でした。

というか、奴隷の反乱を抑えるために市民全員が兵役遂行者となっています。

奴隷も2段階あって、幾ばくかの自由があった「ペリオイコイ」と、完全な奴隷である「ヘロット(ヘイロタイ)」に分かれています。

いくつか参考資料を以下に示します:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91% …
http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu05.html
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Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Q古代ギリシャの奴隷制の形態

古代ギリシャでは、多くの奴隷を使っていた。買い物は女奴隷にさせ、子供の養育について家庭教師的な奴隷もいたという。アテネ市内などを自由に行動していることから、逃亡するとかのおそれはなかったのだろうか。彼らが主に奴隷として仕えている(拘束される)のはなぜだろうか。これはローマ時代も同じである。報償として、身分解放の可能性があったのだろうか? 地中海沿岸各地からの賃金労働者的に考えていいのだろうか。
近代のアフリカの黒人をUSAで酷使したのとは違った奴隷形態に思われる。その違いについて教えてほしい。

Aベストアンサー

アメリカの奴隷制度は、歴史的に見まして、かなり異質なもので、むしろ例外的なものです。
一般的には、奴隷の才能を金で買うというスタイルが多く、才能のある奴隷は、非常に高価で取引されました。
ギリシャの奴隷は、主に周辺の蛮族や戦争捕虜からなりましたが、才能を認められたり、才能が育ってくれば、かなり良い待遇を与えられました。
場合によっては、一般市民以上の生活が保障され、そのうえ軍役も無いという待遇でした。
また、イスラム圏においては、出世するためには、どれだけ権力か財力のある人の奴隷になるかが勝負であったため、自ら奴隷となる人もいました。

高価な奴隷を購入し、逃げられたり、反抗されたり、病気になられたりしますと、買主は、大損ですから、それなりの奴隷には、それなりの対応をしていました。
しかし、なんの取り得も無い奴隷の場合、ガレー船のこぎ手として、一生を終える人も沢山いました。


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