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 地球は、極半径6350キロほどの球形をしているそうです。さて、天動説が確立される過程は、科学史の中でも一大トピックを提供してくれますが、私たちの住む大地の形が実は球形であるなどという、感覚的に抵抗のあることを、どうやって受け入れてきたのか、はっきりはしていないと感じます。
 古代エジプトでは球形であることを前提に測量が行われたらしいですが、エラトステネスはなぜそれを知ったのかなにも記述がないように思えます。西へ西へと航海して同じ場所へたどり着いたというのは、厳密に球形の証明にならないし、第一コロンブスは地球を一周などしていないのではと思います。月の形の変化もそうです。
 
 たぶん私が知らないだけだと思うのですが、天文認識の第一歩であるべきこの概念が、科学史の中でどのように観測、実験され、そして確立されたのかご存じの方がいらっしゃいましたら、とろしくお教え下さい。

A 回答 (3件)

 


  まず、何を問題にされたいのかがよく分からないと記します。例えば、地球は「球形」だと言っていますが、地球は球ではありません。表面の起伏を無視しても、「回転楕円体」です。回転楕円体だということは、貴方ほどの質問をなさる方であるなら、よく分かっておられることでしょう。なのに何故、「球体」と言われるのですか? ここに一つの答えというか、考え方のヒントがあるでしょう。
 
  物理学の常識、力学における回転運動の場合に発生する力のありようということから考えれば、そもそも「球体」だと考えるのが、いかにもおかしいことなのに、なお、球体と貴方は云っておられるのです。
 
  また、天動説・地動説についてなら、高校程度の力学でも、地球が太陽の周りを回っているのではなく、(二体問題としてモデル化すると)太陽と地球は、共通重心というか、運動の相対的不動点を一つの焦点とする、楕円軌道を、相互的に運動し合っているのであって、地球の方が一見、太陽のまわりを回っているように思える運動が見かけ上大きいだけで、実は、太陽も地球のまわりを回っているというのが、ニュートンの万有引力の法則や、力学の法則から出てくる答えで、地動説が正しいなどとは言えません。太陽と地球、またその他の惑星なども含む太陽系も、銀河重力場の仮想天球面に対し、銀河中心をほぼ焦点とする、一種の巨大な回転運動を行っていて、「天」が固定しているとは、何のことかというのは、一般相対論での考察で、重力場が相互に織りなす、仮想静止場に対し、諸天体は運動していると、或る系からは言えるというようなことのはずです。
 
  にも拘わらず、無知な人ならともかく、こういうエラトステネスの実験は確証がないとかあるとか、そこまでの理屈を言える人が、こういう現代の科学的知見について無視を行い、「天動説」だなどと、単純なことを、この現代にあって言うのか、です。天動説も、ガリレオが主張した意味でなら、やはり、間違っていたのです。
 
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  地球が何故球体と考えられたかと言うのは、それは、科学にはきわめて一般的な、「モデル化」という現象の了解方法、説明方法の原理に準拠して、そのように考えたというのが妥当でしょう。例えば、地球上に、どこにも、天に向けて重力場が向いていない場所などないと、現代でも、誠実な科学的態度であれば、断言できないはずです。そのような場所があるかも知れないが、目下の観察では、見いだされていない、或いはそういう場所があると、現代の力学や運動や重力の理論からして、当然、これこれのことが観測されるはずであるが、それは観測されていないというのは、現代の科学の力学・重力場等に関する理論モデルを妥当とした場合の考えです。あるいはそうではないのかも知れない。第五・第六の力が実は働いていて、違った物理的事態になっているのかも知れないが、観察方法を指定するモデル理論が目下ないので、現代のモデル理論における、反証可能性を、現代の理論は、観察結果について満たしているというのが、科学の考え方でしょう。
 
  地球が球形であるというのは、仮説モデルとして構想され、そのように考えると、色々な現象がうまく説明できるという古代エジプトや古代ギリシアの実験的観察者・世界把握の理論家たちの答えだったのでしょう。実在のありようと、思考のモデル把握は、どこまでが一致するのか、というのは哲学的問題となり、カントの「もの自体」は、認識できない、しかし想定はできるという思索によって、或る見通しが出ているでしょう。
 
  地球が球体であるとモデル化した理由は、恐らく、複数の色々な地球や天体の観察事実から、地球は球体であるのが「自然だ」、「球体でなければならない」という理念的思考から出てきたものだと思います。
 
  月が、球体であるというのは、月の明るい面と暗い面のあいだの境界線の形状と、その変化を観察していると、こういう境界線の形が出てきて、こういう変化をするのは、球体に光があたって、影の部分と光の部分ができているのだろうと考えるのが自然で、こうして、月はおそらく球体だという考えが出てきます。(月の明るい面は、太陽に照らされた結果だというのは、太陽の天球における位置と、月の位置の関係を考え、地上で、ある光源に照らされた物体に、どういう影ができるのかという観察からの類推で、まず、間違いないだろうというモデルができます。無論、別のモデルを立てることもできますが、それはそれで構わないのです。現象を、それぞれの文化における判断基準で、「説明できている」という判断が行えればです。
 
  月が半球形で、90%ほどが見えない裏側も、おそらく半球形と考えた方が自然だという考えから、月は、球だというモデルができるでしょう。また、これと同じ類推で、太陽も球だという考え・モデル化が成立するでしょう。また、太陽は、天球を昼間、大きな円弧を描いて運動している。夜のあいだはどうなっているのかということについても、西の空に沈んだ後、船に乗って、地球「平面」の裏側を航海するのだと考えてもよいでしょうが、地球「平面」の裏側でも、やはり、大きな円弧を描いて運動しているのではないか、と考えるのが、自然に思える人もいるでしょう。こうすると、月は球体、太陽も球体、太陽の運動は、地球「平面」をぐるりと囲む大きな円の軌道運動だというモデルができると、平面と見える地球も、実は球体ではないのかという考えが出てきて、球体だと考えると、色々と納得の行く観察事実が色々あるということが分かるでしょうし、月、太陽、地球、太陽の運動のありかたなどについての、こういうモデルで考えると、例えば、日蝕の予言ができると言うことから、どうも、地球球体モデルは妥当なように思えるという考えになるでしょう。
 
  他の文化や世界の他の天体観察者や思索者は、別のもっともな説明のつくモデルを考えたのかも知れません。しかし、モデルで現象を説明するという方法を使って、世界を把握し、従来のモデルでは、どうもうまく行かない観察事実が見つかった時、モデルに修正を加え(例えば、太陽や惑星の見かけの運動の気まぐれさを説明するため古代天動説でも、小周天円を使って、かなり複雑な太陽系のモデルを造っていて、この理論の予言値は、実は、コペルニクスなどが提唱したモデルよりも、観察結果に合っていた・精度が高かったという事実もあります。
 
  しかし、自然現象の説明には、よりシンプルなモデルが望ましいという考えもあり(例えば、天体が球だというのは、球は、「完全な立体」の形状で、神的ヌースの場として、天体や、天空は、この理想形状である「球」こそが相応しいという、一種の宗教的信念もあって、モデル化を納得したということもあるでしょう)、小周天円を使った、修正プトレマイオス・モデルより、ガリレオのモデルの方が、よりシンプルで、「完全なる神が造った世界」のモデルに相応しいという考え方もあったのです。
 
  こうして、近代・現代に至り、地球は球体、正確には回転楕円体だということが、モデルとして、非常に高度な妥当性を持つことが確認され、そうではない、というモデルの方には、観察事実を説明するに、現代のモデルよりも、不備なところが多すぎるということで、現代の科学・天文学では、地球は球体・回転楕円体だということが確認されていると言うことになります。そして、この現代の地球の形状についての考え方から見て、古代エジプト人や古代ギリシア人のモデルや、その観察のための実験や、その説明方法が、実に妥当であると、いまになって確認できるということです。インドの象などの上に平面の大地が乗っているモデルなどは、現代の科学知見、観察を説明する理論からすると、現象を説明する、よいモデルではないということで、現代、科学によって却下されているということです。
 
  人間は普遍的真理を知る訳ではないのであり、観察現象の説明の整合性が、科学理論の妥当性を保証しているのであって、理論では説明できない、または別の理論が、より妥当な説明を与え、より優れたモデルであることが確認できれば、科学のモデルはそちらに切り替わるのです。マックス・プランクは、古典的な科学者で、「常識的に」、エネルギーは連続的に存在するものだと信じていたのでしょうが、しかし、黒体輻射の現象を説明するためには、エネルギーが連続スペクトルではなく、離散的で、かつ要素的であると考えた方が、観察事実をうまく説明できると言うことに気づき、エネルギーの量子仮説を立てざるを得なかったのです。
 
  普遍的な、究極の真理あるいは、世界についての究極理論など、科学は主張していないでしょう。観察事実に謙虚であれ、というのが、カール・セーガンの主張したことでもあるはずです。科学はいつでも、自己を疑う準備ができている。絶え間なく吟味されているなかでこそ、科学のモデルは意味を主張できるということでしょう。
 
  古代エジプト・古代ギリシアの地球の形態についての考えは、モデルであり、理念であった面もあるが、それは、当時も、観察現象をよく説明したし、歴史的な現代の知見からは、彼等の考えが、正しかったということでしょう。(一見正しいと思えたモデル仮説が、後に妥当性を失うという例は無数にあり、例えば、ニュートンの宇宙像は、相対性理論と量子力学によって、妥当性を失ったのですが、近似モデルとしては、なお高度に有効で、或る範囲のことには、このモデルで十分精密な結果がでるというので、なお価値があるのです。それに対し、一世を風靡したピルトダウン猿人は、猿人化石そのものが捏造だという事実が暴露され、この猿人の存在を前提とした、科学理論は、すべて、有効性が疑わしくなったということもあるのです)。
   
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この回答へのお礼

 まじめにお答えいただいてありがとうございました。質問の天動説の下りは単なる間違いですのでご容赦下さい。また、形についてのご指摘は言われるとおりです。球だの円だの直線だの観念的な図形は人間の頭の中にしかありません。極半径約6350Km赤道半径6370Kmの楕円球体を便宜上、球形と表現したまでのこととご理解いただければ幸いです。地球の形は自転や公転による遠心力や潮夕力、再差運動による加速度、地球内部からの熱移動の影響、他の天体からの直接的影響あるいは重力的影響などを受けた、ある次元のフラクタル図形の地形に覆われている、比重約5.5の、短期間でみれば剛体であると言わなければならないでしょう。ラプラス風に言えば、ひとつひとつの要素を数値化して計算すれば具体化できるのでしょうが、どんどん掘り下げていくと、最後はカオス(複雑系)の世界があんぐりと口を開けて待っているのかもしれません。人間の天体認識は地球が丸いことからはじまったのでなく、地動説が確立する中で、さまざまな事実認識が平行して確立していったと考えるようにします。

 本題に戻りますが、ある理論について、おおむね、こうことにしておけば矛盾はおきない、うまくそこから先の理屈を説明できるというモデルを採用し、その後の観測や実験にによってその精度を高めていく、あるいはモデルそのものを修正していくというフィードバックの繰り返しにより、人間は真理に近づいてきた、ということなのでしょうか。また、人間の感覚などによって直接真理を知ったわけではない、それに目の前にあるのは真理ですらなく、単なる到達点にすぎないということですね。
 たとえばビッグバン理論は、言葉としてはいまや万人が知る理論ですが、ダークマターとされる物質の観測結果いかんによってはおおもとから否定される可能性があると聞いたことがあります。

 確かに、この世界に理念などという言葉を持ち出すととたんに話がうさんくさくなります。ピルトダウン人事件の背景には、ダーウィン進化論を快く思っていなかった、当時のヨーロッパの学会の姿勢があったとされますが、まさしくそのような「理念」(人間の先祖がみにくい生き物であろうはずがないというもの)があったのだろうと推測します。(日本でも似たような事件はありましたが、藤村某が作り上げたかった「事実」とは最終的になんだったのか、その心のうちにおおいに興味があります。)
 
 よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2001/10/24 14:58

正確な出典を失念しましたが、アリストテレスは月食のその影が


円形であることから地球は球体であるとした、
という話を聞きました。怪しい記憶だったので検索したら
本当のようです^^;

参考URL:http://www.sokuryo.co.jp/topic2.htm
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この回答へのお礼

無理して意地悪く考えますと・・・
 アリストテレスはどうして月に映った影が地球の作り出したものだと思ったのでしょうか。それに輪郭が円形になる3次元の物体の形は円筒形をはじめとして無数にあります。
 また、ある物体の表面をたどって西へ西へと進路をとって同じところにかえってくるという形はなにも球形でなくてもよいのでは、と思いますが、どうでしょう。

 私は以前から、なぜ、円筒形や円錐やぐちゃぐちゃした3次元の物体の形を正しく排除して、球にたどり着いたか不思議な気もするのです。

 ためになるサイトをいただいてありがとうございました。

お礼日時:2001/10/23 20:54

水平線の向こうから陸に向かってくる船を、


陸上で見ていると、必ずマストの先端部分が最初に見えて、
それから、だんだんと下の方が見えてきます。
坂道を登ってくる人を坂の上から見ていると、
頭の先端から見えてくるのと同じですね。
これによって、船が陸に近づく際には登っているような格好になっている
ということが分かります。
逆に、船から陸地を見た時も同様に、
陸地の一番高い部分が最初に見えてきて、
それからだんだんと下の方へ全体が見えていきます。
ということは、船が動かず陸地が動いていると捉えると、
陸地が坂を登ってきている、ということになります。
そうすると、船を基準にしたら、下っていっていることになり、
さっきの説明と矛盾します。
その説明をつけるためには、
どの方向に進んでも登りにしかならない「球面」と考えるより他にありません。

これで、厳密な説明になっているでしょうか?
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この回答へのお礼

 おっしゃるとおりなんですが、厳密に言うとそのように観測できる場所に関しては、球形の一部であることは証明できますが、観測できない場所についてはなにも言えないのかもしれません。

 思うのですが、地球上に普通の物理法則が通じない場所はない、つまり重力が上に向かってはたらいているようなところや、その先はなにもない虚無の空間などは存在しないということが知性で理解できるようになったからこそ、人間はそのことが「分かった」のではないかなというのが結論です。
 でもその理性をどこまで信用していいのかということとは別問題だとは思います。個人的には象や亀が運んでいるお盆のような地球というのも好きですが。

 なんとも珍妙な質問にお答えいただきありがとうございました。

お礼日時:2001/10/23 20:34

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