カントがいう理性信仰とは何か?? 今すぐレポート書かなきゃなんないんです。
お願いしますね。 難しいよー。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

理性」に関するQ&A: 知の暴走(理性の欠如)

A 回答 (1件)

チョロッと読んだだけじゃ、わかんないかもしれないよ。

大きな流れを通して考えてみてね。がんばれ!時間ないぞ!!レポ-ト書き終わてもそれで終わりじゃないからねぇ~♪
http://www-miyakelab.mp.es.osaka-u.ac.jp/morita/ …

参考URL:http://www-miyakelab.mp.es.osaka-u.ac.jp/morita/ …
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q理解されない恍惚が説明の邪魔をします。

私はとっさに何か説明しようとしたとき、わざと小難しく相手に理解されにくいように話してしまいます。
原因として、自分が理解されないことは、自分だけが知っている世界を守ることであり、また自分だけが理解できる優越感のようなものに恍惚を感じているからのような気がします。
ですが、社会から求められるのは分かりやすさですよね。
理解されない恍惚という余計な考えを拭い去るような方法や考え方は無いでしょうか。

Aベストアンサー

補足読みました。

わかりやすい説明を逃げてしまうのですか。
確かに自分の言葉で相手の理解度を考えないで説明するほうが楽ですからね。逃げたいという理由は私と違っても、逃げたくなる気持ちは解ります。

わかりやすい説明をすることは、簡単では無いということです。
非常に言葉を選びますし、相手の興味の有無や経験や環境の違いなど、配慮すべきことが沢山あって、しかも自分に語彙が豊富でなければいけません。

このことだけでも、人にわかってもらうように説明するのは、伝えたい側の気持ちが無ければ出来ない作業だと言えると思います。
そのことが私にとってはやりがいを感じる部分だったりしますが、質問者さんも少し気持ちを変えて、自分の思っているものを、どれぐらい相手に正確に伝えられるか?を楽しめば良いのではと思います。

この「伝える・伝わる」ということに、正確さを追求すると真剣になれるのです。言葉を知らないために自分の限界を感じたり、逆に相手にちゃんと理解してもらえた時など、満足する感覚も味わえます。

Qカントの純粋理性と実践理性について

この2つの違いについて教えてください。

Aベストアンサー

 非常に簡単に違いを説明すると、
純粋理性は形而上学的テーマが主題であり、観念的考察である。それに対して実践理性は実際的な問題が主題となっており、行為の問題である。

 双方の共通点はアプリオリな総合判断はいかにして可能かという問題である。『純粋理性批判』ではそれが観念上可能であることを述べることにとどまるが、『実践理性批判』ではそれが実際的に、つまり、人間の行為として出現するときにはどのようなものかを論じた。

Qフランス映画『恍惚』の…

エマニュエル・ベアールが出演している『恍惚 Nathalie...』の日本版公式サイトで、ループしてかかっている曲のタイトルとアーティスト名をご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

#1です。
>Alphawezenをよくお聞きになっていらしたのですか?

実は彼女のことを前から知っていたのではなくて、
「恍惚 Nathalie...」のサイトでこの曲を聴き私も気になって調べてみたところ
映画で使われた曲を紹介しているページを発見し(参考URL)、
順番に試聴を探して聞いているうちにAlphawezenの曲だということが分かりました。
映画は未見ですが耳に残る印象的な曲ですね。

参考URL:http://www.imdb.com/title/tt0348853/board/nest/10718330

Qカントの理性とはなんですか? 感性が情報を集めて=イギリス経験論 悟性がそれをカテゴライズする=デカ

カントの理性とはなんですか?
感性が情報を集めて=イギリス経験論
悟性がそれをカテゴライズする=デカルト思想合理主義
そして判断する
では理性はなんですか?

Aベストアンサー

質問文の中に答えがありますよ、感性→悟性だけでは判断できない事項、つまり感性で捉えられず、悟性でカテゴライズ出来ない概念は、理性でしか認識出来ないと言う事です。
理性的な検討でしか認識できない、思索的事項が該当します。
ただし、アンチノミーとなる、純粋な形而上の概念に関しては、理性も認識が出来ません。
また、理性は理性そのものの存在の根源は認識できません。

Qイエス信仰とマリア信仰

高校の倫理のテストで、イエス信仰とマリア信仰の違いを書けという問題が出るのですが、さっぱりわかりません。

マリア信仰は経済が発展していない、比較的貧しい所の信仰が多いのが重要らしいんですが・・・

お分りの方、どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

No.3です。

ここなんかどうでしょう。
  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%8F%BE

『比較宗教学的見地からは、世界各地での聖母の出現は、土着の女神信仰とキリスト教のシンクレティズムの産物であり、それぞれの地域の人々は聖母マリアの形を借りて、自分たちが古くから受け継いできた女神を信仰しているという見方もある。これは特にキリスト教国家によって植民地化され、キリスト教への改宗を強制された地域に見られる特異なマリア崇拝を説明する(古くはローマに支配されたガリアの黒マリア、新しくはスペイン、ポルトガルに支配された中南米や東南アジアの聖母崇拝)。』

ローマ帝国は肥えた土地や、地下資源の豊富な土地を征服して、征服した先の作物や資源を都市部に供給したので、ローマ帝国の支配地域は広大になっていったんですね。

現在はキリスト教は、石油埋蔵量世界第二位のイラクを侵略しましたよね。

で、キリスト教は都市の人にとって経済的な豊かさをもたらし、征服先の都市部の人たちの吸い取られる側は、吸い取られるので、どれだけ働いても楽にならない というシステムになっているんです。


で、豊穣という概念があり、春になると何も無い大地に緑が芽生えるのを見て、豊穣の女神のせいだと思ったわけです。

秋になると女神は去っていき大地は死んだようになるが、春になると緑に大地は覆われるのので、視覚的にこれを女神の復活だとして、春になると女神の復活を祝っていた。

キリスト教の復活祭は春ですが、もともとはキリスト教がやってくる前からあった豊穣の女神の力の復活を祝う行事だったわけです。

キリスト教はもともとあった女神の復活を祝うお祭りを、イエスの復活を祝うお祭りに塗り替えたんです。


で、都市型キリスト教は、侵略した土地の作物やら地下資源をちゅーちゅー吸い上げる側ですが、そうやってチューチュー吸われることで、支配されている地域がとうとう作物が取れず枯渇するかというと、永遠に存在し続ける女神という概念があり、どれだけチューチュー吸われても、永遠に存在する女神は春になると力を復活させ、土地の人々を養う という考えがある。

だから豊穣をもたらす女神信仰はキリスト教だとイエスじゃなくてマリアなのでちゅーちゅー吸われる側の信者はマリアの方を信仰するわけです。

イエスには豊穣をもたらすという概念が無い。
男神なので、何も産まない。何も与えることができない。

裁判でいけば、検事の役割。
人の罪を重くする役割。

マリアは人の罪を軽くする役割。

だから、人々は厳しいイエスではなく、罪をおかさざるを得ない悲しい性の人間を見捨てず、イエスのように逃げ出さず、死の際までつきそって見守るマリアに、心を捧げるようになったわけです。


で、テストに書くときは、支配する側と支配される側があり、支配し搾取する立場の人はイエス信仰、支配され搾取される側はマリアを信仰するって風なことを書けばいいんじゃないかなぁ と思います。

No.3です。

ここなんかどうでしょう。
  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%8F%BE

『比較宗教学的見地からは、世界各地での聖母の出現は、土着の女神信仰とキリスト教のシンクレティズムの産物であり、それぞれの地域の人々は聖母マリアの形を借りて、自分たちが古くから受け継いできた女神を信仰しているという見方もある。これは特にキリスト教国家によって植民地化され、キリスト教への改宗を強制された地域に見られる特異なマリア崇拝を説明する(古くはロー...続きを読む

Qカントの「理性」

カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか?

『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。

「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」

という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。

ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。

Aベストアンサー

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。
 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。

 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。

 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。
 

 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。

 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。

 
 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。

「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵)

 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。
 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。


 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。


 

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え...続きを読む

Q信仰と宗教の違い

 
「神仏を尊び神仏に頼らず」、これは信仰として成り立つかと問うてみた。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8749349.html

その結論として、「神仏を尊び神仏に頼らず」は立派に信仰として成り立つと結論できました。
しかしながら果たして神仏への願いを伴わぬ宗教がこの世に存在するであろうか。
わたしが知る限りではおよそそのような宗教が存在するとは思えない。
では信仰と宗教の違いとは何か。
神仏への願いを伴わぬ信仰は信仰として成り立つが、神仏への願いを伴わぬ宗教は有り得ないのであれば次のように結論できるのではないか。

信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。
宗教は神仏への願いを伴う信仰である。
 

Aベストアンサー

言葉遊びをしているのではないとして、

日本語の「宗教」の熟語はまだ使用の歴史が短いそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99#.E8.AA.9E.E6.BA.90
「宗教」の熟語の意味はそれほど明確ではないのでしょう。
質問者さんやその他の方が「宗教は神仏への願いを伴う信仰である」と定義をすることはご自由でしょうが、一般の日本語の「宗教」の使い方とは不一致のケースが出てしまうと思います。

「信仰は宗教を内包する。宗教ではない信仰も存在するが、信仰ではない宗教は存在しない」というようなことを主張したいのでしょうか。

太陽信仰のような用語の使い方を認めた場合、太陽は神仏なのでしょうか。太陽神というから神なのでしょうか。神仏と日本語でいう場合、個人に何かの働きかけをするものを私はイメージしますが、太陽神にはそうした神仏機能はないのが基本形のように思います。
 
(現世利益の享受のバーターとして礼拝し勤行を勤め、あるいは供物などを供する)信仰形態を日本ではしばしば見かけます。 水神信仰、雷神信仰、地蔵信仰、菩薩信仰、観音信仰、○○詣でなどたくさんあり、一括する一般名称は民間信仰、民俗信仰、庶民信仰でしょう。 もちろんこれらを宗教と呼んでも構わないのでしょうが、教義もない、創唱者も、指導者もはっきりしないのは宗教ではないと思っている人は少なくないので、用語の混乱を大きくするだけだと思います。
 
畏敬や服属、戒律の遵守などが、信仰や宗教では基本にあることが多いと思います。

『世界宗教事典』ではリューバの分類・分析を踏まえ、また、宗教を成立させている基本要素が超絶的ないし超越的存在(神、仏、法、原理、道、霊など)をみとめる特定の観念であることを踏まえつつ、宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、その観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団であるとまとめているのだそうです。
儀礼、祭祀の仕方、祭祀や儀礼を行う場所がある程度固まっているなら、山岳信仰でも、巌(岩)や樹木を信仰するのも信仰と言って、多くの場合の用語使用例にそぐわないことはないと思います。
ただ、一般例では、やはり教義の中心、教義の体系を備えていることが、宗教と呼ぶ必要条件のように思われることが多いと思います。 もちろん、教義の不明確な神道や道教のようなものも宗教とすることが多いから、儀礼、施設、組織などが確立し、その祭祀などを主導するプロが専任でいると、教義はなくても宗教と呼ぶのだと思います。
創価学会は、その点微妙なところがありますが、一般には宗教と呼ぶでしょう。

宗教や信仰を考えるときに、あまりに単純化したいくつかの条件だけで考えたら、現実を見て切り分けることも、考えることも出来なくなると思います。
「信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。宗教は神仏への願いを伴う信仰である」も、単純化しすぎるやり方だと思います。

言葉遊びをしているのではないとして、

日本語の「宗教」の熟語はまだ使用の歴史が短いそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99#.E8.AA.9E.E6.BA.90
「宗教」の熟語の意味はそれほど明確ではないのでしょう。
質問者さんやその他の方が「宗教は神仏への願いを伴う信仰である」と定義をすることはご自由でしょうが、一般の日本語の「宗教」の使い方とは不一致のケースが出てしまうと思います。

「信仰は宗教を内包する。宗教ではない信仰も存在するが、信仰ではない宗教は存在しない」という...続きを読む

Q高校倫理 カント『純粋理性批判』について

 大学受験生です。
 教えていただきたいことがあります。
 カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で
 「感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる」
 「私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない」
という表現があるのですが、よく内容がつかめていません。
 具体的にわかりやすくご説明いただけると助かるのですが。
 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

哲学経験ないけど、何となく回答>w<b
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
この二つの命題は実質的には同じこと言っているようだよぅ
「経験」=感覚や知覚によって直接にあたえられ体験されるものごと
感覚や知覚→総じて感性をさすと思うぅ
それで、二つの命題比べたら、なんとなく言ってることはおなじかなぁ
ようは感性と限定された時間・空間の関係をいってるってこと

つぎ!
自分たちの日常会話って、大体場所と時間を指定して会話されるよねぇ?
A 「集合!!」
B 「どこに?」
A 「山梨県に」
B 「いつ?」
A 「週末に」
B 「なぜにわざわざそんな遠くに?」
A 「山が本当にないのか手分けして調べよう」
とまぁ、こんな風に何処で何時何分何秒地球が何回回ったらという時間・空間の限定を伴って
初めてコミュニケーションが成り立っているといっても過言ではないのでは?

逆に時間・空間指定がなければどうなるかなぁ
例えば、時間指定がない場合
A 「Cは私の妻だ」
A 「Dは私の妻だ」
B 「重婚・・・!?」
このばあい、Aは犯罪者(重婚罪)かあるいは一夫多妻制の国の人となってしまいそう
でも、時間指定があればはっきりするかなぁ~
A 「Cは私の妻だった」
A 「Dは現在の私の妻である」
E 「おまえだったのか!わしの元妻Dの不倫相手は!!」
E 「いつだ、いつからなんだ。はけ!!」
A 「うははははぁ、ぐはぁ、・・・」
*動詞の過去・現在形も時間指定の一種と考える
いずれでもなかったとなってまうことにも・・・
空間指定は考えてみてちょ
このように日常生活においては、時間・空間の限定があって初めて
物事が認識・理解されるといっても過言ではなさそう
時間・空間の限定、すなわち時間・空間の区切りがあって物事の関係が見えてくるということ
ここでもう一つ
人の理解とか認識はどのような過程を経て起こるか
外界→感性→認識→理性→観念、データ、命題etc→理性→観念、データ、命題etc→・・・・
という感じにかんがえられているのかなぁ?
これを前提に話をすすめようっと
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
これは、つまり、
外界→感性
の段階で時間・空間の区切りがおこっているということでは?
つまり、外界を、区切られた時間・空間として感覚に受け止めて認識に至るということ
例えば、t時にA点にある物体がT時にB点に移動するという現象を
t時における空間A点、T時における空間B点、と時間・空間を限定(or区切る)したうえで、
その二つの区切りを対比した結果として物体の動きを認識するに至る
これが感性の働きだ、ということかなぁ
でも、これだとパラパラ漫画みたいだなぁ
なんか変じゃないか!!
>カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で
この参考書の題からして、理性と感性を比較してるのではなかろかぁ
つまり、時間・空間の限定は理性の作用ではなくて感性の作用だよとか

あり、これじゃぁ日常会話の件、意味ないような・・・
あ、でも、日常会話の件考えると、時間・空間限定は理性の作用とでもいえそうだぁ
たぶん><

げぇ、もうAM4:00じゃんけぇ
なんてこった!!

哲学経験ないけど、何となく回答>w<b
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
この二つの命題は実質的には同じこと言っているようだよぅ
「経験」=感覚や知覚によって直接にあたえられ体験されるものごと
感覚や知覚→総じて感性をさすと思うぅ
それで、二つの命題比べたら、なんとなく言ってることはおなじかなぁ
ようは感性と限定された時間・空間の関係をいってるってこと

つぎ!
...続きを読む

Q信仰の種類

世の中、神を信仰する宗教がメジャーとなっていますが、
現象や象徴、物体を信仰するものは神以外に何があるのか知りたいと思っています。

・太陽信仰
・炎信仰
・男根崇拝

上記以外に何があるのか、また、崇拝対象にはどういった傾向があるのでしょうか。

Aベストアンサー

 樹木(よりしろ的)
 岩(磐座)、地面(生島足島神社)
 岩穴(黄泉信仰)
 河(聖母となって化身、ガンジス)
 山・山岳・富士信仰
 森
 

Qカントの純粋理性批判のアンチノミーは今どう解釈?

カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。
カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか?

・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール
・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン
・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン
・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク
・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク 
など

の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか?
入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを
取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

Aベストアンサー

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹が変れば) その数だけ 論理ができるというものです。哲学を論理で思考するなら定義の数だけ 出来上がり 従来の絶対真理があるはずである というモダンとは 真っ向から対峙するものです。

このポストモダンのなか 科学とは何か であります。科学は 論理であることは 間違いないところです。絶対真理を求めるモダン科学は ポストモダンの出現により 根底から見直されるべきものとなったのです。アインシュタインの一般相対性理論も定義から出発する一つの系であります。定義の違った宇宙理論は当然 開発されていいのです。ニュートンの力学もそれらの中の一つであります。科学の証明手段は 観測でありますが この観測にしても その系から出発したものである限り その定義の証明は 科学以外の論理と同様に証明できないのです。そのようなポストモダン上で科学者を論評するなら 絶対真理探求のモダン型を信奉している科学者が 今 尚 多いと思います。発想豊かな ポストモダン科学者 世界中から数多出でよ、と言いたいのです。科学は絶対真理を求めるものではなく 論理の一種であります。定義から始まる論理系の構築であります。

そこでカントの二律背反をどう評価するか ですが、定義が異なれば背反することになることは認識していましたが それは 絶対真理ではない と断定し封印した と思うのです。ポストモダンに繋がるパンドラの箱を開けるのではなく逆に封印し モダンを確立する方向を目指したと思うのです。その方向は ニュートン力学などの科学との整合性はとれていると思います。ポストモダンの時代にカントと科学の検討は 時代にそぐわないのではないか と思います。ポストモダンで科学を料理するには その出発点の定義(公理)を明確にすることです。そこを理解していく ことが重要と思います。一般相対性理論も同様であって 定義の理解が重要であります。物理学が絶対真理に近づいている と理解するのは論理的には問題なのです。

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報