福岡で買えるお守りを探しています。できれば、腕にできるようなもの(ブレスレット・おじゅず等)がいいのです。やっぱり南蔵院のお数珠とかでしょうか?他にご存知の方がいらっしゃれば宜しくお願い致します。これは利く!ってのがいいんですけど・・・。できれば、おしゃれなほうがいいなあ・・・・なんて。不謹慎かな?特定の効力ではなくて全般を考えてます。一回、仏具店でお数珠買ったんですけど、そういうのって気持ちの問題ですか?やっぱりそれなりの所で購入したいので。

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A 回答 (2件)

補足です。



念のために「千手院」のご紹介を・・・
下記URLの「83番札所 千手院」を参考にしてください。

参考URL:http://www.fjct.fit.ac.jp/yms/sasaguri/fdno_list …
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この回答へのお礼

本当に至れり尽せりです!ありがとうございました。

お礼日時:2001/10/25 12:19

私が買ったのはお数珠のようなもので、同じ篠栗霊場の「千手院」というところです。

荒田に近いところで、車でも行けます。篠栗の観光案内所に聞けば場所は分かると思います。「房」のついていないお数珠で、紅メノウ、ヒスイなど、何種類かあり、一つ2000円だったと思います(同じものを「千鶴ヵ滝」でも見ましたが、値段がちょっと高かったような・・・)ここの腕輪念珠は、特殊なゴムを使っているのでゴムが伸びにくく、長持ちするようです。
他では、糸島の「雷山観音」にも同じような腕輪念珠がありました。金額はちょっと覚えていませんが、誕生石の念珠や、ボタイジュの念珠もありました。ここのも結構きれいだったですよ!

#ちなみに「効く!」かどうかは未検証(?)ですが、やはり気の持ちようもあるし、「効く!」と信じていれば効くのではないでしょうか?(^ ^ゞ
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この回答へのお礼

早速のお返事ありがとうございます!!本当にうれしい!日曜日にでも旦那様と一緒に行きたいと思います。本当にありがとうございました。このサイト本当に、素敵です。

お礼日時:2001/10/25 12:17

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Q「南無阿弥陀仏」を唱えるタイミング

20数年前に祖母が亡くなった時、
自分の家は浄土宗で「南無阿弥陀仏」を唱えるとわかりました。

それ以来、私は自分がつらい状況になった時に(早く打開できますように)という意味で
「南無阿弥陀仏」を心の中で唱えたり、悲しいときや、嫌な人と向かい合わなくてはいけない時に
心の中で「南無阿弥陀仏」とつぶやくとなんだか気持ちが落ち着きますので
ときどき、そうしてきました。
また、車の運転中、犬や猫が道路で死んでるのを見かけたときにも、
(南無阿弥陀仏)と心の中で言いながら通りすぎます。
何もできないで申し訳ない、せめて唱えるだけでも、っていう気持ちです。
(自分で言うのもなんですが慈悲の気持ちではなく、憑かないでっていうビビりの気持ちからです。)

数か月前、父親が亡くなり、お寺やお墓に行く機会、和尚さんからお経を聞く機会が増えました。
そうしてあらためて「南無阿弥陀仏」の意味についてネットで少し調べてみました。
で、あまりきちんとは理解できたわけではないのですが、
私が今まで「南無阿弥陀仏」と唱えてきたタイミングが正しいのだろうか?と疑問になりました。

私が上記のような事柄で「南無阿弥陀仏」と唱えるのはやってもいいでしょうか?
もし正しくない、そんな事柄で唱えるのはやめたほうがいい、とわかりましたら、
今後は唱えないつもりです。
皆様のご意見を聞かせていただきたいです。

20数年前に祖母が亡くなった時、
自分の家は浄土宗で「南無阿弥陀仏」を唱えるとわかりました。

それ以来、私は自分がつらい状況になった時に(早く打開できますように)という意味で
「南無阿弥陀仏」を心の中で唱えたり、悲しいときや、嫌な人と向かい合わなくてはいけない時に
心の中で「南無阿弥陀仏」とつぶやくとなんだか気持ちが落ち着きますので
ときどき、そうしてきました。
また、車の運転中、犬や猫が道路で死んでるのを見かけたときにも、
(南無阿弥陀仏)と心の中で言いながら通りすぎます。
何も...続きを読む

Aベストアンサー

南無阿弥陀仏の意味ですが、南無→「あなたに帰依します」 阿弥陀仏→「阿弥陀如来」
阿弥陀様を信仰するのは難しい修行などせずとも、南無阿弥陀仏と唱えればそれだけで救われる。
「一遍」は名前の通り、一遍唱えればいいと主張していたようです。

そうゆうことなので、いつ唱えてもOKです。 

Q数珠、パワーストーンブレスレットについて

最近、常に身に付けられ長く愛用できるお守り的なものを検討してます。
その中で、数珠及びパワーストーンのブレスレットで考えております。
そこで皆様に色々と教えて頂きたく質問致します。
1.良く水晶がよいと聞きますが、なぜ?
2.都内でお寺、神社で販売しているところはありますか?また、念を入れて頂けるところはありますか?
※念と言っても厄よけとか家内安全とかそのような感じです。(念と言ってよいのでしょうか(^^ゞ?)
3.ネットや店で購入しお寺や神社で念を入れてもらっても良いものでしょうか?
4.よく浄化した方が・・・と聞きますが、どのくらいでどのように行えばよろしいでしょうか?
5.石、玉?ごとに意味合いがあるようですが、混ぜ合わせて一つのブレスレットにできるものでしょうか?
しても良いものでしょうか?組み合わせで購入できるか不明ですが...
6.信用できるサイトがあれば教えてください。

ご連絡お待ちしてます。

Aベストアンサー

1、水晶は万人に向くとはいえない。パワーが強すぎて良くない場合が多い。
2、念はご自分で願う物。
3、2と同じ。
4、店頭で一番最初に惹かれたものなら、間違いない。
5、余り沢山の色石だと、お互いのパワーが邪魔になり、つける意味が無い。
6、最近は、店頭でも多く扱っています。実際にご自分の目で確かめ、購入するのをお勧めします。
私は、霊感があり常に、パワーストーンは身につけています。
企画系の専門職のため、アイデアが出やすいように金針入りのルチルを持ち歩いています。
専門書までいかなくても、書店で石の解説本がありますから、少し予備知識として頭に入れられては、いかがでしょう。
今のあなたに、必要な石との出会いがありますように。

Q十一面観音を祭っているのに南無阿弥陀仏?

仏教に詳しい方、教えて下さい。

六波羅蜜寺の御本尊は空也上人が刻んだと伝わる十一面観音です。

しかし六波羅蜜寺に伝わる空也上人像は
口から六体の仏がほとばしり出ており、これは「南無阿弥陀仏」の六字をあらわしているといいます。

また年末に「隠れ念仏」が行われていますが
南無阿弥陀仏と唱えて踊躍念仏を行います。

(1)南無阿弥陀仏と唱えるのは阿弥陀仏に対する信仰なのではないでしょうか?

(2)十一面観音に対して南無阿弥陀仏と唱える例は他にもありますか?

(3)一般的に十一面観音に対してあげるお経は何ですか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

(1)南無阿弥陀仏と唱えるのは阿弥陀仏に対する信仰なのではないでしょうか?

親鸞は阿弥陀仏に対する純粋な他力信仰だと説きましたが、親鸞以前の仏教では精神力鍛錬を目的とした自力修行の手段でした。
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/doc/story_2_3_2
十一面観音を本尊としている理由ですが、十一面観音と阿弥陀仏を同一視して十一面観音に阿弥陀仏を見ていたのではないでしょうか。ではなぜストレートに阿弥陀を本尊にしなかったのか? それは信仰の目的に現世利益があったからではないかと思います。阿弥陀の守備範囲は来世であって現世まではカバーしていません、現世は観音が担当します。阿弥陀と観音は互いの守備範囲を補完する関係にあります。

(2)十一面観音に対して南無阿弥陀仏と唱える例は他にもありますか?

ご本尊が釈迦だろうが観音だろうがお稲荷さんだろうが気にせずに南無阿弥陀仏と唱えるこだわりのない人はよく見かけます。そういうこだわりのなさは、ある意味悟りの境地かもしれません。

(3)一般的に十一面観音に対してあげるお経は何ですか。

十一面観音専用は知りませんが、普通に観音菩薩だったら『観音経(法華経普門品第二十五)』か『延命十句観音経』です
http://www.osoushiki-plaza.com/library/kyouten/kannon-k.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8F%A5%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%B5%8C

(1)南無阿弥陀仏と唱えるのは阿弥陀仏に対する信仰なのではないでしょうか?

親鸞は阿弥陀仏に対する純粋な他力信仰だと説きましたが、親鸞以前の仏教では精神力鍛錬を目的とした自力修行の手段でした。
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/doc/story_2_3_2
十一面観音を本尊としている理由ですが、十一面観音と阿弥陀仏を同一視して十一面観音に阿弥陀仏を見ていたのではないでしょうか。ではなぜストレートに阿弥陀を本尊にしなかったのか? それは信仰の目的に現世利益があったからではないかと思い...続きを読む

Qパワーストーンの数珠ブレスレットについて 質問です

私は、友達が作ってくれたパワーストーンの
数珠のようなブレスレットをもっています。
ぜんぜん信じていなかったので気休め程度と思っていたのに、すごく身の回りがよい方向へ変わりました。

でも最近になって右手と左手とで効果がちがうようなことを聞きました。
左手では駄目といううわさはほんとうなんでしょうか。
わたし ずっと ひだりにつけていました‥

Aベストアンサー

 私が左右で違うと聞いたことあるのは、指輪ですね。指輪は左右に加え、つける指で効果(作用)が変わるそうです。

 厄除けに使うのか、幸運を呼ぶために使うのかで左右を使い分けましょう、というだけの話だったと思います。どっちがどっちだったかははっきり覚えてないのですが。

 ブレスレットの左右でどうとかいう話は初耳です。

 なんにしても、いいことが起こったなら結果オーライでいいんじゃないでしょうか。石と波長が合ってるようで、良かったですね。

 石とも信頼関係があるか無いかで効果がまた違ってくると聞きますので、そのブレスレット、大事にしてくださいね。

Q南無阿弥陀仏って、正しいの?間違ってるの?

仏教徒の家に生まれ育ち、今までなんとなく仏教を信じてきました。

でも、興味を持って仏教をいろいろ調べてみたところ、
三蔵の量が莫大すぎて、また宗派がわかれすぎて、
どれを信じたらいいのかわかりません。

また、いろいろな経の中に、「この経が最高である」という表記があるようで、判断に困っています。

そこで質問させてください。

(1)いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、
一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。
逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
(たとえば、親鸞、竜樹、世親、天台、伝教、空海、空也、カタエンニシ、などなど)

(2)日本で一番広まっているのは、南無阿弥陀仏のようですが、
南無阿弥陀仏の教義は、
「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」であると
考えていいのでしょうか。

(3)南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。
また、南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」の人生の幸福とは一体どういうものなのでしょうか。
理論の上からでも、実際にお念仏を信じておられる実体験からでも、
どちらでも結構です。

(4)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を批判してみてください。
(極楽を求めるあまり、自殺する人が多い、五逆罪と誹謗正法の人は救われないなどの記述がある、浄土三部経よりも優れた経がある、など)

(5)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を擁護してみてください。
(たとえば、来世の幸福を約束されたことで、今世を安心して生きられる、来世以降、永遠の幸福を獲得できる、仏典の中に念仏が最高だとか、念仏以外は地獄に落ちるなどの表記があるなど)

(6)南無阿弥陀仏を信仰されている方に質問したいです。
実際に南無阿弥陀仏を信仰されることで、どのようなプラス面(ご利益と言っていいのかな)を感じられますか。

以上、(1)~(6)の中で、少しでもご存知のことがあれば、
教えてください。

まだスッタニパータと法華経しか読んでいないので、
未熟なところはご容赦ください。

みなさんのご意見を伺いながら、岩波文庫の浄土三部経を読んでみようと思っています。

仏教徒の家に生まれ育ち、今までなんとなく仏教を信じてきました。

でも、興味を持って仏教をいろいろ調べてみたところ、
三蔵の量が莫大すぎて、また宗派がわかれすぎて、
どれを信じたらいいのかわかりません。

また、いろいろな経の中に、「この経が最高である」という表記があるようで、判断に困っています。

そこで質問させてください。

(1)いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、
一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょ...続きを読む

Aベストアンサー

 何度も失礼します。あなたの質問はなかなか好きです。
(1)
>>いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
 法然上人は五回一切経を読み、大切だと思うところをそこから三度読み直したといわれています。この回数に関する真偽は私自身は、勉強不足のためこの場ですぐに答えることは出来ませんが、法然上人が一切経を読破したのは事実のようです。
 それは、法然上人が一切経を読破したという記述は『醍醐本』の中に載っています。まず、『醍醐本』は大正六年京都伏見区醍醐にある、真言宗醍醐三宝院の法蔵から発見された。義演という醍醐寺の八十代座主が法然上人に関する記述を見て書写したという。『醍醐本』を書写した義演の日記『義演准后日記』の中には、法然は浄土宗の開祖であって真言宗から見れば、直接関係のない枝葉のような部分に属するが、これを浄土教にとって貴重な書物とおもいかきのこしたという。
この『醍醐本』の本となるものを書いたのは、諸説あるが法然上人の弟子で亡くなる前に「一枚起請文」を書くことを頼んだ源智が中心になっていたことは確かなようです。この源智という人物は、異説もあるがどれも平家の出の人物とされ、源頼朝の厳しい平家狩りの後の生き残りであるという。それを法然上人が引き取り弟子とし、「一枚起請文」を頼んだいきさつも踏まえて法然上人が亡くなるまで身の周りの世話をしていました。言うなれば、法然上人の最も近くにいた愛弟子といえます。
このように成立した時代やいきさつなどからして『醍醐本』に関しては、宗教学的にも歴史学的にも史料として信憑性は高いものであると考えられています。その中に、「黒谷の経蔵に籠居して一切経を披見す」とあって、法然上人伝記には黒谷において一切経を読破したことになっています。

日蓮聖人に関しては、私は専門ではありませんが、日蓮聖人も一切経を読んだ一人といえるでしょう。それは『安国論御勘由来』には、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、粗一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。」
と、日蓮聖人自身が「体を見て、粗一切経を勘ふるに」とおっしゃているのですから、一切今日を読破していると思います。

>>また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
龍樹菩薩は読んでいると思いますよ。彼は小乗仏教を学びつくしていい気になっていたところ、龍王に竜宮城に拉致まがいの連れて行かれ方をされて、竜宮城において全ての大乗経典を勉強したことになっています。これはあくまで伝説ですが、龍樹が全ての経典を読破した記述であることも確かです。また龍樹の『十住毘婆沙論』易行品は大乗の修行者が、不退転の位を得るのに難行・易行の二道があることを説いて、難行道は五濁悪世、無仏の時代には悟りを得ることは難しいとし、易行道は水路を船で行くように不退転の位に入ることができるとして、東方の善徳佛以下、西方阿弥陀仏を含め多くの諸仏諸菩薩の名を出して、これらの諸仏諸菩薩を憶念し、敬礼して、その名を称えれば、早く不退に至ることができると説いています。このような教相判釈をしているということは一切経を読んだ上でしかいえないことでしょう。教相判釈ということでは天台大師智顗(ちぎ)も全ての経典を読破したと考えるのがでとうでしょう。
また、一切経は全て読破したということは聞きませんが親鸞聖人などは『教行信証』のなかで浄土三部経以外のお経もかなり引用しています。一切経にかなり近い経典郡は読んでいたはずです。まぁ、少なくとも私には読みきれるものではありません。また、どこまでが一切経なのかという疑問もあります。お釈迦様一代の教法は八万四千といわれていますが、八万四千の法門は法然上人も日蓮聖人も読んではいないでしょう。ですから、一切経といっても言葉にはばらつきがありあ、一定のものと判じることは出来ないように思います。

(2)
>>日本で一番広まっているのは、南無阿弥陀仏のようですが、南無阿弥陀仏の教義は、「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」であると考えていいのでしょうか。
おおまかのところでは間違っていないでしょうが不十分です。
 まずなぜ娑婆を穢土ととらえるかですが、時代背景としては末法思想が大きくかかわってきます。末法については「釈尊が法を説いた順番」でお話したとおりです。もう一つは時代背景を踏まえた凡夫自覚です。わかりやすくいえば完璧になりきれないという自覚です。この二つが、厭離穢土の理由になります。
またお念仏の救いに関して親鸞聖人は『教行信証』行巻の末尾にでてくる『正信偈』のなかで「往還廻向由他力」と説き「往相迴向(おうそうえこう)と還相迴向(げんそうえこう)も阿弥陀仏の他力に由る」と説いています。まず「往相」とは行くすがた、「還相」とは帰るすがたのことです。浄土教の解釈で言えば、極楽浄土へと往生することが「往相」、浄土から再び衆生を救うためにこの世に戻ってくる(生まれ変わるという意味ではありません)ことが「還相」です。すなわち、阿弥陀佛の救いは二つの働きがあることになります。末法に住む完璧にはなりきれない自分が阿弥陀仏を信じ念仏によって往生し、極楽浄土において成仏する。ここまでを往生し往相迴向。そこから、全ての衆生を救う仏となる。これを還相迴向といいます。つまり、阿弥陀佛の救いに関しては1念仏→2往生→3成仏→4衆生救済の四段階になります。
 つまり、「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」というような、浄土に生まれてはい終わりというのでは不十分です。極楽浄土は死んだ後行けるパラダイスではなく、死しても自分を高めて悟りを開こうという修行上のニュアンスが強いように思います。そのことをどうぞご考慮ください。

(3)
>>南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。また、南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、「今世」の人生の幸福とは一体どういうものなのでしょうか。理論の上からでも、実際にお念仏を信じておられる実体験からでも、どちらでも結構です。
 私は来世主義も現世主義というのもあまり好きではありません。浄土教は両方を持って浄土教なのであるから、両方を大切にするべきであると思います。浄土教を信仰する人の中にも、現世主義を徹底するあまり本来の味わいを失っているような人が見受けられます。それを踏まえて読んでいただけると助かります。
 浄土真宗をお開きになった親鸞聖人はお念仏をしながら生きる上で大切なご信心の中でも、至誠心(裏表のない心)をとく部分において善導の『観経疏』を引用してこのように説いておられます。「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり(外側で真面目で堅実に仏道修行を励んでいる姿を見せてはいけません。内側には自分自身をかっこよく見せたい見栄を張りたいという気持ちを消すことが出来ないのですから。)と説いています。
普通宗教と呼ばれるものはそうは説きません。対外の宗教は「かっこよくおなりなさい。」と説くはずです。キリスト教であれば神の信仰に入り悔い改め「右のほっぺを殴られたら、左のほっぺを出してなくってもらえ」「人はパンのみに生きるにあらず」といえるようなかっこいい人になりなさいと説くのです。儒教もそうです。小人ではなく仁義礼智信を兼ね備えた君子になりなさいと説きます。仏教であってもそうです。戒律を守って、座禅をして、お題目を唱えて、六波羅蜜の修行をして、仏というかっこいい人になりなさいと説かれています。こういった宗教をわかりやすく言えば「かっこよくなりなさいという宗教」であると思います。イギリスの評論化ホルロイドという人は宗教を「あらゆる宗教は自己超越の手段であって、宗教的経験を他から区別する特色は拡大の意識である。」と評しているように、通常宗教というものは自己超越の手段であり、今の自分自身を越えてかっこよくなって強さを得るものである。
しかし、親鸞聖人は「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」といって、外側にかっこよさを見せてはいけないと説いている。親鸞聖人に言わせれば「凡夫に清浄心なし」であり、心の中に嘘を抱き続ける存在である凡夫が心から嘘いつわりを抱くことなくまじめで堅実に仏道修行に励むようなことは出来ないとするのです。つまり、凡夫のもつ真実の心とは「真実ではいられないという真実の心」となるのです。しかしこれは、親鸞聖人自身の悲痛な叫びのようにも思えます。真実でありたくも真実ではいられない、理想の自分と現実の自分の狭間にもがき苦しんで悩みぬいた結果でもあるでしょう。この「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」の言葉にはかっこよくなることによって得られる強さではなく、「自分自身の弱さやかっこ悪さに堪える強さ」を身に付けなさいということが説かれています。自分のかっこ悪さを背負って生きていく強さと言い換えることも出来るかもしれません。それについては、役者であり、親鸞役もこなしたことのある三國連太郎は「私は親鸞さんの偉大さは「人間を通して人間以上の能力を持つ」という伝説には向かっていった、ただ一人の革命家であるというふうに理解しているのでございます」と評しています。私の解釈では、人が人以上の能力を持もつことでかっこよくなれるというのが宗教でありながら、その宗教に人は人でしかなくそのかっこ悪さを背負って生きることしかできないと立ち向かった革命家であるとするのです。
私自身はこのような親鸞聖人の考えに共感し「今生」に関しては、自分自身のかっこ悪さを背負って生きていこうと思っています。親鸞聖人の教えは誰の上に立つたまの教えではありません。この人のほうが信心深い、あの人は信心が浅いと、差をつけることはありません。親鸞聖人ご自身が「弟子一人も持たず」とおっしゃり、また全ての念仏者は「御同御同朋(上下などない、同じ念仏の行をする、同じ念仏仲間である。)」とおっしゃっています。それはただ皆が平等というだけのものではありません。有名なお坊さんですと良寛さんなんかも禅宗のお坊さんでありながら念仏の教えを大切にした方だといわれていますが、その人がこのような詩を読んでいます。「愚かなる身こそなかなか嬉けれ 弥陀の誓いにあうとおもえば」愚かな身であることが嬉しい、愚かであるからこそそこをおぎなってやろうと阿弥陀様は私をお救い下さるという意味ですが、この詩は自分自身が愚かであると気がついたからこそ、私をさせてくださる方に気が付けたということです。もし、自分が完璧な人間である、もしくは完璧な人間になれると思い込んでいたならば、自分ひとりで生きて行けると思い込んでいるということですから、周りの人に気がつくことは出来ません。しかし、自分には至らないところがあると知っていれば、そこを補ってくれている人がいることに気づくことができるということです。親鸞聖人が説く自分の弱さを知れというのは勝手なニヒリズムではなく、心と真摯に向かい合うことで周りの人に気がつきなさいということです。私は「俺は誰の手も借りずに一人で生きてきた」と独りよがりの生き方をせずにすんだことを嬉しくおもいます。しかし、凡夫ですからやっぱり独りよがりになってしまいますけどね。けれどもそんなときも、またやってしまったなと自分の愚かさを今一度反省し、上記にあげた「「御同御同朋」の言葉を思い出しそんな私と同じであると親鸞聖人が励ましてくださっているようにおもいます。

(4)
>>理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、南無阿弥陀仏を批判してみてください。(極楽を求めるあまり、自殺する人が多い、五逆罪と誹謗正法の人は救われないなどの記述がある、浄土三部経よりも優れた経がある、など)
 私自身は実体験の上ではそういったことはありませんが、理論上でしたらいくつかありますよ。
●阿弥陀佛の十八願の中に称名念仏は説かれていない
あくまで十念とあるだけで、称名念仏という明記はありません。そもそも十念とは、仏、法、僧、戒、施、天、休息、安般、身、死を念じることです。ただ、十八願には「乃至十念(だいたい十念)」という表現なわけですから、上記のような十念であれば「乃至」がつくのはおかしいことになる。また総合的に見れば『観無量寿経』にも「具足十念」とあって、本経の末尾には「しっかりと心にとどめておきなさい。それは無量寿佛(阿弥陀佛)の名をとどめておけということです」ということも含めてみれば、ないし十念の解釈は阿弥陀仏の名前を呼ぶことになる。しかし、十念の解釈には多くの異説も存在しており『無量寿経』を単一で見たときは、十念を称名念仏とするのは難しいであろう。
●本願の中に極楽浄土への方法は念仏以外にも記されている
 それが書かれているのは十九願二十願です。わかりやすく訳文で載せます。
十九願「私が仏になるとき、すべての人々が悟りを求める心を起こして、さまざまな功徳を積み、心から私の国に生まれたいと願うなら、命を終えようとするとき、私が多くの聖者を連れてその前に現れましょう。そでなければ、私は決して悟りを開きません。」
十九願、菩提心を起こしさまざまな功徳を積むことで往生できることになっている。
二十願「私が仏になるとき、すべての人々が私の名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からさまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもって私の国に生まれたいと願うなら、その偈外をきっと果たしとげさせましょう。そうでなければ私はけっして悟りを開きません。」
二十願では、無量寿佛(阿弥陀佛)の名前を聞いて、さまざまな功徳を積んで、その功徳を極楽往生に廻向することで往生できることが説かれています。

今あげたものも浄土教批判の一部であるとおもいます。ただ、浄土教の祖師と呼ばれる方々は、それぞれにこういった問題点の答えはお持ちです。他宗からの批判ということに関しても、それなりの答えは用意されています。

(5)
>>理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、南無阿弥陀仏を擁護してみてください。(たとえば、来世の幸福を約束されたことで、今世を安心して生きられる、来世以降、永遠の幸福を獲得できる、仏典の中に念仏が最高だとか、念仏以外は地獄に落ちるなどの表記があるなど)
先にも述べましたが、末法思想について考えなければなりません。末法という時代と相応した経典であるということです。それについては、「浄土三部経」を見て聞きたいとおもいます。
『無量寿経』
 念仏は法蔵菩薩(阿弥陀仏の仏になる前の姿)が二百十億の諸仏の浄土を見て、選択された極楽往生するための行であること。
 三輩往生(生前の行いによって起こる往生の区別)を説く文の中でお釈迦様は菩提心などの諸行を説いているにもかかわらず、ただ念仏のみを讃歎され無上功徳とおっしゃったこと。
 経中において多くの往生の行が説かれているのに、お釈迦様はその仏力をもって念仏の教えだけを、末法が終わって法滅を迎えても残すとおっしゃったこと。

『観無量寿経』
 往生の行として定善(雑念を切り捨て散動せず行う善)散善(平生の散動する心で行う善)の諸行がとかれるけれども、「阿弥陀仏の光明全ての人を照らすけれども、念仏する衆生のみを摂取してくださる」と説かれていること。
 下品上生(生前の行いで九段階往生の区別があり、その中で最下位の者)の往生の行として聞経と称名の二行が説かれるけれど、阿弥陀仏の化身である化仏は「なんじ、仏名を称するがゆえに諸罪消滅す。故に我来たりてなんじを迎う」と念仏一つを選んで讃歎していること。
 往生の行として定善散善の諸行が説かれているにもかかわらず、お釈迦様はただ念仏の一行のみを「なんじ、よくこの語を持せよ、この語を持せよとはすなわちこれ無量寿仏の名を持せよとなり」とおっしゃって弟子の阿難に誰に請われるでもなく付属していること。

『阿弥陀経』
 諸々の経典の中には往生浄土の行として種々の諸行が説かれているけれども、それを六方の諸仏は証誠(証明)していない。けれども『阿弥陀経』の中で念仏往生を説きたまうとき、ことごとく六方の全ての諸仏は舌をのばし三千世界を覆い隠し誠実の語を説いて証誠したまうこと。

などがあげられます。このように往生の行として仏たちは念仏を中心に説いておいでです。しかもそれは、『無量寿経』にあるように法滅を迎えて以降も残る教えとして説かれています。法滅まで残るのであれば、末法であっても正しく残っている教えということになります。その保障が、お釈迦様によってなされています。それの救いは『観無量寿経』に説かれるには下品下生の十悪五逆を犯し、もっと他の悪い行いをしたものでさえ、臨終の苦しみにさいなまれる中心から念仏を称えるものは極楽浄土に生まれることが出来るという一文があり、罪の深いものでも救っていただけることが説かれています。さらに、『阿弥陀経』においてはそういった事柄が全世界の諸仏によって証明されています。
 ただ、極楽に往生することについては念仏が最も優れているということであって、娑婆において自力悟ることにおいての物差しではありません。ここからは個人的な意見ですが、『観無量寿経』においては下品下生のものが極楽に生まれて初めて聞法するのは「諸法実相・除滅罪の法」であって、『妙法蓮華経』の中核をなすものであるといってもよいのではないでしょうか。そうであるならば、私は整った極楽という環境で仏教を学びたいようにもおもいます。

(6)
>>南無阿弥陀仏を信仰されている方に質問したいです。実際に南無阿弥陀仏を信仰されることで、どのようなプラス面(ご利益と言っていいのかな)を感じられますか。
 これはすでに(1)(2)(3)(5)で上記したとおりです。日蓮系の方々からは「極楽を求めるあまり、自殺する人が増える」などといわれますが、逆に私はお念仏することで自殺すら思いつきもしませんでした。もしくは自殺すら思いつかないほどわたしが、馬鹿なのかもしれませんね。けれどもそんな愚かな私でも、分け隔てなく阿弥陀仏は救ってくださることに感謝の心でいっぱいです。

>>みなさんのご意見を伺いながら、岩波文庫の浄土三部経を読んでみようと思っています。
 確かに何の先入観も持たずに経典を読み解くのは大切なことですが、なかなかそれは難しいことです。そういった場合、最初に何か入門書のようなものを読まれることもオススメします。入門書にもでき不出来はありますが、日本浄土教の立場を少し学んだ上で「浄土三部経」を読まれたほうが私個人的にはよいように思います。ひろさちやさんあたりが読みやすいかとおもいます。どうぞご配慮ください。

 前の方より長くなってしまいました。申し訳ありません。前回にもまして支離滅裂な稚文、文意を読み取っていただきたくおもいます。
 合掌 南無阿弥陀佛

 何度も失礼します。あなたの質問はなかなか好きです。
(1)
>>いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
 法然上人は五回一切経を読み、大切だと思うところをそこから三度読み直したといわれています。この回数に関する真偽は私自身は、勉強不足のためこの場ですぐに答えることは出来ませんが、法然上人が一切経を読破したのは事実のようです。
 それは、法然上人が一切経を読破したという記述は『醍醐本』の中に載っています。まず、『醍醐本』は...続きを読む

Q創価学会員の友人に数珠のブレスレット

創価学会員の友人がいます。

旅行のお土産にパワーストーンで作ったブレスレットを送ったのですが、あまり喜ばれていないようでした。
私はお守りのつもりであげたのですが、なんだかとても無神経なことをしてしまったのかと申し訳ない気分になりました。
私の考え過ぎかもしれませんが・・・。

彼女からは、学会に勧誘されることも無く、とても良い友人関係を築けているので
こちらからはなるべく宗教による負担をかけないようにしたいのです。

学会員さんについて何の知識も無いので(友人に直接聞くわけにもいかず)分かる方がいらっしゃいましたら、ご回答お願いします。

Aベストアンサー

パワーストーンなんですよね?よく芸能人がしてるようなかわいい色の
ものだとか、ファッションアイテム的なものですか??

あたしは学会員ですが、特になにも活動してませんので
そういったブレスはもらったらうれしいですよ☆
熱心に活動されてる方だと、中にはファッション性のあるものでも
嫌がる方もいるかと思います。

お寺に売ってるようなものだと、特に嫌がる人も多いですが
お土産で作ってくれたブレスレットで、しかもパワーストーンなら何も問題ないと思いますが。。。逆にうれしいですけどね、あたしは☆
それか学会特有ですが、友人の方は他の宗教がとても嫌いなのかも???パワーストーン=神だと思ってる節があるのかもしれないですね。。。

あたしが質問者様の友人だったら、そこまで気を遣ってくれてすごく
うれしいですよ(^^)

考え方がいろいろあるので、分かりませんがパワーストーンぐらいなら
全然負担でもなんでもないです!あたしも親も以前してましたよ。
ただ、神社のお守りは学会員には迷惑です。。。気をつけて☆
でも買って来てくれた気持ちはとてもうれしいですよ!

質問者様は無神経でもなんでもないですよ☆
友人の方は、こんなに友達思いの質問者様が友達で、シアワセですね(^^)

パワーストーンなんですよね?よく芸能人がしてるようなかわいい色の
ものだとか、ファッションアイテム的なものですか??

あたしは学会員ですが、特になにも活動してませんので
そういったブレスはもらったらうれしいですよ☆
熱心に活動されてる方だと、中にはファッション性のあるものでも
嫌がる方もいるかと思います。

お寺に売ってるようなものだと、特に嫌がる人も多いですが
お土産で作ってくれたブレスレットで、しかもパワーストーンなら何も問題ないと思いますが。。。逆にうれしいですけど...続きを読む

Q南無阿弥陀仏の意味

南無阿弥陀仏ってどういう意味ですか?「阿弥陀様、阿弥陀様」って言ってるだけとは思えなくて・・・。

Aベストアンサー

「南無」とは「帰依します」という意味です。
よって「阿弥陀仏に帰依します」という意味になります。

Q30代 なあなあに生きてきたツケが来たのでしょうか

人生に行き詰っています。心身的に、というほどまではありませんが、いろんな問題をどうクリアしていったらいいのか分からなくなってしまっていること、今まで「なあなあ」でやってきたことのツケが来てしまっていると感じる毎日で、自己嫌悪の日々です。
仕事を辞めてしまい、今はひとり暮らしの無職であること。貯金がかなり厳しい状態になっていることです。
趣味で始めた楽器も、仕事や紹介された男性となかなか進展しないなど、などの問題から、なかなか練習が出来ず、先生からも見放されてしまったような感じです。趣味は趣味でも先生は真剣に教えていただいているし、それに応えたい、という気持ちがあるのですが、自分がその楽器を練習することに合っていないのか、いつも集中できずに練習止めて、違う音楽を聴いたりしてしまって、ゆっくり音楽鑑賞して落ち着く・・みたいな状態になってしまいます。過去も、大学受験の勉強の際もうまく集中できずに、結局ラジオ聞きながらの勉強や、好きな音楽を聴いてしまって、机には着いていたものの、全くなあなあの状態になってしまっていた、と今になって思います。この集中力のなさをなんとかしたいというのもあるし、もともと勉強や、鍛錬(楽器)することに向いていないのでしょうか・・。
30代になっても、何も自分が出来るものとか、身につけたものがありません。仕事も転職を繰り返しています。
唯一続いているのは、ひとり暮らし・・くらいです。でも、これも、家事を完璧にするとかではなく、精神的に参ってしまったら何もする気が起きなくなって、立ち上がるのがやっと、という感じになります。
仕事は責任感は強いほうです、でも、人とのかかわりに過敏で、いつもニコニコ、いい人でいるほうなので、しばらくしたら都合よく使われる・・という形になって、結局八方塞になって辞めてしまう、ということがありました。
こんな私に何にも魅力がないと思います。結婚相手だって見つかるはずがないって思います。
これからの生き方、どうしていけばいいでしょうか。
とりあえず、仕事は見つけないといけないですが、ひとり暮らしの収入と仕事の内容から、色々合致しなくて、これも悩みの種です・・。
もう実家に帰ってしまったほうがいいのでしょうか。

人生に行き詰っています。心身的に、というほどまではありませんが、いろんな問題をどうクリアしていったらいいのか分からなくなってしまっていること、今まで「なあなあ」でやってきたことのツケが来てしまっていると感じる毎日で、自己嫌悪の日々です。
仕事を辞めてしまい、今はひとり暮らしの無職であること。貯金がかなり厳しい状態になっていることです。
趣味で始めた楽器も、仕事や紹介された男性となかなか進展しないなど、などの問題から、なかなか練習が出来ず、先生からも見放されてしまったような...続きを読む

Aベストアンサー

30代女性です。

楽器は一度始めてしまうと、先生や周囲に「継続したほうがいい」と言われて、何だかうだうだ続けてしまうことになる場合が多いです。それでうまくいくこともあるのですが、逆に、負担になってしまうケースも見たことがあります。楽器そのもの、楽器をめぐる人間関係、人によりけりですが、私の見たケースは後者のほうが多かったように思いますね。だから、私は質問者様のお話を拝見すると、励ます気にはならないです。「自分はほんとに好きなのかな、やりたいのかな」と自問してしまうということは、もうその時点でどこかに無理があるということだと、私は思っています。楽器の先生が「見放した」とありますが、先生も質問者様の心の不安定さに気づいておられるわけでしょう。ならば、一旦お休みされてみてはいかがですか。もしもその楽器がほんとうに好きなのならば、ちょっとお休みしても、また手に取ろうと思うときが来るはずです。勘違いされている方が多いのですが、楽器を演奏するのには、体力も気力もいるのです。そして、研ぎ澄まされた心もです。ですが、質問者様は今どれも欠乏状態にあるようにお見受けするのですが、違いますか。

まず、心を落ち着けて、自分がどうしたら肩肘張らずに生活できるのか、自分が自分でいられるのか、見極めてみられてはいかがでしょう。

それから、ご実家に帰ったほうがよいかというお話ですが、これは私はよしたほうがよいように思います。「身についたもの」が「一人暮らし」だとあるので、それは大事にしたほうがよいように思えます。思い切って、ご実家がある場所とは全く関係のない地方に行ってみてはいかがですか。30代はまだ若いです。新しい環境に慣れることはできます。ちょっと勇気を出して、外に出られてはいかがでしょう。都会が合わないのならば、地方で、ちょっと心をゆっくりさせたほうが、案外うまくいくかもしれませんよ。

まず、ご自分の気持ちが楽になる、自然になる環境を考えてみてください。それから行動すればいいですよ。

30代女性です。

楽器は一度始めてしまうと、先生や周囲に「継続したほうがいい」と言われて、何だかうだうだ続けてしまうことになる場合が多いです。それでうまくいくこともあるのですが、逆に、負担になってしまうケースも見たことがあります。楽器そのもの、楽器をめぐる人間関係、人によりけりですが、私の見たケースは後者のほうが多かったように思いますね。だから、私は質問者様のお話を拝見すると、励ます気にはならないです。「自分はほんとに好きなのかな、やりたいのかな」と自問してしまうというこ...続きを読む

Q南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経 どう違うのでしょう?両方について語れる方お願いします

南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経
どう違うのでしょう?両方について語れる方お願いします

Aベストアンサー

仏教の歴史を簡単におさらいしないと分からないので、簡単に説明します。

仏教は釈迦が修業して解脱し悟りを開いたことに始まります。初期の仏教は宗教と言うより哲学で「人間とはなにか」ということを釈迦や周辺の人が議論するものでした。しかし、悟りを開いた釈迦の言葉は説得力があったので、釈迦の入滅後、弟子たちがそれを伝えていきました。

で、最初は口伝だったのですが、文字が到来して経典を作るようになります。そして同じころ、釈迦の言葉の解釈を巡って対立があり、上座部仏教と大衆部仏教に分かれます。日本に来たのは大衆部の経典の一部で、大衆部というのは「人々が悟りを開くのは難しいので、悟りを開き仏となった人物が多くの大衆を救うことを教義とするもの」ということです。
 大衆部に分かれてからも仏教は分裂し続け、いろいろな経典が生まれていきます。中国に仏教が伝わったころには収集がつかないぐらい多種多量の経典があったのです。

日本は国をまとめるための宗教として仏教を輸入していましたが、仏教が浸透するにつれ「仏となった人物が多くの大衆を救う」方法について様々な研究がなされるようになりました。平安末期から鎌倉初期までの庶民の暮らしはかなり苦しかったからですが、同時に当時の仏教は国教で人々を救うというものではなかったからです。

この時代に代表される仏教の最高学府は高野山ができるまでは比叡山でした。南無阿弥陀仏の浄土宗を開く法然も、南無妙法蓮華経の日蓮も比叡山で学んでおり、どちらも「仏となった人物が多くの大衆を救う」ことを念頭によい教え(経典)を探していました。

 法然は「阿弥陀如来」を「人々を救ってくれる仏」と考え、主に阿弥陀如来に帰依するように人々に説きました。「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に南無(帰依)します」という宣言なのです。
 浄土真宗の開祖として知られている親鸞は法然の弟子の一人で、法然が入滅して以後、浄土宗の主流になった弟子たちと袂を分かち、阿弥陀仏を信仰する法然の教えを整理して広めています。
 浄土宗はそれまで修業などができず悟りを開くことなどできなかった庶民に「ただ南無阿弥陀仏と念じれば阿弥陀仏が救ってくださる」と教えたため、農村部などに一気に広まっていきました。

日蓮は法然の100年ほど後に生まれた人物で「浄土宗では人々を救済できない」と考えて、比叡山にある経典の中から法華経を見つけて、それを協議の中心とした宗教になります。法華経はかなり古い経典で、釈迦が残した言葉が含まれていると日蓮は解釈しました(実際には大衆部に分かれた後に成立したもの)
 また、仏教の基本は釈迦であり、釈迦を貴ばず阿弥陀仏などに帰依することを教える浄土宗などは「邪道である」と厳しく非難したため、鎌倉幕府からも迫害をうけ、いまでも浄土宗などとは折り合いが悪いとされています。

 日蓮は釈迦の教えである法華経をひたすら唱えることで庶民であっても救われる、と説きました。「南無妙法蓮華経」は「法華経に帰依する」という意味になるわけです。

ということで、どちらも「念仏を唱えれば救われる」という教えは同じなのですが、仏教が初期の頃に様々な経典を作ったために依存する経典が異なり、それによって信奉する仏も違いがあるのです。

仏教の歴史を簡単におさらいしないと分からないので、簡単に説明します。

仏教は釈迦が修業して解脱し悟りを開いたことに始まります。初期の仏教は宗教と言うより哲学で「人間とはなにか」ということを釈迦や周辺の人が議論するものでした。しかし、悟りを開いた釈迦の言葉は説得力があったので、釈迦の入滅後、弟子たちがそれを伝えていきました。

で、最初は口伝だったのですが、文字が到来して経典を作るようになります。そして同じころ、釈迦の言葉の解釈を巡って対立があり、上座部仏教と大衆部仏教に分か...続きを読む

Q仏具のリン掃除方法教えて下さい

仏具の金属性のリンを購入時のように、ピカピカにしたいのですが
市販の洗剤(4~5種)で磨きましたがきれいになりません
きれいにする方法教えて下さい

Aベストアンサー

>仏具のリン掃除方法教えて下さい


    ↓

親父が生前には時々、骨粉や草木灰と歯ブラシ(ブタ毛)で磨いていました。
どうしても、落ち難い所は、金属タワシで擦ってから上記の方法とを繰り返してました。

私は、少し恐れ多いとは思いますが、灯油や錆落とし油に漬しておき、その後に金属タワシやクレンジングで磨きます。

いずれにしても、汚れの少ない内の早目の清掃、キズを付けないように優しく根気良く落とすのがポイントだと思います。


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