No.4ベストアンサー
- 回答日時:
おはようございます。
絶対王政ですか。何故そういう政治形態ができあがったかなどについては、高校の世界史の教科書あたりで深くやらないと、なかなか理解しづらいですね。#1さんの紹介しているWikipediaの文章はわりとしっかりしたものなのですが、まとめて書きすぎていて初学者には理解しづらいかと。というわけで、簡単な言葉でそのあたりの流れの説明をしてみようと思いますです。
絶対王政の前に、「中世ヨーロッパの荘園制」について勉強したと思います。
この荘園制とは、国王と貴族、貴族と騎士などの間でかわされる、土地を介した約束関係のことです。簡単にいえば、「国王の名でお前に土地を与えよう。そしてその土地からどれだけ税金をとるか、その土地をどのように使うか、そこに何を作るかなどはお前に任せよう。そのかわりお前は私に臣下として仕え、他国から敵が攻めてきた場合には部下を引き連れて私のところまで来て、手足となって働きなさい」というものです。
しかし実際は中世の国王は、「私に従わないなら土地を取り上げるぞ!」というような強い権力をもっていたわけではありません。国王と貴族との間の上のような約束は建前上の場合が多かったのです。国の中には何人か有力な貴族がいて、彼らはその国の中に一定の領地を持っていて、その領地を治めていました。当時の国王というのは、その貴族たちの代表者にすぎなかったのです。
国王も自分の領地(直轄領)を持っていましたが、国王が勝手にできるのは自分の領地だけで、「あの貴族の領地の中の税金を重くしよう」というような、勝手なことはできなかったのです。
つまり、「土地を与えるから貴族が国王に仕えて軍隊を出す」という政治体制では、国王は絶対的な権力者というわけではありませんでした。
では、どういうことになると国王に権力が集まるのか?
その政治体制の状況が変わればよいわけです。つまり、
■まず有力な貴族が力を失うこと
■国王が貴族に頼らない、自分の軍事力をもつこと
■国王が、貴族に代わって自分に仕えて国を治める仕事をしてくれる部下をもつこと
中世の後期になってきますと、貴族が十字軍や国外に兵隊を出して疲弊したり、貴族同士の争いを続けることでお互いに力を失っていったりしました。
さらに、#3さんも書いていますが、国同士の戦いが増えて大貴族一人だけでは対処がつらくなり、誰かの下にまとまって外国の敵に向かっていったほうが勝てるだろう。で、そんな状況の下で、自前の軍隊をもった国王が軍事力を背景に国内を統一して、軍隊を整えて、外国の敵に向かっていくようになったのです。
さらに、貴族の力がなくなって国王が国内を治めようとする場合に、貴族たちに「自分の領地はよろしく」と全て任せてしまうのではなく、官僚と呼ばれる、自分の部下に国を治める仕事を任せたのです。絶対王政の時代には「宰相」や「財務大臣」などの役職をもつ有名な人が(何人か)出てきます。
その絶対王政を支えた考え方(思想)というのが、
■王権神授説
■社会契約論にもとづく絶対王政の擁護
(Wikipediaや他のサイト、本などを参考に調べてみてください)
しかし、そんな体制が長く続いていると、国王や官僚以外の人々に、だんだんと不満がたまってくることになります。
貴族は、国王が自分たちの意見を無視して自分勝手に物事を決めているということで不満をもちます。庶民は、重い税金をかけられて、対外戦争をするときには兵士として連れて行かれるわけですから、「自分たちからこんなに搾取する国王は嫌だ!」となるわけです。
それに「啓蒙思想」などの考え方も加わって、市民革命、そして絶対王政の体制の崩壊へとつながっていくわけです。
そんなところですかね。
簡単に書こうと試みたので、表現や内容などが微妙に怪しくなっているかもしれませんが、おおまかな流れとしてはこんなところです。こういう話を頭に入れた上で、もう一度#1さんのURLの文章を読んだり、いろいろ調べてみるとよいのではないでしょうか。
間違っていたら訂正に来ます。
No.6
- 回答日時:
既に良い回答がついているので、別な観点から。
絶対王政以後の政治形態に、立憲君主制とその亜種である象徴君主制があります。これらと対比することによってレポートの内容が豊かになります。特に、象徴君主制は現在の英国や日本の制度でもあるので、昔の制度を論ずるレポートが今日の日本を理解するきっかけになるかもしれません。
以下、簡単に3者の特色を述べます。
絶対王政は、国家の主権者が国王であり、かつ、国王の政治的決定権を制約する枠組みのない政治体制です。「朕は国家なり」という言葉が示すように、文字通り、国王が唯一・最高の権力者である政治体制です。庶民はもちろん、貴族・教会といえども、国王がそれを望む場合を除き、国王の決定に口を挟む余地(政策の決定過程に参加する機会)はありません。
立憲君主制は、国家の主権者は依然国王であるが、国王の政治的決定権を制約する「憲法」という枠組みがある政治体制です。絶対王政においても、有力貴族や教会が政治的影響力を持つ場合がありました。しかし、それはその時々の政治情勢(力関係)による一時的なものであり、しばしば貴族などの個人的実力に依存するものでした。
これに対して立憲君主制における憲法は、多くの場合、国王と貴族又は議会の権力闘争の結果(妥協)として成立した恒久的な枠組みであり、国の制度として確立されたものです。イギリスやドイツがその代表例であり、かつて我が国が導入したのもこの制度です(大日本帝国憲法)。これに対してフランスでは妥協が成立せず、革命によって国王が処刑され、王政が廃止されたわけです。
象徴君主制は、国王が実質的権力を失い、名目的存在となった政治体制です。主権者はもはや国王(天皇)ではなく、国民です(イギリスの場合は議会)です。国王は、国家統合のシンボルとして尊敬の対象となりますが、政治的には内閣や議会が決定した文書にハンコを押すロボットに過ぎません。
No.3
- 回答日時:
絶対王制が、典型的に現れるのは、フランスのブルボン朝、イギリスのチューダー朝、プロイセン王国です。
不完全な形で終わるのが、ハプスブルク朝スペイン、スエーデンなどです。
絶対王制は、中世の封建制の後に現れた形態です。
封建制においては、国王といえども、単なる大貴族の一人で、臣下の貴族に契約以上の命令は出せませんでした。
日本の室町幕府のような感じです。
国王の主な仕事は、貴族達の利害関係の調整でした。
それが壊れるのは、各国の内乱のため、貴族達が、力を失った事と、外国との戦いが増え、それまで数百人単位の軍が、数千人単位となり貴族達の力では、軍隊の維持ができなくなった事によります。
まず最初に貴族の没落が始まるのは、アルビジュワ十字軍(35年間)による混乱による南フランスです。
百年戦争により、北フランスが続きます。
イギリスの場合は、バラ戦争が原因となります。
プロイセンの場合は、30年戦争がきっかけとなります。
負けた貴族の領地は、没収されたり殺されました。
勝った側も、何年も続く戦争により、経済基盤は失われ、王権に寄生するようになり、貴族の地位が低下した分、国王の力は強まりました。
これが、絶対王制の基盤になります。
No.2
- 回答日時:
こんばんは。
絶対王政とは中央集権的な王による支配構造の事です。
その崩壊過程が描きやすいという意味でフランスかイギリスを中心に勉強すると良いと思います。
(多分フランスの方が楽です)
絶対王政以前は国王はあくまで諸侯の代表者、と言う程度の位置づけで、政治は個々の地域で別々に行われていました。当然、国王に反発する者もあり、なかなか国としてのまとまりは無くなっていたわけです。
それを強大な軍事力などを背景に、国王に全ての権限を集中させたのが絶対王政です。
特に制度として確立していた訳ではなく、結果的に、という事ですね。
これによって身分構造がより明確になり、国内を安定させる事に成功しました。
が、この支配が続くうちに、当然ながら民衆の間に不満がたまって行き宗教改革やルネサンスを経て、民衆の大規模な蜂起へと繋がって行きます。
最終的にヨーロッパでの絶対王政は崩壊するのですが、それがそのまま近代国家の成立へと繋がって行きます。
絶対王政の成立過程をメインに調べてもなかなか資料が探せないでしょうから、絶対王政の崩壊をメインに調べてみて下さい。この辺は資料も沢山出ていますので結果的に絶対王政の理解が進むと思います。
No.1
- 回答日時:
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