次のような解釈であっているでしょうか。
 赤銅・・・原材料としての銅
 青銅・・・銅製品

 青銅器は、発掘されたときは緑っぽいような、青いような色ですが、きっと造られた当時は、赤っぽくて光っていたと思うのです。この二つの言葉を「材料と製品」という対の言葉で考えてよいのでしょうか。もっとよい対の関係の言葉があるのでしょうか。お願いします。

A 回答 (5件)

ekuboさんこんばんは。



そうですね。
銅・・・この字を当時は「あかがね」と呼んでいたと資料にあります。
青銅は、銅と錫(シロメ)の合金です。。

ここで、現代の青銅系合金の名称と成分を紹介しますね。
○鏡用青銅・・・銅70%前後と錫30%前後の合金で、見た目は、白銀色。
○鐘用青銅・・・銅75から85%残り錫の合金、鋳造直後は、金色と言うより「真鍮」に近い明るい金色ですね。
ですが、詳しく古代の青銅器を調べますと・・・
古代の銅鐸、鏡の多くが、錫が10%以下のものが多く、実際には今の10円玉に近い成分の物が多いんです。
なぜかと言いますと、日本では、錫の産出量が、当時は銀などの貴金属より遥かに少なく、錫(当時の言葉でシロメ)はかなりの貴重品だったと推測されています。
中国などでも、発見されていた錫鉱脈が少なく、一般の青銅製品で銅90%―錫8%-残り金、銀の合金でした。
ですから、実際、現代の我々が思っていたより、出来たては、「金色」と言うよりも、「新品の十円玉の色」、言い方を変えれば「赤銅色」に近かったといわれています。

銅鏡に関しては、「銅鏡の鋳造後、研磨し、水銀と銀(アマルガム)で鍍金する」と言う記述が中国にも、日本にもありますから、わざわざ銀色を出すため、赤銅色の青銅の上に、銀の鍍金をしていました。現在の鏡用青銅でのお話ではない様です。
だから、現代の青銅と、古代の青銅には、かなりの隔たりが有った様です。

ですが、これは、最新のデータですので、
教科書とおりの答えは、青銅の出来たては、「明るい金色」
突っ込んだお話の答えは、古代の青銅の出来たては「明るい赤銅色」
となります。

参考にしてね!
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 だんだん自分のした質問が的外れだったような気分になっています。
 というのは、銅を「あかがね」と確かに昔の人は呼んでいたけれど、銅と錫で作ったものを果たして青銅器と呼んだのか・・・。つまり、対にするにも古代に青銅器という言葉が使われていなければお話にならないですよね。
 う~ん。どうしよう・・・。

お礼日時:2001/10/29 18:22

再度、お目に掛かります。


なんとなく、質問の主旨が見えてきたような気が・・・・・。

ちなみに、飛鳥時代頃の大和(奈良時代)・大陸では、
黄金(こがね)=金(きん)・白金(しろがね)=銀(ぎん)・
赤金(あかがね)=銅(あかがね)=銅(どう)・
黒金(くろがね)=鉄(てつ)・青金(あおかね)=鉛(なまり)
と、呼ぶ定義があります。

けど、古墳時代の、”隅田八幡神社人物画像鏡”の青銅鏡の拓本には
”白上同二百旱取 此竟作”とあります。
この「白上同」は、鏡用青銅に近い青銅を表します。(つまり元は白銀色に近い銅)上等な鏡ですから、錫(しろめ)もかなり含まれています。
(しかも、この鏡の青銅は渡来物のようです)
だから、銅(あかがね)は銅としても、青銅系合金は、色によって○○銅と呼ばれていたらしい・・・事がわかります。
古代から青銅は「からかね」と呼ばれますが、「唐金」とも書きますよね。青銅を「せいどう」と読んでいたことも、あるいは有ったかもしれません。漢語的にはあってもおかしくないです。
むしろ、「からかね」に「青銅」の字を当てたのかもしれません。
ここは、やはり当時の資料が豊富に有りませんから、決定打は出てきません。

ですが、ekuboさんの質問からは、二元論的な解決法を求めているような印象を受けますが、これは、二元論で解決出来ないような問題じゃ無いように思います。
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この回答へのお礼

 決して二元論的な解決法を求めているのではありません。「対」という表現が不適切だったようです。すいません。
 「アップルパイは何でできている?リンゴ」と内容的にはいっしょなんです。 
 「青銅器は何でできている。赤銅」が不完全ではあるが成り立つのか。これが私の今回の質問の趣旨です。今回みなさんのお話をうかがって、OKだな、と思いました。(OKですよね?)
 そしたらまた疑問が起こりました。銅をあかがね、鉄をくろがねと呼んでいた古代人があかがねから作ったものをセイドウキと呼んだのだろうか。別の大和言葉で呼んだのでは。だとすると、青銅という表現は不適切では?不適切なら私の質問自体がおかしいのでは(=「お話にならない」)、と思ったのです。
 表現の仕方が不適切で不快感を与えたならお許しください。
これに懲りず、またアドバイスお願いします。

お礼日時:2001/10/30 01:22

>もっと良い対の関係


書き忘れました。

銅(あかがね)と錫(シロメ)・・・青銅の原材料
青銅器・・・銅(あかがね)と錫(シロメ)からなる鋳造用合金、別名青銅から作られた製品

の方が有ってるような気がします。
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青銅は、スズと銅の合金です。


製造直後は金色に輝いています。時をへて緑色に錆びる。錫が少ないと金色になり、多いと銀色になる。

http://www.tatebayashi.ne.jp/~science/tsushin/ts …
http://www.annie.ne.jp/~mekki/ch3/ch3-cu.html

赤銅は、銅に微量の金を加えたものです。
「赤銅色」のように銅そのものの色を表すときにも使われます。
http://www.nihon-kogeikai.com/TEBIKI/TEBIKI-4.html

参考URL:http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/dotaku.htm
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青銅は銅とすず(?)の合金だったと思うんで、


「材料と製品」ではないとおもいます…。
うろ覚えですので、まちがっていたらすみません。
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Q赤銅と青銅

 次のような解釈であっているでしょうか。
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ekuboさんこんばんは。

そうですね。
銅・・・この字を当時は「あかがね」と呼んでいたと資料にあります。
青銅は、銅と錫(シロメ)の合金です。。

ここで、現代の青銅系合金の名称と成分を紹介しますね。
○鏡用青銅・・・銅70%前後と錫30%前後の合金で、見た目は、白銀色。
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ですが、詳しく古代の青銅器を調べますと・・・
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ですから、実際、現代の我々が思っていたより、出来たては、「金色」と言うよりも、「新品の十円玉の色」、言い方を変えれば「赤銅色」に近かったといわれています。

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確かにネットの範囲では原典が見つかりません。
しかし皆さんは出典を明記せずして一休さんのことばとして書いていますね。
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ところで、一休説を否定する記事があります、稲垣収一さんと仰る方の文章です、
 引用:「とりわけインターネット上で広まっているという遺言のエピソードとは、こうだ。
    死の間際に「いよいよという事が起こったら、これを開きなさい」と一休が遺(のこ)
    した封書。
    100年ほどして寺に大変な難題が持ち上がり、弟子たちはついに開けた。そこに書かれ
    ていたのは――。
     しんぱいするな なんとかなる
    それだけ。弟子たちは顔を見合わせ、吹き出して、笑いおさまった時、問題に立ち向かう
    力がよみがえっていたという。」
    「ところで、この話の原典を当たろうと探したが、見つからない。
       ~中略~
    「話を載せている書物の著者に尋ねて回った。一人から、思わぬ答えが返ってきた。
     「私の創作なんです。随分前、講演で話に詰まってね。確か他のお坊さんかにこんな話
    あったと思うんだけど、一休さんなら言いそうだから 一休説話は生まれ続ける。」」。
こちらです⇒http://note.b-do.com/note/print/27366

因みに、こんなQ/Aもあります、同じ疑問のお仲間のようですが、
    納得いかずややお腹立ちの様子です。やはり原典はないと言うことでしょうか。
  http://questionbox.jp.msn.com/qa1952137.html

*回答になっていなくてすみません。
  ご紹介したサイトは仮に冗談だとしても、一休さんに免じて乞ご容赦。

確かにネットの範囲では原典が見つかりません。
しかし皆さんは出典を明記せずして一休さんのことばとして書いていますね。
私の姿勢としては、原典が明記されない限り出典不明として扱うべきと考えます。

ところで、一休説を否定する記事があります、稲垣収一さんと仰る方の文章です、
 引用:「とりわけインターネット上で広まっているという遺言のエピソードとは、こうだ。
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Q石器や青銅器はいつまで流通していたか。

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      n=3のときの正の解が青銅数、比が青銅比
になります。
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http://ci.nii.ac.jp/els/110007153257.pdf?id=ART0009106836&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1288964212&cp=

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こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸当時はHIVはなかったようですが

HIVが発見されたのは、1983年(昭和58年)にパスツール研究所で初めての報告がなされました。
江戸時代は、「梅毒」が主流で、その他にも「淋病」や「麻疹」(はしか)などの感染症が主でした。

麻疹?と言われるかも知れませんが、
子どもの頃の麻疹は、「三日麻疹」(みっかばしか)と呼ばれ、治りも早く「抗体」ができるので、それほど恐ろしい病気ではありません。
ところが、幼少の頃「麻疹」にかかったことのない大人が罹ると、別名「命定め」と呼ばれ、3~4日発熱が続き、吹き出物が全身に発症します。一旦、熱は下がるのですが、5~6日後からは、熱が再び上昇し、「咳」や「くしゃみ」なども出て、風邪に似た症状ですが、最悪の場合は「死」にいたることもありました。

>>避妊具もなかったと思います。

コンドームの歴史を見ていくと、日本でゴム製のコンドームが出回るのは1909年(明治42年)とのことです。世界の歴史をみてみると、1671年に、チャールズ二世が牛の腸膜を利用して、精子の侵入を防いだ記録が残っています。

>>遊女が懐妊などざらにあるような気がするのですが、堕ろしまくってたのでしょうか?

<洗浄法>
避妊の基本は、やはり洗浄でした。遊女用の浴室や便所には、必ず洗浄用の場所がありました。

<薬>
「朔日丸」(ついたちがん)というものが爆発的に売れました。
これは一般にも服用されていた薬で、毎月朔日(ついたち)に服用すれば妊娠しないというものでした。長屋の総後架(共同便所)などに広告が貼られている絵が残っています。

<お灸>
二月二日、臍下に灸をすえると妊娠しないという言い伝えがあり、廓ではこの日こぞって灸をすえました。

<道具>
甲形(かぶとがた)という男性が使用する、現代のコンドームに近いもので、薄い油紙で男性の性器形をしたものと、詰め紙という女性が使用する、現代のペッサリーに近いものがありました。
甲形は「笑い道具」、つまり現代の大人のおもちゃとしての用途もありました。また、詰め紙というのは、御簾紙という薄い紙を丸め、つばで湿らせて挿入しました。これは生理中、現代のタンポンのような用途でも使われました。男性の精液がその紙に浸み込んで「妊娠はしない」とのことで、流行しました。

<中絶>
農村部などでは日常的に間引きが行われていたように、当時中絶に対してはそれほど否定的な状況ではなかったようです。
よほど売れっ子の高級遊女であれば出産も可能でしたが、妊娠した遊女のほとんどは中絶せざるを得ませんでした。
また、遊女の産んだ子供は、女の子であれば「禿」(かむろ)として遊女屋で育てることもありましたが、たいていは養子に出されました。当時江戸には「中条流」という堕胎専門の医者がいて、妊娠した遊女はその医者によって堕胎させられました。ひどい場合には、遣り手が強引に堕胎させる場合もありました。さらに、何回も階段や箱を積んだところから飛び降ろさせたりもしました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸当時はHIVはなかったようですが

HIVが発見されたのは、1983年(昭和58年)にパスツール研究所で初めての報告がなされました。
江戸時代は、「梅毒」が主流で、その他にも「淋病」や「麻疹」(はしか)などの感染症が主でした。

麻疹?と言われるかも知れませんが、
子どもの頃の麻疹は、「三日麻疹」(みっかばしか)と呼ばれ、治りも早く「抗体」ができるので、それほど恐ろしい病気ではありません。
ところが、幼少の頃「麻疹」にかかったことのな...続きを読む


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