江戸時代の近代と近世の経営・経済において共通するものと、非共通のもの

A 回答 (1件)

「江戸時代の近代と近世の経営・経済において共通するものと、非共通のもの」


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Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q江戸時代の経済を書いた本

江戸時代の経済のことについて広く調べています。
なにか、おすすめの本がございましたら、教えてください。

Aベストアンサー

全般的なことに関しては次の2冊 
 『資本主義は江戸で生まれた』鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002.5. 1  
 『江戸時代』大石慎三郎 中公新書 1977. 8.25 
貨幣と金融に関しては次の2冊 
 『江戸幕府・破産への道』三上隆三 NHKブックス 1991.12.20
 『江戸の貨幣物語』三上隆三 東洋経済新報社 1996.3.14
あまり堅くなく、気軽に読めるのは
 『家康くんの経済学入門』内田勝晴 ちくま新書 2001.5.20  
株仲間については
 『江戸の市場経済』岡崎哲二 講談社 1999.4.10 
大坂堂島米会所については
 『近世日本の市場経済』」宮本又郎 有斐閣 1988.6.30 
テーマ別、レベル程度によっていろいろあるでしょうが、とりあえずこんなところでどうでしょうか?

Q江戸時代の経済は活発だったのか?

江戸時代の経済は活発だったのか?

江戸時代の経済は活発だったのでしょうか?

私の江戸時代のイメージは生活は質素倹約、物は何回でも再利用する、年貢は米だし、武士の給料も凄く少なかったと聞きますし、技術の新しい開発も確か幕府によって規制されていました。

質素倹約ならば安いものしか売れずにデフレになるはずだし、もったいない精神があれば全然物は売れないし、新技術の開発が規制されていたのならば一体何が売れていたのでしょうか?そこがわかりません

あと、江戸時代の人間にとってお金ってどのような存在だったのでしょうか?

現代日本人みたいに拝金主義だったのでしょうか?

それとも食べ物の次みたいに別に重要視されていなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

今の時代、環境問題のことを考えると「もったいない」「自然循環システム」が重要。だけど経済が縮小すると失業も心配・・・・ということで持続的経済成長は可能なのか?という点は、今多くの方が気にしているテーマだと思います。

そして実は、世界に先駆けて「自然循環型の持続的経済成長を実現」した事例こそが江戸システムなのです。

欧州においては、中世に沸き立った人々の一攫千金を夢見る欲望は、際限なく拡大し、産業革命と第三世界への侵略戦争へと展開していきました。

ところがこの同じ時代に、日本は鎖国政策をとることで欧米発の市場開放圧力を最小限に押しとどめました。また厳格な身分制度を保持し続けることで、一攫千金を夢見る欲望(リスク)よりも農村共同体における安定への欲求を促進したのです。従って、市場経済が無制限に拡大することは抑止されたのです。

しかし、だからといって、経済が縮小し、人々の生活が困窮した訳ではありませんでした。むしろ鎖国したことで、全て国産で作り出すという国内の産業振興が可能になったのです。

また最大の秘訣は、幕藩体制にあります。つまり、基本的に藩に全権があり、徴税権も全て藩にありました。他方で藩は経済政策を失敗すればお家取り潰しもありえましたから、藩の経営には競争圧力が働いていました。江戸の後期には藩は専売制度を導入し、地域経済の振興に力を注いだのです。

と同時に、そのままほっておくと隣合う藩同士で揉め事が起きることもありうるため、藩に資財が蓄積されないように参勤交替によって、江戸という一大消費都市を作り出しました。

これにより、基本的に藩という地方分権を実現しつつ同時に、幕府の財政力・統率力も失わない仕組みを実現していたのです。またこれにより各地に宿場町も発達し、富裕な藩からそうでない藩へと富の再分配を図ることにも成功していたのです。

勿論、江戸システムにも限界はあり、結果的に海外からの市場開放圧力に屈しることになりましたが、欧米流の経済システムが限界を迎えた21Cこそ、江戸システム再興の時代だといえるのではないかと思います。

以下のブログでは、日本型市場システムの可能性を縄文時代から遡って検証しています。是非、覗いて見て下さい。

参考URL:http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/04/001043.html#more

今の時代、環境問題のことを考えると「もったいない」「自然循環システム」が重要。だけど経済が縮小すると失業も心配・・・・ということで持続的経済成長は可能なのか?という点は、今多くの方が気にしているテーマだと思います。

そして実は、世界に先駆けて「自然循環型の持続的経済成長を実現」した事例こそが江戸システムなのです。

欧州においては、中世に沸き立った人々の一攫千金を夢見る欲望は、際限なく拡大し、産業革命と第三世界への侵略戦争へと展開していきました。

ところがこの同じ時代...続きを読む

Q江戸時代の米本位経済とは具体的にどういう事なんですか?農民から年貢を取

江戸時代の米本位経済とは具体的にどういう事なんですか?農民から年貢を取り立てるのが今の徴税システムにあたることは分かるのですが、実際、幕府は米を収納してどうやって財政をやりくりしていたのですか?また、農民以外(武士、町人等)はどんな形で納税していたのですか?本当に初歩的な質問ですいません…。

Aベストアンサー

大雑把な説明です、できればご自身で調べた方が良いと思います。

江戸幕府は重農政策をとっていましたので、基本米が収入です、ただ、米で物々交換はできないので、現金化をしました。
そのために米の価格の安定を第一に考えましたが、不作豊作によって相場が乱れたので、商人たち(札差)などが権力を握るようになりました。
農民の年貢に関しては、検見法(けみほう、田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する)を採用していましたが、年によって収入が大きく変動するリスクがありました。
なので、江戸中期ごろになると、定免法(じょうめんほう、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による徴収方法)がとられるようになりました。
ちなみにこれは藩ごとになり、幕府が各藩に上米させたのは一回きりだった記憶があります、またこれも税金としてではなく、幕府の財政再建のための献納という意味合いが強いものだった記憶があります(うろ覚え)。
元々国税というのがなく、国税は田沼意次が導入しようとして失敗したと記憶しています。

町民は所得税、贈与税や相続税は一切なく、農民に比べ税負担はかなり低かったそうです。
ただ、公役(くえき)があったのが、人ではなく銀で支払うようになり、長屋住まいの場合は大家さんがひとまとめに支払っていました(家賃に含まれている)。
戸建住まいの人は年3回、町名主が厚めに来ていたそうです。
二十坪を一小間という課税単位、地方によって違います。

現在の地方税に当たる、町入用費というのがあり、これは町名主におさめます。

商人は、法人税のようなものはなく、
御用金制度があり、
宝暦十年(1761年)から始まり約20回ほど徴収されたそうです。
富裕商人を対象に徴収をして、年利3%の利息を加えて返還する決まりだったので、本当は国債に相当するものだったのですが、強制力が強く、最初は返還されていたのですが、財政難になると支払いが滞ったそうです。
上納金もあり、上納額によって褒美があったそうです。
3千両の上納で返還を求め無かった場合、永代苗字が与えられたそうです。

後は冥加金や運上金等がありました。


かなり大雑把です、江戸時代の初期、中期、後期、幕末などで変わっているものもあります。

大雑把な説明です、できればご自身で調べた方が良いと思います。

江戸幕府は重農政策をとっていましたので、基本米が収入です、ただ、米で物々交換はできないので、現金化をしました。
そのために米の価格の安定を第一に考えましたが、不作豊作によって相場が乱れたので、商人たち(札差)などが権力を握るようになりました。
農民の年貢に関しては、検見法(けみほう、田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する)を採用していましたが、年によって収入が大きく変動するリスクがありまし...続きを読む

Q近世~近代欧州の貴族たちは仏語を話していた?

中世の欧州の貴族の人たちは、召使たちに自分たちの話を盗み聞きされないよう仏語で話していた、という話を人から聞きました。たしかにチャイコフスキーのオペラには、貴族の娘に仏語の家庭教師をつけて仏語の勉強をさせるような場面があります。日本の皇室でも英語とともに、仏語教育もしていると聞いたことがあります。そこで質問です。

ドイツやイギリスやロシアの宮殿内での公用語を仏語にするのは、上記のような理由ならば理にかなっていると思います。ですがフランスの貴族の人たちは何語で話していたのですか?

これに付随するようなエピソードをご存知の方も、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>中世の欧州の貴族の人たちは、召使たちに自分たちの話を盗み聞きされないよう仏語で話していた

俗説と断定してもいいです。

理由を簡単に説明しますと

1:フランス語(=フランシア語)が統合・完成するのが13世紀で、それ以前は、フランス語はラテン語の諸種方言に過ぎないからです。
 従って、中世においてフランス語が外国貴族で用いられる可能性は極めて低く、フランス諸侯ですら、地方のフランス語は通じないという不便さが確認されています。

2:貴族たちが盗み聞きされないようにするために、近世にはサロンが発展したように、貴族たちの内緒話は寝室・教会などの閉鎖的な空間が行われるもので、華やかな場所での密談などは基本的にありえないからです。
 欧州の中世社会においては、貴族の権力は強いものですが、個人レベルでは大きな権力はありませんし、機密情報もありません。
 もっといえば、開けっぴろげで『人の目』を気にしない社会性があるようですから、内緒話という局面があまり想像できません。
 
3:フランス語は欧州において主要言語ではありません。
 ラテン語という中世最大の欧州共通言語がある以上は、フランス語である必要性が見当たりません

 ただし、近世以後、フランス文化が欧州を席捲してから、欧州全体が、フランス文化一色になりそうな時期があったのは事実でしょう。
 芸術における”印象派最盛期”のことですが、それでも貴族たちが意図的にフランス語を使ったというのは、極めて稀だと思います。
 
 さて、我々日本人のイメージにはありえませんが、国際結婚は王侯貴族ならば当然という時代は長く続きます。
 
 ”イギリス国王なのに英語ができない国王(ジョージ1世)も歴史的には居ます。
 ゴチゴチのゴーリスト(ド・ゴール主義=フランス至上主義)の貴族が、無理に宮廷ではフランス語に統一させた可能性はあります。
 これが地方貴族となれば尚更可能性は高いでしょう。

 粗忽なドイツ貴族がフランスの片田舎の貴族の嫁さんを貰ったのはいいが、尻に敷かれて家庭内ではドイツ語が使えない・・・・

なんてバカらしい逸話もあります。

 フランス人の愛国・文化愛は病的とも言われますから、変な逸話ができても不思議ではありません。
 

>中世の欧州の貴族の人たちは、召使たちに自分たちの話を盗み聞きされないよう仏語で話していた

俗説と断定してもいいです。

理由を簡単に説明しますと

1:フランス語(=フランシア語)が統合・完成するのが13世紀で、それ以前は、フランス語はラテン語の諸種方言に過ぎないからです。
 従って、中世においてフランス語が外国貴族で用いられる可能性は極めて低く、フランス諸侯ですら、地方のフランス語は通じないという不便さが確認されています。

2:貴族たちが盗み聞きされないようにする...続きを読む


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