武田信玄が戦争で戦法を真似たといわれているのは、人から中国の孫子と聞きましたが僕は諸葛孔明だと思います。いったい武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?

ちなみに孫子からは思想をまねる事はできても、戦術は無理だと思いました。

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A 回答 (6件)

武田信玄「を」真似たと言われるのなら徳川家康ですが、武田信玄「が」真似た戦術家はいないのでしょう。



確かに武田信玄は有名な旗印「風林火山」を「孫子」から引用して使用しました。しかし、質問者さんもご指摘の通り「孫子」は戦略としての兵法書であり戦術書ではありませんよね。(ここでの戦略は次にどこを攻めるかといった大きな視野での分国経営計画、戦術は局地的な戦闘方法の意味で使っています。戦略の失点は戦術で補う事は不可能とされています。逆、即ち戦術の失敗を戦略で補う事は可能です)

諸葛孔明は某ゲーム会社のおかげで日本国内でも随分な人気ですが、彼は#3さんの回答にある通り政治家としての実績はありますが軍事的な実績は歴史上あまり見つけられません。(三国志演義ではスーパー軍師ですけど)

戦法を真似た、と質問者さんがお考えなのは陣形でしょうか?川中島の合戦(第四次)では「鶴翼の陣形」、三方ヶ原の合戦では「魚鱗の陣形」など中国の兵法書に出てくる陣形を駆使して戦っていますからね。
しかし、これらの陣形は残念ながら諸葛孔明のオリジナルではないので(鶴翼は包囲陣形、魚鱗は密集陣形でカルタゴの名将ハンニバルの時代から概念はありましたから)武田信玄が誰かの戦法を真似した、とまでは言えないと思います。

余談として武田信玄と言うか武田軍のエピソード:
他国の大名の細作(スパイ)が武田軍の工事現場に労働者として紛れ込んで秘密を探ろうとしたが、スグに発見され捕らえられた。理由は簡単、その工事現場では股引の色を統一していたのだがスパイは知らなかったので違う色の股引だったから。
当時こんな事を考えた戦国武将ってスゴイと思いますよ。諸葛孔明が(三国志演義で)敵の偽りの見破るのは彼のずば抜けた知性のおかげで、他の人は真似できない話ばかりでしょ(だからスーパー軍師なんだけど)
武田信玄は「孫子」から用間(スパイを使う)を学び自己流にアレンジして使っていたのでしょう。その思想は家康に伊賀、甲賀の忍びを組織化させるという形で受け継がれたのではないでしょうか。

P.S.「孫子」はただ読めば良い訳ではありませんね。国士無双の韓信が背水の陣を思いついたのは「孫子」からですが、同僚の将は「孫子」を読んでいても思いつかなかったのですから。
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>武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?



武田信玄は誰の戦術も「真似」てはいませんよ。真似程度であそこまで版図を広げる事は出来ないでしょう。人の真似は必ず敵に読まれます。信玄ほど老獪な将が物まねに終始する筈がありません。
信玄は孫子(多分それだけではないでしょう)の思想を学び、自分が置かれている環境に合わせてその思想を応用し、自分の物としていったのです。兵書の思想がいかに優れていても、読者(実行者?)の置かれた現実とのすり合わせが出来無ければ机上の空論に過ぎないのです。よく戦争映画などで、古参のベテラン軍人が新米少尉に「士官学校で習った事なんか忘れちまえ」とか言うシーンがあるでしょう。あれはそう言う事なのです。
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こんにちわ。



孔明が素晴らしい軍師・兵法家だったとしても、孔明のとった戦略上の行動は「孫子」に解説されている事例の具体化と言って良いでしょうね。

孔明は「孫子」を超えた訳ではありませんから。

武田信玄ですが、幼少期にお寺のお坊さん(名前は忘れましたが・・・)から「孫子」を学んだと言われています。

戦国時代の武将の間で、「孫子」はよく読まれていたらしいですが、「三国演技」を含めて三国志が読まれていたとは聞いた事がありません。
(孔明は兵法書を残していませんし。。。)

ですので、「武田信玄は「孫子」を手本とした」で良いのではないでしょうか。
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諸葛孔明は軍事的な業績のあまりない人で、むしろ大きな政略や国の運営に才能を発揮した人です(三国志演義などの「物語」は別として、正史の三国志では軍事的才能は評価されていません)。



ちなみに孫子は、全文読んだことがありますか?
昔の漢語なので、ずいぶんシンプルですが、個々の話は全てが「具体的」です。
三国志の魏の曹操も「孫子」をバイブルとした人で、自分自身の経験に照らして注釈書まで書いています。
それとあわせて読むとさらに分かりやすいものとなりますよ。

武田信玄に限らず「孫子」は、現在でも世界中の実戦にたずさわるひとたちに読まれていますが、それはその思想的背景だけでなく、個々の戦術にたいして優れた参考書であるからです。
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武田信玄の軍旗の「速きこと風の如く、静かなること林の如く・・・」という言葉は「孫子」からの引用です。

 
「孫子」は戦術書の宝庫のようなものですが、内容的には戦術の基本を説いたもので、思想書ともいえるものです。

従って信玄はこれを真似たのではなく、その精神を日本の国土、事情に合うように読み込んで応用したのです。
諸葛孔明も信玄と同様だったのです。
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おそらくこの感じじゃ知らないようなので一応言いますが、孫子には「孫子の兵法」ってすんばらしい兵法書があります。

諸葛亮もこれに学び、呉はまさにこれの兵法をうまく使っており、軍はどの武将も驚くほどの行動力となりました。残念ながらこの孫子の兵法の実物は存在しておらず、曹操が書き写したものが存在しております。
そして、あの武田信玄の旗「風林火山」はまさに孫子の兵法の中に記されております。
ほかにもこの孫子の兵法というのは世界中に出ており、ナポレオンなども使用したと言われております。
いまでも本屋に行くと「孫子の兵法に学べ!」みたいな本が数多くあります。
 「故曰 知彼知己 勝乃不殆」
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Q諸葛孔明の戦法について

三國志(吉川英治)を読書中なのですが、『五丈原の巻』の(八陣展開)に於いて、河を挟んでの会戦を前にした諸葛孔明と司馬イ仲達の舌戦の中で【まず正法を以て明らかに戦おう】【正法の戦に三態あり。大将を以て闘わしめんか、陣法を以て戦わんか、兵を以て戦わんか】との描写があるのですが、〔大将を以て〕を含む三態それぞれの体型がわかりません。どなたかわかる方、教えてください。

Aベストアンサー

大将:三国志の時代では、張飛、呂布等、猛将同士の一騎打ちで統率を崩し、攻め切るという戦法がありました。
    ゆえに、将クラスの人材をぶつけ合うといった意味合いです。
陣法:諸葛亮や司馬懿の得意とする分野ですね。兵や将を用い、戦略的な布陣を敷くことで知力としての勝負をするといった意味合いです。
兵:総合力(練度)の勝負です。当然戦にあっては、事前に十分に訓練を積むものですので総合力としての勝負となります。

Q風林火山。孫子の本を信玄はどこから入手したのか。

調べるとあの本自体は平安時代ごろには日本国内に入ってたみたいですが、信玄やその祖先はどうやってその本もしくは複製を入手できたのですか。
本を売り歩く商人みたいなのがいるのか。
それとも何百年歴史のある寺院や神社が管理してて武将らはそれを大金出して買うのか。
それとも口伝で本は無し。その場合先生はどこからどうやって?
どうなってるのか教えてください。
不安定な時代なのにあの時代の武将が教養ある人物がたくさんいたのはなぜでしょうか。

Aベストアンサー

足利学校

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AD%A6%E6%A0%A1

ここに全国から学生が集まってきていた。

アマゾンで 足利学校を検索したら
早雲の軍配者(上) (中公文庫) 富樫倫太郎
信玄の軍配者(上) (中公文庫) 富樫倫太郎
この本が引っかかった。

全国の学生が集まってきているという前提での小説かと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A6%81%E5%85%83%E4%BD%B6
九州出身者が戦国末期の親分だったりする。

Qなんで諸葛亮じゃなくて、諸葛孔明なの?

三国志を読んでいて、疑問に思ったのですが、
諸葛孔明は、姓を諸葛。名を亮。字を明なんですよね?
で、普通によく使われる名称って、諸葛孔明じゃないですか。
最初はなんで諸葛亮って言わないのか疑問だったのですが、
劉備玄徳も玄徳が字だし、名を言わないで、姓と字をいうものなのでしょうか?
では、劉備の名はなんなのでしょうか?
劉が姓で名が備なのですか?教えてください!

Aベストアンサー

 歴史に登場する中国人の名前で、「名」とは生まれたときにつける本名、「字(あざな)」とは成長してから自分で付ける名前です。一般的に「名」だけで呼ぶのはごく親しい間柄か、目上の者が目下の者を呼ぶ場合に限られます。あまり親しくないのに、本人が成人後に名乗っている「字」でなく、子供の頃からの「名」を呼ぶのは場合によっては失礼にあたるわけです。
 従って、姓+名+字で呼べば諸葛亮孔明、劉備玄徳ですし、姓+字で呼べば諸葛孔明、劉玄徳ですね。(劉玄徳とはあまり言いませんが)
 >劉が姓で名が備なのですか?
 その通りです。

Q諸葛孔明について子供むけの本はありますか?

小学校3年生の男の子に諸葛孔明についての本を読ませてあげたいと思っています。
彼の名前は亮くんといって、父親が諸葛孔明にちなんで名づけたらしいのですがどういう人物か知らないらしいので本を贈ってあげたいと思っています。

三国志等も考えましたが、なにぶん小学生なので短くてわかりやすい本がよいと思っています。
どなたかご存じのかたいらっしゃいましたらアドバイスをお願いします。

Aベストアンサー

以下のような子供用の伝記ものはいかがでしょう。
(まだ、他にもあるかもしれませんが)

講談社 火の鳥伝記文庫〈80〉
諸葛孔明―「三国志」の名軍師
ISBN:4061475800
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9920387274


あと、子供用の文学全集ものの中を探すのもひとつの方法かもしれません。
ご参考までに。

「子どものための世界文学の森   26  三国志 」
http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=95010898

Q諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力は低かった???

孔明よりも劉備のほうが人材を見る目や、その人材の活用術については、上であったと思いますが、いかがでしょうか?

それは劉備の周りに集まった綺羅星のごとき人材を見れば伺えます。
孔明の方はといえば、彼は意外と人事と言う最重要任務において失策が目立ちます。
1、街亭の戦いでの馬ショクの起用
2、魏延の軽視
3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった事
4、李厳の扱い方の失敗

などなど、挙げればかなり多いです。


実は孔明の総司令官としての初陣はかなり遅くて、南蛮征伐の時期であったと言われています。
従って、戦争の現場での経験がほとんどありません。
実際、“学者である孔明”と“現場たたき上げの魏延”の意見は対立したと予想されます。
魏延にまつわる話で有名なのはやはり、「子午谷の奇謀」でしょう。
「子午谷の奇謀」は演義の創作でありますが、
史記には魏延は一か八かの作戦で長安を陥落させる作戦を提案したことが書かれています。
それに対して孔明は、魏延の作戦を軽視して、安心・安全・確実な作戦を実行していきます。
そして結果、孔明は長安を落とすことはできませんでした。

劉備は
1、魏延を能力を高く評価していおり、魏延を重視するように言っています。
2、逆に馬ショクを軽視しており、馬ショクには重要な任務を任せないように言っています。

丞相の地位にいた孔明にとって人材起用といった能力は必要不可欠なものです。
やはり孔明の人材を起用する能力は低かったと思いますか?
諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力について、あなたの意見を聞かせて下さい。

孔明よりも劉備のほうが人材を見る目や、その人材の活用術については、上であったと思いますが、いかがでしょうか?

それは劉備の周りに集まった綺羅星のごとき人材を見れば伺えます。
孔明の方はといえば、彼は意外と人事と言う最重要任務において失策が目立ちます。
1、街亭の戦いでの馬ショクの起用
2、魏延の軽視
3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった事
4、李厳の扱い方の失敗

などなど、挙げればかなり多いです。


実は孔明の総司令官としての初陣はかなり遅くて、南蛮征伐の時期で...続きを読む

Aベストアンサー

 こんにちは。これは面白い問題提起ですね。

 結論から先に言うと、劉備も孔明も、人材登用能力はあったと思います。政治家としての力量も充分だった、ただ、人材がいなかった、というのが答えになります。

 なぜ、蜀の滅亡が他の国に比べて速かったのか。

 私は「天下三分の計」の時点で、蜀の運命は決っていたと思います。

 魏は、中国古来の、いわゆる「中原」といわれる土地を領土としていました。
 呉は、これも南方の、古来、中原とは異なる文化を築いてきた地域を押えていました。
 対して、蜀はどうだったでしょう。確かに肥沃な土地ですが、魏や、呉ほどの文化や歴史の充実があったか。

 これが、国力に出てしまったと思うんです。で、国力とは、人材ではない。なんていうか、人材を育てるもの、発達した経済と、厚みのある文化です。

 天下三分の計を孔明が劉備に諮ったとき、もう魏、呉はかなりの安定政権でした。それに拮抗し、起死回生の道を開く賭け、それが、望蜀だったわけです。

 実際、蜀を得てから、劉備も孔明も、殖産興業に勤めています。肥沃な土地を生かして、国力を充実させるのに努めます。
 そして劉備の死後、自分の死期をも悟った孔明が力を入れたのが、南方の安定―七擒七放―と、魏を叩いておくこと―出師の表―です。つまり、自分亡き後、しばらくは外患をなくし、国力を充実させる時間を稼いでおくことだったわけです。
 そのために、孔明は、できうる限りの人材を配置したと思います。

 ただ、正直、関羽や張飛、趙雲などの将星が次々と世を去っていくなかで、新しく参加した蜀出身の武将たちは、どうだったか。

 曹操死後も、優秀な人材が集まり、強大な軍団を保持できた魏と比べて、どうしても見劣りがしてしまうんです。
 それは、「蜀」を選んだ(選ばざるをえなかった)劉備や孔明の宿命だったように思います。
 孔明は、その宿命を知っていて、それに自らの力を賭して抗ってみようと思っていたような雰囲気さえ感じます。

 冷静に考えれば、魏、呉に蜀が拮抗できる訳がないんですね。それをおそらくは知っていて、で、孔明は劉備についたと思います。

 孔明の生涯で、自分の判断と逆の事をした―それを悔いてはいないでしょうが―最初で最後が、この、三顧之礼に続く、出廬だったと思います。

 だからこそ、この話が、人の結びつきの美しさを後世に伝えることになったんだと思います。「出師の表」が、これを読んで泣かざるは人にあらず、とまでいわれたのも、その忠義よりも悲壮さの故だったと思います。そして、秋風五丈原のくだりが、あんなに美しいのも、運命に戦いを挑んだ人の姿が、共感を呼ぶからであると思います。

 長文失礼。ご参考になれば。 

 こんにちは。これは面白い問題提起ですね。

 結論から先に言うと、劉備も孔明も、人材登用能力はあったと思います。政治家としての力量も充分だった、ただ、人材がいなかった、というのが答えになります。

 なぜ、蜀の滅亡が他の国に比べて速かったのか。

 私は「天下三分の計」の時点で、蜀の運命は決っていたと思います。

 魏は、中国古来の、いわゆる「中原」といわれる土地を領土としていました。
 呉は、これも南方の、古来、中原とは異なる文化を築いてきた地域を押えていました。
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