武田信玄が戦争で戦法を真似たといわれているのは、人から中国の孫子と聞きましたが僕は諸葛孔明だと思います。いったい武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?

ちなみに孫子からは思想をまねる事はできても、戦術は無理だと思いました。

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A 回答 (6件)

武田信玄「を」真似たと言われるのなら徳川家康ですが、武田信玄「が」真似た戦術家はいないのでしょう。



確かに武田信玄は有名な旗印「風林火山」を「孫子」から引用して使用しました。しかし、質問者さんもご指摘の通り「孫子」は戦略としての兵法書であり戦術書ではありませんよね。(ここでの戦略は次にどこを攻めるかといった大きな視野での分国経営計画、戦術は局地的な戦闘方法の意味で使っています。戦略の失点は戦術で補う事は不可能とされています。逆、即ち戦術の失敗を戦略で補う事は可能です)

諸葛孔明は某ゲーム会社のおかげで日本国内でも随分な人気ですが、彼は#3さんの回答にある通り政治家としての実績はありますが軍事的な実績は歴史上あまり見つけられません。(三国志演義ではスーパー軍師ですけど)

戦法を真似た、と質問者さんがお考えなのは陣形でしょうか?川中島の合戦(第四次)では「鶴翼の陣形」、三方ヶ原の合戦では「魚鱗の陣形」など中国の兵法書に出てくる陣形を駆使して戦っていますからね。
しかし、これらの陣形は残念ながら諸葛孔明のオリジナルではないので(鶴翼は包囲陣形、魚鱗は密集陣形でカルタゴの名将ハンニバルの時代から概念はありましたから)武田信玄が誰かの戦法を真似した、とまでは言えないと思います。

余談として武田信玄と言うか武田軍のエピソード:
他国の大名の細作(スパイ)が武田軍の工事現場に労働者として紛れ込んで秘密を探ろうとしたが、スグに発見され捕らえられた。理由は簡単、その工事現場では股引の色を統一していたのだがスパイは知らなかったので違う色の股引だったから。
当時こんな事を考えた戦国武将ってスゴイと思いますよ。諸葛孔明が(三国志演義で)敵の偽りの見破るのは彼のずば抜けた知性のおかげで、他の人は真似できない話ばかりでしょ(だからスーパー軍師なんだけど)
武田信玄は「孫子」から用間(スパイを使う)を学び自己流にアレンジして使っていたのでしょう。その思想は家康に伊賀、甲賀の忍びを組織化させるという形で受け継がれたのではないでしょうか。

P.S.「孫子」はただ読めば良い訳ではありませんね。国士無双の韓信が背水の陣を思いついたのは「孫子」からですが、同僚の将は「孫子」を読んでいても思いつかなかったのですから。
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>武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?



武田信玄は誰の戦術も「真似」てはいませんよ。真似程度であそこまで版図を広げる事は出来ないでしょう。人の真似は必ず敵に読まれます。信玄ほど老獪な将が物まねに終始する筈がありません。
信玄は孫子(多分それだけではないでしょう)の思想を学び、自分が置かれている環境に合わせてその思想を応用し、自分の物としていったのです。兵書の思想がいかに優れていても、読者(実行者?)の置かれた現実とのすり合わせが出来無ければ机上の空論に過ぎないのです。よく戦争映画などで、古参のベテラン軍人が新米少尉に「士官学校で習った事なんか忘れちまえ」とか言うシーンがあるでしょう。あれはそう言う事なのです。
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こんにちわ。



孔明が素晴らしい軍師・兵法家だったとしても、孔明のとった戦略上の行動は「孫子」に解説されている事例の具体化と言って良いでしょうね。

孔明は「孫子」を超えた訳ではありませんから。

武田信玄ですが、幼少期にお寺のお坊さん(名前は忘れましたが・・・)から「孫子」を学んだと言われています。

戦国時代の武将の間で、「孫子」はよく読まれていたらしいですが、「三国演技」を含めて三国志が読まれていたとは聞いた事がありません。
(孔明は兵法書を残していませんし。。。)

ですので、「武田信玄は「孫子」を手本とした」で良いのではないでしょうか。
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諸葛孔明は軍事的な業績のあまりない人で、むしろ大きな政略や国の運営に才能を発揮した人です(三国志演義などの「物語」は別として、正史の三国志では軍事的才能は評価されていません)。



ちなみに孫子は、全文読んだことがありますか?
昔の漢語なので、ずいぶんシンプルですが、個々の話は全てが「具体的」です。
三国志の魏の曹操も「孫子」をバイブルとした人で、自分自身の経験に照らして注釈書まで書いています。
それとあわせて読むとさらに分かりやすいものとなりますよ。

武田信玄に限らず「孫子」は、現在でも世界中の実戦にたずさわるひとたちに読まれていますが、それはその思想的背景だけでなく、個々の戦術にたいして優れた参考書であるからです。
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武田信玄の軍旗の「速きこと風の如く、静かなること林の如く・・・」という言葉は「孫子」からの引用です。

 
「孫子」は戦術書の宝庫のようなものですが、内容的には戦術の基本を説いたもので、思想書ともいえるものです。

従って信玄はこれを真似たのではなく、その精神を日本の国土、事情に合うように読み込んで応用したのです。
諸葛孔明も信玄と同様だったのです。
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おそらくこの感じじゃ知らないようなので一応言いますが、孫子には「孫子の兵法」ってすんばらしい兵法書があります。

諸葛亮もこれに学び、呉はまさにこれの兵法をうまく使っており、軍はどの武将も驚くほどの行動力となりました。残念ながらこの孫子の兵法の実物は存在しておらず、曹操が書き写したものが存在しております。
そして、あの武田信玄の旗「風林火山」はまさに孫子の兵法の中に記されております。
ほかにもこの孫子の兵法というのは世界中に出ており、ナポレオンなども使用したと言われております。
いまでも本屋に行くと「孫子の兵法に学べ!」みたいな本が数多くあります。
 「故曰 知彼知己 勝乃不殆」
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Q武田信玄

中2です。
冬休みの宿題で人物調べというものがあります。
僕は武田信玄を調べることになりましたが、
武田信玄のことをそんなに知りません。
教えてください。

Aベストアンサー

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した。
http://blog.livedoor.jp/steere0112/archives/50884237.html

兵庫県姫路市で2001年12月、車上狙いの車を止めようとした大阪府柏原市の会社員、
伊藤裕一さん=当時(26)=がひき逃げされ死亡した事件で、同県警捜査一課と姫路署は29日、
強盗殺人容疑で車を運転していた大阪府八尾市、無職、武田晴信容疑者(31)を逮捕した。

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q本当は違う歴史上の有名人の肖像画

昔の教科書や歴史事典では有名だった肖像画が、近年の研究により実は別人だったという人を教えてください。
私が知っているのは、
○出家姿の恰幅のいい武田信玄→畠山義続
○やや横を向いている西郷隆盛→西郷従道+大山巌
○馬に乗っている足利尊氏→高師直
○直衣姿の源頼朝→足利直義
○右向きの平重盛→足利尊氏
○同じく藤原光能→足利義詮

・・・他にもあったら教えてください!

Aベストアンサー

よく知られていますけど「沖田総司」

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/okita.html

これは沖田の姉の孫をモデルにしたもので、実際は写真を撮らない人でしたから、残っていませんね。

Q大河ドラマ風林火山の、武田信玄と父親

 大河ドラマの風林火山を初めて見たのですが、武田信玄とその父親はなぜ仲が悪いのですか?今日は、父親が嫡男の信玄ではなく、次男に信玄の欲しがっていた馬をわざと与えてましたけど・・。

 今まで見てなかったので教えてください。

Aベストアンサー

史実は知らないんですが、ドラマの筋立てだけでいうと、信虎(父親)は晴信(信玄)の秀でた才能や賢さに脅威のようなものを感じて疎ましく思っている……みたいな感じです。

なので信玄の方もわざとバカ殿を演じて父親の不興を買わないようにしているようなところが今までありました。

Qもし武田信玄が長生きしたら・・・

武田信玄に関してお聞きしたい事があります。

私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。
ただ52歳で亡くなっており、短命でした。
京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが
もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら
どちらが勝ったでしょうか?

織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか?

また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか?

それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。
皆殺し、人質を売ったり等…
これは事実なのでしょうか?

皆さんの予想をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しな...続きを読む

Q武田信玄の家来 先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました 諏訪と言う名字です 家紋は諏訪神社下社と

武田信玄の家来
先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました
諏訪と言う名字です
家紋は諏訪神社下社と同じで諏訪梶の葉です
本当に武田信玄の家来でしょうか
わかる方教えて下さい

Aベストアンサー

その情報で断定は出来ないんじゃないでしょうか。

せめて家系図無いんでしょうか?
諏訪を名乗れるということは、諏訪氏一族でも本家に近いはずですから、
家系図ぐらいはあるはずです。

それも無いのなら、話半分くらいで聞いておくのが一番良いんだろうと思います(笑)。

Q     武田信玄が戦法を真似たといわれているのは

武田信玄が戦争で戦法を真似たといわれているのは、人から中国の孫子と聞きましたが僕は諸葛孔明だと思います。いったい武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?

ちなみに孫子からは思想をまねる事はできても、戦術は無理だと思いました。

Aベストアンサー

武田信玄「を」真似たと言われるのなら徳川家康ですが、武田信玄「が」真似た戦術家はいないのでしょう。

確かに武田信玄は有名な旗印「風林火山」を「孫子」から引用して使用しました。しかし、質問者さんもご指摘の通り「孫子」は戦略としての兵法書であり戦術書ではありませんよね。(ここでの戦略は次にどこを攻めるかといった大きな視野での分国経営計画、戦術は局地的な戦闘方法の意味で使っています。戦略の失点は戦術で補う事は不可能とされています。逆、即ち戦術の失敗を戦略で補う事は可能です)

諸葛孔明は某ゲーム会社のおかげで日本国内でも随分な人気ですが、彼は#3さんの回答にある通り政治家としての実績はありますが軍事的な実績は歴史上あまり見つけられません。(三国志演義ではスーパー軍師ですけど)

戦法を真似た、と質問者さんがお考えなのは陣形でしょうか?川中島の合戦(第四次)では「鶴翼の陣形」、三方ヶ原の合戦では「魚鱗の陣形」など中国の兵法書に出てくる陣形を駆使して戦っていますからね。
しかし、これらの陣形は残念ながら諸葛孔明のオリジナルではないので(鶴翼は包囲陣形、魚鱗は密集陣形でカルタゴの名将ハンニバルの時代から概念はありましたから)武田信玄が誰かの戦法を真似した、とまでは言えないと思います。

余談として武田信玄と言うか武田軍のエピソード:
他国の大名の細作(スパイ)が武田軍の工事現場に労働者として紛れ込んで秘密を探ろうとしたが、スグに発見され捕らえられた。理由は簡単、その工事現場では股引の色を統一していたのだがスパイは知らなかったので違う色の股引だったから。
当時こんな事を考えた戦国武将ってスゴイと思いますよ。諸葛孔明が(三国志演義で)敵の偽りの見破るのは彼のずば抜けた知性のおかげで、他の人は真似できない話ばかりでしょ(だからスーパー軍師なんだけど)
武田信玄は「孫子」から用間(スパイを使う)を学び自己流にアレンジして使っていたのでしょう。その思想は家康に伊賀、甲賀の忍びを組織化させるという形で受け継がれたのではないでしょうか。

P.S.「孫子」はただ読めば良い訳ではありませんね。国士無双の韓信が背水の陣を思いついたのは「孫子」からですが、同僚の将は「孫子」を読んでいても思いつかなかったのですから。

武田信玄「を」真似たと言われるのなら徳川家康ですが、武田信玄「が」真似た戦術家はいないのでしょう。

確かに武田信玄は有名な旗印「風林火山」を「孫子」から引用して使用しました。しかし、質問者さんもご指摘の通り「孫子」は戦略としての兵法書であり戦術書ではありませんよね。(ここでの戦略は次にどこを攻めるかといった大きな視野での分国経営計画、戦術は局地的な戦闘方法の意味で使っています。戦略の失点は戦術で補う事は不可能とされています。逆、即ち戦術の失敗を戦略で補う事は可能です)

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Q武田信玄

 武田信玄についての面白い小説があれば教えてください。

Aベストアンサー

既出ですが、武田信玄といえば新田次郎氏の
小説がもっとも著名だと思われます。

横山光輝がマンガ化した武田信玄の原作も
新田次郎氏のものです。

小説以外にも研究書も書いています。

私はこれを読んでからというもの
信長の野望で武田にしたときは
必ず、織田・徳川を滅亡させて
悔しさを晴らします。

Q武田信玄と上杉謙信の虚像と実像

武田信玄と上杉謙信の虚像と実像についてそれぞれ教えてください

Aベストアンサー

最近の研究の進歩から言えば枚挙に暇ありませんが、いくつか挙げるとするならば

信玄
○晩年の西上作戦について
 ・元亀2年から三河・遠江に侵攻そいて、信長・家康と敵対
  → 天正3年の長篠合戦直前の勝頼の侵攻の史料であり、信玄は元亀2年段階では信長らと敵対していない。
 ・信長包囲網を築き上洛を目指した
  → 足利義昭らの反信長勢力に引っ張り出されたのであって、主体的に信長と敵対しようとしたわけではない。また上洛を目指したわけでもない。

○武田家滅亡の原因
 ・勝頼の能力の問題
  → 勝頼は何度も信長と和睦しようとしているが、信長は拒絶していた。その理由は信玄に何度も使者を送り懇意にしていたのに、突然侵攻されて裏切られたことを信長は忘れていなかったため。つまり、武田家が滅亡するまで決定的に攻撃された原因は信玄にある。ちなみに、信長に滅ぼされた勢力の大半は信長を裏切った者たち(敵対しただけの勢力は許されていることが多い)。

○男色の相手
 ・春日虎綱(高坂昌信)
  → 史料にでてくる「源助」は虎綱ではない。

鴨川達夫氏の『信玄と勝頼』や『武田信玄と毛利元就』が参考になります。

謙信
○性格について
 ・義を重んじる正義の武将だった。
  → 関東出兵も信長との戦いも現実利害が原因。そもそもそれぞれに領地を持つ半独立的な家臣団が大義名分を掲げられても従うわけがない。
 ・信玄とライバルでその死には敬意を示し、武田を攻めなかった。
  → 信玄の死を確認すると、織田・徳川に一緒に武田攻めをするよう働きかけている。

○最後の出陣
 ・信長と決着を付けるため、上洛する予定だった。
 → 関東に出兵の予定だった。

最近の研究の進歩から言えば枚挙に暇ありませんが、いくつか挙げるとするならば

信玄
○晩年の西上作戦について
 ・元亀2年から三河・遠江に侵攻そいて、信長・家康と敵対
  → 天正3年の長篠合戦直前の勝頼の侵攻の史料であり、信玄は元亀2年段階では信長らと敵対していない。
 ・信長包囲網を築き上洛を目指した
  → 足利義昭らの反信長勢力に引っ張り出されたのであって、主体的に信長と敵対しようとしたわけではない。また上洛を目指したわけでもない。

○武田家滅亡の原因
 ・勝頼の能力の問題
  →...続きを読む

Q武田信玄の「人は城 人は石垣 人は堀」後世の創作ですか

武田信玄の有名な言葉

「人は城 人は石垣 人は堀. なさけは味方 あだは敵なり」 というのが

実は、後世の創作だったって聞きました

それではなくても「後世の偽作」と言葉もあるし。

その文章、かなり好きだったことですが、、

「武田信玄が話したことではなくて、本当は後世(江戸時代?)の作品」という主張、本当ですか

Aベストアンサー

■武田信玄が引用した言葉とされていることから、信玄関係を調べる。『武田信玄の知恵袋』(鈴木健二著 講談社 1987)には、『甲陽軍鑑』に信玄の歌として紹介された。信玄の政治姿勢の基本。『孫子』の五事の備えをモットーとしていた。『改訂甲陽軍鑑』中(磯貝 正義・服部 治則/校注(史料叢書) 新人物往来社 1983)には、「人は城人は石がき人は堀情けは味方あたは敵なり」を信玄公の歌とある人が云ったとある。『無敵・武田軍法の研究』(土橋治重著 PHP研究所 1983)には、信玄の歌かどうかはっきりしないとある。

また、次のような説もあります。

 「人は城、人は石垣、人は堀」とは、信玄の業績を江戸時代になってまとめた甲陽軍鑑の一節です。実際に信玄がこのような言葉を口にしたかどうかは定かではありませんが、信玄は人こそが国の基であると考え、甲陽軍鑑の一節を地で行くような領国経営を行ないました。信玄在世中、甲斐国内に新たな城が一つとして築かれることがなかったのは有名な話です。甲斐は国土全体が山で囲まれ、それ自体が一つの巨大な城郭のような地勢をしていました。この地理的条件を十二分に活用し、信玄はその在世中に一度として甲斐に敵軍を侵入させることがありませんでした。

どうも後世・江戸時代になってからの創作のようですが、信玄の戦略、政治、思想をこの言葉に言い表したものか、信玄自身が発言したり詠ったものを、「甲陽軍艦」という書籍に纏めたのかどうかは定かではありません。

■武田信玄が引用した言葉とされていることから、信玄関係を調べる。『武田信玄の知恵袋』(鈴木健二著 講談社 1987)には、『甲陽軍鑑』に信玄の歌として紹介された。信玄の政治姿勢の基本。『孫子』の五事の備えをモットーとしていた。『改訂甲陽軍鑑』中(磯貝 正義・服部 治則/校注(史料叢書) 新人物往来社 1983)には、「人は城人は石がき人は堀情けは味方あたは敵なり」を信玄公の歌とある人が云ったとある。『無敵・武田軍法の研究』(土橋治重著 PHP研究所 1983)には、信玄の歌かどうかはっ...続きを読む

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