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武田信玄が戦争で戦法を真似たといわれているのは、人から中国の孫子と聞きましたが僕は諸葛孔明だと思います。いったい武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?

ちなみに孫子からは思想をまねる事はできても、戦術は無理だと思いました。

A 回答 (6件)

おそらくこの感じじゃ知らないようなので一応言いますが、孫子には「孫子の兵法」ってすんばらしい兵法書があります。

諸葛亮もこれに学び、呉はまさにこれの兵法をうまく使っており、軍はどの武将も驚くほどの行動力となりました。残念ながらこの孫子の兵法の実物は存在しておらず、曹操が書き写したものが存在しております。
そして、あの武田信玄の旗「風林火山」はまさに孫子の兵法の中に記されております。
ほかにもこの孫子の兵法というのは世界中に出ており、ナポレオンなども使用したと言われております。
いまでも本屋に行くと「孫子の兵法に学べ!」みたいな本が数多くあります。
 「故曰 知彼知己 勝乃不殆」
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武田信玄の軍旗の「速きこと風の如く、静かなること林の如く・・・」という言葉は「孫子」からの引用です。

 
「孫子」は戦術書の宝庫のようなものですが、内容的には戦術の基本を説いたもので、思想書ともいえるものです。

従って信玄はこれを真似たのではなく、その精神を日本の国土、事情に合うように読み込んで応用したのです。
諸葛孔明も信玄と同様だったのです。
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諸葛孔明は軍事的な業績のあまりない人で、むしろ大きな政略や国の運営に才能を発揮した人です(三国志演義などの「物語」は別として、正史の三国志では軍事的才能は評価されていません)。



ちなみに孫子は、全文読んだことがありますか?
昔の漢語なので、ずいぶんシンプルですが、個々の話は全てが「具体的」です。
三国志の魏の曹操も「孫子」をバイブルとした人で、自分自身の経験に照らして注釈書まで書いています。
それとあわせて読むとさらに分かりやすいものとなりますよ。

武田信玄に限らず「孫子」は、現在でも世界中の実戦にたずさわるひとたちに読まれていますが、それはその思想的背景だけでなく、個々の戦術にたいして優れた参考書であるからです。
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こんにちわ。



孔明が素晴らしい軍師・兵法家だったとしても、孔明のとった戦略上の行動は「孫子」に解説されている事例の具体化と言って良いでしょうね。

孔明は「孫子」を超えた訳ではありませんから。

武田信玄ですが、幼少期にお寺のお坊さん(名前は忘れましたが・・・)から「孫子」を学んだと言われています。

戦国時代の武将の間で、「孫子」はよく読まれていたらしいですが、「三国演技」を含めて三国志が読まれていたとは聞いた事がありません。
(孔明は兵法書を残していませんし。。。)

ですので、「武田信玄は「孫子」を手本とした」で良いのではないでしょうか。
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>武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?



武田信玄は誰の戦術も「真似」てはいませんよ。真似程度であそこまで版図を広げる事は出来ないでしょう。人の真似は必ず敵に読まれます。信玄ほど老獪な将が物まねに終始する筈がありません。
信玄は孫子(多分それだけではないでしょう)の思想を学び、自分が置かれている環境に合わせてその思想を応用し、自分の物としていったのです。兵書の思想がいかに優れていても、読者(実行者?)の置かれた現実とのすり合わせが出来無ければ机上の空論に過ぎないのです。よく戦争映画などで、古参のベテラン軍人が新米少尉に「士官学校で習った事なんか忘れちまえ」とか言うシーンがあるでしょう。あれはそう言う事なのです。
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武田信玄「を」真似たと言われるのなら徳川家康ですが、武田信玄「が」真似た戦術家はいないのでしょう。



確かに武田信玄は有名な旗印「風林火山」を「孫子」から引用して使用しました。しかし、質問者さんもご指摘の通り「孫子」は戦略としての兵法書であり戦術書ではありませんよね。(ここでの戦略は次にどこを攻めるかといった大きな視野での分国経営計画、戦術は局地的な戦闘方法の意味で使っています。戦略の失点は戦術で補う事は不可能とされています。逆、即ち戦術の失敗を戦略で補う事は可能です)

諸葛孔明は某ゲーム会社のおかげで日本国内でも随分な人気ですが、彼は#3さんの回答にある通り政治家としての実績はありますが軍事的な実績は歴史上あまり見つけられません。(三国志演義ではスーパー軍師ですけど)

戦法を真似た、と質問者さんがお考えなのは陣形でしょうか?川中島の合戦(第四次)では「鶴翼の陣形」、三方ヶ原の合戦では「魚鱗の陣形」など中国の兵法書に出てくる陣形を駆使して戦っていますからね。
しかし、これらの陣形は残念ながら諸葛孔明のオリジナルではないので(鶴翼は包囲陣形、魚鱗は密集陣形でカルタゴの名将ハンニバルの時代から概念はありましたから)武田信玄が誰かの戦法を真似した、とまでは言えないと思います。

余談として武田信玄と言うか武田軍のエピソード:
他国の大名の細作(スパイ)が武田軍の工事現場に労働者として紛れ込んで秘密を探ろうとしたが、スグに発見され捕らえられた。理由は簡単、その工事現場では股引の色を統一していたのだがスパイは知らなかったので違う色の股引だったから。
当時こんな事を考えた戦国武将ってスゴイと思いますよ。諸葛孔明が(三国志演義で)敵の偽りの見破るのは彼のずば抜けた知性のおかげで、他の人は真似できない話ばかりでしょ(だからスーパー軍師なんだけど)
武田信玄は「孫子」から用間(スパイを使う)を学び自己流にアレンジして使っていたのでしょう。その思想は家康に伊賀、甲賀の忍びを組織化させるという形で受け継がれたのではないでしょうか。

P.S.「孫子」はただ読めば良い訳ではありませんね。国士無双の韓信が背水の陣を思いついたのは「孫子」からですが、同僚の将は「孫子」を読んでいても思いつかなかったのですから。
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