源 頼朝の弟であり、義経の兄である範頼 はどのような最後を送ったのでしょうか?教えてください。

A 回答 (2件)

補足的に読んでください。


どうやら蒲冠者・源範頼については、死についてもはっきりしないそうです。
信頼できる資料が存在しないらしいです。kasukaさんのおっしゃることは
配流されたという事実から範頼は兄頼朝の誤解からやがて修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められて、自害したと憶測されているに過ぎないらしいです。

下記のホームページをご覧ください。

参考URL:http://www.dokidoki.ne.jp/home2/kunik/noriyori.h …
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この回答へのお礼

ご親切に回答いただきありがとうございました。アメリカのメル友から質問されました。資料が家にないし、インターネットでも見付からず困っていました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/11/05 09:44

義経同様に、疑われ、伊豆の修善寺に幽閉され


建久4年(1193年)殺されてしまいました。
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この回答へのお礼

ご親切に回答いただきありがとうございました。アメリカのメル友から聞かれ、答えが分からず困っていました、参考になりました。

お礼日時:2001/11/05 09:47

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Q梶原景時の守山のいちごの歌とは?

梶原景時には、「梶原景時の守山のいちごの歌」と言っただけで通じる有名な歌がありますか。

用例(柳田國男著、「ウバも敬語」)
伊豆などは梶原景時の守山のいちごの歌にも見えるように、あの頃から既にウバをウマという地方であった。
注)ウバは「姥」か「乳母」を指すと思われます。

情報不足で済みません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

もり山のいちこさかしくなりにけり
               平 時政朝臣
むばらがいかにうれしかるらん
               前右大将頼朝

梶原景時の歌ではなくて、北条時政と源頼朝の連歌だと思います。
下記URLの「源頼朝の連歌」のところをご参照ください。
http://www33.ocn.ne.jp/~mnh/hito/hito_02.html

Q 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼

 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼朝に無断で、後白河法皇から検非違使に任命されたことに怒り、鎌倉入りを拒みました。
これに対し、後白河法皇は、義経に、頼朝討伐の院宣を出しましたが、
これに怒った頼朝が大軍を京に向けたところ、今度は後白河法皇、頼朝に、義経討伐の院宣を出したと認識しています。

 短期間のうちに、お互いを討伐するような院宣を出すことはありえるのでしょうか?
ご存じの方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

義経、行長に頼朝追討の令を下しましたが、これは院宣でなく「宣旨」でした。
義経等に脅迫されやむなく後白河法皇が命じたのですが、
「宣旨」は天皇の命令で、「詔勅」に比して内輪の文書です。

法皇はこの宣旨を出したあと、すぐに義経達に悟られぬように、頼朝に釈明の使いをだしました。
しかし頼朝の怒りは解けず、頼朝に義経、行長を召し捕るべしとの「院宣」を下しました。
「院宣」は法皇の命令ですが、天皇の「詔勅」と同格で「宣旨」より上格です。

従い天皇の宣旨の後、法皇の院宣が出れば後の上位の院宣の方が効力があり、実質宣旨は失効になります。   もっとも宣旨といっても法皇が出しているのですが。
前言取り消しという事ですか。

一応矛盾はなく、後白河法皇のしたたかさはたいしたものです。  武家に生まれれば英雄になったでしょう。    

Q梶原景季が源頼朝・義経の不仲の原因の一つ?

 石橋山の戦いで源頼朝を救った梶原景時、
その子である梶原景季が、
源頼朝と源義経の不仲の原因の一つと聞きましたが、
そうなのでしょうか?

Aベストアンサー

梶原景季は一の谷の戦いや、屋島の戦いで義経の援将として頼朝におくりこました。
しかし自分の作戦が義経に却下され、面目をつぶされた景季は頼朝に華々しい戦果を過小に評価をし報告しました。


景季は頼朝の愛臣だったので、頼朝は信じてしまいました。
そして頼朝は義経の荘園を没収し鎌倉の出入りを禁止しました。

その後、義経は有名な腰越状を発ましたが意味もなく
ついには頼朝打倒の兵を揚げてしまいます

Qもし平清盛が源頼朝と源義経を処刑していたらその後の展開はどうなりますか?

もし平清盛が源頼朝と源義経を処刑していたらその後の展開はどうなりますか?

Aベストアンサー

源氏の生き残りは 誰かを統領にして戦うでしょう
隠れている源氏はいくらでも居る
平家は必ず 滅ぼされたでしょう
言い切れる理由に
平家に有能な人が居なかったと言う事と
復習は怖い と言う事です
 
注目したい事は 世界史等からも
この時代から 日本だけでなく
世界規模で戦争の時代に入った
と言う事 

其の発端が 日本は僧侶(保元の乱)
西洋は教会(十字軍)なんですね
ここにも注目

聖職者の堕落が戦争の発端

Q遙かなる時空の中で3 このセリフは……(>_<)

梶原景時が軍議の時(だったと思うけど)に九郎に
「御意~ってね♪」と若干ふざけ気味で返事してましたよね。
このシーンってどこでしたっけ?
この台詞、キャラ攻略となんの関係もございません。
ですが、結構気に入ってます。
景時攻略をこれからやる予定なんで、この台詞のシーンももっかいゆっくり見たいと思っています。
(それにしても、各キャラ攻略してたら梶原兄妹が残ってしまった自分っていったい…(-.-;) )
お暇な方々、教えてくださいませ。m(__)m

Aベストアンサー

三草山で確か・・・一度いったかと。
それだけでなく、何度かいうと思いますよ。

頼朝、政子には「御意」と返事をするので、
景時ルートだったら聞けないかも、ですね・・・(汗

まぁメッセージスキップを利用しつつ、軍議を調べれば、たいした時間はかからないのではないでしょうか?
三草山と福原しかないので。
あまりお役に立てなくてすいません。(汗

景時さんといえば白虎か大威徳明王を集める時に語尾にハートがついてビックリしたおぼえが・・・

Q源義経、頼朝などの苗字って?

源義経、源頼朝、平清盛、大江広元などには、北条時政たちのように苗字はなかったのでしょうか?

       苗字  氏   諱
北条時政  北条  平   時政
安達泰盛  安達  藤原  泰盛
源 義経  ?    源   義経
平 清盛  ?    平   清盛

Aベストアンサー

苗字(名字)は所領や屋敷の場所などを自称するうちに家名として定着したものですから、法律や権力者の命令によって全国一斉に名乗るのが義務付けられた、というようなものではありません。苗字が定着しても、明治5年までは公式な名称は氏であり、苗字は通称にすぎません。

また、本人が名乗ったかどうかは定かではありませんが、歴史学者の角田文衛は、源頼朝の一族を鎌倉家、平清盛の一族を六波羅家と称した上て、源平合戦という表現は誤解を招くと力説しています。

蛇足ですが、大江広元の子の季光が毛利入道と号し、その孫の時親が安芸国吉田に所領を得たのが毛利家の始まりです。

Q歴史上で有名な馬の名前は?

 歴史上で有名な馬といえば、どんな名前の馬がいるのでしょうか? 日本史でも世界史でもかまいません。よろしくお願いします。
 (先日、馬込の万福寺というお寺を訪ねたら、「名馬磨墨(するすみ)の像」というのがありました。梶原景時の愛馬だったそうです。日本の馬の名前もいいものだなあと思いました。これまで馬の名前といったら、競走馬の名前しか知らなかったもので、いろいろ知りたくなりました。)
 

Aベストアンサー

 私が知る有名な馬の名前、と言えばやはりナポレオンがよく騎乗した白いアラブのStallion(種馬、ひいては去勢していない牡)マレンゴMarengoです。
 戦闘の指揮者は、遠目にもすぐわかる白い馬は乗らないのが通常だった・・・と聞きますが、ナポレオンは個人用に130頭もの馬を持っていたのにも関わらず、1799年にエジプトから連れてこられて以降この小さなアラブ馬に乗り続けたようです。
 なぜかというと、彼は背が低く足が短かく下腹もつきでた体型のために、148cmほどしかなかったマレンゴはちょうどよかった・・・と手持ちの馬辞典には書かれています。
 が、同時にこの馬がアラブらしい均整の取れた体型を持ち、並外れて勇敢で落ち着きがある、抜群のスタミナと速力を兼ね備えて皇帝を乗せるのにふさわしい馬だったこともたしかです。朝食前に80kmを走破し、その後5時間で130kmを走り抜いたと書いてあります。
 彼以降、「えらい人は白馬に乗る」が定着したと聞いたこともありますから、影響力は大きいですね。

 あとはアレクサンドロス大王が乗っていたというブケファラス、現在の皿部レットの9割にその血が入っているというエクリプス、神話の主神オーディンが乗る、冥界を渡ることもできるという8本足の馬(蜘蛛?!)スレイプニルでしょうか。
 スレイプニルは、北欧神話中人気のある男神ロキが「母親」、出生秘話は神々の存続がかかった黄金のりんごが賭けられた話だというからすごいですね。
 それに番外編でトロイアの木馬。

 ・・・歴史上じゃなかった~。
 三国志や平家物語にでてくる馬は名前が残りやすいですね。磨墨もそうですが、頼朝が佐々木高綱に与えたという「名馬いけづき」ですが・・・この馬は「池月」なんて風流な当て字がされていますが、相当の暴れ馬であったようです。
 昔の馬はモウコノウマに近い、非常に攻撃的で戦場では蹄に敵兵をひっかけ、自ら噛みつきにいくまさに猛獣のような馬こそ名馬と褒めたたえられたと聞きますが、いけづきはその最たる馬でしょうね。もともとの漢字は「生食」、つまり生きている人間に容赦なく噛みついて大怪我を追わせるところからついた名前だそうです。おっそろしー。
 なんでしたっけ。アメリカの有名なとある馬も気性が激しく、和めるようにと馬房に猫をいれたら即座にとびかかって噛みつき、天井に叩きつけて殺したとか・・・。
 モウコノウマなど牡は特に非常にきつくて、砂漠型の馬だと数頭がかりでもあっというまに殺されたという記録が残っているそうです。池月たちもそういう馬だったんでしょうね。
 余談がすぎましたが、私にとって「歴史上に名を残した馬」というと、こんな感じです。

 私が知る有名な馬の名前、と言えばやはりナポレオンがよく騎乗した白いアラブのStallion(種馬、ひいては去勢していない牡)マレンゴMarengoです。
 戦闘の指揮者は、遠目にもすぐわかる白い馬は乗らないのが通常だった・・・と聞きますが、ナポレオンは個人用に130頭もの馬を持っていたのにも関わらず、1799年にエジプトから連れてこられて以降この小さなアラブ馬に乗り続けたようです。
 なぜかというと、彼は背が低く足が短かく下腹もつきでた体型のために、148cmほどしかなかったマレンゴはちょう...続きを読む

Q義経VS頼朝で、なぜ義経に加勢する武将が少なかったのでしょうか

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。

義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。

一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として勢力を保持して
いた。徳川家康のような、その力を誰もが認めるような存在で
はまだなかったと思います。また家康のような力を持ってい
ても、関ヶ原では西軍側にも拮抗した軍勢が集まっています。

このような状況で、義経が反旗をひるがえした後、義経に味方
する軍勢はほとんど集まらず、最後は後白河からも見放され、
あっという間に転落してしまいました。

私としては、なぜ義経がかくも短期間でヒーローからあまりにも
みじめな最後をとげることにnってしまったのかがどうしても分か
りませんし、そこの ところをうまく説明した、解説本も知りません。

1. 義経に人徳がなかったのでしょうか(人徳でいえばむしろ頼朝の
方が冷徹であったといわれています)
2. 周囲の大半の勢力は冷静に頼朝と義経の力量を計算して頼朝を
選んだのでしょうか(しかし戦でいえば義経の評判が高かった
わけだし、強い方に加勢する心理が働いてもおかしくなかったのでは)
3. 源平の合戦が続いて、世間に厭戦気分が強く、また日本を二分する
ような戦を誰も望まなかったので、既に地盤を固めている頼朝を支持
したのでしょうか

それとも、他に何か理由があるのでしょうか?

よろしくお願いいたします

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。

義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。

一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として...続きを読む

Aベストアンサー

当時の武士というのは、読んで字の如くの戦闘員・戦いのプロというより、普段は自分の土地を家来や領民に耕させ、米など農作物で生活する人々。当然武士の関心事は田畑にあるわけです。

当たり前ですが武士も人間なので子が生まれやがて死にます。

となると気になるのは土地を誰が相続するのか?長男?それとも親に可愛がられた次男?子供たちは若すぎるから叔父さん?とその土地を誰が継ぐの?系の問題が鎌倉幕府開設前からありました。鎌倉開府前には藤原氏や院、時にはお寺。誰々の土地だからその土地の持ち主が決める。けど時代の流れでもって藤原氏が強かったり院が強かったりで誰に相続されるかが安定せず、またその主に気に入られた三男が継ぐことになったり、と安定しないわけです。

こんな不安定な制度は誰でも嫌なもの。公平な相続お裁きをしてくれる機関が欲しく、そのボスには高貴な血筋の人間を据えて説得力を増したい。そんなわけで清和源氏ブランドのボス・源頼朝に白羽の矢が立ち、鎌倉開府となったわけです。



さてこの裁定機関が二つあったらどうでしょう?二つとはもちろんご質問の頼朝と義経です。例えばあの土地について頼朝は長男が継げと言い、義経は次男が継げと言い…武士達にとっては裁定機関は一つでよく、彼ら目線で支離滅裂になっては困るのです。源氏の長者は一人でよく、二人も要らんのです。

また頼朝は源義仲や平氏追討は義経らに丸投げし、自分は関東に残っています。頼朝は別に関東で酒池肉林のドンチャン騒ぎで遊んでいたわけではなく、裁定機関の準備を進めるわけです。源義仲や平氏が滅んだ頃には準備がかなり進んでいたでしょう。周りの武士たちにしてみれば、これで俺達の裁定機関ができるぞって時期に、頼朝の指示を聞かない義経くん。彼は頼朝=裁定機関=武士達の指示を聞かないわけです。

武士たちにとって邪魔ですよね?義経くん。

頼朝と義経各個人の人徳や力量比較は(どちらかというと)武士達にはどうでもよく、例え頼朝の弟と言えど裁定機関の指示に従ってもらわなければ困るんです。折角、平和な世の中に向かっているというのに、いわばKYな義経くん…困りますよね?

戦場での奇想天外な発想…というより、誰が見ても無理そうな課題を発想力で解決する能力は、頼朝よりも…というより日本史上最高の武将でしょう義経は。中でも騎馬による奇襲など戦闘指揮官としては義経の才能は、世界に誇ってもいいくらい。

ですがそんなものは武士たちの土地相続問題には要らない才能。武士達の希望は公平なお裁き、公平な論功行賞。それらに戦闘指揮官の才能は不要です。もっと言えば冷徹にどちらが正しいか判断してくれる人や機関の方が必要なのです。

ご質問には記載はありませんが、範頼も義経に似たような雰囲気を醸しています。紆余曲折の末、源実朝を最後に清和源氏の嫡流は滅んでいます。にもかかわらず、裁定機関の鎌倉幕府はその後も続いています。武士たちにとって源氏が大事だったのではなく、裁定機関が公平に活動してくれればそれで良かったのです。



と長文で申し訳ありませんが、回答としては次のようになります。

4. KYな義経くんは鎌倉幕府=武士達の指示に従わなかったから、もしくは要らない子だったから。

当時の武士というのは、読んで字の如くの戦闘員・戦いのプロというより、普段は自分の土地を家来や領民に耕させ、米など農作物で生活する人々。当然武士の関心事は田畑にあるわけです。

当たり前ですが武士も人間なので子が生まれやがて死にます。

となると気になるのは土地を誰が相続するのか?長男?それとも親に可愛がられた次男?子供たちは若すぎるから叔父さん?とその土地を誰が継ぐの?系の問題が鎌倉幕府開設前からありました。鎌倉開府前には藤原氏や院、時にはお寺。誰々の土地だからその土地の持ち...続きを読む

Q教えてください。

源 頼朝の弟であり、義経の兄である範頼 はどのような最後を送ったのでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

補足的に読んでください。
どうやら蒲冠者・源範頼については、死についてもはっきりしないそうです。
信頼できる資料が存在しないらしいです。kasukaさんのおっしゃることは
配流されたという事実から範頼は兄頼朝の誤解からやがて修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められて、自害したと憶測されているに過ぎないらしいです。

下記のホームページをご覧ください。

参考URL:http://www.dokidoki.ne.jp/home2/kunik/noriyori.html

Qなぜ、頼朝は義経との初対面で弟であると認知できたのでしょうか

源義経の生涯のうち、ほぼ事実と認定されており、あまり話題になることもないにもかかわらず、とても不思議なことがあります。それは、頼朝との初会見における血縁の認定です。
 自らの血統を正統性根拠として、ようやく勢力を安定化しつつあった頼朝にとって、一方では血縁による個人的基盤強化の誘惑はあるでしょうが、それ以上に、血統正統性を悪利用する混乱因子が近寄ってくることこそ警戒の対象だったはずです。頼朝支持基盤である関東武士団にとっても同様でしょう。
 そこに現れたのが、自称”異母弟”の義経です。しかし、なぜ、頼朝は疑うことなく、これが確かに弟と認定できたのでしょうか。 その時点では、頼朝のみならず、おそらく全員が、義経と一度も面識もなく、また
兄弟であることの証拠品が提出されたとの記録も残っていません。
 義経は、吾妻鏡では単身、源平盛衰記でも20騎程度という少人数で登場します。冷静に考えたら、どこの風来坊かというような姿です。その様な状況で、初対面での兄弟の認知の場面は、私には想像を超える光景に思えるのですが。

Aベストアンサー

#4です。お礼ありがとうございます。

>わからなくなってきました。現代からみれば、話し方や教養、またいかにもそれらしい作り話で騙る詐欺の手口というのは十分考えられる、というか、普通に警戒することだと思うのですが、

現代のわれわれが均等な教育を受けることができるのは、大学がいっぱいあって教師がたくさんいること・黒板や机、いすなどを含めて小学校を安く大量に作ることができること、ノートや教科書にする紙がたくさんあり印刷ができて大量に運べること、などの恩恵を受けているのです。
現代でもアフリカの貧しい国では、ノートを買うことができず、教師の給料を払えず、校舎をつくる資金もありません。そうなると、子供たちは勉強ができませんので、育って教師になる人も出てきませんし、技術者になったり、ITを使える人も出てきません。工場も電力インフラも自前で作れず、外国に頼むと高いお金がかかるから結局貧しいまま、ということになるわけです。

平家や源氏が活躍した時代は、もっと格差がありました。紙を買うことができるのは貴族(平家など高級武士も含む)や寺社だけ、教育も学校なんてありませんから、貴族は中国帰りの高僧とか国内で優秀な算術家などを招いて教えていたわけです。
下級貴族は最低限の読み書きはできても、弓や馬にのる練習のほうが多かったでしょうし、平民というか農民は読み書きなどできずに、農業に従事していたわけです。

ですからそもそも「身代わりになれる」ほどの教養や知識を持っている人が少なく、知識を試してみれば「誰に教えを受けたか」など分かってしまう状態だったわけです。

また、服も貴族や高級武士は絹を着ていたでしょうが、この時代はまだ綿(木綿)がありませんので、上流階級以外は麻が基本で、貧困していると褌以外なにも着ない(寒さをしのぐのは蓑を着る。蓑なら藁だからたくさんある)、ような状態だったわけです。

ですから、持ち物一つとってみても、服だけでなく小物入れや筆立、箱などの素材や品質が高級品であれば、その人の持ち物であるか、後は盗んだかしかないわけです。
また、今でも天皇家は自分の持ち物に由来する花の印章をつけていますが、当時の小物などはすべてオーダーメードですから、すべての持ち物になにかの印があるのが普通で、常盤御前が使っていた印がついた古い小物などがあれば、本人確認の一つの証明になったわけで、父・義朝の形見&常盤御前の小物&遮那王時代の印がついたもの&平泉でもらた奥州藤原の印の物などがそろって言えば、限りなく本人である可能性が高くなる、ということです。

これらのことを知り、判定するためには、当然ですが間者を早い段階から忍ばせて情報収集する必要があります。
自分が調べた情報と、義経だと称する本人が言っていることがことごとく一致すれば、本人と認めてもらえるわけです。

ひとつでも間違えば切り殺されますし、そもそも義経側は相手がどれぐらいの情報をもっているか分からないわけです。

その情報には、たいしたことない、でも現場に居れば忘れられない情報も含まれていたはずです。たとえば義経が居た時期の鞍馬寺で起きた騒動(台風で裏山が崩れた、とか)や一緒に寺にやられた兄の癖や好きなご飯などです。

新聞やテレビの無い時代では、こういう情報を広めるのはひじょうに困難ですし、たとえ同時期に京都に住んでいた偽物であっても、裏山が崩れた、というような情報までは入ってこないでしょう。

逆をいえば義経が鞍馬山にいた10歳ぐらいの頃から、平家などが「いずれこの子を偽物に仕立てて頼朝のところに送る」ぐらいの準備をしていれば、ばれないだろう、とは思います。

でも、義経が10歳の頃の頼朝はようやく北条家と懇意になったぐらいですから、その時点でスパイを仕立てることができるほど、先見の明があるなら、平家だって倒されることはなかったでしょう。

当時でも騙しの手口はたくさんありました。写真などが無い以上、今よりも騙しやすかったのも事実です。しかし、教養などは、直ぐに身につくものではなく、特に貴族階級と仏僧と両方を経験している人は多くはありませんから「もし、義経の身代わりになるならこの人物」という特定もできたわけです。
 ですから、義経の本人確認と同時に、身代わりの可能性のある人物がどこでどうしているか、も当然に調べていたはずで、そういうもろもろの多量な情報を突き合わせることで、本人確認を行っていたのです。

#4です。お礼ありがとうございます。

>わからなくなってきました。現代からみれば、話し方や教養、またいかにもそれらしい作り話で騙る詐欺の手口というのは十分考えられる、というか、普通に警戒することだと思うのですが、

現代のわれわれが均等な教育を受けることができるのは、大学がいっぱいあって教師がたくさんいること・黒板や机、いすなどを含めて小学校を安く大量に作ることができること、ノートや教科書にする紙がたくさんあり印刷ができて大量に運べること、などの恩恵を受けているのです。
現代...続きを読む


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