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同時代の日本人は中国に科挙という効率的な人材登用システムがあることを知ってたと思うのですが、どうして科挙を取り入れなかったのでしょうか?

A 回答 (9件)

 試験によって官僚を選抜すると言う科挙のシステムは、近世ヨーロッパにも紹介され、各国の官僚選抜の手本となりました。



 日本でも平安時代に導入されましたが、受験者が殆ど小貴族で、合格者は中貴族に進める程度で、大貴族と呼ばれる、上級貴族に浸透せず、当時の貴族制を突き崩すまでにはいたりませんでした。その後は、武士の台頭と共に廃れ、日本の歴史に影響を与えることはありませんでした。

 本格的に採用されることになったのは、明治維新からです。
 日本で明治維新から行われるようになった高等文官試験は、科挙をヒントにして作られたものです。
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支配階層の総入れ替えがなかったからです。


科挙が人材登用で効率的というのは、「皇帝」にとっての効率です。皇帝が任意に(恣意的といってもいいでしょう)任命できるという意味での効率性です。
中国における王朝交代では、途中に半世紀とかいわば、世代を超えた生き残り戦があり、その結果として新しい王朝が開かれています。皇帝のブレーキとなる貴族層が階層としてぶっつぶれてから新しい王朝になります。階層どころか、支配民族交代もしてます。
日本ではそれほどの、王朝交代の争乱がありませんでした。ということは、鎌倉幕府ができても、京都の貴族は残りましたし、室町幕府もそうなっています。江戸幕府も、織豊系大名を全部はぶっつぶせなかったわけです。
ということは、将軍という絶対権力が、中国の皇帝の絶対権力より弱かったということです。弱かったから、科挙を取り入れられなかったということになります。
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科挙の制度は、随の時代から始まった、中国の皇帝を頂点とした中央集権的官僚制度における人材登用の手段です。



儒教による思想的裏付けをもった制度で、書経の「野に遺賢なからしむ(優れた人材を野に埋もれさせない)」と言うことを建前にしています。また、試験内容も儒教的な教養と歴史観に絞られています(文官の場合ですが)。

日本において儒教が本格的に為政者のバックボーンとなるのは、徳川氏の江戸幕府以降です。武士の間での必須教養と言う位置付けになるのはさらに後半においてでしょう。
そう言う意味で、昌平坂学問所 (昌平黌)は科挙に類似の仕組みになる可能性はあったと思います。

江戸幕府以前における儒教は、貴族や武士の教養としての意義はありましたが、科挙の前提となるほどに国全体に浸透した思想や歴史観とはなっていません。

日本の近代以前の歴史で科挙が取り入れられなかった理由には、こうした儒教の思想的な位置付けにあったのではないでしょうか?
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江戸時代を考えます。



江戸時代には優秀な儒者がたくさん現れ、彼らの中には科挙制や、ひいては儒者が政治に関わることを切望している者もいました。

ただ、その当時は、時代が下るにつれ武士の文官化は進み、例外はあるにせよ、原則として世襲の武士のみが行政に携わる社会でした。「身分」によって、するべきことが定められていましたから(農民は生産、商人は流通など)また、それは広く受け入れられ常識になっていました。

ですので、出身階層を問わず、勉強のみで登用の有無が決まる科挙制は当時の社会常識にそぐわないものでした。

けれども、武士の文官化が進むことで勉強がよくできるものが行政に携わるチャンスや立身出世に大きな影響がありました。下級武士のそのままでは食うか生きるかのような武士が才覚でそこそこの役職についたりとか。

こういう点では科挙制に近いものはあったともいえます。

けれども、その産まれによる区別は大きなもので、高名な儒者だとしても、人間としての尊敬は受けても、彼らが公的に直接的に行政に携わる例は稀です。(誰かのブレーンとなる場合は多い)

つまり、近世社会の常識である、「身分」というものが科挙制のような誰にでもチャンスのある制度を受け入れさせなかったといえるでしょう。ただ、勉強の効能は認められており、「身分」秩序を壊さない程度には受け入れらていたってところだと思います。
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科挙は自分たちが遊べるように、手足となる優秀な人材を集めるためのシステムです。



貴族たちは遊びふけって、科挙で登用した人材は後は任せていたのです。

在る店で店長不在で店員が店を切り盛りしているような感じです。
隊長が先陣を切れば、優秀な人材は科挙みたいなモノが無くても集まります。

武士は大将は先陣にいる習慣があります。
中国は大将は後方も後方。最後尾です。
有能な人間は大将が先陣にいる方を選びます。
だから人材が集まらない中国は人材を集めるために必要だったんです。

後・・・。
科挙は受験戦争みたいなものです。
合格をめぐって醜い争いが絶えなかったんですよ。
賄賂とか賄賂とか賄賂とか。

日本では地域独立が強かったので、わざわざ中央政権に関わりたい人間は少なかったのかもしれません。
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#1です。


同時代ということなんで、唐代から皇帝が最終試験を行うことで科挙が完成した宋にかけての時代つまり、日本の平安時代についての質問だろうと思って#1を書いてます。
鎌倉以降で取り入れられなかった原因は時代時代で若干ニュアンスが異なるでしょう。
信長が天皇家を滅ぼして天下を取っていれば科挙に近い制度が作られた可能性はあるでしょうね。
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中国でも唐の時代は科挙はおこなわれていたものの、基本的には貴族性の時代でした。


中国で科挙が本格的に人材登用に使われるようになる時代には貴族の力が衰えて、皇帝独裁になり、そのための人材登用システムとして科挙が利用されるようになったのです。
しかし、日本はすでに中世の封建制の武家政権の時代で、この精度は世襲が原則ですから科挙のようなシステムは日本には向きませんでした。
また、科挙に応じることができるだけの在野の人材いなかったということも一因でしょう。
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貴方は愛する妻や子供を 科挙のシステムで一任できますか。



信頼関係こそ身の安全だと思いませんか。
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天皇が中国の皇帝のような絶対権力者ではなかったからでしょう。

実際の政治は貴族の合議でなされるわけで、彼らが自分の子供に権力を伝えられない科挙制度を取り入れるはずがありません。
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