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小早川の寝返りはやはり、徳川の勝利に大きな影響を与えたのでしょうか?
西軍勝利のシナリオはありえなかったんでしょうか?

また、秀吉があと、10年生きたら、秀頼も大きくなり、家康も高齢になってました。
どうなってたと思いますか?

A 回答 (7件)

関ヶ原の配置図を見て、ヨーロッパの軍事評論家は、


「西軍の勝ちだ。」
と即座に言ったそうです。
結果を知ると、
「いや、絶対にあり得ない」
こう言い、驚愕しました。

徳川家康本陣は、完璧に包囲され、本陣後方に毛利がいたからです。
このまま行けば、家康本陣は危ういのは明白です。

毛利が内通して、一応は軍を動かさない約束をしていました。
しかし、東軍が不利と見れば裏切るのは必定でしょう。

毛利3家の動きを決定的にしたのは、
毛利小早川の寝返りです。

つまり、小早川が徳川に突撃すると、後方が怪しいのです。3家を見殺しには出来ません。
ここで、毛利本家の突入が考えられます。

豊臣家崩壊の大きな原因は、豊臣5奉行の不仲です。
豊臣秀吉が健在の頃はある程度まとまっていました。

豊臣秀吉の死後も、前田利家の人柄で、何とかまとまっていたのですが、
前田利家が没すると、この問題が一気に浮上し、
奉行の福島正則などが徳川に付き始めます。

豊臣秀吉が生きているならば、不忠(裏切り)は出来ませんから、秀頼の家臣として殆ど残ります。

武田勝頼の例です。
武田勝頼は、諏訪勝頼と言い、信玄の血を引いてはいますが、元は武田信玄の家臣です。

武田の家臣軍団も、元は同じ家臣じゃねーか。こいつは。こう言う気持ちもあったでしょうが、ちゃんと家臣として仕えていました。

しかし、物言いは鋭く、勝頼は言われっ放しになります。

彼の取った行動は、
「信玄公より広い領土」
「戦に勝って、戦に反対した信玄公ゆかりの武将を臆病者となじる」
「意見を言わない家臣をそばに置き、信玄公ゆかりの武将の意見は、我が家臣を通して聞く」

はっきり言ってしまえば、

お前ら、こう言うけど、領土広いよ。
信玄公に勝ったろ。

戦に勝ったろ。危険だのやめろだの言う、信玄公ゆかりの武将などこんなものだ。

お前らもういい。聞きたくない。

言われた事を否定する行動しかとっていないのです。

最後に、織田鉄砲隊の前に大敗走するのですが、
ここで、信玄公ゆかりの武将は、武田勝頼が無事に逃げるのを見届け討死します。
信玄公ゆかりの武将の殆どが無謀な突撃をやってのけ、ここで討死します。

秀頼もこんな感じになるのではないでしょうか?
^^;
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そもそも、西軍は基本的には野戦巧者の家康相手に野戦をするつもりはなくて、持久戦で時間を稼いで、秀頼や輝元の出陣を待つというのが基本戦略でした。


それが、基本戦略を捨ててまで、あえて野戦に出たのは、今なら絶対に勝てると思ったからです。
というわけで、小早川と毛利・吉川が本気で西軍について戦っていれば、メッケルの言うとおり西軍勝利で間違いないと思います。

逆に、家康にすれば、小早川裏切りと毛利・吉川の静観を、確信していたからこそ敵が待ち構えている関が原にあえて進出したともいえます。

秀吉があと10年生きていれば、豊臣の天下が続いた可能性が高いとは思いますね。ただし、朝鮮からの撤兵をうまくやらないといけませんが。
しかし、豊臣政権は、江戸幕府と違って、豊臣の領土(江戸幕府でいう天領)が少なく、また家康250万石を筆頭に、大大名がごろごろいるので、室町幕府のような弱い政権になっていた可能性が高いと思います。
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小早川の裏切りはもちろん大きな影響を与えたと思います。


同様の効果を与えたのは、吉川の傍観で、各々相関関係にあったと思われます。
どちらかが崩れれば、西軍の勝ちもあったかもしれませんが、それはいいっこ無しでしょう。
ただ、「毛利の両川」がこぞって裏切ったことで、結果的に毛利が縮小させられ、その恨みがつのって、260年後にその毛利氏らによって徳川政権が倒されることに歴史の皮肉を感じます。

秀吉が後10年生きたら…
そもそも関ヶ原の戦いは起こらなかったでしょう。
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小早川軍が寝返らなかった場合西軍に味方していたら


前方に布陣していた脇坂、赤座などの日和見部隊を巻き込んで福島隊の背後を突く形になります。
福島隊は正面の西軍宇喜多隊を攻めあぐんでいましたから包囲される形では1~2時間は支えても潰走するしかないでしょう。

福島隊の背後は徳川家康の本隊です。
西軍の石田、小西、島津隊など左翼は東軍の黒田、細川隊の攻撃を受けていましたから前進はできなかったでしょうがこの局面で家康は留まって戦ったか、一時退却して秀忠の援軍到着を待ったかが問題です。
この判断の要は毛利軍と吉川隊の向背です。これが西軍として動けば家康は奮戦しつつ敗走するしかありません。
しかし動かない場合は西軍を支えて持久戦に持ち込み秀忠軍を待つという選択肢がありえます。

関ヶ原の戦いは西軍は本来持久戦を予想していたので、よほどの事がなければ猛攻は避けたでしょうし、
家康も1日で終わるとは思っていなかったでしょう。

秀吉が長生きしても秀頼は天下を治める器量はありませんが家康の子供は逸材揃いですからやはり徳川の世になつたでしょう。 しかし前田、上杉、伊達などもおり戦乱が続いた事はたしかです。
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この回答へのお礼

確かに、後継者として秀頼では、関が原に勝っても、豊臣の時代は短命だったのかもしれませんね。
今でいう。単なる2代目ですからね。

お礼日時:2005/09/08 17:35

>小早川の寝返り



明治時代プロシアの軍人が関が原の布陣を見て、10回戦って10回西軍の勝利と評したそうです。
西軍の陣地は進軍する東軍を三方から取り囲むように
、しかも、台地に布陣していたからだそうです。
やはり、秀忠軍の来ない東軍にとって小早川の寝返りは唯一の勝機といっても過言ではないと思います。

>西軍勝利のシナリオ

この時点では、秀頼を大将として、関が原に連れてきて、三成からではなく、秀頼から諸将に出撃要請するしかなっかたと思います。

>秀吉があと10年生きていたら

歴史と変わらず、家康は秀吉が死んでから行動を起こしていると思います。仮に家康と秀吉が戦っても、小牧長久手の戦いのように、戦術で家康の勝利、戦略で秀吉の勝利になっていたのではないでしょうか。
しかし、もし、家康が秀吉より先に死んでいたら、歴史は変わっていたと思います。
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この回答へのお礼

家康はいずれ、動くときがくること(秀吉の死等)を待っていたんでしょうかね。または信じてたんでしょうか。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスっていわれてますから。

正面きって秀吉と戦うことは、得策じゃないと思ってたのかな。
秀吉が生きてたら関が原は起こってなかっただろうけど、秀吉が指揮をとってたらってどうなってただろうって想像も楽しいですね。

お礼日時:2005/09/08 17:32

西軍にとって、小早川の寝返りはやはり致命的ですね。


小早川のいた山は、実は城になっていて、持久戦も出来るようになっている重要な拠点だったという話を聞いたことがあります。
秀頼を総大将にして、福島正則とかが西軍につけば、戦略的には勝てるんでしょうけど。
それが無理としても、徳川秀忠が来る前に、立花とか西軍の援軍がこれば、戦術的には勝てたかもしれません。

秀吉があと、10年生きてても、問題が先送りになるだけで、(関が原が遅くなるだけで)、そんなに変わらないと思います。
家康がいなくなれば、徳川は天下を取れなかったかもしれませんが、伊達政宗が台頭してきそうです。
結局、鎌倉時代の源氏みたいに、勢力争いに巻き込まれて途絶えるか、室町時代の足利氏みたいに不安定な政権になりそうです。
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この回答へのお礼

家康が知将であったのは事実ですね。結局は秀吉あっての天下であって、秀頼に後継は荷が重すぎたみたいですね。家康がいた以上。


歴史には重要なポイントがあります。
この点、小早川の行動しだいで歴史が変わってたかもと考えたら、その後260年どうなってたのか。


考えさせられます。

それを言ったら本能寺の変がなかったらにもなってしまいますがね。^^

お礼日時:2005/09/08 17:26

(1)寝返りについて


これが東軍に勝利をもたらした要因としては大きいですね
それまで やや西軍優勢で 寝返りにより形成逆転しましたから
逆にいうと 家康は 寝返りを計算に入れててなかなか寝返りしない小早川に向けて鉄砲を放ち、それにおどろいて あわてて寝返り実行したいきさつがあります。

(2)逆に考えて 小早川が裏の裏を書いて 徳川本陣を攻めていれば勝利の可能性は会ったと思いますが・・・ 西軍主力の毛利軍が動かないままなら勝利は苦しいかもしれませんね

(3)秀吉が10年長生きしたら
これはビミョウですね 秀吉が死んだから朝鮮出兵が中止になったわけですから
生きつづけてたら 3次4次出兵があった可能性があるので
(日本国内での 褒美の領地不足は深刻でしたから なぜ北海道侵略しなかったのか?不思議だが)

朝鮮出兵には 家康は出てないので 秀吉が生きつづけてたら
諸大名はどんどん出兵により衰え 家康のみどんどん安泰になるのではないでしょうか?
秀頼に関しては どっちみち性格的に武将向きじゃないので秀吉が生きてるどうのはあまり関係ないと思います
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
(3)なるほどって思いますね。

結局は、秀頼の能力しだいということで、家康に分ありですか?家康みたいにたくさん子供が早くからいて優秀な後継者がいなかったのも致命的なんでしょうか?

秀忠が優秀かといったら、そうでもないようにも思いますが。あれは、後ろに長生きの家康がいましたからね。

お礼日時:2005/09/08 17:18

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