●わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。

 したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。

 人間のしてることでいいことって 何かありますか?
 思い当たる方、教えてください。

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A 回答 (29件中1~10件)

 


  わたしは、初めの頃の No.3 の回答の最後に、以下のように記しました。この意味が貴方に理解できたのかということを考えます。
  実は、これは何を書いているのか、分からない文章なのです。無論、書いたわたくしは、朧にその意味を知っています。しかし、説明をしなかったし、これは、補足がなければ、そもそも分からない文章なのです。いま一度、引用しましょう。
 
  他者の心や考えや、その存在の悲痛が、いかに深淵に満ちたものであるのか、まともに理解できておられないようですから。
 
====================================================================
 
  こういったもろもろのことを考え併せて、しかし、この世には「何かよいことがあるのか?」という問いは、他人に尋ねる問いでもあるでしょうが、自己で問い続けるべき問いでもあるでしょう。そういうことを言っていると宗教的だと言われてしまうのですが、「貴方が生きる」とは、「貴方が生きる」ことなのです。そんなことは分かっていると思われるかも知れませんが、それが「分かっていれば」、聖人でしょう。人間の本性から発露された善や、人為・自由意志による善は、探せば、無数にあることでしょう。無論、それらは、偽善や欺瞞や悪の泥沼のなかに隠れているというか、時に、それらと区別の付かない形であるのでしょうが、それが善であることは、人の苦悩の道を通じてしか実感できないとも言えるでしょう。
 
  「生きよ、死せよ、休息せよ。汝ら、苦悩する雛鳥たちよ」生きよ、死せよ、汝ら、見捨てられし魂たちよ。「神の国は、そこにある、あそこにある、というようなものではない。それは、実に《あなたがたのあいだに》あるのだ」これは『新約聖書』にあるイエズスの言葉ですが、キリスト教の宗教の話だと思わないで、人間の生きる姿を的確に表現した言葉だと受け取るとどうでしょうか。神学的な解釈は色々ありますが、「あなたがた」とは、人間のことだけではないというのが、わたしのいまの考えです(天使のことでもありません)。
 
  誰もかつて、「善」とは何かを知った者はいなかったのだとも言えるでしょう。善の探求、智慧の探求は、こうして、何時までも、人間の課題であり、人は、見捨てられし雛鳥として、いつも限りなく孤独で見捨てられ、しかし、目に見えない《あなたがた》のあいだにあるのだとも言えるでしょう。記憶違いかも知れませんが、インマニュエル・カントは、「我々を導くのは、頭上の星と、我々のうちなる理性である」と述べました。
 
  答えになっていないかも知れませんが、答えのないまま、見捨てられし雛鳥として生きて行くのが、人の生きる姿ではないのかということです。神秘的な話だと言われるかも知れませんが、雛鳥の頭上の夜の空には、燿く一つの星があり、雛鳥を見守り、そして鳥の胸のなかには、理性と知性と、そして智慧への愛、善への志向の課題の自覚があるのではないのかと。こういう言葉です。
 
====================================================================
 
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この回答へのお礼

 ほかのことにも時間を使いたいので 質問を締め切らせていただきます。
●ご回答いただいた皆様に お礼の意味で以下を紹介させていただきます。

●角川書店「死刑執行人の苦悩」 よりエピソードを抜粋。

その死刑囚は30代なかばであった。
世間からはむろん肉親からもみはなされて
まったくの ひとりぼっちという おおかたの死刑囚にくらべれば
その死刑囚はまだ恵まれているほうだった。
妹が面会や差し入れに来ていた。
遠くに住む姉からも 手紙や差し入れが送られてくる。
それでも 死刑囚は不満らしかった。
彼には 感謝というものがまるでない。
せっかく面会にきた妹に悪態をつく。
貧しい生活のなかから工面した差し入れ品に 文句をつける。
面会に来た妹が 泣かずに帰ることはなかった。
「どうせ死ぬんだ。」その死刑囚の口癖だった。
そして警務官に いちいち食ってかかる。
なにかにつけて ことごとく牙をむき 凶暴性をむきだしにする
手のつけられない死刑囚だった。
しかし 法務大臣の執行命令書が届けられた翌日
いつになく しんみりとした口調で 死刑囚は警務官に語りかけてきた。
「おれ 死ぬのはいいんだ。だけど
おれは 四人も殺したからなぁ・・・。
四人の命を おれひとりの命で償えるのかなぁ。」
鉄の扉ごしでなければ このとき警務官は
死刑囚をおもいっきり抱きしめてやりたいとおもった。
死刑囚は本当は 素直に周囲の愛情を受け入れたかったにちがいない。


●わたしの詩より [せみ] にまつわるものを ひとつ。

[ カナカナ ]

午前四時
眠れないわたし
つい今しがた降り出した雨
まだ明けぬ空に
カナカナが鳴き始めた
一匹鳴いたら
あちらこちらで鳴く声が重なった
うす明かりの山々に悲しく悲しく響いた
ふと 思った
今日までの命かと


●わたしたちのご先祖様が 築いてきたさまざまな文化と文明へ
 敬意をはらって いま そのそれぞれの延長線上に 新しい世界を築こう。
 互いの存在を侵さず 地球上のすべての命たちと共に
 その豊穣なる多様性への道を歩もう。
 生を受けた誰もが ここがパラダイスだと感じる日々が来ることを信じつつ・・・。
 ネバーギブアップ! 決してあきらめるなっ! chohoko

お礼日時:2001/11/09 21:09

ここを眺めてて、chihokoさんがタイトルであげた「善について」の質問内容は、



『わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。 したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。 人間のしてることでいいことって 何かありますか? 思い当たる方、教えてください。』

↑と、ありますが、スレとレスのやり取りを重ねることで、人の中に棲む優しい面と怖い面があることを実証されているのかなとおもいながら見ています。(この場合の人というのは、誰か個人を指すのではなしに『人=この世に生を持つ者(人間)』すべてを意味します。)一方を否定にかかれば、もう一方をも肯定できなくなる。人がこの世に存在するならば善なるものと悪なるものを別物と分け、人とすることは無意味。己の存在がないに等しい。善と悪をあわせ持つ者が人(人間)そのものなんだとみせつけられているようです。そう感じました。

『人間のしてることでいいことって何かありますか?』
ありますよ、いまこの場でも見てて感じます。他者が存在していることは、同時にわたし(自分)が存在している。ことの証です。ほら、愛しい旦那様を愛しく思えるのもchihokoさんが、この世に存在してるからでは?存在してること自体が“いいこと”なんじゃないのかなぁ?

一方がまた一方を否定し合う過程は、見え方として醜くも目に映るかもしれません。しかし、自己と他者を対比させることで、相手を否定している自己と他者の本質的な違いのないことが嫌になるくらいみえてきます。怖いです。怖いことを知っていると人は強くなるのかなぁ?死という恐怖に打ち勝てる強さを身に付けるのかもしれません。そのぶん、生への「いまを生きる」このいま(瞬間)を大事にかんじとれるのかともおもいます。

トンチンカン―☆な、回答になりましたらご容赦の程よろしく。 
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございました。

 いちばん新しいご回答者の方への お礼の欄をご覧ください。

お礼日時:2001/11/09 21:15

 


 命をつむぎ出すこと
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございました。

 いちばん新しいご回答者の方への お礼の欄をご覧ください。

お礼日時:2001/11/09 21:17

補足。


“普遍的な悪がありえないのと同様に、普遍的な善はありえない”
これが普遍の真理です。
これを以ってしても、この命題に議論することはまるで意味がない。
“太陽は本当に東から昇るのか?”
こんなことについて議論することと何ら変わりはありません。
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございました。

 いちばん新しいご回答者の方への お礼の欄をご覧ください。

お礼日時:2001/11/09 21:18

再度。


主人、主人と言いますが、人間のしていることで善がないのだとすれば、あなたはどういう判断で数多いる男性の中から、今の主人を選ばれたのでしょうか?
あなたにとって善ある人だと判断できたからではないでしょうか?
案外、善が身近にあり過ぎて見落としているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

●主人はそんなたいそうなモンじゃ ありませんよ。

 命の共鳴を 感じました。
 出会ったとき ふたりはわけもなくケラケラ笑っていました・・・。

お礼日時:2001/11/09 21:21

 丁寧な回答をありがとうございます。


 
 ただ、私が言ったのは「人間の」に限定するわけではありません。何かが「存在」する、それだけのことです。
 人間が存在することに善悪のラベルを貼ることは私にはできません。

 また、自ら死ぬことはともかく、殺されることに悪は感じません。もし、殺したのが人間であり、反社会的な理由から殺したのであれば人間の社会にとって悪ではないかと感じます。
 でも、もしそれが捕食動物の餌になったのであればそれはそれで受けいれなければならないことだとも感じます。同族殺しなら、時と場合によって白い目で見るでしょうね。
 でも、あの・・・「その行いで存在を否定する」とは?
 よくわからない。もしよければお聞かせください。ぜひ聞いてみたい。
 ふと思ったのですが、宇宙人にこういう意見をぶつけてみたいですね。いるかどうかは別として。

 また、プライベートなことにまで踏み込んでいるとお感じになったら申し訳ない。人間の存在から受ける印象がつらいことばかり・・・とお書きですよね。少し、同じように感じています。環境問題なんか知れば知るほど目の前が真っ暗になります。とうてい理解できない残酷な事件が新聞をにぎわせているし、歴史に目をやれば戦争と拷問の繰り返し。日常生活でも人と軋轢があったり、些細なことに嫉妬されたりしたり。
 暴力を描いた映画なんかもううんざりだと思ってらっしゃいませんか?これだけつらいことが現実で山盛りなのに、なぜそれをわざわざ進んで見なければならないのか、とか。
 多分、そう思うのは私がいろんな問題に無力だからでしょうね。超人のような活躍ができて、世の中がまんがのように簡単に奇跡が起きてきれいな世の中になればそんな無力感に悩まされずにすむんでしょうけど。
 ご自分でも同じように思ったことはありますか?もっと・・・なんていうのか、力があればこんなふうに思わずにすむのに、と。
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この回答へのお礼

●あなたの感性に 似たものをわたし自身のなかに感じます。

●殺されることがどうして悪と思うか すこし話しましょう。
 殺生がくりかえされるこの世の中で いま生きているということは
 自分自身だけの生ではなく いまの自分につながるすべての生を
 含んでいると考えるからです。そこはたぶん分っていらっしゃいますよね。
 だから 自ら死を選ぶことは悪だと・・・。
 殺されることを悪じゃないとするそのかんがえの延長には
 他を生かすためにとか 自ら望まない死を選ぶということに近づいてしまう危険を
 はらんでいるように思います。
 愛という本能が 対象を守るために殺されることを指向させる事実も
 知っていますが、それもふくめて殺されることを悪としたほうが
 命の尊厳と言う意味で つじつまが合います。

●その存在の否定 の簡単な例をいくつかあげます。
 ダムをつくることでそこで生きていた生物を無視して工事を行うこと。
 イデオロギーの違いで 殺しあうこと。
 おもしろいからと クラスメイトをいじめること などです。

●ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/11/08 12:11

『善』とは、概念であって、行動が伴うとすると、『善行』ということになります。



 概念として『善』を考える時は、ただ、考えるだけなので、他者に影響をもたらしません。

 しかし、行動が伴う場合、一方向だけではなく色々な方向へ影響をあたえる。

 ある対象にとっては『善行』であったとしても、究極的には他の対象にはそうでない。

 したがって、完全に『善』と言いきれる行動はない。


 だとすると、この質問に回答できる人はいない。
なぜなら、『人間のしていることでいいこと』を回答しなくてはならないから。

  『善』は『行動』上では、究極的にはただ『善』ではなく『悪』でもあるから。

 どう考えても、『いいこと』が思いつかない。
そんなのないという結論しか出ませんが・・・・。

 chihokoさんは答えを知っているのでしょうか?

 それともわからないから質問しているのでしょうか?

 どなたかからの回答から答えは見つかったのでしょうか?

 もしわかったら私にも教えて下さい。

 よろしくお願いします。

 では、失礼します。
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この回答へのお礼

●善とは 行いの価値基準で 最上級のものだと考えます。
 ↑これは この掲示板のなかでの わたしの発言です。
 そして この言葉の指し示しているものは 概念です。

 「ある対象にとっては『善行』であったとしても、究極的には他の対象にはそうでない。」
 おっしゃるとおりです。だからこそすべてに善でありうる 究極の善を
 (ほんとうは究極と言う言葉は必要ないのですが。)
 考察することに 価値があるとおもうのです。
 行いの指針として 参考になるからです。

●善のイメージがあやふやな善行は 愚行なり!

●わからないから 教えて としています。
 人間の行いで いいことって無いかもしれない とも感じています。
 だから 新しい善の概念が 必要かなあとも感じています。
 慎重に 慎重に まちがわないように まちがわないように
 さがしてみたいです。

●ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2001/11/08 11:42

 存在していること。

営みみたいなもの。
 
 もしそれが悪なら、死ぬことが善になるのでしょうか。それなら、すくなくとも「すること」のなかに善があるでしょう。

この回答への補足

●自ら死ぬことも 殺されることも 悪です。

 直接であれ間接であれ その存在を否定されることすること(悲しみ)は
 悪です。生きるためには生き物を摂取しなければなりません。
 だからそのための殺生は 対象を否定しているのではなく
 その命を自分の命の中に取り込んでいると解釈できます。
 自然界は そのような異論を受け付けないまでの完璧な摂理を
 もっています。

●人間だけなんですよ 行いでその存在を否定しているのは・・・。
 とっても かなしいです。

補足日時:2001/11/08 10:27
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この回答へのお礼

●継続して存在するためには 営みが必要ですよね。
 ですから 存在そのものを善とかんがえてもいいとおもいます。

 もし人間の存在を善とするなら 気持ちできにはとても楽だとおもいます。
 つらいときには そういう解釈も許されるでしょう。

 しかしねえ 自分をふくめて 人間の存在からうける印象が
 つらくなることばっかりなんですよねえ・・・。

●最近は主人にだきついて眠る時間にのみ安らぎを見出してます。

お礼日時:2001/11/08 09:56

笑うことは善ですか?

この回答への補足

●できたら ジャイナ教 かるくおしえてください。
 (なんジャイナとは 決して申しませんので・・・。)

補足日時:2001/11/08 10:09
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この回答へのお礼

●笑うことに善をひきあてる 着眼は すばらしいと思います。

 笑うことを 考察するととても複雑な背景がうかびあがります。
 わたしはセミの生き様に 善を感じていますが
 アメーバにも善をひきあててみたのです。無に近いいきもの=アメーバということで
 セミに善を感じたわけを考察してみて 感じたのですが
 程よくエッセンスが 形として具現しているわけです。
 雄をたべちゃうかまきりの姿は 複雑で理解不能です。
 (おなじオスが交尾しないようにするシステムだとは思いますが・・・。)

 さて笑ですが わたしはどちらかと言うとひとの不幸でふきだして
 わらってしまうような 不謹慎者の一面を兼ね備えていますし。
 そこをねらったコメディも多数存在しますよね。
 笑いを 善とするには 笑いのもつポテンシャルは複雑すぎると思います。

●あなたの 発想は スゴイ!~(^◇^)/ぎゃはは

お礼日時:2001/11/08 09:49

不殺生戒を守るジャイナ教は善でいいですか?

この回答への補足

●ジャイナが 笑える宗教なら ぜひ わらわせてください。
 笑う角には福来る。

補足日時:2001/11/08 00:34
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この回答へのお礼

●ジャイナ教ですか 知りませんのでコメントできませんが
 ジャイナという響きはPOPですね。

お礼日時:2001/11/08 00:24

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Q自己分析について

14年卒既卒です。
グーグルで「自己分析 意味ない」「自己分析 いらない」「自己分析 不要」「自己分析 必要ない」「自己分析 無駄」「自己分析 時間の無駄」等の言葉の組み合わせがヒットします。
これに関してどう思いますか?

それと、もしこの質問をkkouzi7さんとmaybe073さんが見ているのなら、
http://okwave.jp/qa/q8708131.htmlのお礼にまた質問をしたのでお答えいただけたら嬉しいです。

Aベストアンサー

自己分析自体は必要だと思います。
ただ、その方法や内容に問題があるということだと思います。

まず自己分析の必要性ですが、当然ながら自分について語るわけですから、そもそも自己分析はやらないと話すことが無くなります。
ただ、ワークなどで自己分析として自己分析をやらずとも、それと同じようなことを他の方法でやっていれば「自己分析なんてやってないよー」という人はいるでしょう。実際は無意識的に同じことをやっているだけです。
学校などで勉強として勉強をしていたのか、趣味などを通して結果的に勉強していたのか、みたいな感じですね。
で、恐らく「自己分析は無意味」というのは、自己分析としての自己分析をやること、ワークなどをやるのが無意味と言うことだと思います。

私もあの手の自己分析ワークには疑問を持っています。
書いてあることは確かにどれも間違っていません。
ただ、現実的ではないように思えてなりません。
アレは結局、自分の過去の出来事をひたすら書き出すというものです。
まずこれ自体が効率が悪すぎるわけです。書き出したものには結局就活で使わないような情報も含まれてきます。書き出す手間、そして書き出した後にさらに取捨選択をする手間までかかります。どれを使うべきかすらわからないのに選択肢だけは多いのです。
さらに、質問者様の前のご質問にあるようにこれは「過去形」なわけです。過去の出来事を書き出したんですから当然ですね。おまけに自分を売り出すのに使える話ではなく、単に自分が印象に残っている話になりやすいのも悪いところです。

「未来形の自己分析」というのは少々違和感を覚えますが、少なくとも「現在進行形」の自己分析をするべきだと私は思っています。
いろいろ参考にしたものはありますが、以下は私のやり方。

問題です。今日あなたは何をやりましたか?
私の例では、友達数人と会ったのですが、お菓子を差し入れしました。
なぜ?→みんな喜んでくれるから。
なぜ?→気分がいいから。
なぜ?→他人から好かれたいから。
なぜ?→一人が嫌だから
自分は損するけど構わないのか?→構わない。
他人から好かれるためには、多少自分は損しても良いと思っている。
ハイ、これで1個の自己分析。

本当はもうちょっと「なぜ?」を入れてもいいかもしれません。
そしてこれをできればメモっておきます。
自分でもある程度わかっていても、いざ言葉にしようとするとなかなか出てこないこともあります。頭で考えていることを言葉にすることはなかなか難しいんです。そしてネタとして使っていることは特別なことでもなんでもないので、すぐ忘れます。だから書き出すことは必要だと思っています。

この流れでネタを何個も作ります。小さいネタでも何でも良いので。そうするとある程度傾向が出てきます。それこそが自分の「人となり」ではないでしょうか。
「昔こんなことやったから自分はこんな人だ」ではなく、「普段からこんなことやってるから自分はこんな人だ」の方が良いと思いませんか?
私はこれで通しました。
別に特別なことは何一つ無いので、自覚している人はわざわざやる必要もないかもしれません。そういう人が「不要だ」と言っているのだと思います。

自己分析自体は必要だと思います。
ただ、その方法や内容に問題があるということだと思います。

まず自己分析の必要性ですが、当然ながら自分について語るわけですから、そもそも自己分析はやらないと話すことが無くなります。
ただ、ワークなどで自己分析として自己分析をやらずとも、それと同じようなことを他の方法でやっていれば「自己分析なんてやってないよー」という人はいるでしょう。実際は無意識的に同じことをやっているだけです。
学校などで勉強として勉強をしていたのか、趣味などを通して結果的に...続きを読む

Q善は善にして常の善にあらず。「老子」

受け売りでし。
(ヒマな時にでも)

Aベストアンサー

言うまでももないか、あるか、
元は、
老子第一章
道は道にして、常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず、無を天地の祖に名付け、有を大地の母に名付く。
もって無はその檄を現さんと欲し。有はその嬌を誇示せんとす、
第荷二章
人々は、善は善である、と考え、善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜である事をしらない。
・これら相い対峙する二つのものは、否定、対立しあいながらも、一つの統一体をなすものである。
と、ヘ-ゲルの弁証法、もしくは、色不異空、色即是空、が述べてあります。
老子の考え方を現代風、あるいは私流儀で説明すると、
善=善 である、しかしそれは、善-善=0 と言うのと同じであり。一つの単位としての統一体
、もしくは、存在、とはならない。ある、ためには。善×1/善 =1 でなければ、ならない。
善と(1/善)は表裏であり一体である。(1/善)は悪と名付けられる、常でない善となる。
道は道にして常の道にあらず。という世界の在り方は、名、妄想、の在り方、起こり方とも一致する。
となるのでしょう。米粒の在り方、法則生、も米俵の在り方法則性も同じである?

言うまでももないか、あるか、
元は、
老子第一章
道は道にして、常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず、無を天地の祖に名付け、有を大地の母に名付く。
もって無はその檄を現さんと欲し。有はその嬌を誇示せんとす、
第荷二章
人々は、善は善である、と考え、善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜である事をしらない。
・これら相い対峙する二つのものは、否定、対立しあいながらも、一つの統一体をなすものである。
と、ヘ-ゲルの弁証法、もしくは、色不異空、色即是空、が述べてあり...続きを読む

Q自己分析

こんにちは!

最近自己分析をやらなければならない時期になりました。いくつかの自己分析を行いましたが、診断結果はよく分析好きと診断されます。

なんとなく当てはまっているな~とは感じるのですが、具体的にどんなこと?というのがいまいちピンと来ません。前に面接で自己分析が好きです!と答えたのですが、具体的にどんなことをしていますか?といわれて詰まってしまいました(-\-)

確かに自分は分析好きだとは思うのですが、どういったことが分析好きという意味なのでしょうか?この自己分析にも分析と名がつきますが、他にどんなことを分析すれば分析好きという人であるとわかるのですかね?わかる方いたらアドバイスお願いします。。

Aベストアンサー

例えば、今回の質問のように
自己を知るための手段を惜しまない、常に自分を客観的に判断する材料を求めているというのが
分析好きの一つに繋がるのではないでしょうか?

頑張ってください。

Q《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか

  《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか?

  
  1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりが まやかしであったという結論を得たい。

  2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。


 
  3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。

  4. 《真実》とは 主観真実ということなので 《変わらざる》という条件づけは マチガイなのであるが それをも想定する。

  5. 真実とは 事実認識とそれについての主観の価値判断を言う。

  6. 《事実認識》は どの主観が見ても同じ内容であるという認識行為の理念型を想定する。

  7. 主観には価値判断のほかに いわゆる心あるいはまた存在全体としての境地が含まれる。

  8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。

  11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が 時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか?

  12. いるかどうかよりも そのように想定される人格(?)の人間は いる必要がない。のではないか?

  13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?

  《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか?

  
  1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりが まやかしであったという結論を得たい。

  2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。


 
  3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。

  4. 《真実》とは 主観真実ということなので 《変わらざる》という条件づけは マチガイなのであるが それをも想定する。

  5. 真実とは 事実認識とそれに...続きを読む

Aベストアンサー

bragelonneさん、こんばんは。
いつもありがとうございます。


>「面倒ですねったって ナンバーワンとかオンリーワンとか言い出したのは わたしではありませんから。
 でしょう?

 あるいはまた 完全なさとりを得たと言ったのも わたしではありません。
 面倒ですねと言われても どうしようもなく。・・・」

笑えました。


>「
3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。
8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。
13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?


これで、いいんじゃないでしょうか

Q自己分析・企業分析の意味

就職活動をするにあたって、自己分析や企業分析というものをすることをよく薦められます。

ですが、これらをやる意味について考え込んでしまっています。
というのは、一生懸命に自己分析や企業分析を行ったとしても、ある程度のミスマッチが起きてしまうことは避けられないように思うのです。

実際、私自身就職とは関係ないのですが、進学後の現在、若干のミスマッチを感じています。
進学に際して自己分析はほとんど行いませんでしたが、その学校の情報はかなり集めたつもりです。
かねてより希望していた学校に入学することができたものの、想定していたものと違う、というようなことが幾度となくありました。
そうした想定外のものは実際に入学してみないとわからないようなことばかりでした。

これと同様のことが就職後も起きてしまうのではないかと不安です。
結局のところ、自己分析や企業分析は就職後に生じるミスマッチを最小化するためのツールでしかなく、ある程度のミスマッチは絶対に避けられないのではないかと考えている状態です。

むしろ、どこに行っても何らかの形で思い悩むことになるのであれば、自己分析や企業分析の結果に振り回されずに、とにかく自分が入社したい企業に応募しまくるというのも手ではないかとも考えています。

私自身いまだに自分のことがほとんどわからず、マイナス面ばかり目につくようになってしまっている他、志望している業界以外は調べる気にすらならないという視野の狭さからこのような考えをもってしまっているのかもしれません。

不安でいっぱいの日々なのですが、自己分析や企業分析の効果はどれほどなのでしょうか?

就職活動をするにあたって、自己分析や企業分析というものをすることをよく薦められます。

ですが、これらをやる意味について考え込んでしまっています。
というのは、一生懸命に自己分析や企業分析を行ったとしても、ある程度のミスマッチが起きてしまうことは避けられないように思うのです。

実際、私自身就職とは関係ないのですが、進学後の現在、若干のミスマッチを感じています。
進学に際して自己分析はほとんど行いませんでしたが、その学校の情報はかなり集めたつもりです。
かねてより希望して...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは。

会社の人事総務で教育研修や採用などを担当してきました。

自己分析は実際に行われたことはありますが?
自己分析というと大げさな難しいというイメージや疑問などがでるのはいたし方ない面も確かにあるかと思います。
企業分析(どの部分を中心に分析するかにもよりけりとして)

もうすでにkorochamaさんがまさにご質問の通りに自分のことが分からないと言っておられる状態が自己分析や客観的にご自身を冷静に把握されていない状態そのものかも知れないと思いました。
また広義では、korochamaさんの現在不安に思われている面、つまり視野が狭くなり自分の考えに固執しているのかも知れませんね。

まさにご質問内容にある「ミスマッチ」をしないために自己分析や客観的に「自分とは何ものか」ということをご自身が「受け入れる」ことも大切な要素でしょう。

自己分析といっても、今のkorochamaさんの状態から脱却して、自分を客観的にに、どういう個性や特性があり、どこで何をどのような事がしたいか、自分には何ができるのか…など「あくまで自分という主観的な」ことを客観的にどう捉え、自分の適性(検査ではありません)や目標、また会社からどういう思われて印象づけられているのか「ミスマッチ」を「マッチ」させることで説得性ややる気など、可能な限り会社とのズレを狭くして同期するようなものかと思っています。(間違いだったらすみません)

会社の分析なども同様かと思います。

効果というより習慣的なものかと思います。

人間関係においても同じことが言えるのではないでしょうか。

私もかつて実験をしたことがあります。
あるセミナーで自分を客観的に見るという作業をしてメモなどして、全く今までお会いしたこともない人から自分を見てもらうと、いかに自分という主観的に思っている以上に良くも悪くも「これだけズレがあるのだ!」と衝撃をうけたこともあります。

またその手の書籍や媒体を利用されるのもひとつの方法かと思います。

私事で恐縮ですが、転職の際、人材紹介会社に面談に言ったときに、自分にとってかなり厳しい見方をされたことがあります。逆に人材紹介会社の担当の方など、プロなので、自分の思い込みや特に弱点などズバリと指摘いただき、落ち込むどころか、かえって良かったと思いました。

人材紹介会社はあくまで企業と転職を希望する人の橋渡し的な面からいうと、人によっては怒りだすくらい親身になっていただき、無事転職できたことがあります。
会社や担当者の方の個性もありますが、他人に見てもらう方が正確な自己分析というか、自分を把握するちうことは仕事に限らず大切なことかと今でも思っております。

参考程度にでもなれば幸いです。

こんばんは。

会社の人事総務で教育研修や採用などを担当してきました。

自己分析は実際に行われたことはありますが?
自己分析というと大げさな難しいというイメージや疑問などがでるのはいたし方ない面も確かにあるかと思います。
企業分析(どの部分を中心に分析するかにもよりけりとして)

もうすでにkorochamaさんがまさにご質問の通りに自分のことが分からないと言っておられる状態が自己分析や客観的にご自身を冷静に把握されていない状態そのものかも知れないと思いました。
また広義では、ko...続きを読む

Q悪は 善のへそ曲がり・善の損傷行為である。

 悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。

 だから 悪は ない。存在しない。

 善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。

 またその傷つける行為のことである。

 善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。


 これを問います。

Aベストアンサー

こんにちは。


☆悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。
◇ということを前提にして、すこし考えてみます。

美しい女の人、イケメンを見て、
性的な気持ちをおこすのは、人間本性でしょう。
これにしたがい行動をすることは、
本来、否定されるものではない。

であるとするならば、
結婚している人の場合、
不倫や浮気はどうなるのか。

不倫したい、浮気したいという気持ちや、その行動を抑えることは、
人間の善性を歪めることではないのか。
当事者(浮気・不倫をする男女)間の合意は最低限、必要ですが、
この同意があれば、
浮気や不倫をしないことが、悪ということになりはしまいか?

浮気や不倫をするときに《やましさ》を感じるとしても、
これは、
旦那さんならば奥さん、奥さんならば旦那さんへの背徳行為、
その信義則、婚姻という契約の不履行に対する罪悪感であり、
たぶんに後天的なもの、社会的なものでしょう。
人工的なものです。
自然に反している、と言ってもいい。

この件について、
いかがお考えですか?

つまり、
《不倫・浮気》をすることが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか、
そうではなく、
《不倫・浮気》をしないことが、善性のへそ曲がりとして《悪》と規定されるのか?


もちろん、
善のへそ曲がりとしての《悪》と、
社会的に取り決められた《わるい行為》を、
別なものとして、分けて考えることもできますけれども・・・。

こんにちは。


☆悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。
◇ということを前提にして、すこし考えてみます。

美しい女の人、イケメンを見て、
性的な気持ちをおこすのは、人間本性でしょう。
これにしたがい行動をすることは、
本来、否定されるものではない。

であるとするならば、
結婚している人の場合、
不倫や浮気はどうなるのか。

不倫したい、浮気したいという気持ちや、その行動を抑えることは、
人間の善性を歪めることではないのか。
当事者(浮気・不倫をする男女)間の合意は最低限、必要...続きを読む

Q自己分析というものはどこで切りをつければいいのでしょうか?

似たようなタイトルの質問が多くありましたが、
なかなか納得できる答えが見つかりませんでしたので
質問させていただきます。
就職活動が始まった現在大学3年の女です。

タイトル通り、自己分析というものはどこで終わらせればいいのでしょうか?
自己分析をしなければなぁと、いろいろ調べ始めました。すると、
『自己分析ばかりやって、自分探しになってはいけない』というアドバイスを就活サイトで見かけます。
一方で
『自己分析が浅く、面接で失敗した』『自己分析が足りなかった』という先輩のコメントも見かけます。

自己分析自体は、自分史・短所長所を書きだすetcやり方がいろいろあることはわかるのですが…。

結局自己分析で何が分かればいいのですか?
アピールするために自分について理解する…といろいろ書いていますが、人間性ってそんなに簡単に理解できるものなのでしょうか?
一生かけても行きつけないような問題のようにも思うのですが…。

やりすぎても駄目、やらな過ぎても駄目…なアドバイスで結局何が分かるまでやればいいのかわかりません。

人間性はいろいろなので、切りを付けるところも人それぞれなのかもしれませんが…。
どこまで考えて、『よし!わかったぞ!』という状態になるのかいまいちイメージがつかめません。

終着点も見えないまま見切り発車をするといつも失敗するので、
よろしければアドバイスを戴きたいです。
よろしくお願いいたします。

似たようなタイトルの質問が多くありましたが、
なかなか納得できる答えが見つかりませんでしたので
質問させていただきます。
就職活動が始まった現在大学3年の女です。

タイトル通り、自己分析というものはどこで終わらせればいいのでしょうか?
自己分析をしなければなぁと、いろいろ調べ始めました。すると、
『自己分析ばかりやって、自分探しになってはいけない』というアドバイスを就活サイトで見かけます。
一方で
『自己分析が浅く、面接で失敗した』『自己分析が足りなかった』という先輩のコ...続きを読む

Aベストアンサー

マニュアル世代か?

ま、それは置いといて
言い換えれば「適正」ですよ。
人に限らず、世にあるものすべてに適正ってあるよね。
筆でご飯食べるのは難しい。箸で字は書けない。
それと同じで、人には適正がある。自分がしたい仕事がそのまま自分にあった仕事かどうか?自分がやってみたい仕事は自己分析などする必要ないよね。出来なくても良いわけだから。

自分はどんな人間か?どう言った適正があるのか?
人と話したり、関わるのが好き!とか、その逆。
何かを創造するのが好き!逆に、与えられた条件の中で何かに挑むのが好きとか。
メカが好き!、逆に苦手。
執着心が強い、逆に冷めやすい・・・等々
自分が目指しているものや、どうしたいか?などを全く考慮しない、客観的見方が必要。

自己分析の不出来が直接、面接で不利にはならないと思うが。会社の面接試験程度で、面接官が「自己分析不足」を見抜ける事があれば、そいつは余程「挙動不審」だったんじゃない。面接官は、もともと「そいつの」(君の)人間性を知らないんだから。
自己分析が重要だとすれば、それは試験に合格し、実際に職に赴いたとき、「自分には合わない」と仕事をやめることが無いように、先に適正にあった仕事を探すことにある。でも、それとて長い就労人生において、昇進や転勤、配属変えなどで、適正外の仕事をする時もある。

それと、自己分析に納得なんてあるわけない。
し、仮に100%分析できたとして大した意味も無いしね。

自己分析と書くと理屈っぽいが「己を知る」と言うことだ。
細かく分析してもそこに意味は無い。
もっと大雑把に、右か左かで十分。物事は大きく2つに(対極に)分けることが出来るでしょ。好きか嫌いか?イエス、オア、ノー?黒、白?
何かに対し、自分はどっちなのか。適正がある事案か、無いのか。

人は強い憧れや願望があると、自分の適性の無いことに挑む場合がある。
己を知っている人は、そこで考える事が出来る。
そのまま、挑むも良し、適性が無いと避けるも良し。

マニュアル世代か?

ま、それは置いといて
言い換えれば「適正」ですよ。
人に限らず、世にあるものすべてに適正ってあるよね。
筆でご飯食べるのは難しい。箸で字は書けない。
それと同じで、人には適正がある。自分がしたい仕事がそのまま自分にあった仕事かどうか?自分がやってみたい仕事は自己分析などする必要ないよね。出来なくても良いわけだから。

自分はどんな人間か?どう言った適正があるのか?
人と話したり、関わるのが好き!とか、その逆。
何かを創造するのが好き!逆に、与えられた...続きを読む

Q善い悪い判断する過程も善い悪い判断?

 刺激を感じて、その刺激を過去の記憶などから善い悪いと判断するに至る過程も刺激だからそれも善いか悪いか生物は判断しているのでしょうか?

Aベストアンサー

>反射で、足がピクッと動いたりすることはその足がピクッと動くのが善いとDNAに書き込まれているからなのでしょうか?

DNAによる反射は主に生命を守ろうとする働きです。反射で足がピクッと動いたりすることは、DNAにそれが善いと書き込まれているからです。ですが、現在ではそれが善いとも限らないことがあります。

例えば、バレーボールのスポーツなどで速いボールがきたら、反射的に体をよけることは善いことではありません。その反射とは逆にボールに体を当てていかなくてはなりません。これは練習や訓練によって条件反射がつくられてできることです。

現在、この条件反射の方がDNAによる反射よりも善いということも、場合や状況によってはあります。

Q自己分析の方法ばかり考えてしまう

現在4年で就職活動中です。内定はまだ1個ももらえていません。
先日面接官に「自己分析が足りてないのでは?」と言われました。
一応自分史を作ったりしていましたが、幼い頃に事故や精神的ストレスから高校までの記憶が殆どない状態で(それでカウンセリングに行ったことがあります。)何も思い出せません。小学校の文集を読んでみましたが、まるで別人のように性格と思考(成長で変わったということもありますが)が違っていて正直役に立ちませんでした…。
自分史も上手く作れず、正直どうやって自己分析をすればいいのかわかりません。友達や母から聞く他己分析や就職関係のサイトにある診断を使ったりしてますが、いまいちです。
あと自己分析云々も大切ですが、一番の原因は唐突な質問をされてると一瞬言葉に詰まったり、しどろもどろになって結局何言いたいの?となってしまうことだと思っています。(自己分析よりも相手に伝える、簡潔に考える能力が劣っているのだと思います…。)

そこで考えたのが唐突な質問に答えられるように友人に協力してもらい練習、また聞かれるかもしれない質問集を作り解答(文章ではなくキーワードなど)を用意する、というものなのですが、これも自己分析の方法に入るのでしょうか?

最近面接で落ちまくりでモチベーションも下がっており「本当に自分は就職したいのか?」とまで考えるようになってきてドン詰まり状態です。
自己分析も面接官に言われたことがずっと頭にあり方法論ばかり考えてしまっています。

よくわからない文章になってしまい、申し訳ありません。
ようは
1.就職活動をした方はどうやって自己分析をして、どのように活かしたか?
2.上記で書いた「質問集を作って答えを考える」は有効か?
この2つの質問の回答をお願いします。


しようと思っています。これは自己分析の1つとなるのでしょうか?

現在4年で就職活動中です。内定はまだ1個ももらえていません。
先日面接官に「自己分析が足りてないのでは?」と言われました。
一応自分史を作ったりしていましたが、幼い頃に事故や精神的ストレスから高校までの記憶が殆どない状態で(それでカウンセリングに行ったことがあります。)何も思い出せません。小学校の文集を読んでみましたが、まるで別人のように性格と思考(成長で変わったということもありますが)が違っていて正直役に立ちませんでした…。
自分史も上手く作れず、正直どうやって自己分析を...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは。

自己分析ですが、「自分史」にこだわる必要はないですよ。
覚えている範囲でいいので、
◆好きなこと&得意なこと
◆嫌いなこと&苦手なこと
を、大学1年の時は…大学2年の時は…とページを変えて、とにかく箇条書きで書いてみましょう!
高校や大学生活の中でも、毎日色々なことがありますよね。
挨拶すること、電車に乗ること、文章を書くこと、本を読むこと、絵を描くこと、計算すること、一人でいること、料理を作ること等。
どんなに小さいことでもいいから、とにかく箇条書きでたくさん書いてみてください。もちろん、学年別で書いているので、「去年と同じだよ」なんて言わずに、1年ごとに新しい気持ちで書いてみてください。
そしたら、よーーーーーくページを見比べてみてくださいね。
新しい発見があると思いますよ。

そして、もう一つ。
あなたがどんな人になりたいかを、別のページに箇条書きで書いてみてください。これは仕事内容ではなくて、○○な人…みたいな感じで書いてくださいね。

以上が、必要な自己分析ですよ!

面接官は、人を見るプロです。
「自己分析が足りないね」と言われたなら、多分足りないのでしょう。
いきなり唐突な質問をされて「え…」みたいになってしまうのは、みんな同じです。どんなに言葉に詰まっても、どんなに話が長くても、面接官はあなたを理解してくれます。
「結局何が言いたいの?」というのは、自己分析が足りないから起こるのですよ。
自己分析は、自分を知ることです。面接は、あなたのことしか聞いていません。「結局何が言いたいの?」の意味は、「あなたのことなのに、話が一貫してないね」というものです。
面接官は、あなたのことが知りたいんです。
だから、自分のことをよく知って、面接官に教えてあげましょう!

とにかく、だまされたと思って上記の自己分析やってみてね。

一つ上の就職活動経験者より。

こんばんは。

自己分析ですが、「自分史」にこだわる必要はないですよ。
覚えている範囲でいいので、
◆好きなこと&得意なこと
◆嫌いなこと&苦手なこと
を、大学1年の時は…大学2年の時は…とページを変えて、とにかく箇条書きで書いてみましょう!
高校や大学生活の中でも、毎日色々なことがありますよね。
挨拶すること、電車に乗ること、文章を書くこと、本を読むこと、絵を描くこと、計算すること、一人でいること、料理を作ること等。
どんなに小さいことでもいいから、とにかく箇条書きでたくさ...続きを読む

Q欲望には悪と善の因が。 善の方はしかし?

欲望は 自我の殻の内側に人を閉じ込めさせます。

そこから悪としての争いの因が生まれたりします。 

しかし 同時に 欲望は、それをよく見つめることで  感性を深める道にも通じ それによって感性が深まれば自我は突き破られ  人への善の真心も生まれます。

そのへんの善の方の因果を なぜかあまり聞きません。

解ると思える人がおられましたら、 是非御回答をお願いします。

反論でもいいです。 欲望なんて悪の因しかないというふうな。

それなら議論しましょう。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
批判的な内容も書きましたが、それらは質問者さんを非難するものではありませんから、誤解なきようお願いします。ロジックの目の付け所に感心したというのが回答の動機です。そこで無理に綺麗なパラドックスに仕上げようとされるのは自滅的に思われ、私なりの整復術を試みたくなった次第です。

無意味に評論を加えれば、欲望を精神活動の原理に加えて、肯定できる面を見出されようとされた結果の発明とでも言えますでしょうか。質問者さんの仮説は、面白いですし、大発見につながる分岐点かもしれません。

発想力の賜物ですね。能力を活かして詩や小説を書かれた方が建設的に思います。何事も施行するのは簡単です。有益に機能しなくてもいいのですから。手がけた構造の良し悪しを追跡評価しない専門家は結果無視の自己肯定を続けられるでしょう。
欲望によって人間が自我を突き破って善へと導かれる感動作を、哲学という有害ゴミの袋に入れてしまうのは勿体ないんですよ。あまりにもドラマチックです。俗に言う芸術的才能を感じました。欲望は、人を殻に閉じ込めさせるなんて語り口は詩ならば最上級ですよ。その後、パラドックスが放つ左右のフックで、ノックアウトされます。
くらった私は野暮な整合性を打ち返したまでです。曲がりなりにも新興宗教文学を創作するカテではありませんので、回答者のする隠喩などを質問者側がするのは解決を遠ざける色事になります。

制約の多い質問文の方が自由奔放な回答文よりも難しい作文になるのは承知しています。無理や気負いをなさらず、ぜひ論理的にもさっぱりしているまことの素描を求められてください。

お礼ありがとうございます。
批判的な内容も書きましたが、それらは質問者さんを非難するものではありませんから、誤解なきようお願いします。ロジックの目の付け所に感心したというのが回答の動機です。そこで無理に綺麗なパラドックスに仕上げようとされるのは自滅的に思われ、私なりの整復術を試みたくなった次第です。

無意味に評論を加えれば、欲望を精神活動の原理に加えて、肯定できる面を見出されようとされた結果の発明とでも言えますでしょうか。質問者さんの仮説は、面白いですし、大発見につながる分...続きを読む


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