●わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。

 したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。

 人間のしてることでいいことって 何かありますか?
 思い当たる方、教えてください。

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A 回答 (29件中21~29件)

おひとよしが馬鹿だというなら、きっとその人にとってみたら私は大馬鹿ですよ(笑)


個人的な主観ながら、やっぱりおひとよしを馬鹿にする人は、私も避けちゃいます(馬鹿にされるってわかってたら近づかないですよね、普通)。そしてそういう人には、先程も書いた通り、えてして建前でしか話をできないもんでは? 私は…馬鹿にされてもなんぼのもんなのでカッコつけた態度はしないけど、普通の人---バカにされるのを怖がる人は、バカにする人に対しては嘘八百並べると思います。それが悪だとは思いません。

>あなたが善と 感じてらっしゃることは 普通のことだと思います。
あーそうかもしれません。それは納得。そして皆がそうだったらいいなと思います。
>極論すればどうでもいいことです。
普通であることが? でもあなたのいうどうでもいいことをしなかったら、悪なんですよね? 知らない人に対して助けてあげるのが、普通のことだったら、愛しているご主人を大切にしてあげるのってもっと当たり前=普通のことですよね?
…普通のことは、どうでもいいことですかね? 

前にも述べましたが、善も悪も人間の作り出した尺度です。エゴイズムが醜い、という考えも、あなたのいうミームなり、社会経験で作ってきた価値観が「エゴイズム=悪」というあなたの主観を作ってきたんだと思います。
そう考えると、本当はいいもわるいもなくて、全て普通として納得したらどうかと思いますが、それはやっぱりどうでもいいことなのかしらん。
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この回答へのお礼

●善とは 行いの価値基準で 最上級のものだと考えます。
 だから 善をどのようなことと感じるかで そのひとの
 行いに対する価値観を知ることもできます。
 
●例えば 敵弾をうけて死にかけてる人がそばにいて
 (プライベートライアンのスェイド衛生兵のような状況)
 あなたが てをにぎって がんばれと励まし。
 そして いずれ最後は言葉もかけれない ただ手をにぎってあげるだけ。
 たぶんそうなるとおもいます。このときあなたの行いは
 善とは感じませんよね。たぶん。
 このニュアンスを ひとの行いのすべてに感じるんです。

 ネットでアドバイスする行為が善だとは それはいいことでしょうけど
 善とするには論外かな・・・。

お礼日時:2001/11/07 00:40

No.5の返答について、コメントします。



失礼ですが、私が当初感じていたのと違っていて、chihokoさんは
どうも真摯に「善」を求めるのではなくて、どうも言葉遊びがしたい
のではないかと思えてきました。少々、おつきあいしましょう。


>マハトマ・ガンジー、マザー・テレサ、ダライ・ラマの成したこととして
>伝えられることは尊い行いで 善とはかんじません。

彼ら偉人達は、もちろん尊い行いをしています。
しかし彼らの行いの中にある「善性」を感じられるかどうかが、問題なんですよ。
行いの中に普遍的な「善性」を感じ取れれば、そこから善とは何かについて学ぶ
ことができます。
しかし、感じられなければ「立派な人なんだな~」で終わりです。

残念ながら、chihokoさんにはそういう感性が欠けているようですね。
これは個々人の資質の問題だから仕方がありません。


>むしろそれよりも その行いの尊さに学ばない如くの人類の在りように
>悪をかんじます。その悪は上記3氏にも内在するものと強く感じています。

これは宗教的に言えば「原罪」という考え方と似ていますね。
キリスト教から来ていますが、人類始祖以後、すべての人類に悪が内包され
ているという教えです。
この考え方に従えば、全ての人類は救世主によらなければ救いがない
(→完全な善なる人になれない)ということになります。

もっとも、chihokoさんはクリスチャンではないだろうとは思いますが....


>ひとはひととのかかわりのなかに 善をみようとします。しかし
>視点が星になれる現在 善をステップアップしてみては いかが
>でしょうか?

> わたしにとっても誰にとっても善とは かくも 手の届かぬもの
>なのか・・・。 それが 今回の質問の発端なのです。

「人の中に、人の世の中に『絶対善』は無い」ということについては、
昔から聖人・賢者が触れている事柄です。

しかしながら、一般の人に「善」とは何かを伝えるにあたって、
高尚なことを説いてもなかなか伝わらないので、周囲の人間関係
など身近な話題から教えを説いていくのが、昔から伝わるやり方でした。

今でもこの方法は効果がありますが、元々人の中に『絶対善』が
ない以上、限界があるのも事実です。

それでは、より高いレベルの善を求めるには、さらには『絶対善』
なるものが存在するかどうかになりますと、元々人の中にないの
ですから、どうしても「超越者」の存在を求めざるを得なくなります。


そうすると、最終的には「宗教」に行き着かざるをえないんですね。
しかし、宗教が嫌いな人も多いですし、私にもどの宗教がよいなどと
言えるようなことはできませんので、その先は個々人で探し求めてください
というのが結論となります。
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この回答へのお礼

●わたしについて 感じていただいた感じは ほぼ近いと思います。

 ひとがひとにたいして行うことは ほとんど興味ありません。
 ひとがいなけりゃいいだけですから。

 むしろ7年間土の中で暮らし 一週間だけ この世界で鳴いて
 子孫を残し 死んでゆく セミに 善 を強く感じます。

 セミの生き様は 人間のだれよりも わたしの生き方に
 影響をあたえました。

お礼日時:2001/11/06 15:26

再度、回答させて戴きます。


 人間は、「信じる」ことが出来ます。人は、信頼し、尊敬することが出来るのです。
 ただ、拝む、信頼する対象が悪ければ、悪影響を及ぼされ、悲惨な末路でしょうが、本当に正しいものなら、その影響は功徳に満ち、最良なものだと思います。
 「信じる」ことは、悪ではないでしょ。
 どうでしょうか?
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございます。

 実は普通に言われる善とか悪とかいう概念は
 ひとそれぞれだと 感じています。

 わたしがお尋ねしたいのは また引き出したい 善とは 絶対的 善なのです。

 わたしの考え方で言うと あたまの中のことはあまり問いません
 頭の中では それぞれ いろいろ考えていいとおもいます。
 行いが 重要だと考えます。
 信ずることで 派生する行動が大切だと思います。

 信じることは パソコンでいうとショートカットみたいなもんで
 よくつかわれると時間とお金の節約になりますけど。
 間違うと 気づきづらいもんですよね。

お礼日時:2001/11/06 14:58

●わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。


 したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。

「あなた」がなんにもしない事が善かなあ、ってことですか?
私は仕事をしていて、ああこの人いい人だなあって思うことがたくさんあります。一緒に仕事をしている人や上司にも恵まれているってのもあると思います(いや、色々わがままは言うけどそれが全部じゃないでしょ)。で、善悪がどうこうではないけど、彼らにしてもらったり感謝されたりしてる分、自分も人に頼まれたら精一杯努力をしようと思うし、感謝の気持ちも表します(表わそうとして表わすわけじゃないけど)。で、良いことをされて良いことをし返したらまた良いことをされて…っていう環境を双方作り出そうとしています。心理学とかで言ったら自分の環境を良くしたい、人の環境を良くすることで満足すること自体、自己満足のためにやっていると言われるかもしれませんが(そしてその通りかもしれませんが)、それが悪いことかと言われると、そうかな?って思います。
だから、なんにもしない事って善なのかなあ?って私は感じます。誰かが捨てたゴミを拾うとか、いじめられてる同級生を助けるとか、「何かする」方が何もしないより善だと思います。
あと、人間のしていることがすべて悪、っていうのも、自分一人でも(自分の思う)善いことをすることで、「すべて」悪じゃなくなるわけだから、定義できないと思います。例えばゴミを拾うのがいい事として、私がおちてるゴミを気まぐれで拾うだけで、一人はゴミを拾う人がいるわけでしょ?一人いるってことは、実際にはもっと別の理由で拾う人もいるかもしれない。そういう人を見て拾う人もいるかもしれない。何かすることで、同類の人間は増えると思います。
自分はいいことをしないで、または何もしないで「人間のしてることは悪だ」って言う人は、「人間は悪だと定義づけたい人」「人間は悪であるべきだと思いたい人」かなあって思います。
社会はうそばっかし、ってのもわかるようなわからないような。私はコミュニケーションを取ることが多い仕事ですが、本音ってのは自分がすると相手も(自分に不利にもかかわらず、声をひそめながらも)本音でアドバイスをくれたりします。相手に本音で話さなければ、そりゃ相手も身構えますよね、何考えてるんだかわかんないんだから(私は隠さなきゃいけないことは特にないので身構える必要もないんですが)。悪循環ってあるけど、良循環ってのもあると思いますよ。


でも善悪は結局人間が決めることなので、「人間はすべて悪」「ちょっとだけ悪」「ほんのちょっとだけ善」とかって答えを出しても、どれも本当の答えではないと思う…っていうのが私の本当の回答です。机の上はきれい、って言われて、見た目がきれいなのか、細菌がいないというレベルできれいなのか、そもそも細菌がいるいないは奇麗に関係しているのか、っていうような問答みたいなもので。ハハハ。

最後に、私の経験を。私特に善悪については考えてもそれほど強い主張をもってなかったんですが、しみじみ善い人の存在を知らされたことがあります。田舎をリュック一つで旅行してたんですが、コンビニもない不便なところを歩いてると、皆声をかけてくれるんです。「ようがんばったねえ」って。しかも毎日、通りすがりの人が助けてくれるんです。「これ持っていけ」って、パンとジュースくれたり(自分がお昼ごはん用に持ってきたって言ってたのに)、道を聞いたらずっと追いかけてきてくれて、コーヒーくれたり。食堂でお水を水筒に入れてたら、きんきんに冷えた麦茶をいっぱいにしてくれて、「頑張って」って。別にいい事をした、って思ってやってるんじゃないんですよ、もうその人たちにとってはそれが普通なんです。帰ってくるとき、自分も困ってる人がいたら普通に助けてあげるようにしたいなあ、なんて思いました。
そういう経験があると、こういう質問自体が??な気分になります。そして、cse_riさんの言う、「本当に良い人 というのは1000人に1人いるかいないかぐらいの割合」という意見も、ちょっと悲しく感じてしまいます。
とりとめがなくなってしまいました。ごめんなさいね。
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございます。

 あなたが善と 感じてらっしゃることは 普通のことだと思います。
 極論すればどうでもいいことです。

 わたしは いまの人間と人間社会の在りように善を見出せないのだなあと
 この質問のお礼を書いていて 気づいたところです。
 かたちになっている 建造物や道路 その背景のイデオロギー
 文化も わたしにとってすべてが急速に色あせています。

 ひとりひとりの善が いずれおおきな善になる。
 ↑このセリフだけはやめてください。いままでの経緯をみればわかりますよね。

 お人よしを 善と言うひともいれば それをバカというひともいます。
 善・・・。
 美意識のちがい おおきく感じちゃうなあ。

お礼日時:2001/11/06 11:43

chihokoさんへ、質問と補足回答の内容を一通り読んでみました。



何が「善」であり、何が「悪」であるかは、基準となる一定の何か
(思想とか哲学とか宗教)が明確になっていないと綿密な議論になら
ないのですが、ここで厳密な議論をしてもたぶんchihokoさんの望む
回答にはならなそうな気がしますので、ざっくばらんに考えてみます。


私もホンネを言えば、善人というのは非常に少ない。しかも本当に良い人
というのは1000人に1人いるかいないかぐらいの割合ぐらいしかいないの
ではないか?

そうかといって残りは全て極悪人かと言えば、それもそうではない。
本当の悪人も、比率で言えば本当の善人と同じくらい少ないのではないか
と思います。

残りはどうなのかと言うと、中間なんですね。
そんなに良くはないけど、極端に悪くもない。そういう人たちを
どう捉えるかによって、現世が良いか悪いかを判断する分岐点に
なるのではないかと思います。

また、本当の良い人というのが1000人に1人くらいしかいないと
したら、そういう人が自分の身の周りにいる可能性は非常に少ない。
だから、人間のすることに善は無いと考えやすいのではないかと
思います。


では、本当の良い人・本当の善はどうやって探すかというと、これは
自分で勉強して探すしかないんですね。
良い人と直接接することはできなくても、書物や伝聞を通じて間接的
に知ることはできる。そうやって求めていけば、何かしら得るモノは
あるかと思います。

私が今思い起こしても、限りなく善に近い人というのは何人か浮かび
ますよ。マハトマ・ガンジー、マザー・テレサ、ダライ・ラマも含め
てもいいかもしれません。
歴史上の人物まで入れれば、もっと名前を挙げられるでしょう。
(歴史上の出来事・言い伝えを信じられるかどうかもありますが)

本当に良い人・本当の善の業績などは、理屈を詳しく聞かなくても
自分の本心でスパッとわかります。そうやって知り得た善について、
少しでも自分の中に取り込む努力をしていけば、自分も少しは良い人
に近づくけるかもしれません。

求め、探し続けてください。
(保証はできませんが)いつか本物の人に、本当の善に出会えるでしょう。
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございます。

 マハトマ・ガンジー、マザー・テレサ、ダライ・ラマの成したこととして
 伝えられることは尊い行いで 善とはかんじません。
 むしろそれよりも その行いの尊さに学ばない如くの人類の在りように
 悪をかんじます。その悪は上記3氏にも内在するものと強く感じています。
 ひとはひととのかかわりのなかに 善をみようとします。しかし
 視点が星になれる現在 善をステップアップしてみては いかがでしょうか?

 わたしにとっても誰にとっても善とは かくも 手の届かぬものなのか・・・。
 それが 今回の質問の発端なのです。
 
●世の中 善もあれば悪もあるさ これでは発想が貧しすぎる。広がりがない。
 わたしは つねに つぎのステージを 夢みる人間なのです。

お礼日時:2001/11/06 11:25

 「日本国の一切衆生の、法華経を謗じて無間大城におつべきを、たすけんがために申す法門なり。


 「云ひて罪をまぬかるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳の二徳忽ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく、『慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり』等云云。」
と説かれ、折伏は、自分のためだけではなく、御本尊に背く邪宗謗法の人達が、皆、無間地獄に堕つべきところを助けるためにも、折伏をするのであります。
 この折伏をしないということは、人が地獄に行くのを放っておくことだから無慈悲になる、と言われております。
 ここで、慈悲ということについて、章安大師の「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」との言葉を挙げられています。
 「慈」とは、相手の悪いことを取り除いてあげること、相手の悪いことを「間違っていますよ」と言ってやめさせることが、本当の慈悲ということです。
 この慈悲の心というものがなくて、表面的に仲良く付き合っていくことは、相手にとって怨になる、と言われているのです。
 たとえば、仲のいい親友がいるとします。親友とはどういう意味なのかといえば、普通、一緒に遊びに行って楽しい、一緒に飲んで楽しい、同じ趣味を持っているから楽しい、一般的に、このような関係を親友と呼んでいることが多いわけです。
 しかし、私達は、謗法をすれば地獄に堕ちる、ということを知っています。本当の親友というのであれば、そのことを相手に教えてあげるべきではないでしょうか。
 それを言えば、相手は怒るかもしれない、絶交されるかもしれない、でも本当に相手のことを思うのだったら、親友として教えるべきであります。
 それを、絶交されることを恐れて教えない、折伏しない、これを偽りの親しみというのです。
 偽りの親しみは、本当の慈悲ではない。表面的な偽物の親しみであって、本当の友情でもなければ、本当の愛情でもありません。相手にとっては、むしろ怨になる、と言われているのであります。
 如何ですか?

この回答への補足

●ごめんなさい 如何ですか? だったんですね。
 読み間違えてお礼してしまいました。ごめんなさい。

 おっしゃる通りだと 思います。
 偽りのない交わりが 無駄が無い。答えへの近道だと思います。

 でも わたしの経験ではそのような関係を築けるのは人生でひとり居れば
 いいほうだと感じています。偽りなく相手に接するということは
 かくも難いことなんですよね・・・。
 ビリージョエルの「honesty」の詩いいですよ。

●普通の社会生活では 笑っちゃうくらいウソ偽りだらけですけどね(笑)。

補足日時:2001/11/06 10:17
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この回答へのお礼

●何故ですか?ってわたしにお聞きなのでしょうか?
 と言うことで お応えします。

 こころとこころの共鳴は 人間として生きているうえでのひとつの
 関門だとイメージしてみてください。関門を通らずにゴールは
 ありえませんよね普通は。自分以外のひとのこころを知って
 自分というものが 更に見えてくるのが普通です。
 自分を知ろうとして自分を裸にしてるのに、参考になる相手が偽りでは
 参考にはなりずらい。→時間の無駄だよてめえ!(怒)ということだと思います。

●あなたは なんか仏教っぽい言葉が おおいですね。
 わたしは言葉が多ければ多いほどその精神世界は狭くなると感じています。
 言葉は人を縛るからです。縛られたいマゾ的願望があるのならいいですけど。
 開放をお望みなら 美しい空や こころに届く小鳥の声にその答えを
 求めたほうが 早いと思いますけど・・・。

お礼日時:2001/11/06 10:11

 


  以前に書いたGOOの回答で、登録しなかったものがありますが、そこで論じていたのは、この質問に通じるところがあります。
  それは、「自然」とは何か、というような話でした。
 
  人間の中には、実は「自然」があります。野生の本能とか、そんなものでもいいですが、西欧的には、「本性・天性 nature, natura」があります。人間のうちなる自然とは、人間の本性・天性のことでもあるのです。この nature, natura というのは、山や空や海や川や森、鹿やライオンや樹木などが茂る、いわゆる「自然」と同じ言葉ですが、これらは、「生み出されたもの・生まれながらにそうであるもの」の原義で、「被造物」とも言えます。人間も(神の)被造物で、生まれながらにそうである天性があるということです。
 
  この「自然」というのは、老荘思想の「無為自然」から取って、nature の訳語にしたのですが、「無為自然」の反対語は、「作為・有為」です。人間の自由意志で、なにごとかを為すということでしょう。老荘思想は、作為や人為・有為を、自然本来の姿を歪めるものだと考え、「無為にして自然、天地のありように従い、あるがまま」ということを理想としました。それに対し、儒教は、人間の本性というものは認めるのですが、本性を「礼」つまり道徳などにより陶冶するところに、人の理想の姿があるとしました。孔子などの教えでは、このように自己の本性を陶冶し克己し、精進して行くと、やがて、人為だった自己の意志のおもむきが、おのずと天意・天命に沿うようになり、そうなると、人為も自然も区別がなくなって来ますが、そうなれるのは、聖人や君子であって、一般の人は、やはり、天意に沿わない勝手なことを考え行っている本性なので、これを陶冶せねばならないということになります。
 
  人間の本性について、「性善説」と「性悪説」というのが儒教にありましたが、本来善なる人間の「善性」を教育によって導き出すのか、本来悪なる人間の本性を制御し、人格を陶冶して、善なる人へと導くのか。「善なる人」を理想としていても、人間の本性・天性についての解釈の問題がそこにあります。
 
  尋ねられている、人間の為すことは、みな悪いことに思えるというのは、「性悪説」に立っているとも言えます。また、人間の natura について、本来的に「悪」だと考えておられることにもなります。しかし、人間の natura は善か悪かという問題に付け加えて、人間の人為・作為は善か悪かという問題もあります。
 
  人為・作為は「悪」であり自然に反すると考えたのが老荘思想です。それに対し、人為・作為も、善を目指す人為なら、「徳」へと通じると考えたのが儒教だとも言えます。また西欧では、人間の自由意志は、基本的には「善」で、その自由意識の為す処の結果が善か悪かは、人間の決定と行い次第ということになります。
 
  フランスの啓蒙思想家のルソーは「自然に帰れ」と言ったとされます。これは、裸になって山や森に入り、未開人のように木の実などを食べて生活せよ、という意味ではなく、社会の人為・虚飾・不自然さ・偽善を棄て、人間の本来の「善なる自然」に帰れ、という意味だったのです。社会が複雑になって来て、人間の人為の技術や作為の文化が緻密に高度になって来ると、欺瞞や偽善や、独善や利己主義や他者の否定などが生じて来て、こういうことは、自然に反するという考えです。
 
  「人間のしてることでいいことって 何かありますか?」というのは、人為の何の面を、どういう価値観から、誰が見るか・判断するかによって答えが違って来ます。わたし個人は、人類の現代の社会や文明は、様々な独りよがりな人為に溺れており、利己主義や独善主義などがはびこって、まことに情けないというか、ある意味悪辣な状態だとも思います。では、何もしないこと、つまり「無為自然」がよいのかというと、そうも言えません。
 
  人間に限らず、動物でも植物でも、あるいは山や海や天体でも、何か行動すると、あるいは動くと、あるいは、そこにあるだけで、他のものに影響を与えるということがあります。人間は、意志があり、自覚があり、意識する存在であるので、自由意識があり、また、それに応じて「人為」と「無為」という区別の思考が出てくるのだとも思います。老荘思想の「無為自然」であっても、これは深山幽谷にこもり、世間から離れて、仙人のような暮らしをするのが「無為自然」の実践では、必ずしもなかったはずです。都会の人々のあいだの市井にあって、「あるがままの本性に従う、善なる生活をする」というのも、無為自然でしょう。それでも、他の人や生き物や地球や環境に影響をまったく及ぼさないとは言えないでしょう。
 
  結局、この現代の文明と人為・作為の世界にあって、人は「どう生きればよいのか」という問いになって来るでしょう。そして、それは「善」を尋ね求めること、「善なる生のありよう」を見いだし実践する「智慧」の探求となります。「哲学=愛智」とは、本来的に「善の探求・善への志向」だったのです。
 
  わたしは、人がいかに生きるかについて、善と悪について、様々な考えがあったこと、先人・先達たちも、みな、善について考え悩んで来たということを述べたのです。中国でも、西欧や古代ギリシアでもそうでした。
 
  人間の人為の傲慢・エゴイズム・悪なる行動の数々は、個人レヴェルでもありますし、集団レヴェルでもあります。こういうありさまの世界にあっては、人間は何をしても人為の悪しき結果しかないので、何もしないで無為自然、庭で花を作って暮らしていればよいのだという考えももっともなことです。しかし、個人として、集団・種族として人間のありようを虚心に眺めれば、悪も善も、両方が混ざり合ってあるのが、この世界だということが分かるでしょう。
 
  わたしも、欺瞞の世界、偽善の世界、利己主義と独善と傲慢と悪意と作為に満ちたこの世だと思います。どこに善や美があるのか、とも思います。美しい品々や便利な装置や、快適な生活や、豊かな日常などは、多面、偽善と虚飾と、何か他者の犠牲の上に常に成立しているようにも思えます。
 
  「善はどこにあるのか?」というのは、わたしにとっても問いであり課題でしょう。多くの人にとっても、それは、心悩ます問題であるでしょう。なかには、そんなことはまったく関係のない独善的利己的な人もいますし、そういう問題から敢えて目を背けようとしている人、また外目にそういう風に見える人もいるでしょう。現代の社会においては、個人の力など、まことにたかが知れているということが、まったく実感として激しく感じられるこの世界であることでしょう。管理されている、というか、何か常に他者の思惑や作為のなかで、他者の利用対象とされていて、自己の独立性を実感できない時代と世界でもあるでしょう。
 
  善を求める、智慧を求めるとは、どうすればできるのか、何がめじるしとして、生き方を導いてくれるのか、混迷している現代のわたしであり、我々であることでしょう。
 
  こういったもろもろのことを考え併せて、しかし、この世には「何かよいことがあるのか?」という問いは、他人に尋ねる問いでもあるでしょうが、自己で問い続けるべき問いでもあるでしょう。そういうことを言っていると宗教的だと言われてしまうのですが、「貴方が生きる」とは、「貴方が生きる」ことなのです。そんなことは分かっていると思われるかも知れませんが、それが「分かっていれば」、聖人でしょう。人間の本性から発露された善や、人為・自由意志による善は、探せば、無数にあることでしょう。無論、それらは、偽善や欺瞞や悪の泥沼のなかに隠れているというか、時に、それらと区別の付かない形であるのでしょうが、それが善であることは、人の苦悩の道を通じてしか実感できないとも言えるでしょう。
 
  「生きよ、死せよ、休息せよ。汝ら、苦悩する雛鳥たちよ」生きよ、死せよ、汝ら、見捨てられし魂たちよ。「神の国は、そこにある、あそこにある、というようなものではない。それは、実に《あなたがたのあいだに》あるのだ」これは『新約聖書』にあるイエズスの言葉ですが、キリスト教の宗教の話だと思わないで、人間の生きる姿を的確に表現した言葉だと受け取るとどうでしょうか。神学的な解釈は色々ありますが、「あなたがた」とは、人間のことだけではないというのが、わたしのいまの考えです(天使のことでもありません)。
 
  誰もかつて、「善」とは何かを知った者はいなかったのだとも言えるでしょう。善の探求、智慧の探求は、こうして、何時までも、人間の課題であり、人は、見捨てられし雛鳥として、いつも限りなく孤独で見捨てられ、しかし、目に見えない《あなたがた》のあいだにあるのだとも言えるでしょう。記憶違いかも知れませんが、インマニュエル・カントは、「我々を導くのは、頭上の星と、我々のうちなる理性である」と述べました。
 
  答えになっていないかも知れませんが、答えのないまま、見捨てられし雛鳥として生きて行くのが、人の生きる姿ではないのかということです。神秘的な話だと言われるかも知れませんが、雛鳥の頭上の夜の空には、燿く一つの星があり、雛鳥を見守り、そして鳥の胸のなかには、理性と知性と、そして智慧への愛、善への志向の課題の自覚があるのではないのかと。こういう言葉です。
 
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この回答へのお礼

●ご回答に多大な時間をさいていただいたようで ありがとうございます。
 あなたが おっしゃりたい事はだいたい分りました。ご安心ください。

 わたしは過去の宗教家や哲学者に期待しません。
 現在になんの光もみつからないからです。もし過去に良い解決策が提示されてる
 なら いま光くらいさすでしょう・・・。

●ミームってご存知ですか?模倣子ともいいます。
 遺伝子を介さないで時間を越えて伝わるものの総称です。

 おおかみ少年なら いまの人間よりまだマシですが それでも悪だなあ。
 人は人に育てられるべきだからです。そのほうが美しい。

 そもそも なんで人間はこんなに醜いんだろう?と思いました。
 中略。[やっぱり言葉を始めとしたミームにふりまわされてるからだなっ。]
 ってのが 結論です。
 思い込みが いちばん危ない。醜い。無意味。なんですねえ。

 ならばどうすればいいのか。
 答は簡単です。自分なんて存在しないということに気付くことです。
 いま感じている自分とは
 膨大なミームにより発生した意識という現象にすぎないのです。
 もし 自分=魂とするなら それは限りなく静かな存在です。
 そうです無に限りなく近いもの そんな風に感じています。
 詩的に表現するなら 無より静かなこころ です。

●こうして書いていたら また主人に言われました。
 「また しょうもないことして。」

 人間のすることで ひとつだけ善があるとしたら
 それは わたしの生涯を通して 主人をたいせつに思い続けることなのかも
 しれません・・・。
 

お礼日時:2001/11/06 09:06

「う~ん、なんだかなあ」と思いつつも、質問者の意に添うような回答を考える。


自分の時間を削って、身も知らない人のために検索能力を駆使する。
何かをすることが悪ならば、私は極めつけの悪人です。
やはり善悪の定義を定めていただかないと、回答しようがありません。
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この回答へのお礼

●ご回答ありがとうございます。

 NO1の方へのお礼を ご参照ください。

お礼日時:2001/11/06 08:32

例えば、片目を失った猫の里親をさがすこと。


例えば、電車内でお年寄りに席を譲ること。
例えば、親が子供の幸せを願うこと。
例えば、NGOでアンゴラに行き地雷撤去の作業に汗すること。
これらも悪との判断でしょうか?
まずはchihokoさんが言う悪の定義をした方が良いと思います。
ちなみに自己満足というのは一般的には悪とは言わないと思います。

この回答への補足

>例えば、片目を失った猫の里親をさがすこと。
●人間がねこのことをどうこうしようとすることはエゴです。
 人間は所詮人間 ネコの気持ちはわかりません。

>例えば、電車内でお年寄りに席を譲ること。
●これは 普通のことです。善ではありません。

>例えば、親が子供の幸せを願うこと。
●これは あたりまえのことです。善ではありません。

>例えば、NGOでアンゴラに行き地雷撤去の作業に汗すること。
●仕事は仕事 それ以外のなにものでもありませんし 仕事に善悪はありません。
 危険なことに自ら飛び込む事は善ではありません。
 自分の命を軽視することは悪そのものです。

以上 私感です。

補足日時:2001/11/06 11:00
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この回答へのお礼

●ご返答ありがとうございます。

 例えばの4つですけど すべて主体である人間の発露による行動ですから
 人を殺すことや動物を殺すことと 同じ次元の事だと思います。
 あなたの例と↑これを区別することは むずかしいと思います。
 片目を失った猫の里親をさがしているひとが ヒトラーでも
 その行為は善でしょうか? わたしは主体(人間)が そもそも何たるか
 に着目して考えてしまうんです・・・。
 人間=こざかしいエゴイスト って感じかな。

 悪の定義 : 美しくないこと 美しくない状態を誘発すること かな・・・。

お礼日時:2001/11/06 08:27

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