オランダがドイツに降伏したのが1940年。その時に、オランダの軍隊は消滅しているはずです。ところが1942年日本の陸軍がオランダ領パレンバンに落下傘降下したときには、オランダ軍と戦い、オランダ軍の捕虜の件で戦後の戦犯問題が起きました。日本軍が戦ったオランダ軍は、一体どのような位置づけなのでしょうか?あるいは、日独伊三国同盟がありながら、同盟国ドイツに管理されているオランダ軍と戦ったのでしょうかでしょうか?

A 回答 (2件)

正直、この時期のオランダ軍の状況はよくわかりませんが、



「王室と内閣は、某将軍に後事を託して英国に逃れ、軍は最後まで独軍に抵抗し降伏した。」

と何処かで読んだ記憶がありますので、組織としてのオランダ軍(本国軍)は、壊滅していたのではないでしょうか。
勿論、王室と共に英国に事前に逃れていた、指揮官クラスもいたでしょうが。
実戦部隊は、植民地派遣軍(蘭印のみ?これも日本軍に降伏。)だけだったと思います。

ちなみに、某将軍が降伏を決断したのは、独軍のユトレヒト空爆の恫喝(?)が一因だった様ですね。

はっきりとした、回答ができずスイマセン。

>反日感情
オランダの某女王様は、
「独軍さえ居なくなれば(?)、日本軍など追っ払うのは簡単だ。」
というような発言をしたとも言われてますので(本当に言ったかはわかりませんが。)、
蘭印を占領した日本は、火事場泥棒みたいなものだったのでしょうね。
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1940年オランダ本国はナチスドイツに占領されましたが、オランダ政府(及び王室)は、英国ロンドンに亡命し存続しました。


一方蘭印(現インドネシア)には、植民地支配の為の政庁があり、その政庁はナチスドイツの支配下にはありませんでしたので、侵攻してきた日本軍と戦ったのです。
蘭印に派遣されていた海軍(軽巡以下の小部隊)は、連合国側の他国の海軍と、協同で日本海軍と戦っています。

この回答への補足

有難うございました。それで何のなく、反日感情が、ドイツに手を上げた分、強いのがわかりました。

補足日時:2001/11/06 20:21
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この回答へのお礼

有難うございました。そうすると、物資などの補給は、本国からではないということですか?また、オランダ軍の参謀本部ももちろんLONDONにあったのでしょうか?ユトレヒトにいます。宜しくお願いします。

お礼日時:2001/11/06 20:20

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Qオランダでの風車観光について

9/14よりオランダ・アムステルダム4泊で旅行に行きます。
アムステルダム観光に1.5日、ハ-グ・デルフト観光で1日の予定です。
あと1日は風車を観に行きたいのですが、世界遺産のキンデルダイクか、ザ-ンセ・スカンスのどちらに行こうか迷っています。
それぞれの行き方、見所等、どちらがお勧めかアドバイスお願いいたします。

Aベストアンサー

キンデルダイクに行ったことがあります。見渡す限りの田園風景の中に風車が並んでいて、壮観でした。風車以外に何もなく、変に観光地化されていないのも良いと思います。ザーンセスカンスへは行ったことはないので比較はできませんが。

見所は、
・風車内部の見学
・ボートツアー
・ぶらぶら歩く

ただそれだけです。1時間半もあれば、十分楽しめます。

URLは、日本語による簡単なガイド、そこからリンクされているキンデルダイクのホームページ(英語)では、アクセスも含め詳細な説明があります。

私のとった交通手段は、
Amsterdam からRotterdam centralまで電車(1時間)、
Rotterdam central から Zuidplein まで地下鉄(20分)、
Zuidplein からバス154番でKinderdijk まで40分

です。バスは1時間に1本か2本しかありません。

ここだけで1日では時間が余ると思います。154番のバスはユトレヒトにも行くので、ロッテルダムか、ユトレヒトなどと組み合わせてはいかがでしょうか。

参考URL:http://www.holland.or.jp/nbt/holland_town_kinderdijk.htm

キンデルダイクに行ったことがあります。見渡す限りの田園風景の中に風車が並んでいて、壮観でした。風車以外に何もなく、変に観光地化されていないのも良いと思います。ザーンセスカンスへは行ったことはないので比較はできませんが。

見所は、
・風車内部の見学
・ボートツアー
・ぶらぶら歩く

ただそれだけです。1時間半もあれば、十分楽しめます。

URLは、日本語による簡単なガイド、そこからリンクされているキンデルダイクのホームページ(英語)では、アクセスも含め詳細な説明があります。
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Q質問です。朝鮮戦争においては北朝鮮軍兵士の捕虜と中国義勇軍の捕虜は休戦

質問です。朝鮮戦争においては北朝鮮軍兵士の捕虜と中国義勇軍の捕虜は休戦後どうなったのですか?北朝鮮軍捕虜は祖国に送還されたのでしょうか?それとも韓国に帰化したのですか?中国義勇兵は帰還したのでしょうか?帰還した後はどうなったのでしょうか?回答お願いします。

Aベストアンサー

 1953年、送還を希望する捕虜9万5千人が板門店(地名)から送還。
       送還拒否捕虜2万2千人は中立国送還委員会によって自由意志を確認後、希望地(南か北か)に。
       
 この9万5千人に、南北で捕まっていた北朝鮮兵士・韓国軍兵士・中国義援軍・国連軍が含まれるようです。
 南北の兵士以外は、北朝鮮を選ぶとか南朝鮮を選ぶとかは関係ないのでそのまま自国へ帰ったでしょう。

 ちなみに月並みですが、韓国wikiによると、
<共産軍側被害>
・中国義勇軍  戦死 13万5000名
        負傷 20万8400名
        失踪及び捕虜 2万5600名
・ソ連軍    戦死 315名
        負傷 500名

<国連軍側被害>
・米国     戦死 3万6940名
        負傷 9万2134名
        失踪 3737名
        捕虜 4439名
・豪州     戦死 339名
        負傷 1216名
        失踪 3名
        捕虜 26名
・カナダ    戦死 312名
        負傷 1212名
        失踪 1名
        捕虜 32名
・英国     戦死 1078名
        負傷 2674名
        失踪 179名
        捕虜 997名
・ニュージーランド  戦死 23名
           負傷 79名
           失踪 1名
・フィリピン  戦死 112名
        負傷 229名
        失踪 16名
        捕虜 41名
・トルコ    戦死 741名
        負傷 2068名
        失踪 163名
        捕虜 244名
・オランダ   戦死 120名
        負傷 645名
        捕虜 3名

 国連軍側は16カ国いましたが、上記以外の国の被害については載ってないです。
 「失踪及び捕虜」って、なんだかざっくりって感じですね。

 また、北朝鮮側というと中国義勇軍が有名ですが、実はソ連も「非公式支援国」として「部分参戦」していました。そもそも最初の6月25日の最初の南進軍に、「北朝鮮軍兵の軍服を着て参加した」という元ソ連軍兵士の証言なんかもあります。

 1953年、送還を希望する捕虜9万5千人が板門店(地名)から送還。
       送還拒否捕虜2万2千人は中立国送還委員会によって自由意志を確認後、希望地(南か北か)に。
       
 この9万5千人に、南北で捕まっていた北朝鮮兵士・韓国軍兵士・中国義援軍・国連軍が含まれるようです。
 南北の兵士以外は、北朝鮮を選ぶとか南朝鮮を選ぶとかは関係ないのでそのまま自国へ帰ったでしょう。

 ちなみに月並みですが、韓国wikiによると、
<共産軍側被害>
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Qオランダ空港で乗り継ぎ待ち時間の間外に出ることは可能?

オランダ空港で8:30~15:30の間、乗り継ぎで待ち時間があります。

オランダ空港 8:30到着
東京 15:30出発

この間、2時間ぐらいでもオランダ空港をでて外で観光することは可能でしょうか?
それとも乗り継ぎの場合、無理なのでしょうか?

ツアーで行きます。

Aベストアンサー

初めまして、アメリカ在住高1です。

オランダからの目的地により違います。

オランダからまた海外に出るのか、オランダの国内線に
乗るのか。

もしオランダから海外に出る場合はおそらく不可能だと思います。
ツアーのパック(添乗員がいない場合や集団行動がない場合)は勝手に入国してうろうろできるかもしれませんが、おそらくどのタイプのツアーでもオランダには入国手続きをせず、到着したらすぐにトランジットで出発フロアに移されると思います。

しかしオランダ国内線に乗り継ぎでしたら、到着空港で入国審査を
するので可能です。

入国審査が終わったらそのまま外に出て時間になったら国内線出発
のフロアに来てそのまま国内線に乗ればいいので外に出る事ができます。ただこれも集団行動でのツアーでしたらおそらく不可能だと思います。

ツアー会社に問い合わせてみるのが一番早いと思います。

参考までに。

Qノルマンディー上陸作戦でドイツ軍の捕虜に東洋人?

マイウェイ 12,000キロの真実という映画を見ました。何でも監督が、ノルマンディー上陸作戦で捉えられたドイツ軍捕虜の中に東洋人がいたという話からインスパイアされたらしいのですが、本当にそんなことがあったのでしょうか?

http://myway-movie.com/

Aベストアンサー

たとえば
http://mltr.ganriki.net/faq08a04o07.html#03676
こんな写真があったりする訳です。

ナチス・ドイツの軍、殊に武装親衛隊(志願制なので。また、人的資源を当然正規軍と取り合う訳で、そこに軋轢が発生する)は人手不足に悩んでおり、補助兵力や兵士として捕虜やら占領地のシンパやらを使っています。

#イスラム教徒兵とか、イタリア兵とかまでいました。

で、ソ連東部のアジア人種が徴兵され(なんせ連中は雪男まで引っ張ったという巷説がある位手当たり次第引っ張った)、捕虜になり、ドイツ軍に「志願」(というのも、志願させるために意図的に待遇が悪かった)ということに。

ノルマンディの一件は、リンク先に依ればソ連軍経由のチベット人というようです。

Q観光ビザでカナダに滞在中、カナダーオランダ往復のビザは必要?

10月末から5ヶ月半、カナダへ語学留学します。修了するのは4/15なので、その後、オランダにいる友達に会いに1週間ぐらい行く予定です。本当は、カナダからオランダに寄って、日本に帰ってきたいのですが、観光ビザでのカナダへの入国であるため、一度オランダへ行ったら、カナダへ戻ってこなければいけないと聞きました。オランダ入国時に一週間後にオランダを出るということを証明するため、カナダへの帰国チケットも提示しなきゃいけないとのこと。日本ーカナダーオランダー日本のチケットだと世界一周チケットになるのでものすごく高いそうなので、これはできないと考えています。

ですので、やはり日本ーカナダ カナダーオランダ オランダーカナダ カナダー日本 のチケットを用意すべきなのですが(カナダーオランダ往復はカナダで購入予定)、このようにカナダへビザなしで入国中に第三国であるオランダへ旅行し、またカナダに帰ってくる場合(カナダの観光ビザの許可上、6ヶ月以内に日本に帰国しなければいけないので、オランダからカナダへ戻ったら、すぐに日本に帰るつもりです)、オランダへの入国にビザは要らないんでしょうか?また、オランダーカナダ の帰りのチケットを持っていれば、オランダ入国は問題ないんでしょうか?また、オランダからカナダへの入国(言ってみれば再入国)は問題ないんでしょうか?

10月末から5ヶ月半、カナダへ語学留学します。修了するのは4/15なので、その後、オランダにいる友達に会いに1週間ぐらい行く予定です。本当は、カナダからオランダに寄って、日本に帰ってきたいのですが、観光ビザでのカナダへの入国であるため、一度オランダへ行ったら、カナダへ戻ってこなければいけないと聞きました。オランダ入国時に一週間後にオランダを出るということを証明するため、カナダへの帰国チケットも提示しなきゃいけないとのこと。日本ーカナダーオランダー日本のチケットだと世界一周チケット...続きを読む

Aベストアンサー

「観光ビザ」と書かれていますが、カナダでは6ヵ月以内の観光はもちろん、
6ヵ月以内の就学でも、日本人ならビザ( 一時滞在者査証 )は免除されて
います。これはカナダ大使館のウェブサイトにも明記されていますね。

 この場合、入国後6ヵ月以内にカナダから出国する必要がありますが、
出国先についての制限はとくにありません。ですのであなたがオランダに
出国すること自体、カナダ側としてはなんら問題はありません。

 また、オランダへの入国ですが、ハッキリ言って日本人ならほとんど
フリーパスです。パスポートをチラリと見せて終わり。スタンプも押して
くれないことが多いです。もちろん用意をするのにこしたことはないので、
カナダに戻る航空券が手元にあると安心ですね。往復航空券は、「この国に
長期滞在せず、いずれ戻るつもりだ」という意思の証明になりますので。

 あとは帰りですが、もしカナダに滞在しないのであれば、国際線から
国際線への乗り継ぎの場合、カナダへは入国しません(この点、米国とは
異なっています)。ですのでビザの心配は何も要りません。また、カナダに
滞在を希望される場合、最初に入国したときと同様に入国審査を受ければ、
とくに問題なく査証免除で入国できます。あなたがオランダに出国した時点で、
最初の入国条件(6ヵ月以内)はリセットされますので。

 ちなみに、陸続きの米国に出国した場合は、このリセットがありません。
米国とカナダを往復することで滞在期間を延長する、という手法が使えない
ようにしているからです。

※10年ほど前の経験談ですが、シカゴからオタワに飛んだとき、入国審査で
別室に呼ばれ、いろいろ質問を受けました。恐らくその便に乗っている日本
人(東洋人)が私だけで、日本人にしては不自然な入国経路だったからでしょう。
ですが、地元の大手企業に呼ばれて来たことを話し、その書類を見せたら、
「オー! OK!」とあっさり解放されました。

参考URL:http://www.canadanet.or.jp/i_v/visit/index.shtml

「観光ビザ」と書かれていますが、カナダでは6ヵ月以内の観光はもちろん、
6ヵ月以内の就学でも、日本人ならビザ( 一時滞在者査証 )は免除されて
います。これはカナダ大使館のウェブサイトにも明記されていますね。

 この場合、入国後6ヵ月以内にカナダから出国する必要がありますが、
出国先についての制限はとくにありません。ですのであなたがオランダに
出国すること自体、カナダ側としてはなんら問題はありません。

 また、オランダへの入国ですが、ハッキリ言って日本人ならほとんど
フ...続きを読む

Qドイツ軍捕虜の強制労働とシベリア抑留

ソ連の日本軍捕虜に対する強制労働は、シベリア抑留として有名ですが、
一方で、ドイツ軍捕虜も沢山いたはずです。
スターリングラードの捕虜10万人のうち無事帰国できたのは5千人と聞きました。
ソ連のドイツ軍捕虜に対する強制労働は、日本軍のそれに対して過酷だったのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

当然そうだと思います。
スターリングラードの10万の捕虜が5千人しか帰ってこなかったのは有名な話ですが、そこから類推するとソ連によるドイツ人捕虜の扱いは厳しかったんでしょう。そりゃそうです。ドイツ軍は不可侵条約を無視して攻め込み2千万人のロシア人を殺したんですから。日本軍は中立条約があったのに攻め込まれ6日間戦っただけなのにシベリアに連れて行かれ強制労働させられたなんて滅茶苦茶だ。ソ連というのはひどい国だった。

聞いた話では最初はシベリア抑留の計画はなかったが、マッカーサーに北海道割譲を断られてその腹いせにスターリンが実行したようです。シベリア抑留で北海道を守ったということになります。
ソ連からしてみれば日本人捕虜とドイツ人捕虜の扱いが違うのは当たり前だと思います。日本人はロシア人を殺してないし攻め込んでもいないんですから。

Q風車(オランダ)

なぜ、お花畑の近くには
たいてい風車があるのですか?

そして、オランダは観光資源として
お花畑で有名なところがあると聴いたのですが
そのお花畑の名前を教えてください。

Aベストアンサー

オランダの風車は今は観光客相手のものだけです。
至る所に発電用の近代的?な風車が回っています。

キューケンホフ公園が有名かな。

Qドイツ軍の第2装甲軍について質問です。

第二次大戦中のドイツ軍第2装甲軍について質問です。

当該軍は1941年バルバロッサ作戦時中央軍集団隷下において第2装甲集団として編成、
1941年10月に装甲軍に改編されたものと承知しております。

そしてその後1942年にバルカン半島に送られ、1943年F軍集団として再び改編され引き続きバルカン半島で活動したとウィキペディアに記載されています。

しかし、1943年7月のドイツ軍によるツィタデレ作戦(クルスクの戦い)時には
中央軍集団に属しモーデル将軍の第9軍左翼に陣取っていると各種資料の地図で確認できます。
さらにウィキペディアのクルスクの戦いのページにある部隊配置地図では
指揮官部分に"SHIMIDT"と記載、おそらくルドルフ・シュミット上級大将のことでしょうが
彼は1943年4月に第2装甲軍司令官を更迭されているはずです。
クルスクの戦いの起こった7月に彼が指揮官なのは時系列が合いません。

F軍集団の編成はウィキペディアでは8月12日とありますが、
第2装甲軍が参加していたはずのクルスクの戦いは8月22日まで続いたはずです。
ウィキペディアの情報をそのままたどると、
第2装甲軍は1941年バルバロッサ作戦においてモスクワに向けて進撃し
その後1942年にははるか1500km南方のバルカン半島に派遣、
さらに1943年夏に再び1500km北でクルスクの戦いに参加し、
激戦のさなかもう一度1500km南下してバルカン半島に戻ってきたということでしょうか?

いくらなんでもむちゃくちゃすぎると思うのですが、これは事実ですか?
それともウィキペディアの情報が間違っているのでしょうか。

第二次大戦中のドイツ軍第2装甲軍について質問です。

当該軍は1941年バルバロッサ作戦時中央軍集団隷下において第2装甲集団として編成、
1941年10月に装甲軍に改編されたものと承知しております。

そしてその後1942年にバルカン半島に送られ、1943年F軍集団として再び改編され引き続きバルカン半島で活動したとウィキペディアに記載されています。

しかし、1943年7月のドイツ軍によるツィタデレ作戦(クルスクの戦い)時には
中央軍集団に属しモーデル将軍の第9軍左翼に陣取っていると各種資料の地図で確認でき...続きを読む

Aベストアンサー

●「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊―欧州戦最終期のドイツ軍戦車部隊、組織編制と戦歴の事典」 (大日本絵画 マクシム・コロミーエツ著)によれば、第2装甲軍は、
1941年夏以降から1943年9月の間は、独ソ戦線で行動し、その後、F軍集団に編入されたとあります。

「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」
http://www.amazon.co.jp/1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E2%80%95%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%88%A6%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%9C%9F%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%81%E7%B5%84%E7%B9%94%E7%B7%A8%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%88%A6%E6%AD%B4%E3%81%AE%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6%E8%BB%8A%E6%88%A6%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A0-%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%84/dp/4499229243/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1377357679&sr=8-3&keywords=1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84

つまり、この「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」の内容が正しければ、

>1942年にバルカン半島に送られ、

の部分は誤りとなる可能性があります。

また、パウル・カレルの「バルバロッサ作戦」やエーリッヒ・フォン・マンシュタインの回想録「失われた勝利」等を見ると1942年1~3月、7月に第2装甲軍が東部戦線でソ連軍と戦闘しているのがわかりますから、少なくとも1942年を通して第2装甲軍がバルカン半島にいたという事はないという事がわかります。それに、クルスク戦においても第9軍の側面防御を請け負う援護部隊としての役割だった事などもわかります。

そのウィキの記事が何を元に書かれたか、それが信頼性の高い資料によるものなのかが問題だと思います。


●なお、
>F軍集団の編成はウィキペディアでは8月12日とありますが、

この部分について、ハインツ・グデーリアンの回想録「電撃戦」(1974年版)の別冊資料集では、F軍集団は「1943年8月22日~26日」となっています。


●余談ですが
>はるか1500km

ドイツ装甲師団は東部戦線で戦った後、兵士の休養と兵器の再装備のため、フランス等で数ヶ月過ごす事が珍しくありませんでした。
一例を挙げると、東部戦線にいた第7装甲師団は1942年5月にフランスに向かい、そこで休養と再装備をすませると12月には東部戦線に復帰しています。
東部戦線からフランスまでは軽く2000キロを超えている距離です。

●なお第2装甲軍に所属している部隊もそれなりに変わっています。
1941年11月にモスクワを目指して進撃していた第2装甲軍には、装甲師団として
第3装甲師団、第4装甲師団、第17装甲師団、第18装甲師団が所属していましたが、
クルスク戦前の時点では、この4個師団は既に所属しておらず、所属していたのは、
第5装甲師団、第8装甲師団、第12装甲師団でした。
この3個師団は第2装甲軍がF軍集団に配属された時、第2装甲軍から外されそのまま東部戦線に残されています。


■>ウィキペディアの情報が間違っているのでしょうか。
回答・・・その可能性はあります。

●「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊―欧州戦最終期のドイツ軍戦車部隊、組織編制と戦歴の事典」 (大日本絵画 マクシム・コロミーエツ著)によれば、第2装甲軍は、
1941年夏以降から1943年9月の間は、独ソ戦線で行動し、その後、F軍集団に編入されたとあります。

「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」
http://www.amazon.co.jp/1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E2%80%95%E6%AC%A7%E5%...続きを読む

Qドイツ、オランダ、デンマークの旅(プラン初期)

今年の夏にヨーロッパの旅を計画したいと思っています
まだ初期段階の計画ですが、11日の行程でドイツ、オランダ、デンマークが、せわしくなく観光できるか、検討しています。皆様からアドバイスを頂きたく宜しく御願い致します。
下記にすごくラフですが、行きたい場所と旅行の内容を書いてみました。
1.時期:2009年7月中旬
2.人数:2人(夫婦で)40代
3.出発場所:成田発
4.ヨーロッパへのフライト:成田⇔フランクフルト
5.期間:11日(成田発から成田着まで含む)
6.行きたい場所:ドイツ、オランダ、デンマーク
7.ドイツ:ロマンティック街道(バス1日)とケルンは行ってみたいです。
8.オランダ:アムステルダム市内観光(丸2日観光、主に美術館)、除移動日
9.デンマーク:コペンハーゲン(丸1日観光)、除移動日
10:移動は列車と1回、往復で飛行機可能(成田、フランクフルトのチケットに付いているので)
11.現在難しく感じていること:コペンハーゲンが遠いので、上手にプランが想定できていない。荷物があるから、同じ場所には最低2日は宿泊したい。列車の移動は長くて4時間、乗り換え1回くらいまでで。移動日は4時くらいにはチェックインして、夜はゆっくりしたい

すごくまだ、ラフなプランですが、皆様の提案を元に、内容を完成さえていきたいと思っております。

今年の夏にヨーロッパの旅を計画したいと思っています
まだ初期段階の計画ですが、11日の行程でドイツ、オランダ、デンマークが、せわしくなく観光できるか、検討しています。皆様からアドバイスを頂きたく宜しく御願い致します。
下記にすごくラフですが、行きたい場所と旅行の内容を書いてみました。
1.時期:2009年7月中旬
2.人数:2人(夫婦で)40代
3.出発場所:成田発
4.ヨーロッパへのフライト:成田⇔フランクフルト
5.期間:11日(成田発から成田着まで含む)
6.行きたい...続きを読む

Aベストアンサー

>友人がいるのは、デュッセルドルフでした(フランクフルトではありません)。

デュッセルドルフからアムステルダムでしたらICEで2時間15分くらいで行ける列車もありますよ。

>ライン川下りは、マインツからケルンですと水中翼船でも4時間近くかかるかと思うのですが、90分程とは、マインツ→コブレンツ間を言っているのでしょうか?回答よろしくお願い致します

ラインの川下りの船での観光に適している区間はRuedesheimリューデスハイム(地図上の右岸)⇔ローレライの岩山が見えるSt. Goar(左岸)またはその対岸のSt. Goarhausenまでです。この間(約90分)
Mainzマインツに近いBingenはRuedesheimの対岸で、マインツに宿泊の時はここからの乗船がよろしいかと…。
それ以上の区間の船からの眺めは変化に乏しく、時間的に無駄が多いと思われます。
また、コブレンツの見所は、右岸の上の要塞で、それは列車からの眺めだけでもよいと思われます。ドイチェス・エック(ライン川とモーゼル川に出来た三角州があり記念碑が建っている)がありますが、時間の都合でパスしても良いのではないでしょうか。
*リューデスハイムのゴンドラに乗って、丘に上るとニーダーヴァルトの記念碑があり、こちらからのライン川の眺めはとてもよいです。

*マインツの大聖堂(カイザー・ドーム)は今年築千年で一年中それにかかわる催しがあるようです。

*マインツの大聖堂から15分ほど歩いた所にSt.Stephan(ザンクト・シュテファン教会)があり、ここのステンドグラスはシャガールが手がけたもので、観光客にたいへん人気があります。(昼休みは閉館)http://www.mainz.de/WGAPublisher/online/html/default/mkuz-5v9lmb.de.html

参考URLからはDBの時刻表検索が出来ます。ドイツから他の国までの検索やライン川の船の時刻も検索出来ます。
時刻表検索の仕方はこちらをご参照ください。
http://hvanilla.web.infoseek.co.jp/db/index.html

参考URL:http://www.bahn.de/p/view/buchung/fahrplan_buchung.shtml

>友人がいるのは、デュッセルドルフでした(フランクフルトではありません)。

デュッセルドルフからアムステルダムでしたらICEで2時間15分くらいで行ける列車もありますよ。

>ライン川下りは、マインツからケルンですと水中翼船でも4時間近くかかるかと思うのですが、90分程とは、マインツ→コブレンツ間を言っているのでしょうか?回答よろしくお願い致します

ラインの川下りの船での観光に適している区間はRuedesheimリューデスハイム(地図上の右岸)⇔ローレライの岩山が見えるSt. Goar(左岸)...続きを読む

Q日独伊軍事同盟について

日独伊軍事同盟が結ばれた時は、各国の国民はこのことは知っていたのでしょうか?
また、各国でこの条約に反対する勢力はあったのでしょうか?
ぜひお教え下さいませ。

Aベストアンサー

勿論、各国の国民は知っていました。
日本においては主に独伊両国の海軍戦力が貧弱であり、それと同盟することによって、強大な海軍力を有するイギリスを完全に敵に回してしまうことから、海軍を中心に反対勢力がありました。
特に山本五十六、井上成美、米内光政の三人は「反対三羽ガラス」と揶揄される程に猛反対し、陸軍でも石原完爾、閣内では吉田海軍大臣、石黒農林大臣など、反対意見を唱える要人は少なくありませんでした。
しかし当時の日本ではマスコミや一般世論も含めて大多数がフランスを屈服させたばかりのドイツの勝利に幻惑され、ドイツやイタリアの力でイギリスやアメリカを牽制すると言う方向に傾き三国軍事同盟の方向へ向かってしまいます。


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