縮緬問屋の隠居水戸黄門はTVの中で町人髷してませんが町人で町人髷してないと言うかそう言う人って結構いたのですか?あれは町人の流行りですか?

A 回答 (2件)

製作会社が時代考証をちゃんとしていないだけのことでしょう。


なお、水戸光圀は権中納言で、中納言になったことはありません。
武家の官位は権大納言、権中納言で大納言、中納言はありませんでした。
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この回答へのお礼

まあちゃんとしてないと言う事になりますよね、ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/15 20:50

水戸黄門を見て、まさか、実際あったことと勘違いしていませんか



あくまでも、テレビの中の世界で、もちろんフィクションです。

水戸黄門は縮緬問屋の隠居ではありません。中納言です
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/15 20:49

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Q水戸黄門について

水戸の黄門さまは 現代の政治での役職は総理大臣くらいでしょうか ?
今の政治家だと 何方が黄門さまにふさわしいでしょうか

Aベストアンサー

御三家について
十一人の男子に恵まれた徳川家康の死の枕元にいた男子は
四人だけでした。

二代目の将軍職をついだ三男徳川秀忠、九男の尾張松平義直、
十男の紀伊松平頼宣、十一男の松平頼房。
他の六人は家康の存命中に病気や事件で死亡し、六男は
勘気に触れ蟄居(罪人状態)でした。

家康の心配は豊臣の残党より、将軍職をめぐるの身内の争いでした。
将軍にあとを継ぐ男子がいないと、松平家一統の骨肉の争いになり、
場合によっては天下大乱で、苦労して築いた平和が消える。

家康は死に当たり、代々将軍に嫡男が無い時は、尾張または
紀伊家より次期将軍を出す。   将軍(元も)しか名乗れなかった
徳川の姓を、尾張、紀伊、水戸の藩主(元も)にも許すときめました。
宗主の徳川に準じるとして、御三家という他の親藩大名より
格上の地位を設けました。  また御三家の藩主は将軍の補佐を
するよう命じました。 

このことから世間は俗に副将軍と呼んだのです。
ただ副将軍という役職はなく、また補佐といっても何をするという
決まりもなかったので、家光の時以降幕府の体制が整備されると
御三家が幕府の政務に口をはさむことはほとんどありませんでした。

ただ一度四代将軍家綱が嫡男に恵まれなく、次代将軍を綱吉に
決めるにあたり、水戸光圀が強力に後押ししたことがありました。
このいきさつより、光圀はたまに親しい綱吉に苦言を呈したことも
ありましたが、煙たがられたようです。
その後幕末まで、御三家が影響力を示したことはなかったようです。   

光圀の俗称副将軍は案外的を射ているかもしれません。

水戸黄門を光圀に限っていうことにすると、御三家の藩主は主要
都府県の知事で、将軍の補佐は首相のご意見番(勝手な非常勤
顧問)になりますがどうでしょう。
これではふさわしい人は難しく、元首相(首相にはなれなかったが
同格と見られる人もふくめ)で現首相の非常勤顧問のような人を
さがしますか。   地位だけはふさわしい人はいるようですが、
品格ではどうも。

御三家について
十一人の男子に恵まれた徳川家康の死の枕元にいた男子は
四人だけでした。

二代目の将軍職をついだ三男徳川秀忠、九男の尾張松平義直、
十男の紀伊松平頼宣、十一男の松平頼房。
他の六人は家康の存命中に病気や事件で死亡し、六男は
勘気に触れ蟄居(罪人状態)でした。

家康の心配は豊臣の残党より、将軍職をめぐるの身内の争いでした。
将軍にあとを継ぐ男子がいないと、松平家一統の骨肉の争いになり、
場合によっては天下大乱で、苦労して築いた平和が消える。

家康は死に当たり、代々将軍...続きを読む

Q水戸黄門が大名行列に遭遇したら?

諸国漫遊している水戸黄門が大名行列に遭遇してたらやはり土下座をするのでしょうか?

WEBで検索してみると土下座をしなければならない大名は
将軍と御三家(水戸藩、尾張藩、紀伊藩)だけでよかった。

となっております。

水戸黄門とお付きのお二人ははたから見ると侍には見えません。

遭遇するようなことがあったら水戸黄門御一行はどうするのでしょうか?

Aベストアンサー

黄門様の諸国漫遊記は隠栖した黄門様が、介さん、覚さんを伴い諸国を旅し、悪者達を懲らしめ善を勧める物語です。しかし実際に黄門様が諸国を漫遊した事実はありません。
では、なんであんな漫遊記が出来たかというと、藩主時代から黄門様の領内巡視は有名な話で、とくに隠栖後は、わずかなお供と目立たぬように、土地の人と同じ物を食し、農家の苦労を聞くと自ら田を耕し、その苦労を体験したといわれています。そういった話をもとに、明治二十年代に大阪の講談界で面白おかしくついくられたのが原型のようですね。

というわけで、黄門様は大名行列に遭遇する心配はありません。(笑)
でも、そう言ってはみもふたもないでしょうから、お話の世界でいえば、庶民に化けているわけですから土下座をしたでしょうね。事実、ドラマではしていましたから。

Q水戸黄門

時代劇「水戸黄門」について。好きでいつも見ていますが、いつも疑問に思うことがあります。
(1)悪代官が最後に印篭をみてひれ伏します。なぜでしょうか?
 「幕府の代官」は幕府の役人ですから将軍家の親戚である水戸家を警戒するのは理解できますが、「藩の代官」が身分の差があるとはいえ、他藩のしかも隠居したじじいに藩邸に無断で侵入され説教受けたうえ土下座するのはどうなのかと思っていましたが。
「悪代官」が「徳川幕府の代官」であった場合、水戸光圀が徳川将軍家の親戚かつ幕府要職経験者で公儀にチクられ直接処分をうけるのをおそれているから。
 「藩の代官」であった場合、公儀にチクられ幕府から藩の殿様へ監督不行き届きを咎められる⇒殿様からの処分を受ける・・・間接的処分をおそれているから。
・・・という認識で正しいでしょうか?

(2)助さん格さんが、小さいですが刀をさげています。名主でもない呉服問屋の手代の身分で、帯刀が許されているのでしょうか?旅の護身用ならOKということでしょうか?

詳しい方教えてください。

Aベストアンサー

>悪代官が最後に印篭をみてひれ伏します。なぜでしょうか?

江戸時代末期にベストセラーになった「黄門漫遊記」が基本だからです。
当然、フィクションです。
水戸家が「慶喜を将軍にしたい。水戸家は、光圀のような名君が多い血筋なんだ」
つまり、一種の世論操作の一環としてこの物語が誕生したのです。
印籠の前にひれ伏す場面は、この「フィクション」を真似ているからです。
反対に、「暴れん坊将軍」の場合は、三つ葉葵の家紋が付いた衣装の将軍が現れても「お手向かいします」と、将軍に刃を向けますよ。^^;
これも、娯楽番組だからです。
黄門さんの場合、実際にドラマの内容が当時あったとすれば「確実に、闇」に葬られます。
他藩内に無断で通行しても、「成敗」でしよう。
黄門さんは、「お忍び」ですよね。各藩としては、一般の旅の隠居に過ぎません。
下手に「この印籠が」とやると、反対に「公儀を恐れない者」として処罰されるでしよう。
「お忍び」ですから、公式な訪問ではありませんよね。
闇から闇でも、何ら問題は生じません。
これが、公式の訪問・他国領内通過なら「身分(ご家門・親藩・外様・石高など)格式で対応」します。

>名主でもない呉服問屋の手代の身分で、帯刀が許されているのでしょうか?

日本差しは、武士だけの特権です。
が、一本差しの場合は武士以外でも可能なんです。
ヤクザも、一本差しですよね。ただ、厳密には「刃渡りの長さ」が決められていました。
通行・護身用にも、認められていましたよ。
帯刀の許可と旅の護身用許可とは、異なります。
(渡る世間は、カネ次第)

>悪代官が最後に印篭をみてひれ伏します。なぜでしょうか?

江戸時代末期にベストセラーになった「黄門漫遊記」が基本だからです。
当然、フィクションです。
水戸家が「慶喜を将軍にしたい。水戸家は、光圀のような名君が多い血筋なんだ」
つまり、一種の世論操作の一環としてこの物語が誕生したのです。
印籠の前にひれ伏す場面は、この「フィクション」を真似ているからです。
反対に、「暴れん坊将軍」の場合は、三つ葉葵の家紋が付いた衣装の将軍が現れても「お手向かいします」と、将軍に刃を向けますよ。...続きを読む

Q水戸黄門悪君説

水戸黄門、実は「大日本史」の作成のため領民に重税を課した悪君である、との説があります(Wikiでも紹介されています)。
しかし、いかに大書であったとしても歴史書の編纂程度でなぜそれほど経費がかかったのでしょうか?大碌で高名な学者を雇ったとしても今日のハコモノ行政とは比べ物にならない程度の経費と思いますし米にすれば領民一人当たりの税額アップはたかが知れてるとも思うのですが。

Aベストアンサー

水戸藩は3代綱條の時に検地のやり直しで35万石とされましたが、
検地竿の規格を変えたためで実質は28万石と言われています。
その28万石から4万石を2人の弟(松平刑部大輔・松平播磨守)に分知しているので、
実際の水戸藩の石高は24万石となります。

水戸藩では新田開発や海産物などの運上で
10万石くらいの雑収入があったようです。

光圀の時代における水戸藩の平均税率は53%、五公五民として12万石、
雑収入を含めると22万石が水戸藩の収入になりますが、
これには家臣の俸禄が含まれているので実際の収入はもっと少なかったはずです。

水戸藩は藩の規模に比べ藩士が多く、
光圀時代の家臣の分限帳には家臣1067人の名がありますが実数は4000人に及ぶと言われて、
この人件費が藩の財政を逼迫させる一因となっていました。

その他に水戸城及び城下街の拡張、防火体制の整備、寺社の移転、
笠原水道の敷設などを行ったため更に財政は悪化する事となりました。

大日本史についてですが、光圀時代は毎年8万石が
大日本史編纂に充てられました。
光圀は全国から学者を集め士分に取り立てるなど、
積極的に家臣の新規召抱えをしました。

水戸家は寛永年間の218人をピークに採用人数は100人以下に減少していたのですが、
光圀の藩主就任と共に延宝年間に145人、天和・元禄年間が150人と増えています。

元禄期以降は常に4、50人が彰考館に詰め、
光圀によって採用された学者は130名にも及んだそうです。

また光圀は「源義経が平泉から蝦夷に逃れた」と言う伝説を確かめるため、
「快風丸」と言う大型船を2隻建造し北海道に派遣するなど、
建造経費もそれなりに掛かったようです。

まぁ、船の建造は多額の出費だったのは間違いないとして、
経費で一番大きかったの人件費だと思います。あとは旅費、資料の購入代金なども掛かったでしょう。

水戸家が威信を賭けて行った事業なので、金は惜しまなかったと思います。

光圀の時代は出費が増えた割りに
税率が53%と税率が低かったので良かったのですが、
光圀の跡を継いだ綱條は松浪勘十郎を登用して財政再建を図るのですが、
農民の負担は甚大で後に宝永一揆を招く事になり、綱條の評判は落ちました。

綱條は農民の反感を買い、一揆を招いた張本人として「統治能力なし」と
(年齢等の要因もありますが)将軍候補から外された経緯もあるので、
財政悪化を招いた光圀が名君と言われと、
その尻拭いをしなければならなかった綱條が可哀想な気がします。

水戸藩は3代綱條の時に検地のやり直しで35万石とされましたが、
検地竿の規格を変えたためで実質は28万石と言われています。
その28万石から4万石を2人の弟(松平刑部大輔・松平播磨守)に分知しているので、
実際の水戸藩の石高は24万石となります。

水戸藩では新田開発や海産物などの運上で
10万石くらいの雑収入があったようです。

光圀の時代における水戸藩の平均税率は53%、五公五民として12万石、
雑収入を含めると22万石が水戸藩の収入になりますが、
これには家臣の俸禄が含まれているので...続きを読む

Q水戸黄門について

「さきの副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」とキメの台詞があります。水戸黄門が副将軍の時の将軍って、誰でしたでしょうか?また、時代劇で水戸黄門が多く、長く、また再放送される理由とはどうお考えでしょうか?(個人的に水戸黄門は好きです)

Aベストアンサー

将軍は、5代目の徳川綱吉です。

1700年12月6日に水戸黄門として知られる水戸藩2代目藩主、水戸光圀公が73歳で死去しました。
名君の誉れ高い光圀は、将軍の補佐役として「天下の副将軍」と呼ばれることもあるが、当時、実際には「副将軍」という幕府役職は存在しませんでした。
この呼び名がついたのには理由があるります。

光圀の実際の位は「従三位」で官職が「権中納言」と言います。
「黄門」とは中納言の唐名のことです。
水戸藩主は常に徳川将軍のそばにいる家柄ということで、いつしか「天下の副将軍」と称されるようになったそうです。

また、光圀は引退後『大日本史』の編纂に着手。
資料を求めて「助さん」「格さん」のモデルとなった家臣を諸国へ派遣したエピソードから「光圀公が諸国を漫遊して悪を懲らしめる」という講談が生まれ、時代劇の定番ヒーローとして語り継がれるようになった。


水戸黄門が永く愛される理由は、
・老人(水戸黄門)が主人公なので御年寄りに人気
・勧善懲悪のシンプルな作りなので子供や御年寄りに受けが良い
・人がめったに死なないため、喜劇のまま終わる。
※他の時代劇では、必ず人が死にます。
・由美かおるのお約束

~~~~~~~~~~~
「変身願望で心理分析」
筑波大学の井上教授は、長寿番組「水戸黄門」の人気の秘密は“変身”にあると。
越後のちりめん問屋のご隠居が印籠を見せただけで、天下の副将軍になる。
普段隠されているものが実は、“こうなんだ”と正体を現す・・・
これが「水戸黄門」の一つの特徴。
私たちは誰でも、自分に100%満足している人は普通いません。
普段の自分と違った別の人間になりたい、より強い人間になりたい!という、色んな願望の現れの一つが“変身”という形なのだと。

将軍は、5代目の徳川綱吉です。

1700年12月6日に水戸黄門として知られる水戸藩2代目藩主、水戸光圀公が73歳で死去しました。
名君の誉れ高い光圀は、将軍の補佐役として「天下の副将軍」と呼ばれることもあるが、当時、実際には「副将軍」という幕府役職は存在しませんでした。
この呼び名がついたのには理由があるります。

光圀の実際の位は「従三位」で官職が「権中納言」と言います。
「黄門」とは中納言の唐名のことです。
水戸藩主は常に徳川将軍のそばにいる家柄ということで、いつしか「天下の...続きを読む


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