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戦前には、教員を養成する師範学校がありましたが、師範学校は、旧制中学校を卒業した後に入学したのでしょうか。

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A 回答 (5件)

旧制中学と師範の生徒が仲が悪かったのは、単なる「同年配なのでお互いに睨み合う関係もあった」からではない。


そもそも、その階層自体が違う。まあ、こんなことは、現在の人には理解できないでしょうね。
「教育の民主化」。それが良かったのか?どうだったのか?その結果がはっきり出た最近です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 18:04

皆さんが書かれている通りです。


夏目漱石の「坊ちゃん」で中学の生徒と師範学校の生徒が喧嘩する事件がありますが、中学と師範学校とは同年配なのでお互いに睨み合う関係もあったでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 18:04

No.2です。

若干補足を。

第二次大戦中の制度変更より以前は、
 高等小学校卒業者=師範学校予科2年・本科3年
 中学校卒業者=師範学校別科1年
で小学校の教員免状が取得できました。
ですので中学校から師範学校へ行かない、ということはないですが、イメージ的にはやはり高等小学校卒業者が行く学校、と捉えられていたようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 18:04

残念ながら数的データを持ち合わせないので伝え聞く範囲でお答えします。



戦前の師範学校は、第二次世界大戦中の学制改革までは高等小学校卒後に進学するのが基本ですので、中学校からは普通進学しませんでした。
田舎の自作農やあまり大きくない地主の長男は地元を離れることを許されなかったので、高等小学校卒後農業学校か師範学校へ進むことができれば幸運だったようです。

高等師範学校というものもありましたがこれは主に中学校教員の養成機関で、中学校卒か師範学校卒の学生を受け入れていました。類似するものに農業教員養成所や工業教員養成所があり、それぞれ農業学校や工業学校の教員を養成していました。

ただし戦時中の学制改革によりNo.1さんの回答のように、予科3年を経て本科3年に進むようになりました。
このため戦後、教員養成学校は新制高等学校相当ではなく大学相当になった経緯があります。
(なので戦後かなりの長期にわたり、文学部など伝統のある大学学部の教官は、同じ分野の研究をしていても教育学部の教官や教養部(旧制高校相当)の教官を見下していたところがあります)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 18:03

『学制百二十年史』(文部省編)から引用している手元の本によれば、師範学校入学は、大正10年当時では高等小学校3年間の後に(3年目が予備科となることもあったようです)、昭和19年当時では、国民学校高等科2年間の後、師範学校の予科2年を経て本科へ、または中学校を卒業して本科へとなっていたようです。


高等科・予科経由と中学校経由とどちらが多かったかはわかりませんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 18:03

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Q戦前の学制について

NHKの朝のドラマを見ていると、中学校、師範学校、女学校、八校、上野の音楽学校、帝大などの学校が出てくるのですが、戦前の学制について詳しくないのでよくわかりません。
どなたかわかりやすく説明してください。

Aベストアンサー

戦前の教育制度は、上から見たほうが分かりやすいです。

官立(国立)、公立の学校を基準にしますと、

大学ランク:帝国大学、東京商科大学、医科大学など
高等学校ランク:高等学校、大学予科、高等専門学校、高等師範学校、女子高等師範学校、陸軍兵学校など。
中学校ランク:中学校、師範学校、高等女学校、専門学校、陸軍幼年学校など。
義務教育の尋常小学校

となっていました。

戦前の学業優秀、学資十分な子供は、例えば下記のコースをたどりました。
東京市立 麹町尋常小学校→東京府立 第一中学校→官立 第一高等学校→官立 東京帝国大学
高等学校から帝国大学に進学するのは、原則として無試験でした。

一方、家が貧しくて小学校に行くのがやっと、という子供は、例えば下記のコースを経れば、最終的には前記の裕福な子供と同じ学歴を得ることができました。
尋常小学校→高等小学校→師範学校→高等師範学校→帝国大学
師範学校は授業料が無料でした。戦前の貧しい少年は、師範学校に行って小学校訓導になることをまず目指していたようです。小学校教師になれば、少なくとも「食って行けない貧困」とは絶縁し、自分の子供にさらに上の教育を授けることができますから。2代かけて社会的上昇を果たした親子を何例か知っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AB%E7%AF%84%E5%AD%A6%E6%A0%A1
師範学校卒業者が高等学校を受験し、エリートに合流することも可能だったはずです。

陸軍将校を志望する子供は、下記のコースが理想でした。
尋常小学校→中学校→中学1年修了で陸軍幼年学校→陸軍士官学校→陸軍将校に任官
この場合、幼年学校に入った時点で官費となり、貧しい子供にはやはり魅力的だったようです。

20年ほど前に法務大臣を務めた秦野章氏は、警察官僚のトップの警視総監から政界に入った人ですが、家が貧しかったために下記の経歴を経ています。
小学校→今で言う大検に合格→私立 日本大学の夜間部卒業→今で言う国家公務員一種試験合格→内務省官僚→戦後に警察官僚
まともな学校に通えなくても、努力すれば帝大卒のエリートと同様に扱われることが可能だった、という実例です。

戦前の教育制度は、上から見たほうが分かりやすいです。

官立(国立)、公立の学校を基準にしますと、

大学ランク:帝国大学、東京商科大学、医科大学など
高等学校ランク:高等学校、大学予科、高等専門学校、高等師範学校、女子高等師範学校、陸軍兵学校など。
中学校ランク:中学校、師範学校、高等女学校、専門学校、陸軍幼年学校など。
義務教育の尋常小学校

となっていました。

戦前の学業優秀、学資十分な子供は、例えば下記のコースをたどりました。
東京市立 麹町尋常小学校→東京府立 第一...続きを読む

Q戦前の大学の難易度

概ね昭和初期の日本の大学の、

東京帝国大学
陸軍大学校
海軍大学校

では最も難関だったのはどれでしょうか?

Aベストアンサー

軍人の学校というものは、時代によってかなり人気が上下します。

その昭和の初期は大不況の最中ですから、経済的に厳しい人にあっては、東大以上の値打ちのあるところとなります。
逆に、東大を始め、帝国大学に進学する学生は、大げさに言えば、生まれついた時からそういうコースを選べれる人生だったのです。

今は、農業高校からでも東大でも受験できます。しかし、戦前の学制はもっと若い年齢のうちに振り分けられているのです。
旧制中学から旧制高校にいくこと、これが帝大に行く絶対条件でした。旧制高校に入学できれば、ほぼ(どこでもいいなら)帝国大学には進学できました。さすがに東大は少々難しかったにせよ、そういうものだったのです。ですから、大学受験での受験地獄はありませんでした。むしろ一番の関門が、高校受験でした。
そして、同じく、中学卒業時に海軍兵学校や陸軍士官学校の受験資格がありました。どこの中学からでも相当な秀才が行ってます。東京帝大も十分射程距離の学生です。

それと、学力だけでない難易度もあります。体格や体力もですが、特に海兵においては、海外に出る機会が多く、欧米先進国の士官に見劣りしないようにという考えが働いたようで、男前が多かったですよ。
男ぶりに自信がないから陸軍にするという人もいるくらいでしたからね。

ということで、海軍兵学校というのは、当時の女学生から絶大な人気がありましたよ。

それでも、東大の法学部は当時の高等文官試験の合格率が高く(高文は単なる公務員試験ではなく色々と特典もありますから)別格だったでしょう。
それが崩れたのは、第2次世界大戦の最中、大学生も徴兵免除がなくなった頃からでしょう。このときは文科は免除なし、理科は免除でした。それで、徴兵逃れに医者になるものが増えたんですよ。帝国大学でなくてもいいと、地方の医科大学の進学者が増えました。(戦前は国民保険制度がないので、かならずしも医者が儲かるとは限らない)

軍人の学校というものは、時代によってかなり人気が上下します。

その昭和の初期は大不況の最中ですから、経済的に厳しい人にあっては、東大以上の値打ちのあるところとなります。
逆に、東大を始め、帝国大学に進学する学生は、大げさに言えば、生まれついた時からそういうコースを選べれる人生だったのです。

今は、農業高校からでも東大でも受験できます。しかし、戦前の学制はもっと若い年齢のうちに振り分けられているのです。
旧制中学から旧制高校にいくこと、これが帝大に行く絶対条件でした。旧制高校...続きを読む

Q戦時中の修業期間について

日本の現在の基本的な学校制度は、

・小学校(6年制):6~12歳
・中学校(3年制):12~15歳
・高校(3年制):15~18歳
・大学(4年制):18~22歳

となっています。勿論、個人によって違いはありますが。

この制度はおそらく戦後に設定されたものですよね?戦時中は今とは修業年数も違い、学校の呼び名も違っていたと思います。
そこで質問なのですが、太平洋戦争中の日本の学校制度はどうなっていたのでしょうか?それぞれの修業年数と、年齢が知りたいです。
在学途中で徴兵、出征させられた大学生達の年齢は、今の大学生より上でしょうか?下でしょうか?
ご存知の方、教えて下さい。よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

こんにちは.

ご質問者さまと同じ疑問があったため,
教育委員会~文部科学省に問い合わせました.

文部科学省ホームページ→白書→その他→
学制百年史→資料編→
三 文部省局課変遷・学校系統等図表→
学校系統図 

結果が下記アドレスです.
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html

ご質問の趣旨を含めて全ての情報が記載されて居るので,
詳細な解説は必要ないしていたしませんが,
ご質問に関連する部分は,
『第6図 大正8年』と,
『第7図 昭和19年』が,
ご質問に該当する時代の図表と思います.

このご質問は私の疑問解決にも,本当に役立ちました.
ありがとうございました.

なおこの回答が,
ご質問者さまの参考の一助になれば幸いです.

参考URL:http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html

こんにちは.

ご質問者さまと同じ疑問があったため,
教育委員会~文部科学省に問い合わせました.

文部科学省ホームページ→白書→その他→
学制百年史→資料編→
三 文部省局課変遷・学校系統等図表→
学校系統図 

結果が下記アドレスです.
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html

ご質問の趣旨を含めて全ての情報が記載されて居るので,
詳細な解説は必要ないしていたしませんが,
ご質問に関連する部分は,
『第6図 大正8年』と,
『第7図 昭和1...続きを読む

Q旧制中学を卒業すれば大学に行けた?

戦前の日本では、
旧制中学を卒業すれば大学に行けたのでしょうか?
高校の立場はどうなりますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>旧制中学を卒業すれば大学に行けたのでしょうか?

戦前といっても太平洋戦争末期とそれ以前では制度が違うため微妙ですね。
ただ「大学の本科」に限れば答えはNoでしょう。

戦前は数多くの学校(種別)があり、現在と比較するのは難しいです。
単純に「小学校⇒中学⇒高校⇒大学」というようなストレートな順番だけでなく、多岐にわたる選択肢があります。
小学校(国民学校)卒業後だけを見ても以下のように多岐にわたります。(太平洋戦争末期)
国民学校高等科:2年制(12~14才)
実業学校:4年制(12~16才)
青年学校普通科:2年制(12~14才)
青年師範学校予科:3年制(14~16才)
師範学校予科:3年制(14~16才)
高等女学校:4年制(12~16才)
中等学校:4年制(12~16才)
高等学校尋常科:4年制(12~16才)

大学(本科)に行くための進路だけに限定すれば以下の2ルートが正規ルートでしょう。
・旧制中学→旧制高校→大学
・旧制中学→大学予科→大学

なお旧制高校の定員は帝国大学の定員とほぼ同数だったため、専攻を選ばなければ帝国大学への入学は約束されたようなものだったようです。
逆に言えば一部の一部の帝大に人気が集中すると定員割れを起こす帝大や公立大学が出てしまうようです。

その対策として各大学が大学予科を新設して学生の確保に力を注いだとのことです。(大学予科は特定の大学の付属学校のため、他の大学には進学できません)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E5%AD%A6%E6%A0%A1

>旧制中学を卒業すれば大学に行けたのでしょうか?

戦前といっても太平洋戦争末期とそれ以前では制度が違うため微妙ですね。
ただ「大学の本科」に限れば答えはNoでしょう。

戦前は数多くの学校(種別)があり、現在と比較するのは難しいです。
単純に「小学校⇒中学⇒高校⇒大学」というようなストレートな順番だけでなく、多岐にわたる選択肢があります。
小学校(国民学校)卒業後だけを見ても以下のように多岐にわたります。(太平洋戦争末期)
国民学校高等科:2年制(12~14才)
実業学校:4年制(12...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q藩校・郷学・私塾・寺子屋??

江戸時代の教育機関として、藩校や私塾・寺子屋というものがありますが、藩校と寺子屋については何となくわかるのですが、藩校と郷学との違いが良くわかりません。
また、寺子屋と私塾の明確な違いも良くわかりません。このあたりのことに詳しい方、教えてください。よろしくお願いします

Aベストアンサー

 
  参考URLに示されているように、日本には、古来から、官制の教育機関と民間の教育機関があり、民間の場合、寺院などが、仏教を教えると共に、その他の一般知識も教えていたことになります。足利学校などは古くからありますが、入学者として、庶民も入ることができたとされます。
 
  江戸時代になると、各藩が、自藩の有能な人材を育成しようと、また武士の教養程度を挙げようと、藩立の学校を設けます。江戸幕府も官立学校を設けます。これらの入学者は武士階級で、教授内容は、儒学と武術であったということになります。
 
  他方、伝統的に地域の庶民の教育は寺院などが地元の子弟を集めて行って来たのですが、江戸時代には、寺院以外でも、一般庶民に基本的な読み書き算数などを教える機関が民間で設立されます。対象は庶民の子弟で、江戸時代中期になると、経済の発達もあり、庶民も、読み書きや算数程度は身に付けないと、商業活動などで支障を来すので、特に発達をみたとも云えます。
 
  藩校と郷学の違いは、藩校は、藩が設立した、いわば公立学校で、入学資格は藩の武士階級の子弟ですが、郷学は、半公立学校とも言え、藩校に準じて、藩が認めているもので、入学者は武士や一般庶民で、藩が設立する場合と、庶民や武士が設立し、藩が認めるというような形が多いようです。
 
  寺子屋は、ほぼ純粋に庶民の子弟の基礎教育に当たったもので、経営者や教授者は色々で、大体、現在の小学校・中学校が、民間で造られたというようなものです。これは、社会の発達に応じ、一般庶民も読み書き算数や、その他の色々な教養が必要になった為、需要ができて、それに応じて多数成立したものです。大体、六歳頃から十二歳頃までの庶民の子弟が学びました。
 
  私塾というのは、或る程度知名度のある知識人の先生の元に、教えを請う人がいて、自然発生的に学校のような形になったもので、基本的には、寺子屋と違って、成人が入学する私学です。師=先生がどういうことを専門にしていたかで、私塾で教える内容は色々であった訳で、儒学を教える私塾もあれば、本居宣長の鈴屋のように、本居の国学を教える私塾や、緒方洪庵の適塾のような西欧医学を中心に西欧文化を教える私塾など色々なものがあったと云えるでしょう。
 
  寺子屋は、庶民のための小学校・中学校という感じで、私塾は、特定の師を中心としている私学で、武士・庶民の別なく入学できる、江戸時代の単科大学のような感じでしょう。福沢諭吉の慶応義塾は、後に明治時代の大学にまで延長するはずで、総合大学の祖だとも云えます。
  
  >日本教育史1
  >http://www.nsk-japan.com/kyosai/dts/gts3.html
    

参考URL:http://www.nsk-japan.com/kyosai/dts/gts3.html

 
  参考URLに示されているように、日本には、古来から、官制の教育機関と民間の教育機関があり、民間の場合、寺院などが、仏教を教えると共に、その他の一般知識も教えていたことになります。足利学校などは古くからありますが、入学者として、庶民も入ることができたとされます。
 
  江戸時代になると、各藩が、自藩の有能な人材を育成しようと、また武士の教養程度を挙げようと、藩立の学校を設けます。江戸幕府も官立学校を設けます。これらの入学者は武士階級で、教授内容は、儒学と武術であっ...続きを読む

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q旧帝大ってどんくらいすごいですか?

旧帝大ってどんくらいすごいですか?
私の祖母はめっちゃ旧帝大信者です
姉が私立大なのですが 実家帰るたび嫌味を言われていてかわいそうです
信者はうちの祖母の世代に限るんでしょうか?
皆さんは「旧帝卒」って聞くとどう感じますか?
教えて下さい

Aベストアンサー

国立大の話をすると、各県に教育学部と医学部が必ずあります。学校の先生とお医者さんは、各県に必ずいる大切な職業で、しかも高等な教育が必要だから、地元に養成機関を作ったんですね。また、ほとんどの県で、工学部か農学部、希に水産学部があります。これも地元の産業を担う人材を育てたい、ということですね。
旧帝大は、これら各県の枠では収まらない優秀な人材を集めて地元の産業の枠を超えた、国として産業や学問を発展させよう、という研究機関となります。北海道、東北、関東、中部、近畿、九州の各地方(なぜか中四国にはないんですよね)にあります。
特徴としては総合大学として、文学部、商学部、法学部、理学部、工学部が必ずあり、各分野の進歩を担う人材の育成を目的としています。
要は、「研究者」つまり「学者」を養成することが大きな目的です。

対して私立大の両雄、早稲田、慶応の例で書くと、これらは、社会に実際に役立つ人材を広く育成することが目的で、「実学」(実際の社会活動に役立つ学問)を教えることが主になります。
たとえば、建築の話ですると、
旧帝大は建築学の権威を育てたいと考え、私立大は優秀な建築家を育てたい、と考えているわけです。

ここでのポイントは、学者さんと技師さんとで、どちらを尊敬するか、ということですね。
昔は多くの人は中学にも行かずに職人や商売人になりました。職人は技師と同じ職場にいますし、経営者も商売人と直接関わる間柄になりますよね。技師さんや経営者さんは大学を出ていても身近な存在なんです。大学を出たばかりの設計技師さんよりも、現場で腕を磨いた頭領の方が優秀なことも多かったでしょう。
でも、身近に学者さんはいなかったでしょう。

で、回答になりますが、「旧帝大卒」と私が聞いた場合、研究者になるための一通りの作法を学んだ人だ、という認識を持ちます。実際に研究者になっていなくても、学んだ、つまりそういう考え方を習ったというところがキーになります。お茶の師匠になっていなくても、その作法を習った人は、茶道とは、というところを知っているだろう、というのと同じです。

これ、言い換えると、「私大卒」と私が聞いた場合、社会に実践的に役立ついろいろなことを知っている、身についている、と思います。

上下がある話ではなく、社会に貢献するやり方の違い、だという認識です。

国立大の話をすると、各県に教育学部と医学部が必ずあります。学校の先生とお医者さんは、各県に必ずいる大切な職業で、しかも高等な教育が必要だから、地元に養成機関を作ったんですね。また、ほとんどの県で、工学部か農学部、希に水産学部があります。これも地元の産業を担う人材を育てたい、ということですね。
旧帝大は、これら各県の枠では収まらない優秀な人材を集めて地元の産業の枠を超えた、国として産業や学問を発展させよう、という研究機関となります。北海道、東北、関東、中部、近畿、九州の各地...続きを読む

Q旧東京教育大学(現筑波大学)の格式・レベルって「客観的に見て」どうだっ

旧東京教育大学(現筑波大学)の格式・レベルって「客観的に見て」どうだったのですか?

予備校講師や本を書いている著者でたまに見かけるこの大学の人を
見ていると、コンプレックスとプライドの融合体のような人物が多くて、
たいていは早慶をちょっと見下している感じがします。

あたかも一橋大学や東京工業大学と同格と言わんばかりです。

ただ、今となっては知名度が皆無に等しく、いったい北海道大学教育学部や
九州大学教育学部といった旧帝大系教育学研究系部と比較して入学の学力的
にはどうだったのか、
知っている年配の方、あるいは、その道に詳しい方、教えてください。

偏見や嫉妬なしの、ありのままの格式・レベルが知りたいです。

Aベストアンサー

NO2です。

大学初任給 (誤り)11000円---------->(正)110000円とゼロが一つ足りません
訂正しておきます。

Q旧制高校と旧制官立大学の関係

戦前は、東京帝国大学他の各地の帝国大学に進学するには、まず高等学校(北大予科、京城帝大予科、台北帝大予科を含む?)に入学しなければなりませんでした。高等学校の総定員が帝国大学の総定員と同じであり、東大法科のような志望者が定員を上回る人気大学・学科以外は無試験で大学に入れたため、旧制高校の入試が現在の大学入試の位置づけであったと聞いています。

ところで、戦前の官立大学には、帝国大学以外のものがいくつかあります。大正期に大学に昇格したものと思います。
* 東京商科大学
* 千葉医科大学など、いわゆる「旧制六医大」

質問ですが、

1. これらの帝国大学以外の官立大学に進学するには、各大学の予科を経る以外なかったのか、あるいは旧制高校からも無試験で進学できたのか。

2. 逆に、例えば東京商科大学の予科から、帝国大学に無試験で進学できたのか。高等師範学校や高等専門学校の出身者でも、「試験を受ければ」帝国大学に進学できたのは存じておりますが。

3. 北大予科、京城帝大予科、台北帝大予科は旧制高校と同じ位置づけだったそうだが、例えば北大予科からはどこの帝国大学にでも無試験で進学できたのか。あるいは、無試験では北大しか進学できなかったのか。

ご回答をお待ちしております。

戦前は、東京帝国大学他の各地の帝国大学に進学するには、まず高等学校(北大予科、京城帝大予科、台北帝大予科を含む?)に入学しなければなりませんでした。高等学校の総定員が帝国大学の総定員と同じであり、東大法科のような志望者が定員を上回る人気大学・学科以外は無試験で大学に入れたため、旧制高校の入試が現在の大学入試の位置づけであったと聞いています。

ところで、戦前の官立大学には、帝国大学以外のものがいくつかあります。大正期に大学に昇格したものと思います。
* 東京商科大学
* 千葉医...続きを読む

Aベストアンサー

No.2回答の補足です。
こうやって予科をあとから設置したのが神戸商業大などですね。
また、2のご質問に関してですが、予科からは基本的に本科進学ということになるかと思います。そのかわりとして、他の高校からの受験に優先して予科からの優先進級を特権として設けていました。

戦前の北大理学部の場合は入学資格者の順位を、
(1)北大予科修了者、旧制高校理科・学習院高等科理科卒業生
(2)旧制高校文科・学習院高等科文科卒業生
さらに欠員があれば、
(3)高等師範、女子高等師範の理科卒業生、理科の専門学校卒業生
(4)専門学校卒業生で検定試験の合格者
(5)旧制中学教員免状所有者(いわゆる私立の女子大あたりを想定しているらしい)
に対し試験を行い、合格したものを入れる
としていました。


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