江戸時代などで商人などの漆喰の蔵と言うと白ですがたまに黒があります。黒漆喰の蔵を建てるのはどう言う理由からですか、施主の好みですか、それとも建築上の利点があるのですか?

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A 回答 (1件)

黒漆喰は上塗りに煤煙、墨汁などを加えて磨き上げたもので、単に塗るだけの白漆喰と比べて時間もカネもかかりました。


そのため黒漆喰塗の建物を作れるということは商人の富の象徴で、江戸時代の後期、幕末の頃には表通りには黒漆喰塗りの店舗が軒を連ねて衣ました。
明治維新後の東京では防火作りに改造することが義務付けられましたがこのときに建てられた土蔵はほとんどが黒漆喰塗でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/25 09:57

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Q江戸時代の商人への税金

田沼意次が商人に税金を課せようとしていた・・・というのをどこかで読んだのですが・・・

戦国時代は戦国大名が市に税を課したとかあるのに、ナゼ江戸時代は商人から税を取ってなかったのか不思議です。ちょっとはとってたかもしれませんが、ナゼ借金が膨らんでしまう前に、税金制度を買えなかったのでしょうか?

詳しい方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

徳川の天下による平和を考えた家康が商人を邪魔者扱いしたからです。

戦国時代の商人というのは、それなりに権勢を誇りました。商人は外国と貿易を担い、情報も持っていたし武器もそろえられるし、お金も持っていたのです。戦国時代は乱世ですから商人も十分に儲けられますが、平和になるとモノの動きが止まって経済が不活性になります。

実際にやるかどうかは別として、外国から傭兵を連れてきて騒ぎを起こして稼ぐとか、宣教師を焚きつけてイギリスやオランダの軍艦を呼んできて日本占領を画策して稼ぐとか、そういうことも不可能でなかったのです。

ですから、家康は日本の平和構築のために貿易も禁止して鎖国をすると共に商人の動きも抑えるようにして、農本主義がちゃんと機能するようにしたかったのです。

ですから、江戸時代が始まると商人は冷遇されるようになります。

税金というのは、ある意味「あなたの仕事を認め、保護する」ということを意味します。保護してスムーズに稼げるように下ごしらえするから税金を取るよ、ということでもあります。

実際には商人街の形成に商人たちから資金を供出させたりしていますが、税として保護と権益を与えることはしなかったのです。

しかし、日本は室町時代後半には貨幣経済に入っていましたので、農本主義に戻ろうとしてもすでに遅く、商人も必要なところから手を付けてだんだん拡大していき、それが一定のレベルに達したのが元禄文化であるといえます。

こうなると農本主義で統治を貫こうとする幕府は、なかなか商業主義に移ることができず、8代将軍吉宗は徹底的な倹約でこれを乗り切ろうとしたわけです。これのおかげでいったん経済は冷えたのですが、貨幣が流通している以上商人は必要ですので、経済は活発化し田沼意次の時代前後には経済が過熱するに至って、ようやく幕府も商人に課税しようとするのですが、すでに遅かったわけです。

ちなみに、商人に税金を課すとそれは「幕府が商人を認めた」ということになります。農業で食っていけないから商人になっても「税金が納められるならいいだろう」ということになっていくわけです。そうなると土地に農民を縛って、そこの年貢で成り立っている藩が立ち行かなくなります。だから幕府は抑える方向でやっていたのですが、赤穂藩などはもっと現実的に特産品を作って売ったりしていたので、いずれ破たんすることは分かっていた、ともいえます。

徳川の天下による平和を考えた家康が商人を邪魔者扱いしたからです。

戦国時代の商人というのは、それなりに権勢を誇りました。商人は外国と貿易を担い、情報も持っていたし武器もそろえられるし、お金も持っていたのです。戦国時代は乱世ですから商人も十分に儲けられますが、平和になるとモノの動きが止まって経済が不活性になります。

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Q江戸時代に名字(姓)を持っていた農民、商人はいましたか?

江戸時代まで名字(姓)が許されたのは、貴族、武士だけだと学校では習いました。一般庶民が名字を持つようになったのは、明治時代からだと思いますが、本当に江戸時代に名字を持っていた農民、商人はいなかったのでしょうか?

一部の有力な農民、商人の中に名字を持つ者はいなかったのでしょうか?もしいたら、それはどういう理由から持つことを許されたのでしょうか?

ご教授願えませんか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「誰でも苗字は持っていたけれど公的には使えなかった」というのが私の見解です。(全く持ってなかった人もいたとは思いますが)
その証拠のひとつに江戸時代の墓を見てください。俗名は苗字付きで書いてあるはずです。その他、手紙など私的な文書には使用は可能だったでしょうが、売買証文など公的なものはだめでした。
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その許され方も「一代限り」とか「永代」といった区別がありました。
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江戸時代には豪商がたくさんいたようですが、
その中で最も成功した商人は誰になりますか?
成功とは蓄財できたという意味です。
札差、淀屋、それとも三井越後屋でしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

矢張り「淀屋」だと思います。淀屋研究を行っている方々もおられるほどです。

初代は淀屋常安といい、豊臣秀吉の元で大商人になります。四代目、淀屋重當は、現在の淀屋橋南詰から北浜までの一万坪の敷地に屋敷を構え、

*家中が金張り
*畳は毎日換えられた
*ガラス張りにした天井に水を張り、そこへ金魚を泳がせ、下から眺めて暑気払いを行った

などと言い伝えられています。

五代目淀屋辰五郎の遊興費は1年半で100万両、現在の1000億円に相当するほどだったと言われており、五代目のその資産総額はおおよそ20億両、現在の価値にすると200兆円となっていたとも伝えられています。そのためか、武士や幕府にもお金を貸しており、これを踏み倒すための大義名分として(あくまでも歴史上の一説ですが)、将軍徳川綱吉により、「商人という身分もわきまえない度を越した贅沢三昧な暮らしにしている」という理由で、「お家取り潰しの上、家財没収、所払いの刑」に処せられます。これが前期淀屋です。

http://blogs.yahoo.co.jp/max_nao14/1097126.html

その後、淀屋の番頭だった牧田仁右衛門が、淀屋精兵衛と名を変え、淀屋を細々と再興し、大阪に戻ってきます。そして、八代目淀屋精兵衛のときまでには、再び大阪の豪商となります。これが後期淀屋です。

そして幕末。これは史実ですが、淀屋は幕府を倒すために築き上げた巨額の財産を倒幕資金として投げ売ち、倒幕を支援しました。つまり薩長連合など、倒幕派に巨額のお金が淀屋から流れたわけです。歴史上、明治維新は、薩長、倒幕派の武士や坂本龍馬などが有名ですが、この運動を支えたのが淀屋の資金です。前期淀屋の恨みが後期淀屋の当主にこのような決断をさせたのかもしれません。以外と知られていない幕末の歴史の一コマです。

以下参考リンクです。
http://homepage3.nifty.com/yodoyabito/yodoyaisan.htm
http://homepage3.nifty.com/yodoyabito/yodoyarekisi1.htm
http://homepage3.nifty.com/yodoyabito/yodoyarekisi2.htm

矢張り「淀屋」だと思います。淀屋研究を行っている方々もおられるほどです。

初代は淀屋常安といい、豊臣秀吉の元で大商人になります。四代目、淀屋重當は、現在の淀屋橋南詰から北浜までの一万坪の敷地に屋敷を構え、

*家中が金張り
*畳は毎日換えられた
*ガラス張りにした天井に水を張り、そこへ金魚を泳がせ、下から眺めて暑気払いを行った

などと言い伝えられています。

五代目淀屋辰五郎の遊興費は1年半で100万両、現在の1000億円に相当するほどだったと言われており、五代目のその資産総...続きを読む

Q江戸、農民や商人は武士の暴力からどう身を守ってた

質屋で武士を相手に商売してる人とか高利貸しとか、武道教育を受け日本刀を携帯し武装してる侍からどうやってお金を取り立ててたんでしょうか。
法律上は、切り捨てごめんが正当性を証明できないと重罪と書いてあっても、あの時代は監視カメラもDNA鑑定も指紋捜査もありませんよね。
たとえば武士の気分で町人が殴られた時。現代だと傷害事件扱いのような内容であってもあの時代では被害者が町人農民身分だと、死亡しない限り加害者側の武士は犯罪でもなければ問題視もされなかったりしますか。
武士側に対して人数で上回ってる状況ならともかく、人数や体格で劣る場合、当時、階級の低い人たちは武士の威嚇や威圧、また実際の暴力言動にどう対処してたのか教えてください。

Aベストアンサー

えーとですね、一度貴方様の頭の中にある江戸時代や侍に対する知識を『消去』しましょう。
貴方様の頭の中の知識はいい加減な時代劇がベースになっていますから。

モラルや犯罪面は武士の方がずーっと厳しいのですよ。
そもそも基本的には武士階級と町人階級は交流しません。

町人と武士で争いが起きたら、もうその時点で武士側が責められます。
武士というのは、主君やお家の為に命を懸けて戦う『高貴な戦士』なのです。
その『高貴な戦士』が下賤な町人なんかとケンカしたら、その時点で『高貴な戦士』失格です。
町人は対等な敵ではありません、戦うレベルではない対象です。

ですから、無用な争いが起きないようになるべく町人とは交流しないようにしていたのです。

町人に対する事件で特定の武士の名前が上がったら、その時点で武士としては大変不名誉なことであり、処罰されます。
犯人であろうが無かろうが、犯罪がらみで名前が出たという事自体が問題なのです。
でっ、当然、その武士には調査が入ります。

武士が町人に好き勝手に横暴に振る舞うの『作り物の時代劇の世界だけ』です。

Q「近江商人」以外で、地名を冠した「○商人」

「近江商人」以外で、地名を冠した「○商人」と呼ばれる例はありますか。
もし、あれば、活躍した時代、扱った商品その他何でもよいですから教えてください。
時代劇では、「越後屋」や「伊勢屋」が定番ですが、越後商人とか、伊勢商人とか呼ぶのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

基本的には 近江商人以外にはこれといった実態はない。

※ 中世において、日本最大の消費都市であり、農産物以外の生産物の主要生産地は「京都」になります。
その京都の流通は、琵琶湖=淀川水系によって担われました。
室町時代の一揆の話で、1441年嘉吉の一揆が近江の馬借蜂起から始まるのでわかるように、京都の物流は近江の流通業が握っていた。
※ 太閤検地の段階で、日本で一番石高が高いのは「近江」であるように、生産性も高かった
※ 堺商人とか博多商人とか、海外貿易主力の地域依存商人もいますが、江戸時代

時代劇の呼称は「言ってききざわりがいい」というだけです。
江戸では、三河屋が一番多かったと記憶しております。
※ たぶん徳川家の出身 三河のあやかりではないかと。

越後屋で有名なのは、現在の三越。三井・越後屋となりますが、三井家は伊勢出身。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E5%AE%B6


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