義経は平家追討の功労者だったのに、平家滅亡後まもなく仲たがいをしてしまいました。
実の兄弟なので多少の行き違いがあっても話せばなんとかなるとおもうのですが、両者の関係が決定的に悪くなった原因はなんでしょうか?
人間性によるところが大きいのでしょうか、それとも政治的なものでしょうか。

よろしくお願いします。

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A 回答 (13件中11~13件)

功労者だからこそ排除されたのです。


「狡兎死して走狗烹らる」ということわざがあるように
敵である平家が滅びた後は、
軍事的功績を挙げた者は逆に邪魔者になります。
そもそも当時は長子相続の制度が確立してなかったので
頼朝は源氏の大将という地位を
義経やその子孫の奪われる危険性が常にありました。

武家には昔から家督争いや権力争いがつきもので
男兄弟はライバルでしかありませんし、
しかも義経と頼朝の場合は異母兄弟で他人同然です。

義経が好きだろうか嫌いだろうが、
対抗馬は排除しなければなりません。
そもそも平家が滅んだのは、子供だった頼朝に
清盛が情けをかけたせいです。
武士の子は恐ろしい、といわれます。
後難をさけるためには、早めに災いの種は
取り除かなければならないわけで、
頼朝の行動は必然的行為です。

後につくられた物語でしか、義経の実際の言動は
わかりませんが、
検非違使の任についたりしたのは、
臣下の分をわきまえぬ行為で、兄弟として
自分は別格という思い上がりがあったなら
全く愚かなことです。
逆に兄弟だからこそ、きっちりと上下関係を
はっきり示して、恭順の意を示さねばならなかったわけで
そういうことを怠った以上、
命を狙われて当然です。
話せばわかるなんて次元の問題ではありません。

もちろん、後白河法皇などが義経と頼朝を対立させて
武家を凋落させようともくろんでいたようですが、
結局のところ、義経には頼朝と戦うような決意も
なかったわけですから、
このような結果になったのは
すべて義経の政治感覚のなさ、愚かさの結果です。

臣下の礼は、兄弟の情を超越するものであって、
絶対的なものなのです。
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人間的なところはわかりませんが、一般的には政治的理由が大きかったんじゃないでしょうか。



1.頼朝の構想は、東国(鎌倉)を拠点として、「武士による武士のための政治」を実現する、ことにあった。

2.したがって京都の朝廷(後白河法皇)や公家勢力とは一線を画したかった。(朝廷・公家の力と妥協・利用した平家の二の舞はゴメン)

3.にもかかわらず、義経は後白河法皇から官職(=アメ)を与えられるなどして、次第に朝廷に取り込まれていった。

ゆえに、頼朝の構想にとって義経は障害となった。

また、このほかにも

4.頼朝に不満を持つ武士団が、義経や範頼(一応彼らも義朝の子=源氏の嫡流)をかついで謀反を起こす可能性もある。つまり、頼朝にとって、同じ父の血をひく義経や範頼は潜在的な敵であった。(当時の武士社会では血縁が重視され、地縁が重視されるようになるのは室町時代初期=南北朝期からといわれます)

5.さらに、義経には幼少のころ身をよせた奥州藤原氏という「大国」をバックに持っている。鎌倉に作る武士政権を全国政権にするには、いずれ奥州藤原氏との対決は避けられない。頼朝+北条氏(関東武士団)に対抗する形で、義経+奥州藤原氏コンビが誕生すると厄介だ。

以上が通説として、原因といわれています。
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頼朝は、


同じ棟梁となれる血筋で、
しかも自分より人気があり、
戦で手柄を立てている義経を嫌った
と言うのが一般的な説のようです。
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Q源義経について

初めまして、宜しくお願い致します。

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宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

司馬遼太郎さんは時代小説家の中では絶大な人気があるので、義経の本もきっと面白いと思います。
この本は読んだことはないのですが、ほかの作品はとても面白かったので。
http://www.amazon.co.jp/%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%B8%E9%A6%AC-%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4167663112/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1233726741&sr=1-1

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Q源義経公のお墓

大河ドラマで源義経公に興味をもちました。すこし、インターネットで調べたのですが。源義経公のお墓は、実在しないのでしょうか。

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http://www.st.rim.or.jp/~success/link2.htm

参考URL:http://www.st.rim.or.jp/~success/link2.htm

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この辺のごたごたは、当事者同士の恨みつらみが重なっていて真に判り難いです。

清盛と後白河は当初はお互いに利用しあっていたのが、所詮政治家同志、ごたごたやって、清盛がついに治承3年(1179年)11月、後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するという強硬手段に出ました。このドサクサに以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収されて、頭にきて治承4年(1180年)4月に清盛をやっつけろと令旨なるもを出したということです。
平氏をやっつけることが出来そうな武装集団は源氏だけでした。
清盛は清盛で、治承4年六月に京の都から逃げ出して福原(神戸)へ行ったものの、誰もついてこないので半年で諦めて11月に京へ帰り、後白河を元通りにしました。
ということで、後白河法皇がずうと口出しができる状態が続いていた訳ではありません。

源平合戦とは言っても実態は関東平氏と伊勢平氏の大喧嘩です。
頼朝は、大喧嘩するほどの手勢を持っていませんでした。
北条氏も千葉氏も三浦氏もみんな平家一門です。
「令旨」などというお墨付きを持った頼朝が、伊豆で負けてすたこら安房へ逃げて、ようよう下総にたどり着いたところで、関東平氏の大御所だった千葉の常胤爺さんが加勢したのを見て、清盛に冷や飯を食わされていた関東一円の平氏がおれもおれもと集まって大軍団になったということです。
常胤も初めから京まで行くつもりで加勢した訳ではないようで、上総、下総、安房で起きていた身内のごたごたを片付けようとしただけだったようです。
源氏の白旗を旗印にしたのは、薩長軍があやしげな錦の御旗なるものをかついだのと一緒です。

鎌倉幕府も頼朝が死んだあと二人だけが後を継いだだけで、女房の実家の北条氏がその後ずーとやっていました。、征夷大将軍は京からお飾り用に迎えておいて、実権は北条氏が執権という形で握っていました。最後に源氏の末裔の新田義貞が乗り込んできたということです。

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Q源義経、頼朝などの苗字って?

源義経、源頼朝、平清盛、大江広元などには、北条時政たちのように苗字はなかったのでしょうか?

       苗字  氏   諱
北条時政  北条  平   時政
安達泰盛  安達  藤原  泰盛
源 義経  ?    源   義経
平 清盛  ?    平   清盛

Aベストアンサー

苗字(名字)は所領や屋敷の場所などを自称するうちに家名として定着したものですから、法律や権力者の命令によって全国一斉に名乗るのが義務付けられた、というようなものではありません。苗字が定着しても、明治5年までは公式な名称は氏であり、苗字は通称にすぎません。

また、本人が名乗ったかどうかは定かではありませんが、歴史学者の角田文衛は、源頼朝の一族を鎌倉家、平清盛の一族を六波羅家と称した上て、源平合戦という表現は誤解を招くと力説しています。

蛇足ですが、大江広元の子の季光が毛利入道と号し、その孫の時親が安芸国吉田に所領を得たのが毛利家の始まりです。

Q義経VS頼朝で、なぜ義経に加勢する武将が少なかったのでしょうか

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。

義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。

一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として勢力を保持して
いた。徳川家康のような、その力を誰もが認めるような存在で
はまだなかったと思います。また家康のような力を持ってい
ても、関ヶ原では西軍側にも拮抗した軍勢が集まっています。

このような状況で、義経が反旗をひるがえした後、義経に味方
する軍勢はほとんど集まらず、最後は後白河からも見放され、
あっという間に転落してしまいました。

私としては、なぜ義経がかくも短期間でヒーローからあまりにも
みじめな最後をとげることにnってしまったのかがどうしても分か
りませんし、そこの ところをうまく説明した、解説本も知りません。

1. 義経に人徳がなかったのでしょうか(人徳でいえばむしろ頼朝の
方が冷徹であったといわれています)
2. 周囲の大半の勢力は冷静に頼朝と義経の力量を計算して頼朝を
選んだのでしょうか(しかし戦でいえば義経の評判が高かった
わけだし、強い方に加勢する心理が働いてもおかしくなかったのでは)
3. 源平の合戦が続いて、世間に厭戦気分が強く、また日本を二分する
ような戦を誰も望まなかったので、既に地盤を固めている頼朝を支持
したのでしょうか

それとも、他に何か理由があるのでしょうか?

よろしくお願いいたします

義経は1185年3月に壇ノ浦の戦いで勝利し、平家滅亡の立役者
となったが、兄弟共通の敵がいなくなったために兄弟の対立が

表面化、義経は頼朝に恭順するかそれとも敵対するかの選択を
迫られました。

義経は頼朝とならぶ清和源氏の主流であり、後白河法皇の支持
を受けていたし、実際に法皇から頼朝追悼の院旨も受けていた。

一方、頼朝は平家を滅亡させて源氏の世の中になったとは言え、
まだまだ日本の中心は京であり、東国の田舎でようやく地盤を
固めたに過ぎず、東北には藤原氏が依然として...続きを読む

Aベストアンサー

当時の武士というのは、読んで字の如くの戦闘員・戦いのプロというより、普段は自分の土地を家来や領民に耕させ、米など農作物で生活する人々。当然武士の関心事は田畑にあるわけです。

当たり前ですが武士も人間なので子が生まれやがて死にます。

となると気になるのは土地を誰が相続するのか?長男?それとも親に可愛がられた次男?子供たちは若すぎるから叔父さん?とその土地を誰が継ぐの?系の問題が鎌倉幕府開設前からありました。鎌倉開府前には藤原氏や院、時にはお寺。誰々の土地だからその土地の持ち主が決める。けど時代の流れでもって藤原氏が強かったり院が強かったりで誰に相続されるかが安定せず、またその主に気に入られた三男が継ぐことになったり、と安定しないわけです。

こんな不安定な制度は誰でも嫌なもの。公平な相続お裁きをしてくれる機関が欲しく、そのボスには高貴な血筋の人間を据えて説得力を増したい。そんなわけで清和源氏ブランドのボス・源頼朝に白羽の矢が立ち、鎌倉開府となったわけです。



さてこの裁定機関が二つあったらどうでしょう?二つとはもちろんご質問の頼朝と義経です。例えばあの土地について頼朝は長男が継げと言い、義経は次男が継げと言い…武士達にとっては裁定機関は一つでよく、彼ら目線で支離滅裂になっては困るのです。源氏の長者は一人でよく、二人も要らんのです。

また頼朝は源義仲や平氏追討は義経らに丸投げし、自分は関東に残っています。頼朝は別に関東で酒池肉林のドンチャン騒ぎで遊んでいたわけではなく、裁定機関の準備を進めるわけです。源義仲や平氏が滅んだ頃には準備がかなり進んでいたでしょう。周りの武士たちにしてみれば、これで俺達の裁定機関ができるぞって時期に、頼朝の指示を聞かない義経くん。彼は頼朝=裁定機関=武士達の指示を聞かないわけです。

武士たちにとって邪魔ですよね?義経くん。

頼朝と義経各個人の人徳や力量比較は(どちらかというと)武士達にはどうでもよく、例え頼朝の弟と言えど裁定機関の指示に従ってもらわなければ困るんです。折角、平和な世の中に向かっているというのに、いわばKYな義経くん…困りますよね?

戦場での奇想天外な発想…というより、誰が見ても無理そうな課題を発想力で解決する能力は、頼朝よりも…というより日本史上最高の武将でしょう義経は。中でも騎馬による奇襲など戦闘指揮官としては義経の才能は、世界に誇ってもいいくらい。

ですがそんなものは武士たちの土地相続問題には要らない才能。武士達の希望は公平なお裁き、公平な論功行賞。それらに戦闘指揮官の才能は不要です。もっと言えば冷徹にどちらが正しいか判断してくれる人や機関の方が必要なのです。

ご質問には記載はありませんが、範頼も義経に似たような雰囲気を醸しています。紆余曲折の末、源実朝を最後に清和源氏の嫡流は滅んでいます。にもかかわらず、裁定機関の鎌倉幕府はその後も続いています。武士たちにとって源氏が大事だったのではなく、裁定機関が公平に活動してくれればそれで良かったのです。



と長文で申し訳ありませんが、回答としては次のようになります。

4. KYな義経くんは鎌倉幕府=武士達の指示に従わなかったから、もしくは要らない子だったから。

当時の武士というのは、読んで字の如くの戦闘員・戦いのプロというより、普段は自分の土地を家来や領民に耕させ、米など農作物で生活する人々。当然武士の関心事は田畑にあるわけです。

当たり前ですが武士も人間なので子が生まれやがて死にます。

となると気になるのは土地を誰が相続するのか?長男?それとも親に可愛がられた次男?子供たちは若すぎるから叔父さん?とその土地を誰が継ぐの?系の問題が鎌倉幕府開設前からありました。鎌倉開府前には藤原氏や院、時にはお寺。誰々の土地だからその土地の持ち...続きを読む

Qもし平清盛が源頼朝と源義経を処刑していたらその後の展開はどうなりますか?

もし平清盛が源頼朝と源義経を処刑していたらその後の展開はどうなりますか?

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源氏の生き残りは 誰かを統領にして戦うでしょう
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平家に有能な人が居なかったと言う事と
復習は怖い と言う事です
 
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Q 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼

 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼朝に無断で、後白河法皇から検非違使に任命されたことに怒り、鎌倉入りを拒みました。
これに対し、後白河法皇は、義経に、頼朝討伐の院宣を出しましたが、
これに怒った頼朝が大軍を京に向けたところ、今度は後白河法皇、頼朝に、義経討伐の院宣を出したと認識しています。

 短期間のうちに、お互いを討伐するような院宣を出すことはありえるのでしょうか?
ご存じの方、よろしくお願いします。

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義経、行長に頼朝追討の令を下しましたが、これは院宣でなく「宣旨」でした。
義経等に脅迫されやむなく後白河法皇が命じたのですが、
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しかし頼朝の怒りは解けず、頼朝に義経、行長を召し捕るべしとの「院宣」を下しました。
「院宣」は法皇の命令ですが、天皇の「詔勅」と同格で「宣旨」より上格です。

従い天皇の宣旨の後、法皇の院宣が出れば後の上位の院宣の方が効力があり、実質宣旨は失効になります。   もっとも宣旨といっても法皇が出しているのですが。
前言取り消しという事ですか。

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Q「源義経が生きていた」と言う説

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伝説が残っている処を辿ると、確かに平泉から青森方面まで源義経の足跡が残っているらしく、その上、かの地の看板を見れば、義経が逃げる途中、各地に置いていった鎧や太刀や直筆の書状等の遺物が残っているとそうです(看板によると教育委員会のお墨付きみたいです)が、逃亡しえた可能性はありえたんでしょうか?

素人の私からすると、チンギス・ハンになったらしいと言うお話は飛躍が大きすぎる気がしますけど・・・。

Aベストアンサー

古来有名人というのはなかなか死ねないものです。
何とかして生かしておきたいという後人の願望が伝承や異説となってのこるものです。

後世はっきりした証拠が出て死亡が確認されるまではこのような伝承は生き続けるものです。
アレキサンダー大王しかりアーサー王伝説しかり洋の東西を問わずこのような事実は存在します。

しかし冷静に考察すれば義経伝説はあり得ぬ事とおもいます。
当時義経は藤原氏の頼人といえどちらかといえば望まれぬ存在でした。
既に頼朝の威令が確立し藤原氏もその埒外に居ることは許されない程の時勢でした。
この為藤原氏の延命を図る為義経暗殺を計画したのですから藤原氏側に準備の遺漏はありません。  十分な兵力を集め包囲し脱出を防いだと思われます。

義経に心酔していた弟国ひらも殺している位です。  このような状態で足弱な妻子をつれて逃げることは不可能と考えるのが普通です。
義経に忠実な郎党らも討ち死にしています。  東北地方は藤原氏の領地で命令は行き届いたでしょう。

義経関連の遺物というのは想像の産物に過ぎないでしょう。

古来有名人というのはなかなか死ねないものです。
何とかして生かしておきたいという後人の願望が伝承や異説となってのこるものです。

後世はっきりした証拠が出て死亡が確認されるまではこのような伝承は生き続けるものです。
アレキサンダー大王しかりアーサー王伝説しかり洋の東西を問わずこのような事実は存在します。

しかし冷静に考察すれば義経伝説はあり得ぬ事とおもいます。
当時義経は藤原氏の頼人といえどちらかといえば望まれぬ存在でした。
既に頼朝の威令が確立し藤原氏もその埒外に居る...続きを読む

Q源義経の干支

1159年(平治元年)生まれの義経の干支は何でしょうか?

Aベストアンサー

1159年(平治元年)生まれの義経の干支は,
己卯(つちのと う)です。

参考URL:http://www.nnc.or.jp/~a-si/gen-1200.html


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