プロが教えるわが家の防犯対策術!

集合論における選択公理は,現行の表現のままでは,
循環論法的主張になってしまっているのではないでしょうか?

つまり,それぞれの集合族について選択関数が選べると言っても,
選択関数は沢山あるから,1つ1つの集合族についてどの選択関数を選んだらよいか,
選択しなければいけないのではなでしょうか?
すると,選択関数を選択するのに,
また選択公理を使って選択しなけばいけないが,
それを選択するのにまた選択公理を使って・・・??!
これでは,いつまで経っても選べない!

だから,選択公理は,
すべての集合から成る領域において定義された選択関数の存在
を主張しないといけないのではなでしょうか?

従って,公理の表現を次のように改めないといけないと思うのですが・・・
∃f:V-{φ} → V ,∀a∈V ,∀x∈a ,x≠φ ⇒ f(x)∈x
(f:選択関数,V:すべての集合(族)からなる領域,φ:空集合,a:集合族,x:集合)

「強い選択公理」とか「弱い選択公理?」とかもあるようですが、
上記の点はどうなのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

No.11への返答に関しては、前者の解釈でよろしいです。



一般論として有限の対象に関しては網羅的記述ができますが、無限の対象についてはできません。
選択関数についても有限対象なら対応関係を網羅的に定義してやることで構成できますが、無限対象では不可能なので他の方法が必要になります。それが選択公理というわけです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

毎回誠実にご対応をしていただき、感謝いたします。
ご回答の件、了解いたしました。

集合論関係の質問は、なかなか多くのご回答をいただけない状況かと思われますが、
繰り返し丁寧にご回答をいただき、大変勉強になりました。
また質問を掲載させていただくこともあるかと思いますが、
そのときは、お時間があればまたよろしくお願いいたします。

ご回答、大変ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/24 06:04

帰納法ではあくまで任意の有限集合族について選択関数を有限の記号列で構成できることを示せるのであって、可算集合族についての選択関数を有限記号列で構成できることにはなりません。


記号列の長さは要素数とともに増大して可算集合については無限大に発散するでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

毎回、早々にご回答をありがとうございます。
まだ少し分からない所があるのですが・・・

帰納法では、あくまで
「任意の有限集合族について、選択関数を有限の記号列で構成できる」
ことを示せるのであって、
「可算集合族についての選択関数を有限記号列で構成できる」
ことにはならない。実際、
「記号列の長さは要素数とともに増大して、可算集合については無限大に発散するでしょう」 … A
とのことですが、

(1) ここで言う「記号列の長さ」というのは、具体的にはNo.10でのご回答の中にあるように、
例えば要素数2では、
∃a∈A,∃b∈Bからf:{A,B}→ ∪{A,B},A |→ a,B |→ b
という「記号列」のことでしょうか?

もしそうだとすると、要素数が3のときその「記号列」とは、
∃a∈A,∃b∈B,∃c∈Cからf:{A,B,C}→ ∪{A,B,C},A |→ a,B |→ b,C |→ c
という「記号列」のことでしょうか?

もしそうだとして、上記「A」の主張が、
要素数の増大につれて、個々の「記号列の長さ」も増大し、その「極限」は無限である、
ということだとすれば、これは正しいでしょう。

しかし、上記「A」の主張が、
個々の要素数については、常に「記号列の長さ」は有限であるが、
集合族全体では無限個あるから、全体としての「記号列の長さ」有限ではない。
だから、集合族全体の「選択関数」を「有限記号列」で構成できない、
ということだとすると、これはどうもよく分かりません。

もしそのような主張だとしたら、全ての無限集合についての記述は、
それが「選択関数」に関係があってもなくても、それが証明であってもなくても、
その全体は常に「有限記号列」では記述できていない、ということになります。
(ある意味では、当たり前の内容ですが。)

例えで表現すると、
「全ての自然数は有限の数だが、その全体は有限集合ではない」
というような感じです。

すると、この言い方によれば、
「選択公理」も「有限の記号列」では表現できていない、
という事になるのではないでしょうか!??

ですから、可算無限集合族については、
選択関数を「帰納的定義」で決めてやればよい、
でいいのではないでしょうか?
「帰納的定義」自体は「有限記号列」で表現できていますし・・・

どうなのでしょう?

お礼日時:2005/10/21 05:51

No.9は論理構成を間違えてました。



(1)
要素数2では、∃a∈A,∃b∈Bからf:{A,B}→∪{A,B},A|→a, B|→bを構成可能なのでOK。
あとは要素数についての帰納法で有限集合族に対しても同様に構成可能でしょう。構成の論理式は有限長です。

(2)
確かに自然数の誤りです。(1)の説明を変えたので不要になってますけど。

(3)
(1)の方法では無限集合族に対しては有限長の構成はできないことが分かるでしょう。

(4)
可算無限で選択公理から出る不条理は知られてないようですね。決定性公理を採用した体系でも可算選択公理は使えるらしいですし。
ただ非可算集合で選択公理を使った不条理が出るのが非可算集合のせいか非可算集合に選択公理を適用するのが間違っているためかは分かりませんけど。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

また早々にご回答をありがとうございます。
そろそろ「お礼に代えた質問??」がしぼられてきたかもしれません。

(3)「選択を記述する記号列の長さ」について。
「(1)の方法では無限集合族に対しては有限長の構成はできないことが分かるでしょう。」
とありますが、ここがまだよく分かりません。
例えばNo.10でのご回答の(1)にあるような「帰納的定義」ではダメでしょうか?

つまり、空集合を元として持たない可算無限集合族Aに対して、
f:A→∪A
を次のように定義する。

Aの元の個数nについて、
(i) n=1のとき,
a∈A,a≠φ として,空集合の定義より∃x∈aだから,f(a)= x
とする.(この段階は「単純選択の自明性」でよい訳ですよね。)

(ii) n=k+1のとき,
(「単純選択の自明性」より?,)Aの中のどれか1個を除く残りの(k個の)元aについては,
∀a∈A,a≠φ より,∃x∈a,f(a)= x
として,
第k+1番目の元αについて,
α≠φ より,∃x∈α,f(α)= x
と定義する.(この段階も「単純選択の自明性」でよい訳ですよね。)

すると、(i) (ii)よりすべての自然数nについて、
選択関数fが「有限長の記号列」で構成できている。

つまり、可算無限集合族Aに対しても、「有限長の記号列」で選択関数fが構成できている!?

どうなのでしょうか?

お礼日時:2005/10/19 05:08

要点は2つ。


・形式論理では証明は有限の記号列
・整数の部分集合なら整列性より選択関数は最小元選択で構成可能
これらより証明中で選択が必要になった場合に有限集合なら選択関数を有限記号列で構成できるけど、無限集合では有限記号列で構成できない場合もあるわけです。
要するに選択に掛かる時間だけ考えればゼノンの逆理で逃げられても、選択を記述する記号列の長さで考えると逃げ道はありません。
ま、巨大有限を相手にするなら選択記号列も巨大有限になるんで、構成することは現実問題としては不可能でしょうけど。

それで質問者さんは様々な不条理の源泉を「実数連続体」に求めていますが、そこまで行かなくても「無限」を認めた段階で十分に不条理なことがでてきますよ。
実のところ無限公理が全ての元凶とも言えるわけです。不完全性定理も無限公理のない体系ではでませんし。

この回答への補足

いつも丁寧でしかも簡潔なご回答を、ありがとうございます。
(字数の関係で、「補足」の欄に書かせていただきました。)

質問をいくつかさせてください。
(1) 証明の有限性について。
「・形式論理では証明は有限の記号列」
ということですが、確かに
証明は基本的には「有限」でないといけない、
と思います。しかし、
「有限の記号列」といっても、その内容が「無限個の集合」を対象としている場合がある、
と思います。

例えば、∀x∈a(x≠φ ⇒ ∃f(x)∈x)
この「有限の記号列」は、有限個の集合を対象にしている訳ではないと思いますが・・・。

(2) 「選択関数の構成可能性」について。
「・整数の部分集合なら整列性より選択関数は最小元選択で構成可能」
とありますが、
「最小元選択で構成可能」と言うのでしたら、「整数」ではなく「自然数」の部分集合なら・・・、
ではないでしょうか?
「最小元のない整数の部分集合」が存在しますから・・・

(3) 「選択を記述する記号列の長さ」について。
2つの要点より、「証明中で選択が必要になった場合に・・・、
無限集合では有限記号列で構成できない場合もあるわけです。」
とありますが、具体的にはどのような場合がありますか?

例えば、
「それぞれの集合からの選択」は「有限記号列」で構成できるが、
そうした集合が無限個あるときには、全体としては「有限記号列での構成」にならない、
というような場合でしょうか?

(4) 「不条理の源泉」について。
ただ単に「不条理」ということなら、確かに「可算無限」でも、十分に出てきますよね。

例えば、
(i) 「部分は全体に等しい!?」
自然数の中で、偶数は全体の半分ほどに思えるが、自然数全体と1:1の対応を付けることができる!

(ii) 「可算無限個の部屋を持ったホテル」の例。
ある日、満室だったのに、新しくお客さんが来たら、支配人が上手く部屋割りをし直して、
新しく来たお客さんが、有限の数でも可算無限の数でも泊めることが出来た!!

ただし、これらは明らかに、
「選択公理」が使われたので「不条理なこと」が起きた、
という例ではないと思われるのです。

「お礼」の欄で示したかったのは「選択公理の自明性」だったので、
それを示すには、「連続体濃度」の例の方が適当だろうと思ったのです。

つまり、
「連続体を整列できる!?」とか、「1つの球から2つの球が作れる!??」とかの方が、
一見「選択公理から導かれた不条理」のような気がするが、
実はそれは「その無限集合の特性から導かれた不条理」と理解すべきではないか?
ということなのです。

実際、「可算無限」に対しては、一般的に「不条理な主張」はいくつも示せるが、
「選択公理」を用いての「主張」は、「連続体」の場合ほどの「不条理」は、出てこないのではないでしょうか?

以上ですが、どうでしょうか?

補足日時:2005/10/15 22:00
    • good
    • 1

> 空集合の定義により、それぞれの集合にある「代表元」がそれぞれ存在するはずだから、



この部分が間違いです。元が存在するのは確かですが「代表元」を選択することはできません。有限個の集合についてはそれぞれに代表元を選択していけば良いのですが、無限個あると代表元の選択が終わりません。
このギャップを埋めるために選択公理があります。

> 「選択公理は
> ∀a(∀x∈a(x≠φ) ⇒ ∃f:a → ∪a(∀x∈> a(f(x)∈x)))
> ですが、これはトートロジーじゃありません。」
> とありますが、そう考えるとこれも「自明」なのではないでしょうか?

トートロジーというのは、論理式がTRUE(常に真)と等価という論理式の概念ですから。単純選択の論理式は「A⇒A」の形式なので明らかでしょう。選択公理はTRUEと等価にはなり得ません。

> または、たとえ自明でなくても、すぐに導くことができる「論理式」ではないでしょうか?

残念ながら選択公理はZF公理系と独立であることが証明されています。すなわちZF公理系から選択公理を導くことはできません。もちろん選択公理を否定することもできません。

> 初めは「自明」としていた「選択公理」が、後になぜ必要だと認識されるようになったのか?

感覚的には「選択公理」「ツォルンの補題」「整列可能定理」の同値性証明が大きいのではないでしょうか。整列可能定理という非自明な主張が選択公理と同等とされたことで、選択公理は本当に自明なのかと疑問を持たれたのだと思います。
公理論的にはZF公理系からの独立が証明されたのが決定打でしょうけど。

この回答への補足

いつも早めで丁寧なご回答を、ありがとうございます。
こちらは仕事も忙しいせいか、「お礼」が遅くなりがちですみません。
(字数の関係で、「お礼」の前半をこの「補足」の欄に書かせていただきました!)

Q&Aも、いよいよ核心に迫ってきた感じがします!
「元が存在するのは確かですが「代表元」を選択することはできません。
有限個の集合についてはそれぞれに代表元を選択していけば良いのですが、
無限個あると代表元の選択が終わりません。
このギャップを埋めるために選択公理があります。」
となっていますが、問題は正にここにある気がするのです!!

有限個の場合は、それがどんなに大量であっても「代表元を選べる」というのに、
(可算)無限個の場合は、なぜ「代表元の選択が終わらないのでダメ」なのでしょうか?

(1) 例えば、宇宙の寿命を10^100 秒として、それをプランク時間よりも短い10^(-100) 秒で割った値、
10^200 よりも大きい個数の集合から成る集合族に対しても、その個数は有限個には違いないから、
例えどんなに時間がかかっても(実際に選択が出来ない状況であっても)、
それぞれの集合からそれぞれの「代表元」が(原理的には)選べるが、

例えば、可算無限個の集合から成る集合族では、
「無限回の選択」が「有限時間の内」には終わらないから、
それら全ての集合からそれぞれの「代表元」を選ぶことができない、
ということでしょうか?
もしそうだとしたら、ちょっとおかしい気がするのですが・・・

つまり、
「有限の時間内に、無限回の選択をすること」
は出来なくはないのではないでしょうか?

例えば、あのゼノンの逆理の「アキレスと亀」の例が、
「無限回の現象には無限回の時間がかかる」
としたためにパラドックスが生じたように、
実は原理的には、
「有限の時間内に、無限回の選択をすること」
が可能ではないでしょうか?

すなわち例えば、ある時刻から1/2 秒後に1個目の選択をし、それから1/4 秒後に2個目の選択をし、
それから1/8 秒後に3個目の選択をし、・・・
このような選択により、初めの時刻からちょうど1秒後には、無限回の選択が終了していると思うのですが・・・
1/2+1/4+1/8+1/16+・・・ = 1

(2) それとも、「無限回」の選択が常に「一様に」できるかどうかを問題にしている、
ということでしょうか??

つまり、有限個の場合の「代表元」の選び方は、どのように決めて選んでいっても問題はないが、
無限個の場合は、1つ1つで選び方を決めていったのでは、「無限回の選択」を保証できないかもしれないので、
選択公理が必要だ、というものです。

これは、前に挙げた「ラッセルの靴下」の例でも触れられた「不安」だと思われます。
「無限足の靴下から、片方ずつをどうやって選ぶのか・・・?」
ラッセルいわく、「どの靴下も履き古しだったら、選べただろうに・・・!」と。

もしそうだとしたら、これもおかしい気がするのですが・・・。

つまり、「関数の連続性」ではありませんが、例えばある区間での関数の「連続性」を言うのに
「一様連続」までを言う必要は、一般的には無いのと同じように、
「とにかく選べればよい」ので、有限回だろうが無限回だろうが、
空集合の定義より「代表元」を選べるのは「自明」である、と思うのですが・・・

(3) しかし、万が一「自明」であったとしても、歴史的に「選択公理の必要性」が主張されたのは、
No.8さんが述べられているように、常識的な感覚には反する「整列可能定理」などが、
この「選択公理」と同値であることが示されたからなのでしょう。

確かに、「整列可能定理」や、同じく「選択公理」から導かれるあの「バナッハ・タルスキの逆理(定理)」などは、
人間の正常な思考や論理に対して、真っ向から矛盾するような主張ですから、
「選択公理」は「自明のはずはない!」という訳なのでしょう!!

しかし、これらについても考えてみると、
(i) 例えば「整列可能定理」は、ただ「どんな集合も離散的に1列に並べられる」と言っているだけで、
「具体的並べ方」は何も主張していない訳です。
言ってみれば、「整列できないとすると、矛盾する」といった程度の主張だと思われますし、

(ii) 「バナッハ・タルスキの逆理(定理)」についても、
例えば「1個の球を有限個に分割して組み合せると、同じ大きさの2個の球が作れる!」
といった摩訶不思議な主張をしますが、その「具体的な構成方法」は決して示されない訳です。

そして、肝心なことは、このような「非常識な結論」の原因は、
「選択公理」にある、というよりは、この現実の世界をモデルとする「実数連続体」自体にある、
ということだと思うのですが・・・

補足日時:2005/10/13 02:56
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(「補足」の欄の続きです!)

実際、「選択公理」は例えば、有限個の集合については
何の面白味のある主張も出てこないのではないでしょうか?

逆に例えば、1次元の「実数連続体」である「実数直線」について言えば、
例えば開区間(0,1)の中に
「宇宙真理実数」や「歴史完全記述実数」、「個人情報実数」などが考えられるのです!!

「宇宙真理実数」というのは、
「現宇宙の全ての真理を表す物理学的理論や数学的理論を表現している実数」
のことです。
この「実数」の小数表示を適当な変換によって文字列に「翻訳」すると、
そこには「宇宙の全ての真理が、つぶさに書かれている!!!」のです。

ただし、この主張にも「選択公理」は使われていますし、
もちろんこのような実数を、実際に区間(0,1)の中から「どのように選ぶか」は与えられていません。
ただ「存在する」というだけで、実際上は何ら「驚くべき主張」ではないのです。

同じように、「歴史完全記述実数」というのは、
「人類に限ることなく、また過去だけでなく未来までも含めた全ての事実についての、完全な記述を表している実数」のことですし、
「個人情報実数」というのは、
「全ての人の個人的な情報を全て記述してある実数」のことです。
例えば、「私の生まれた日に、私の父は何を考えたか?」とか、「彼の好みのタイプは?」とか・・・
なお、この実数の記述内容は、「歴史完全記述実数」の中にも含まれている訳です。

このように、驚くべき主張の源泉は「選択公理」というよりは「実数連続体」にこそ求めるべきだ、
と思うのですが、どうなのでしょうか???

お礼日時:2005/10/13 03:00

論理式を書いてみるとよく分かると思います。



単純選択は
∀a(∃x(x∈a) ⇒ ∃x(x∈a))
と正にトートロジーです。

選択公理は
∀a(∀x∈a(x≠φ) ⇒ ∃f:a → ∪a(∀x∈a(f(x)∈x)))
ですが、これはトートロジーじゃありません。

ちなみに選択公理から任意の2項論理式pについて
∀a(∀x∈a ∃y p(x,y) ⇒ ∃f ∀x∈a p(x,f(x)))
が得られます。
この論理式の要点は⇒の前後で∀と∃の順序が入れ替わっていることで、例えば関数の連続性から一様連続性が導かれると言っているようなものです。もちろんそれは一般的には成り立たないことで、同様の論理構成である選択公理も同様に自明とは言えないです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

繰り返し丁寧なご回答をすみません。

何か、同じような内容の繰り返しになっているようで、申し訳ありません。
そろそろこの「お礼」の欄を使った「再質問」も、終わりにした方がよさそうですかね・・・

まず、「単純選択」は
「空集合でない」ことと「ある元が存在する」ことが同値であるから、
「自明」であり、

「選択公理」は
「空集合を元として持たない集合族に対して、ある選択関数が存在する」
ということで、

これは
「∀と∃の順序が入れ替わっていること」
が要点で、
「例えば関数の連続性から一様連続性が導かれると言っているようなもの」
なので、「自明ではない」ということですが、

関数の連続性にならって言えば、なぜ
「ただの選択」ではダメで、「一様選択」でないといけない!
のでしょうか? (「一様選択」というのは、あやふやな表現ですが。)

空集合でない集合だけを元とする集合族については、その元の数が有限個だろうか無限個だろうが、
空集合の定義により、それぞれの集合にある「代表元」がそれぞれ存在するはずだから、
それらにより「選択関数」が構成できる
のではないでしょうか?

つまり、No.7のコメントに
「選択公理は
∀a(∀x∈a(x≠φ) ⇒ ∃f:a → ∪a(∀x∈a(f(x)∈x)))
ですが、これはトートロジーじゃありません。」
とありますが、そう考えるとこれも「自明」なのではないでしょうか?
「一様選択」でなくて「ただの選択」で構わないと思うので、「自明」だと思うのですが・・・

または、たとえ自明でなくても、すぐに導くことができる「論理式」ではないでしょうか?


・・・それにしても、公理的集合論の創成期に、
初めは「自明」としていた「選択公理」が、後になぜ必要だと認識されるようになったのか?
その辺りが分かると、No.1~7さんのご回答も理解できる気もしますが・・・

お礼日時:2005/10/09 14:55

まず「単純選択の自明性」ですが、そもそも集合aに元が存在することと集合aから元が取り出せることを形式論理で区別することが難しいです。

普通に使っている論理だとどちらも
∃x(x∈a)
になってしまいます。
要するに形式論理の視点では両者は同じ論理式の解釈に過ぎないわけです。
それに対して選択公理はちゃんと論理式で書けます。(No.2)

次に「選択公理の非自明性」ですが、これは選択公理を否定した公理系でも理論を構築できることがあります。
適当に弱めた選択公理を導入することで全ての部分集合がルベーグ可測になる測度論が構築できたりするようですよ。

それで「無限個の集合族の選択関数」の存在ですが、これは各集合族に選択関数が存在することを選択公理から導いた上で、集合族の集合族について選択関数の選択関数が存在することを、選択公理から導くので良いと思います。
選択公理を2段階に使うことになりますが循環論法はありません。

選択公理の無限段適用を要するような問題はそもそも存在しないんじゃないかと思いますが、そういう問題があってもそれは選択公理の適用外というだけで選択公理の使用に循環論法が必要になるわけではないですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

毎回の丁寧なご回答に感謝します。
繰り返しお手数をおかけし、スミマセン。

いよいよ総まとめといった感じになってきたような気もしますが、
また、ますます訳が分からなくなって気もします!??
ここで初めに戻って、1つの疑問にしぼってお聞きしてみたいと思います。

「無限個の空でない集合を元とする集合族には、いつでも選択関数が存在する。」
ということが、
「単純選択の自明性」
から、なぜ説明できないのでしたでしょうか?

「それぞれの元について、どれも空でない集合だから、単純選択の自明性より、その代表元が選べる。
つまり、選択関数が存在する。」
では、なぜいけないのでしょうか???・・・・

お礼日時:2005/10/05 21:16

> (1) 空でないすべての集合の1つ1つについて、「選択関数」を常に1つずつ選ぶことができて、


> それぞれの集合の「代表元」を常に1つずつ選ぶことができる。

No.3にも書いたように、それは単純選択で選択公理ではない。第一、選択関数に意味がない。これだけでは選択公理が必要な定理は証明できないでしょう。
# 整列可能定理とかベクトル空間の基底の存在とか

> (3) 選択関数を1つ選ぶことができて、すべての集合の1つ1つについて、
> それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。

これは強力すぎてZFと矛盾するので通常数学の枠では扱えない。扱える体系ならあっても良いけど。

> (2) すべての集合族の1つ1つについて、選択関数を常に1つずつ選ぶことができて、
> それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。

これも書き方が危ういな。選択関数の一意性は必要ないですよ。(1)を必要と感じているなら一意にしたいのは分かるけど。

おそらくね、記述と認識にズレがあるんですよ。(1)を書いてて実際には(2)を満たす選択関数を思い浮かべている。
あるいは(1)のような単純選択を受け入れられていない。
集合の元が存在する(空集合でない)ということと、その集合から元を取り出せることが違うと感じているから、(1)のような選択公理を考えるのかと思います。
ただ通常の論理では、元があれば取り出せるんですよ。(単純選択の自明性)
この前提の上に、選択公理は無限個の集合の直積が空集合にはならないってことを言っているんで、有限個の直積は構成的に作れるので空にならないのは自明なんですね。

この回答への補足

再度丁寧なご回答をいただき、ありがとうございました。
こちらの疑問に繰り返し答えていただき、感謝します。
(字数の関係で、こちらの欄に前半を書かせていただきました。悪しからず!)

今回の質問をめぐる状況が、大部判ってきました。
どうもこちらは、何か勘違いをしているのかもしれませんね・・・。

それにしてもやはり、文字面だけのやり取りでの議論だと、
なかなか上手く伝わらないところがあり、
お互いに、はがゆいところがありそうです。

まず話を、「選択公理の必要性」にしぼってみると、私も、
「ただ通常の論理では、元があれば取り出せる。(単純選択の自明性)」
で基本的にはよいと考えます。

ところが、これは認めるのに、なぜ
「無限個の集合の直積が空集合にはならない」
ということは「自明」ではないのでしょうか?
ここがまず分からない点なのです。

選択公理の必要性をめぐって、
「無限個の靴下(の組)の中から、片方(片足)ずつを取り出すのには選択公理が必要である」
という例に対して、B.ラッセルか誰かが、
「どの靴下もはき古しだったら、(選択公理など使わずに)選べるだろうに・・・」
と言ったとか言わないとか。
(つまり、はき古しなら、右と左が区別できるので、全ての組から例えば右足だけを選べばよい!??)
という例がありますが、

なぜ有限個のときは自明なのに、可算(?)無限のときは自明にはならないのでしょうか?
つまり、
「無限個の集合の直積が空集合にはならない」
ということは、なぜ自明ではないのでしょうか?

これはちょうど、例えば解析学における「一様連続」と同じ感じということでしょうか?
つまり、
すべてのxについて、任意の正数εについて、ある正数δ(x,ε)が存在して、・・・
ではなくて、
任意の正数εについて、ある正数δ(ε)があって、すべてのxについて、・・・
といった感じ。

すなわち、
「ある正数δ」の選択がxによらないようにしたい、
という感じで、
これと同じような「要請」を集合論でもしたい、
ということでしょうか?

次に、選択公理の循環論法的な点について話すと、(これも以前の繰り返しになってしまい恐縮ですが、)
「空集合を元として持たない(無限濃度の)集合族に対して、いつでも選択関数が存在する」
と言うのが「本来の選択公理」ということですが、
そうした「選択関数」はほとんど全ての場合について、1個ではなく無限個あるでしょう。

すると、無限にある「選択関数」の中から、
その「代表元」ならぬ「代表選択関数」を1つ選べるのでしょうか?

つまり、選択公理というのは、「選択関数の一意性」を問題にしている、と思うのですが・・・
もし「どれでもよい」というのならば、
無限個の場合も「どれでもよいから1つずつ代表元を選んで・・・」
でよい、と思うのですが・・・。

ここで、もちろん今考えようとしている集合族が有限個しかないならば、
「単純選択の自明性」
により問題ないと思いますが、

もし今考えようとしている集合族が無限個ある場合は、どうなのでしょうか?
この場合は、「自明」ですか? 自明ではないですか??

補足日時:2005/10/02 14:54
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(前半を「補足の欄」に書いたものの後半です。)
私はこの場合も自明だと思うのですが、
「選択公理の必要性」によると、この場合は自明ではなく「選択公理」が必要な訳ですね?

つまり、無限個の「選択関数を元とする集合」を元とする集合族について、
それぞれの元からそれの「代表元(代表関数)」を選択する、
というこのような場合には、「選択公理」が必要な訳ですよね!!?
違うのかな・・・??? どれでもいいのだから、あえて「選択公理」なんて要らない!のかなぁ?

もし万一「選択公理が必要」とすると、
「選択関数」を選択するのに「選択公理」が要る
という事になっているのではないでしょうか?

そうすると、簡単に表現すると、
無限個の「選択関数」を選ぶのには、選択公理を適応しないといけないが、
そのように適応した集合族が無限個あるときは、その全体にまた選択公理を適応する必要があり、
そのように適応した集合族がまた無限個あるときは、その全体にまた選択公理を適応する必要があり、
そのように適応した集合族が無限個あるときは、・・・・
というふうに、何回繰り返しても選べない場合が出てくるので、
「一般的な」選択公理は循環論法的な感じがするのですが・・・。

ですから、
「集合」でなく「領域」を規定して、まず「選択関数」を定め、
それによって全ての集合の代表元を「一意的」に定める、
とよいのではないでしょうか?
これがZFとは矛盾するという「選択公理」な訳です。

(くどいようで済みませんが、)私は
いつでもどのような場合でも、「単純選択の自明性」で「選択関数」は選べる
のではないかと思っているのです。しかし、
もし「一般的な(本来の)選択公理」が必要だというのなら、
「ZFとは矛盾する選択公理」までが必要になってくるのではないか?
ということなのです!!

長々と同じことを繰り返し書いたようで、申し訳ありません。
どうも私は思い込みが激しいようで、一度思い込むと頑固なので、
なかなか直せないというか、なかなか判らないようなのです。

どうぞ岡目八目のことわざではありませんが、お気づきの点をご指摘くださると、
大変ありがたいのですが・・・。

お礼日時:2005/10/02 15:13

その公理CはZFと両立しないと言っているだけですので、ZF以外の公理系がお望みなら自力で構築してください。

適当な公理系を構築すればお望みの選択公理が無矛盾に使えるかもしれません。
ただしZF以外の公理系は標準的でないので、他人と話をするにはイチイチ説明しないといけません。とても扱いにくいと思います。

それで公理Cなんて強力なものが必要ですか? 全ての集合族に対して同時選択なんて必要性を感じたことないですけど。普通の選択公理すら使う場面はマレなのに。
通常のZFCで足りないのかどうか再考される方がよろしいかと思います。
ちなみに集合族の集合族くらいなら選択公理の変形でカバーできるんじゃないかと思います。未検証ですけど。

なお「{x}∈f」はミスです。すみません。最終的に必要なのは
f∈…∈f (要素関係が有限段で循環する)
なので、適当に補完して下さい。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

繰り返しのご回答、ありがとうございました。
とても参考になりました。

ZFの公理系では「集合」の概念しかなく、「領域(類,クラス)」という概念はないのでしたね!
お騒がせしました!
(全くの素人なものですから・・・、スミマセン!)

BG(ベルナイス・ゲーデル)の公理系では「集合」の他に「領域」の概念を定義し、
より多くの諸概念を扱えるようにしたようですが、
このBGでは「選択公理」は確かに、
∃f(un(f),∀x≠φ ,∃y∈x ,<y ,x> ∈f)   
と表されているようです!!
(ただし、un(f)は「fは一価関数である」という意味)

ただ、(繰り返しになりますが)
こうした公理系での論理的な議論とは別に、単純に思考上の議論として、

私は元々、
(1) 空でないすべての集合の1つ1つについて、「選択関数」を常に1つずつ選ぶことができて、
それぞれの集合の「代表元」を常に1つずつ選ぶことができる。
で十分だと思うのですが、

もし万が一、(1)では不十分だというのならば、
(2) すべての集合族の1つ1つについて、選択関数を常に1つずつ選ぶことができて、
それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。
でとどまるのではなく、

(3) 選択関数を1つ選ぶことができて、すべての集合の1つ1つについて、
それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。
とするべきだと思うのですが・・・
ということなのです。

いずれにしろ、ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2005/10/01 09:10

Aは選択公理ではありません。


公理Aには集合族aは不要ですね。Aは簡単に言えば
「空でない集合xからはある元f(x)を取り出すことができる」
ということであり、言い換えれば
「空でない集合xからはある元yを取り出すことができる」
で、これは単なる空集合の定義の言い換えですね。
本質的には選択関数fの出る幕はありません。

選択公理の本質は、このような選択を無限個同時にできるということで、その無限同時選択を選択関数という集合論上の実体で表現しているわけです。

公理Cの問題点は選択関数fが集合論の枠内に収まらないことです。
公理Cにも集合族aは不要ですね。
∃f(∀x(x≠φ ⇒ f(x)∈x))
f(x)の集合論的定義を使うと(x, f(x))∈fが出て、これから{x}∈fが言える。
ここでxが任意だからfが集合論の枠内にあれば、{f}∈fとできて正則性公理と矛盾する。
したがって公理Cの選択関数fは通常の公理的集合論の実体(集合)とはならない。

公理Cの方が単純ですが、実際にはそうできないため現在の選択公理になっているわけです。

この回答への補足

再度のご回答に感謝します。
(字数の関係で、「補足」の欄に書かせていただきました。)

「Aは選択公理ではありません。公理Aは簡単に言えば、
「空でない集合からはある元を取り出すことができる」
ということであり、これは単なる空集合の定義の言い換えです。」
というのは、よく言われることですよね。

選択公理なんて「当たり前のこと」を、何でわざわざ「公理」などと言うのか? 等々・・・

しかし、
これでは「無限同時選択」が保障されていない … A
ので、
1つの集合族において定義された「選択関数」の存在を保障しよう … B
ということですよね。

しかし、(繰り返しになって恐縮ですが、)
これでは、各集合族ごとに選択関数を選ぶ形なので、「無限同時関数選択?」が保障できない
のではないでしょうか?

つまり、個々の集合族に対して定義できたとしても、
すべての集合族に対して「無限同時に」定義できるかどうかは分からないのではないでしょうか?

ですから、
すべての集合(族)を元とする「領域(クラス)」において定義された「選択関数」の存在を保障しよう … C
ということだと思うのですが・・・

なお、
「公理Cの問題点は、選択関数fが集合論の枠内に収まらないことです。」
ということですが、
この「公理C」は、「集合」だけでなくいわゆる「領域」とか「類」,「クラス」と呼ばれるものまで考えた「公理」なので、
選択関数f自体は、領域と領域の直積における1つの「領域」
になっています。

ですから、
{f}といった「集合」や「領域」は考えられない
ので、
「{f}∈fとできて正則性公理と矛盾する」
とはならないと思うのですが・・・

つまり正則性公理から導かれるのは、例えば
「すべての集合は、自分自身を元として持たない」
といった、あくまでも「集合」についてのことなので、
「領域」である選択関数fについては矛盾が起きていないのではないでしょうか?

なお、「公理C」における選択関数fについて、
「(x, f(x))∈fが出て、これから{x}∈fが言える。」
とありますが、ここもよく分かりません。

つまり、いわゆる順序対については、
(x, f(x))={x,{x,f(x)}}
だと思うのですが、そうだとすると、
{x,{x,f(x)}}∈f
となり、これから
{x}∈f
がなぜ出てくるのか、よく分かりません。

もともと
{x}は順序対でない
ので、選択関数fの元にはなっていないと思うのですが・・・

集合論も、その記述には色々なスタイルがあると思うのでよくは分かりませんが、
以上のような点はいかがでしょうか?

どうぞよろしくお願いします。

補足日時:2005/09/30 06:07
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!