専門家に聞いた!繰り返す痔の原因は!? >>

集合論における選択公理は,現行の表現のままでは,
循環論法的主張になってしまっているのではないでしょうか?

つまり,それぞれの集合族について選択関数が選べると言っても,
選択関数は沢山あるから,1つ1つの集合族についてどの選択関数を選んだらよいか,
選択しなければいけないのではなでしょうか?
すると,選択関数を選択するのに,
また選択公理を使って選択しなけばいけないが,
それを選択するのにまた選択公理を使って・・・??!
これでは,いつまで経っても選べない!

だから,選択公理は,
すべての集合から成る領域において定義された選択関数の存在
を主張しないといけないのではなでしょうか?

従って,公理の表現を次のように改めないといけないと思うのですが・・・
∃f:V-{φ} → V ,∀a∈V ,∀x∈a ,x≠φ ⇒ f(x)∈x
(f:選択関数,V:すべての集合(族)からなる領域,φ:空集合,a:集合族,x:集合)

「強い選択公理」とか「弱い選択公理?」とかもあるようですが、
上記の点はどうなのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

No.11への返答に関しては、前者の解釈でよろしいです。



一般論として有限の対象に関しては網羅的記述ができますが、無限の対象についてはできません。
選択関数についても有限対象なら対応関係を網羅的に定義してやることで構成できますが、無限対象では不可能なので他の方法が必要になります。それが選択公理というわけです。
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この回答へのお礼

毎回誠実にご対応をしていただき、感謝いたします。
ご回答の件、了解いたしました。

集合論関係の質問は、なかなか多くのご回答をいただけない状況かと思われますが、
繰り返し丁寧にご回答をいただき、大変勉強になりました。
また質問を掲載させていただくこともあるかと思いますが、
そのときは、お時間があればまたよろしくお願いいたします。

ご回答、大変ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/24 06:04

帰納法ではあくまで任意の有限集合族について選択関数を有限の記号列で構成できることを示せるのであって、可算集合族についての選択関数を有限記号列で構成できることにはなりません。


記号列の長さは要素数とともに増大して可算集合については無限大に発散するでしょう。
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この回答へのお礼

毎回、早々にご回答をありがとうございます。
まだ少し分からない所があるのですが・・・

帰納法では、あくまで
「任意の有限集合族について、選択関数を有限の記号列で構成できる」
ことを示せるのであって、
「可算集合族についての選択関数を有限記号列で構成できる」
ことにはならない。実際、
「記号列の長さは要素数とともに増大して、可算集合については無限大に発散するでしょう」 … A
とのことですが、

(1) ここで言う「記号列の長さ」というのは、具体的にはNo.10でのご回答の中にあるように、
例えば要素数2では、
∃a∈A,∃b∈Bからf:{A,B}→ ∪{A,B},A |→ a,B |→ b
という「記号列」のことでしょうか?

もしそうだとすると、要素数が3のときその「記号列」とは、
∃a∈A,∃b∈B,∃c∈Cからf:{A,B,C}→ ∪{A,B,C},A |→ a,B |→ b,C |→ c
という「記号列」のことでしょうか?

もしそうだとして、上記「A」の主張が、
要素数の増大につれて、個々の「記号列の長さ」も増大し、その「極限」は無限である、
ということだとすれば、これは正しいでしょう。

しかし、上記「A」の主張が、
個々の要素数については、常に「記号列の長さ」は有限であるが、
集合族全体では無限個あるから、全体としての「記号列の長さ」有限ではない。
だから、集合族全体の「選択関数」を「有限記号列」で構成できない、
ということだとすると、これはどうもよく分かりません。

もしそのような主張だとしたら、全ての無限集合についての記述は、
それが「選択関数」に関係があってもなくても、それが証明であってもなくても、
その全体は常に「有限記号列」では記述できていない、ということになります。
(ある意味では、当たり前の内容ですが。)

例えで表現すると、
「全ての自然数は有限の数だが、その全体は有限集合ではない」
というような感じです。

すると、この言い方によれば、
「選択公理」も「有限の記号列」では表現できていない、
という事になるのではないでしょうか!??

ですから、可算無限集合族については、
選択関数を「帰納的定義」で決めてやればよい、
でいいのではないでしょうか?
「帰納的定義」自体は「有限記号列」で表現できていますし・・・

どうなのでしょう?

お礼日時:2005/10/21 05:51

No.9は論理構成を間違えてました。



(1)
要素数2では、∃a∈A,∃b∈Bからf:{A,B}→∪{A,B},A|→a, B|→bを構成可能なのでOK。
あとは要素数についての帰納法で有限集合族に対しても同様に構成可能でしょう。構成の論理式は有限長です。

(2)
確かに自然数の誤りです。(1)の説明を変えたので不要になってますけど。

(3)
(1)の方法では無限集合族に対しては有限長の構成はできないことが分かるでしょう。

(4)
可算無限で選択公理から出る不条理は知られてないようですね。決定性公理を採用した体系でも可算選択公理は使えるらしいですし。
ただ非可算集合で選択公理を使った不条理が出るのが非可算集合のせいか非可算集合に選択公理を適用するのが間違っているためかは分かりませんけど。
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この回答へのお礼

また早々にご回答をありがとうございます。
そろそろ「お礼に代えた質問??」がしぼられてきたかもしれません。

(3)「選択を記述する記号列の長さ」について。
「(1)の方法では無限集合族に対しては有限長の構成はできないことが分かるでしょう。」
とありますが、ここがまだよく分かりません。
例えばNo.10でのご回答の(1)にあるような「帰納的定義」ではダメでしょうか?

つまり、空集合を元として持たない可算無限集合族Aに対して、
f:A→∪A
を次のように定義する。

Aの元の個数nについて、
(i) n=1のとき,
a∈A,a≠φ として,空集合の定義より∃x∈aだから,f(a)= x
とする.(この段階は「単純選択の自明性」でよい訳ですよね。)

(ii) n=k+1のとき,
(「単純選択の自明性」より?,)Aの中のどれか1個を除く残りの(k個の)元aについては,
∀a∈A,a≠φ より,∃x∈a,f(a)= x
として,
第k+1番目の元αについて,
α≠φ より,∃x∈α,f(α)= x
と定義する.(この段階も「単純選択の自明性」でよい訳ですよね。)

すると、(i) (ii)よりすべての自然数nについて、
選択関数fが「有限長の記号列」で構成できている。

つまり、可算無限集合族Aに対しても、「有限長の記号列」で選択関数fが構成できている!?

どうなのでしょうか?

お礼日時:2005/10/19 05:08

要点は2つ。


・形式論理では証明は有限の記号列
・整数の部分集合なら整列性より選択関数は最小元選択で構成可能
これらより証明中で選択が必要になった場合に有限集合なら選択関数を有限記号列で構成できるけど、無限集合では有限記号列で構成できない場合もあるわけです。
要するに選択に掛かる時間だけ考えればゼノンの逆理で逃げられても、選択を記述する記号列の長さで考えると逃げ道はありません。
ま、巨大有限を相手にするなら選択記号列も巨大有限になるんで、構成することは現実問題としては不可能でしょうけど。

それで質問者さんは様々な不条理の源泉を「実数連続体」に求めていますが、そこまで行かなくても「無限」を認めた段階で十分に不条理なことがでてきますよ。
実のところ無限公理が全ての元凶とも言えるわけです。不完全性定理も無限公理のない体系ではでませんし。

この回答への補足

いつも丁寧でしかも簡潔なご回答を、ありがとうございます。
(字数の関係で、「補足」の欄に書かせていただきました。)

質問をいくつかさせてください。
(1) 証明の有限性について。
「・形式論理では証明は有限の記号列」
ということですが、確かに
証明は基本的には「有限」でないといけない、
と思います。しかし、
「有限の記号列」といっても、その内容が「無限個の集合」を対象としている場合がある、
と思います。

例えば、∀x∈a(x≠φ ⇒ ∃f(x)∈x)
この「有限の記号列」は、有限個の集合を対象にしている訳ではないと思いますが・・・。

(2) 「選択関数の構成可能性」について。
「・整数の部分集合なら整列性より選択関数は最小元選択で構成可能」
とありますが、
「最小元選択で構成可能」と言うのでしたら、「整数」ではなく「自然数」の部分集合なら・・・、
ではないでしょうか?
「最小元のない整数の部分集合」が存在しますから・・・

(3) 「選択を記述する記号列の長さ」について。
2つの要点より、「証明中で選択が必要になった場合に・・・、
無限集合では有限記号列で構成できない場合もあるわけです。」
とありますが、具体的にはどのような場合がありますか?

例えば、
「それぞれの集合からの選択」は「有限記号列」で構成できるが、
そうした集合が無限個あるときには、全体としては「有限記号列での構成」にならない、
というような場合でしょうか?

(4) 「不条理の源泉」について。
ただ単に「不条理」ということなら、確かに「可算無限」でも、十分に出てきますよね。

例えば、
(i) 「部分は全体に等しい!?」
自然数の中で、偶数は全体の半分ほどに思えるが、自然数全体と1:1の対応を付けることができる!

(ii) 「可算無限個の部屋を持ったホテル」の例。
ある日、満室だったのに、新しくお客さんが来たら、支配人が上手く部屋割りをし直して、
新しく来たお客さんが、有限の数でも可算無限の数でも泊めることが出来た!!

ただし、これらは明らかに、
「選択公理」が使われたので「不条理なこと」が起きた、
という例ではないと思われるのです。

「お礼」の欄で示したかったのは「選択公理の自明性」だったので、
それを示すには、「連続体濃度」の例の方が適当だろうと思ったのです。

つまり、
「連続体を整列できる!?」とか、「1つの球から2つの球が作れる!??」とかの方が、
一見「選択公理から導かれた不条理」のような気がするが、
実はそれは「その無限集合の特性から導かれた不条理」と理解すべきではないか?
ということなのです。

実際、「可算無限」に対しては、一般的に「不条理な主張」はいくつも示せるが、
「選択公理」を用いての「主張」は、「連続体」の場合ほどの「不条理」は、出てこないのではないでしょうか?

以上ですが、どうでしょうか?

補足日時:2005/10/15 22:00
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> 空集合の定義により、それぞれの集合にある「代表元」がそれぞれ存在するはずだから、



この部分が間違いです。元が存在するのは確かですが「代表元」を選択することはできません。有限個の集合についてはそれぞれに代表元を選択していけば良いのですが、無限個あると代表元の選択が終わりません。
このギャップを埋めるために選択公理があります。

> 「選択公理は
> ∀a(∀x∈a(x≠φ) ⇒ ∃f:a → ∪a(∀x∈> a(f(x)∈x)))
> ですが、これはトートロジーじゃありません。」
> とありますが、そう考えるとこれも「自明」なのではないでしょうか?

トートロジーというのは、論理式がTRUE(常に真)と等価という論理式の概念ですから。単純選択の論理式は「A⇒A」の形式なので明らかでしょう。選択公理はTRUEと等価にはなり得ません。

> または、たとえ自明でなくても、すぐに導くことができる「論理式」ではないでしょうか?

残念ながら選択公理はZF公理系と独立であることが証明されています。すなわちZF公理系から選択公理を導くことはできません。もちろん選択公理を否定することもできません。

> 初めは「自明」としていた「選択公理」が、後になぜ必要だと認識されるようになったのか?

感覚的には「選択公理」「ツォルンの補題」「整列可能定理」の同値性証明が大きいのではないでしょうか。整列可能定理という非自明な主張が選択公理と同等とされたことで、選択公理は本当に自明なのかと疑問を持たれたのだと思います。
公理論的にはZF公理系からの独立が証明されたのが決定打でしょうけど。

この回答への補足

いつも早めで丁寧なご回答を、ありがとうございます。
こちらは仕事も忙しいせいか、「お礼」が遅くなりがちですみません。
(字数の関係で、「お礼」の前半をこの「補足」の欄に書かせていただきました!)

Q&Aも、いよいよ核心に迫ってきた感じがします!
「元が存在するのは確かですが「代表元」を選択することはできません。
有限個の集合についてはそれぞれに代表元を選択していけば良いのですが、
無限個あると代表元の選択が終わりません。
このギャップを埋めるために選択公理があります。」
となっていますが、問題は正にここにある気がするのです!!

有限個の場合は、それがどんなに大量であっても「代表元を選べる」というのに、
(可算)無限個の場合は、なぜ「代表元の選択が終わらないのでダメ」なのでしょうか?

(1) 例えば、宇宙の寿命を10^100 秒として、それをプランク時間よりも短い10^(-100) 秒で割った値、
10^200 よりも大きい個数の集合から成る集合族に対しても、その個数は有限個には違いないから、
例えどんなに時間がかかっても(実際に選択が出来ない状況であっても)、
それぞれの集合からそれぞれの「代表元」が(原理的には)選べるが、

例えば、可算無限個の集合から成る集合族では、
「無限回の選択」が「有限時間の内」には終わらないから、
それら全ての集合からそれぞれの「代表元」を選ぶことができない、
ということでしょうか?
もしそうだとしたら、ちょっとおかしい気がするのですが・・・

つまり、
「有限の時間内に、無限回の選択をすること」
は出来なくはないのではないでしょうか?

例えば、あのゼノンの逆理の「アキレスと亀」の例が、
「無限回の現象には無限回の時間がかかる」
としたためにパラドックスが生じたように、
実は原理的には、
「有限の時間内に、無限回の選択をすること」
が可能ではないでしょうか?

すなわち例えば、ある時刻から1/2 秒後に1個目の選択をし、それから1/4 秒後に2個目の選択をし、
それから1/8 秒後に3個目の選択をし、・・・
このような選択により、初めの時刻からちょうど1秒後には、無限回の選択が終了していると思うのですが・・・
1/2+1/4+1/8+1/16+・・・ = 1

(2) それとも、「無限回」の選択が常に「一様に」できるかどうかを問題にしている、
ということでしょうか??

つまり、有限個の場合の「代表元」の選び方は、どのように決めて選んでいっても問題はないが、
無限個の場合は、1つ1つで選び方を決めていったのでは、「無限回の選択」を保証できないかもしれないので、
選択公理が必要だ、というものです。

これは、前に挙げた「ラッセルの靴下」の例でも触れられた「不安」だと思われます。
「無限足の靴下から、片方ずつをどうやって選ぶのか・・・?」
ラッセルいわく、「どの靴下も履き古しだったら、選べただろうに・・・!」と。

もしそうだとしたら、これもおかしい気がするのですが・・・。

つまり、「関数の連続性」ではありませんが、例えばある区間での関数の「連続性」を言うのに
「一様連続」までを言う必要は、一般的には無いのと同じように、
「とにかく選べればよい」ので、有限回だろうが無限回だろうが、
空集合の定義より「代表元」を選べるのは「自明」である、と思うのですが・・・

(3) しかし、万が一「自明」であったとしても、歴史的に「選択公理の必要性」が主張されたのは、
No.8さんが述べられているように、常識的な感覚には反する「整列可能定理」などが、
この「選択公理」と同値であることが示されたからなのでしょう。

確かに、「整列可能定理」や、同じく「選択公理」から導かれるあの「バナッハ・タルスキの逆理(定理)」などは、
人間の正常な思考や論理に対して、真っ向から矛盾するような主張ですから、
「選択公理」は「自明のはずはない!」という訳なのでしょう!!

しかし、これらについても考えてみると、
(i) 例えば「整列可能定理」は、ただ「どんな集合も離散的に1列に並べられる」と言っているだけで、
「具体的並べ方」は何も主張していない訳です。
言ってみれば、「整列できないとすると、矛盾する」といった程度の主張だと思われますし、

(ii) 「バナッハ・タルスキの逆理(定理)」についても、
例えば「1個の球を有限個に分割して組み合せると、同じ大きさの2個の球が作れる!」
といった摩訶不思議な主張をしますが、その「具体的な構成方法」は決して示されない訳です。

そして、肝心なことは、このような「非常識な結論」の原因は、
「選択公理」にある、というよりは、この現実の世界をモデルとする「実数連続体」自体にある、
ということだと思うのですが・・・

補足日時:2005/10/13 02:56
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この回答へのお礼

(「補足」の欄の続きです!)

実際、「選択公理」は例えば、有限個の集合については
何の面白味のある主張も出てこないのではないでしょうか?

逆に例えば、1次元の「実数連続体」である「実数直線」について言えば、
例えば開区間(0,1)の中に
「宇宙真理実数」や「歴史完全記述実数」、「個人情報実数」などが考えられるのです!!

「宇宙真理実数」というのは、
「現宇宙の全ての真理を表す物理学的理論や数学的理論を表現している実数」
のことです。
この「実数」の小数表示を適当な変換によって文字列に「翻訳」すると、
そこには「宇宙の全ての真理が、つぶさに書かれている!!!」のです。

ただし、この主張にも「選択公理」は使われていますし、
もちろんこのような実数を、実際に区間(0,1)の中から「どのように選ぶか」は与えられていません。
ただ「存在する」というだけで、実際上は何ら「驚くべき主張」ではないのです。

同じように、「歴史完全記述実数」というのは、
「人類に限ることなく、また過去だけでなく未来までも含めた全ての事実についての、完全な記述を表している実数」のことですし、
「個人情報実数」というのは、
「全ての人の個人的な情報を全て記述してある実数」のことです。
例えば、「私の生まれた日に、私の父は何を考えたか?」とか、「彼の好みのタイプは?」とか・・・
なお、この実数の記述内容は、「歴史完全記述実数」の中にも含まれている訳です。

このように、驚くべき主張の源泉は「選択公理」というよりは「実数連続体」にこそ求めるべきだ、
と思うのですが、どうなのでしょうか???

お礼日時:2005/10/13 03:00

論理式を書いてみるとよく分かると思います。



単純選択は
∀a(∃x(x∈a) ⇒ ∃x(x∈a))
と正にトートロジーです。

選択公理は
∀a(∀x∈a(x≠φ) ⇒ ∃f:a → ∪a(∀x∈a(f(x)∈x)))
ですが、これはトートロジーじゃありません。

ちなみに選択公理から任意の2項論理式pについて
∀a(∀x∈a ∃y p(x,y) ⇒ ∃f ∀x∈a p(x,f(x)))
が得られます。
この論理式の要点は⇒の前後で∀と∃の順序が入れ替わっていることで、例えば関数の連続性から一様連続性が導かれると言っているようなものです。もちろんそれは一般的には成り立たないことで、同様の論理構成である選択公理も同様に自明とは言えないです。
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この回答へのお礼

繰り返し丁寧なご回答をすみません。

何か、同じような内容の繰り返しになっているようで、申し訳ありません。
そろそろこの「お礼」の欄を使った「再質問」も、終わりにした方がよさそうですかね・・・

まず、「単純選択」は
「空集合でない」ことと「ある元が存在する」ことが同値であるから、
「自明」であり、

「選択公理」は
「空集合を元として持たない集合族に対して、ある選択関数が存在する」
ということで、

これは
「∀と∃の順序が入れ替わっていること」
が要点で、
「例えば関数の連続性から一様連続性が導かれると言っているようなもの」
なので、「自明ではない」ということですが、

関数の連続性にならって言えば、なぜ
「ただの選択」ではダメで、「一様選択」でないといけない!
のでしょうか? (「一様選択」というのは、あやふやな表現ですが。)

空集合でない集合だけを元とする集合族については、その元の数が有限個だろうか無限個だろうが、
空集合の定義により、それぞれの集合にある「代表元」がそれぞれ存在するはずだから、
それらにより「選択関数」が構成できる
のではないでしょうか?

つまり、No.7のコメントに
「選択公理は
∀a(∀x∈a(x≠φ) ⇒ ∃f:a → ∪a(∀x∈a(f(x)∈x)))
ですが、これはトートロジーじゃありません。」
とありますが、そう考えるとこれも「自明」なのではないでしょうか?
「一様選択」でなくて「ただの選択」で構わないと思うので、「自明」だと思うのですが・・・

または、たとえ自明でなくても、すぐに導くことができる「論理式」ではないでしょうか?


・・・それにしても、公理的集合論の創成期に、
初めは「自明」としていた「選択公理」が、後になぜ必要だと認識されるようになったのか?
その辺りが分かると、No.1~7さんのご回答も理解できる気もしますが・・・

お礼日時:2005/10/09 14:55

まず「単純選択の自明性」ですが、そもそも集合aに元が存在することと集合aから元が取り出せることを形式論理で区別することが難しいです。

普通に使っている論理だとどちらも
∃x(x∈a)
になってしまいます。
要するに形式論理の視点では両者は同じ論理式の解釈に過ぎないわけです。
それに対して選択公理はちゃんと論理式で書けます。(No.2)

次に「選択公理の非自明性」ですが、これは選択公理を否定した公理系でも理論を構築できることがあります。
適当に弱めた選択公理を導入することで全ての部分集合がルベーグ可測になる測度論が構築できたりするようですよ。

それで「無限個の集合族の選択関数」の存在ですが、これは各集合族に選択関数が存在することを選択公理から導いた上で、集合族の集合族について選択関数の選択関数が存在することを、選択公理から導くので良いと思います。
選択公理を2段階に使うことになりますが循環論法はありません。

選択公理の無限段適用を要するような問題はそもそも存在しないんじゃないかと思いますが、そういう問題があってもそれは選択公理の適用外というだけで選択公理の使用に循環論法が必要になるわけではないですね。
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この回答へのお礼

毎回の丁寧なご回答に感謝します。
繰り返しお手数をおかけし、スミマセン。

いよいよ総まとめといった感じになってきたような気もしますが、
また、ますます訳が分からなくなって気もします!??
ここで初めに戻って、1つの疑問にしぼってお聞きしてみたいと思います。

「無限個の空でない集合を元とする集合族には、いつでも選択関数が存在する。」
ということが、
「単純選択の自明性」
から、なぜ説明できないのでしたでしょうか?

「それぞれの元について、どれも空でない集合だから、単純選択の自明性より、その代表元が選べる。
つまり、選択関数が存在する。」
では、なぜいけないのでしょうか???・・・・

お礼日時:2005/10/05 21:16

> (1) 空でないすべての集合の1つ1つについて、「選択関数」を常に1つずつ選ぶことができて、


> それぞれの集合の「代表元」を常に1つずつ選ぶことができる。

No.3にも書いたように、それは単純選択で選択公理ではない。第一、選択関数に意味がない。これだけでは選択公理が必要な定理は証明できないでしょう。
# 整列可能定理とかベクトル空間の基底の存在とか

> (3) 選択関数を1つ選ぶことができて、すべての集合の1つ1つについて、
> それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。

これは強力すぎてZFと矛盾するので通常数学の枠では扱えない。扱える体系ならあっても良いけど。

> (2) すべての集合族の1つ1つについて、選択関数を常に1つずつ選ぶことができて、
> それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。

これも書き方が危ういな。選択関数の一意性は必要ないですよ。(1)を必要と感じているなら一意にしたいのは分かるけど。

おそらくね、記述と認識にズレがあるんですよ。(1)を書いてて実際には(2)を満たす選択関数を思い浮かべている。
あるいは(1)のような単純選択を受け入れられていない。
集合の元が存在する(空集合でない)ということと、その集合から元を取り出せることが違うと感じているから、(1)のような選択公理を考えるのかと思います。
ただ通常の論理では、元があれば取り出せるんですよ。(単純選択の自明性)
この前提の上に、選択公理は無限個の集合の直積が空集合にはならないってことを言っているんで、有限個の直積は構成的に作れるので空にならないのは自明なんですね。

この回答への補足

再度丁寧なご回答をいただき、ありがとうございました。
こちらの疑問に繰り返し答えていただき、感謝します。
(字数の関係で、こちらの欄に前半を書かせていただきました。悪しからず!)

今回の質問をめぐる状況が、大部判ってきました。
どうもこちらは、何か勘違いをしているのかもしれませんね・・・。

それにしてもやはり、文字面だけのやり取りでの議論だと、
なかなか上手く伝わらないところがあり、
お互いに、はがゆいところがありそうです。

まず話を、「選択公理の必要性」にしぼってみると、私も、
「ただ通常の論理では、元があれば取り出せる。(単純選択の自明性)」
で基本的にはよいと考えます。

ところが、これは認めるのに、なぜ
「無限個の集合の直積が空集合にはならない」
ということは「自明」ではないのでしょうか?
ここがまず分からない点なのです。

選択公理の必要性をめぐって、
「無限個の靴下(の組)の中から、片方(片足)ずつを取り出すのには選択公理が必要である」
という例に対して、B.ラッセルか誰かが、
「どの靴下もはき古しだったら、(選択公理など使わずに)選べるだろうに・・・」
と言ったとか言わないとか。
(つまり、はき古しなら、右と左が区別できるので、全ての組から例えば右足だけを選べばよい!??)
という例がありますが、

なぜ有限個のときは自明なのに、可算(?)無限のときは自明にはならないのでしょうか?
つまり、
「無限個の集合の直積が空集合にはならない」
ということは、なぜ自明ではないのでしょうか?

これはちょうど、例えば解析学における「一様連続」と同じ感じということでしょうか?
つまり、
すべてのxについて、任意の正数εについて、ある正数δ(x,ε)が存在して、・・・
ではなくて、
任意の正数εについて、ある正数δ(ε)があって、すべてのxについて、・・・
といった感じ。

すなわち、
「ある正数δ」の選択がxによらないようにしたい、
という感じで、
これと同じような「要請」を集合論でもしたい、
ということでしょうか?

次に、選択公理の循環論法的な点について話すと、(これも以前の繰り返しになってしまい恐縮ですが、)
「空集合を元として持たない(無限濃度の)集合族に対して、いつでも選択関数が存在する」
と言うのが「本来の選択公理」ということですが、
そうした「選択関数」はほとんど全ての場合について、1個ではなく無限個あるでしょう。

すると、無限にある「選択関数」の中から、
その「代表元」ならぬ「代表選択関数」を1つ選べるのでしょうか?

つまり、選択公理というのは、「選択関数の一意性」を問題にしている、と思うのですが・・・
もし「どれでもよい」というのならば、
無限個の場合も「どれでもよいから1つずつ代表元を選んで・・・」
でよい、と思うのですが・・・。

ここで、もちろん今考えようとしている集合族が有限個しかないならば、
「単純選択の自明性」
により問題ないと思いますが、

もし今考えようとしている集合族が無限個ある場合は、どうなのでしょうか?
この場合は、「自明」ですか? 自明ではないですか??

補足日時:2005/10/02 14:54
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この回答へのお礼

(前半を「補足の欄」に書いたものの後半です。)
私はこの場合も自明だと思うのですが、
「選択公理の必要性」によると、この場合は自明ではなく「選択公理」が必要な訳ですね?

つまり、無限個の「選択関数を元とする集合」を元とする集合族について、
それぞれの元からそれの「代表元(代表関数)」を選択する、
というこのような場合には、「選択公理」が必要な訳ですよね!!?
違うのかな・・・??? どれでもいいのだから、あえて「選択公理」なんて要らない!のかなぁ?

もし万一「選択公理が必要」とすると、
「選択関数」を選択するのに「選択公理」が要る
という事になっているのではないでしょうか?

そうすると、簡単に表現すると、
無限個の「選択関数」を選ぶのには、選択公理を適応しないといけないが、
そのように適応した集合族が無限個あるときは、その全体にまた選択公理を適応する必要があり、
そのように適応した集合族がまた無限個あるときは、その全体にまた選択公理を適応する必要があり、
そのように適応した集合族が無限個あるときは、・・・・
というふうに、何回繰り返しても選べない場合が出てくるので、
「一般的な」選択公理は循環論法的な感じがするのですが・・・。

ですから、
「集合」でなく「領域」を規定して、まず「選択関数」を定め、
それによって全ての集合の代表元を「一意的」に定める、
とよいのではないでしょうか?
これがZFとは矛盾するという「選択公理」な訳です。

(くどいようで済みませんが、)私は
いつでもどのような場合でも、「単純選択の自明性」で「選択関数」は選べる
のではないかと思っているのです。しかし、
もし「一般的な(本来の)選択公理」が必要だというのなら、
「ZFとは矛盾する選択公理」までが必要になってくるのではないか?
ということなのです!!

長々と同じことを繰り返し書いたようで、申し訳ありません。
どうも私は思い込みが激しいようで、一度思い込むと頑固なので、
なかなか直せないというか、なかなか判らないようなのです。

どうぞ岡目八目のことわざではありませんが、お気づきの点をご指摘くださると、
大変ありがたいのですが・・・。

お礼日時:2005/10/02 15:13

その公理CはZFと両立しないと言っているだけですので、ZF以外の公理系がお望みなら自力で構築してください。

適当な公理系を構築すればお望みの選択公理が無矛盾に使えるかもしれません。
ただしZF以外の公理系は標準的でないので、他人と話をするにはイチイチ説明しないといけません。とても扱いにくいと思います。

それで公理Cなんて強力なものが必要ですか? 全ての集合族に対して同時選択なんて必要性を感じたことないですけど。普通の選択公理すら使う場面はマレなのに。
通常のZFCで足りないのかどうか再考される方がよろしいかと思います。
ちなみに集合族の集合族くらいなら選択公理の変形でカバーできるんじゃないかと思います。未検証ですけど。

なお「{x}∈f」はミスです。すみません。最終的に必要なのは
f∈…∈f (要素関係が有限段で循環する)
なので、適当に補完して下さい。
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この回答へのお礼

繰り返しのご回答、ありがとうございました。
とても参考になりました。

ZFの公理系では「集合」の概念しかなく、「領域(類,クラス)」という概念はないのでしたね!
お騒がせしました!
(全くの素人なものですから・・・、スミマセン!)

BG(ベルナイス・ゲーデル)の公理系では「集合」の他に「領域」の概念を定義し、
より多くの諸概念を扱えるようにしたようですが、
このBGでは「選択公理」は確かに、
∃f(un(f),∀x≠φ ,∃y∈x ,<y ,x> ∈f)   
と表されているようです!!
(ただし、un(f)は「fは一価関数である」という意味)

ただ、(繰り返しになりますが)
こうした公理系での論理的な議論とは別に、単純に思考上の議論として、

私は元々、
(1) 空でないすべての集合の1つ1つについて、「選択関数」を常に1つずつ選ぶことができて、
それぞれの集合の「代表元」を常に1つずつ選ぶことができる。
で十分だと思うのですが、

もし万が一、(1)では不十分だというのならば、
(2) すべての集合族の1つ1つについて、選択関数を常に1つずつ選ぶことができて、
それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。
でとどまるのではなく、

(3) 選択関数を1つ選ぶことができて、すべての集合の1つ1つについて、
それの空でない元それぞれの代表元を常に1つずつ選ぶことができる。
とするべきだと思うのですが・・・
ということなのです。

いずれにしろ、ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2005/10/01 09:10

Aは選択公理ではありません。


公理Aには集合族aは不要ですね。Aは簡単に言えば
「空でない集合xからはある元f(x)を取り出すことができる」
ということであり、言い換えれば
「空でない集合xからはある元yを取り出すことができる」
で、これは単なる空集合の定義の言い換えですね。
本質的には選択関数fの出る幕はありません。

選択公理の本質は、このような選択を無限個同時にできるということで、その無限同時選択を選択関数という集合論上の実体で表現しているわけです。

公理Cの問題点は選択関数fが集合論の枠内に収まらないことです。
公理Cにも集合族aは不要ですね。
∃f(∀x(x≠φ ⇒ f(x)∈x))
f(x)の集合論的定義を使うと(x, f(x))∈fが出て、これから{x}∈fが言える。
ここでxが任意だからfが集合論の枠内にあれば、{f}∈fとできて正則性公理と矛盾する。
したがって公理Cの選択関数fは通常の公理的集合論の実体(集合)とはならない。

公理Cの方が単純ですが、実際にはそうできないため現在の選択公理になっているわけです。

この回答への補足

再度のご回答に感謝します。
(字数の関係で、「補足」の欄に書かせていただきました。)

「Aは選択公理ではありません。公理Aは簡単に言えば、
「空でない集合からはある元を取り出すことができる」
ということであり、これは単なる空集合の定義の言い換えです。」
というのは、よく言われることですよね。

選択公理なんて「当たり前のこと」を、何でわざわざ「公理」などと言うのか? 等々・・・

しかし、
これでは「無限同時選択」が保障されていない … A
ので、
1つの集合族において定義された「選択関数」の存在を保障しよう … B
ということですよね。

しかし、(繰り返しになって恐縮ですが、)
これでは、各集合族ごとに選択関数を選ぶ形なので、「無限同時関数選択?」が保障できない
のではないでしょうか?

つまり、個々の集合族に対して定義できたとしても、
すべての集合族に対して「無限同時に」定義できるかどうかは分からないのではないでしょうか?

ですから、
すべての集合(族)を元とする「領域(クラス)」において定義された「選択関数」の存在を保障しよう … C
ということだと思うのですが・・・

なお、
「公理Cの問題点は、選択関数fが集合論の枠内に収まらないことです。」
ということですが、
この「公理C」は、「集合」だけでなくいわゆる「領域」とか「類」,「クラス」と呼ばれるものまで考えた「公理」なので、
選択関数f自体は、領域と領域の直積における1つの「領域」
になっています。

ですから、
{f}といった「集合」や「領域」は考えられない
ので、
「{f}∈fとできて正則性公理と矛盾する」
とはならないと思うのですが・・・

つまり正則性公理から導かれるのは、例えば
「すべての集合は、自分自身を元として持たない」
といった、あくまでも「集合」についてのことなので、
「領域」である選択関数fについては矛盾が起きていないのではないでしょうか?

なお、「公理C」における選択関数fについて、
「(x, f(x))∈fが出て、これから{x}∈fが言える。」
とありますが、ここもよく分かりません。

つまり、いわゆる順序対については、
(x, f(x))={x,{x,f(x)}}
だと思うのですが、そうだとすると、
{x,{x,f(x)}}∈f
となり、これから
{x}∈f
がなぜ出てくるのか、よく分かりません。

もともと
{x}は順序対でない
ので、選択関数fの元にはなっていないと思うのですが・・・

集合論も、その記述には色々なスタイルがあると思うのでよくは分かりませんが、
以上のような点はいかがでしょうか?

どうぞよろしくお願いします。

補足日時:2005/09/30 06:07
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Q大学数学の勉強のしかた

大学で学ぶ数学の勉強の仕方に迷っています。

(1)高校までは、公式を覚える→問題演習 という流れで勉強をしていました。高校数学は、大学入試の問題が解けることがゴールだと思っていました。しかし、大学の数学は、何ができればゴールなのでしょうか?

(2)高校では、公式を覚え、問題を解いてました。大学の数学では定理、定義、命題、補題など、公式らしきものの量が多いですよね?全て覚えようとしたら相当な暗記量を強いられます。これらは全て暗記、または自力で導き出せるようにする必要があるのでしょうか?

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今、微積分、線形代数、集合論、ルベーグ積分などを勉強しています。今僕がやっている方法は、教科書の定理、定義などを暗記し、証明はわかるところだけ読んでいます。問題演習は、やったりやらなかったりです。
しかし、この方法だと、定理などの証明が理解できないことが多く、なかなか先に進みません…

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Aベストアンサー

大学での学び方に関する本は何冊も出版されていますから、図書館で探されてはいかがでしょう。
 本格的な数学の学び方に関する本であれば、

伊原 康隆 (著)志学数学―研究の諸段階・発表の工夫 シュプリンガー数学クラブ
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数学セミナー編集部 (編集)数学ガイダンスhyper
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ブックガイド <数学>を読む 岩波科学ライブラリー 113
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000074539/

などは薄いし、大学図書館にも入っているでしょうし、一読する価値はあると思います。

 また、日本評論社の『数学セミナー』、サイエンス社の『数理科学』、現代数学社の『理系への数学』といった理系の大学生向けの数学雑誌が大学図書館に入っていないわけはないと思いますし、時期的に勉強の仕方を扱った記事も載っていると思いますから、少し時間を作って、バックナンバー含め眺められてはいかがでしょうか。

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Qラッセルのパラドックスと公理的集合論

当方、数学についてはシロウトですが、お許しください。
集合論関係の本を読んでいてどうしてもわからないことがありまして。

ラッセルのパラドックスというのがありますよね。
このパラドックス自体は飲み込めたつもりですし、そういった類のパラドックスを避けるために公理系を整備するという発想も、まあ判る気がします。

が、例えばZF公理系ならば、どうしてラッセルのパラドックスが回避可能なのかがよくわからないのです。外延性公理から正則性公理まで眺めてみても、なぜこの公理系を採用すればパラドックスが起きないのかピンときません。

どなたかお詳しい方、解説をお願いできませんでしょうか。

Aベストアンサー

(1) 内包・外延の概念
モノの範疇を性質で指定するのが内包、要素の集まりとして指定するのが外延ちうこってす。よく用いられる例として
『「明けの明星」と「宵の明星」は内包としては異なるが、外延としては(どっちも金星のことだから)同じ』
『「4面体」と「三角錐」は内包としては異なるが、外延としては同じ』
などがありますね。

(2) {x | φ(x)} と書けても、それが集合かどうかは別問題。
∀x(x∈y ⇔ φ(x)) となるyのことを{x | φ(x)} と書くのは構わんのですが、でも、こう書いた物を無条件に集合だと認めてしまうとラッセルのパラドックスが出ます。ですから、{x | φ(x)} と書いてあっても、これが集合とは限らない、という立場を取る。ところで、それがもしも集合であるなら、(外延の公理により)それは一意的です。
 つまり、勝手なもの{x | φ(x)}を持って来て「これは集合か否か」と尋ねてみても、ZF公理系は単に「もしそれが集合なら、それは一意的です。」とだけ述べていて、集合かどうかの判定法など提供してくれやしません。(丁度、屏風の虎を追い出してくれたら捕まえてやる、と言ってるようなもんです。)これじゃ手も足も出ないような気がしますが、実はそうでもない。
 
(3) 数学で使う集合は、素性が分かっている。
 確かに集合になってると分かっているものを素材にして組み立てた集合は、こりゃ確かに集合だと言えます。では、最も基本的な素材となる「集合になってることが確かなもの」って何か。ひとつしか思い当たりません。それは空集合です。
 空集合{}を素材にして、対の集合(例えば{{},{{}}})、既に存在する集合の部分集合と合併集合、べき集合という手段で組み立てて行けば、有限集合が作り出せます。さらに無限公理を入れてようやく自然数の集合が作れる。こうして作られる素性の分かったモノ(対象)だけを、数学では扱う。

(4) となると、「あらゆる集合は空集合を素材にして作れるのか(そんなはずないよ!)」、すなわち「空集合を素材にしたのでは作ることのできない集合があるかどうか(あるに違いない!)」ということが気になるかもしれません。
 ところが、空集合を素材にして作ることのできないモノは、(それが集合であるか否かに関わらず)数学の中に顔を出す機会がない。数学に出て来ない『屏風の虎』があるかないかなんて、数学にとってはどうでも良い事です。だから、ZF公理系はそんなものについては(あるともないとも言わずに)単に放置プレイしてあるんです。
 
 かくて、ラッセルの{x| not(x∈x)}というモノも(素材から作れるモノではないから)数学の中に入り込めないまま放置プレイされる。

という仕組みです。

 以上をまとめて別の言い方をすると:
 公理論的数学は「集合」の概念を、『現実に存在するものを要素と考えたときの「集合」の概念(素朴な「集合」の概念)』よりもずっと狭い別の概念として定義する(つまり空集合から作り出されるものだけを「集合」とする)ことによって、ラッセルのパラドックスをハジキ出した。
 また、このことは、『現実の存在(実存)を指して言う「存在」と、数学でいう「存在」は、全く異なる意味を持つ』ということをあからさまに示しているとも言えましょう。

(1) 内包・外延の概念
モノの範疇を性質で指定するのが内包、要素の集まりとして指定するのが外延ちうこってす。よく用いられる例として
『「明けの明星」と「宵の明星」は内包としては異なるが、外延としては(どっちも金星のことだから)同じ』
『「4面体」と「三角錐」は内包としては異なるが、外延としては同じ』
などがありますね。

(2) {x | φ(x)} と書けても、それが集合かどうかは別問題。
∀x(x∈y ⇔ φ(x)) となるyのことを{x | φ(x)} と書くのは構わんのですが、でも、こう書いた物を無条件に...続きを読む

Q最大元と極大元の定義の違いが分かりません

数学の基礎「齋藤正彦著」p22からの抜粋です。

定義
(X,≦)を順序集合,AをXの部分集合とする。
「1) aがAの元でAの全ての元xに対してx≦aが成り立つ時,aをAの最大元といい,maxAと書く,Aの全ての元xに対してa≦xが成り立つ時,aをAの最小元といい,minAと書く。最大元や最小元は存在するとは限らない,あるとすれば一つしかない。
2) aがAの元で,Aのいかなる元xに対してもa<xとならない時,aを極大元という。x<aなるAの元が存在しない時,aを極小元という。極大元や極小元は存在しない事も有るし,沢山存在する事もある」

と定義が紹介されてるのですが最大元と極大元についてのこの文意
"aがAの元でAの全ての元xに対してx≦aが成り立つ"と"aがAの元で,Aのいかなる元xに対してもa<xとならない"
とは同値だと思います。
違いが分かりません。

一体,どのように違うのでしょうか?

Aベストアンサー

>最大元と極大元の定義の違いが分かりません
最大元と極大元は抽象的に考えても違いが分からなくて当然だと思います。ここは具体例で理解するのがよいと思います。

例はいろいろ考えられますが、たとえば、(x,y)∈R^2について、
(x1,y1)≦(x2,y2)をx1≦x2かつy1≦y2と定義します。
A={(0,0),(0,1),(0,2),(1,0),(1,1),(2,0)}
のとき、Aの最大元は存在しませんが、極大元は3個あります。ちなみに最小限は(0,0)の1個ですね。

ところで、最大元が存在する場合は、全順序集合、半順序集合に関係なく、それは極大元でもあります。しかし、その逆は成り立ちません。
その意味で、「同値」ではありませんね。

QZornの補題の意味は何?

Zornの補題の意味についての質問ですが、Zornの補題:順序集合Aの任意の全順序部分集合が有界ならぼ、Aは極大元を持つ、というのが、数学の教科書に載ってますが、意味がさっぱり分かりません。その理由を言えば、例えば、実数の区間Aとして、実数体Rの部分集合である、全順序集合{x|x is a real number, 0<x<2}をとれば、Aの任意の全順序部分集合は有界なので、Zornの補題より、Aには極大元(よって、この場合、最大値)が有る事になりますが、あきらかに、Aには極大元(最大値)はありません。私の考えではこのような矛盾が出てきてしまうので、Zornの補題の意味がわかりません。何か、その意味を勘違いしてるのでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

http://okwave.jp/qa2205290.html
下記のリンク先が参考になりませんか。
また松村英之朝倉書店  集合論をみればいいかとも思います。

参考URL:http://okwave.jp/qa2205290.html

Q上極限、下極限が理解できません

大学で習っているのですが、limsupやliminfなどが定義を見ても、どういう意味なのか理解できません。

上界、下界、上限、下限については例があったので、なんとか理解することができました。


X={1,2,3}⊆Zのとき、下界の1つとして0がとれる。

こんな感じで、簡単な例つきで説明して下さると、理解できると思うのですが・・・。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

上極限

sin(n)で考えましょう。nは自然数です。
sin(n)は振動しているので極限はないけど、
「nが大きい時(というか初めからだけど)1を超えることはない」
「1付近の値を何回も(無限回)とる」
から1が上極限です。
ことばでいえば、
「ずっと先のほうでは、上極限の値より大きくならない」
(極限の意味でです。∀ε>0に対し上極限+εより大きくならないってことです)



この例では下極限はー1ですね。

(sin(n)-1)*n の場合だと、
上極限は0で、下極限は「なし」(-∞)となりますね。

Q選択公理を使った証明。

以下の証明を詳しく教えてください。

fをAからBの写像とする。
fが全射であるとき、またそのときに限りf○s=I_Bとなるような写像s:B→Aが存在する。

fが全射であると仮定する。
すると、Bのどの元bに大してもその原像f-1(b)は空でない
したがって、f-1(b)=A_b(bはBの要素)とおけば、A_bは空でない集合からなる集合族となる。ゆえに選択公理より、Bで定義された写像sですべてのBの要素bに対してs(b)=A_bとなるものが存在する。s(b)⊂ A_b ⊂ Aであるから、このsに対してf○s=I_bが成り立つ。

これは、Aを集合系だと仮定してますよね。

この証明を詳しく解説してくださるとうれしいです。

Aベストアンサー

● ANo.3 の [ お礼 ]欄 において、statistics_road さん は次のとおりに記述なさいました。「 f^{- 1}(b)というのは f における b の原像ですよね。これは写像ですから個々の b に対して 1つずつ 設定されているわけですよね 」

  ここでつまづいているようですね。一般に、f^{- 1} は写像である場合もありますし、そうでない場合もあります。

  確実に言えることは、この f^{- 1} は「 f の逆対応 」あるということです。この逆対応については、「 集合・位相入門 」26ページ で説明されています。
  この f の 逆対応f^{- 1} が写像となるための必要十分条件については、34ページ の 定理4 で説明されています。

  定理4
  写像f: A→B の 逆対応f^{- 1}: B→A が写像となるための必要十分条件は、f が A から B への全単射であることである。またそのとき、f^{- 1} は B から A への全単射となる。

  34ページ には、次の記述も見られます。

  f: A→B が全単射である場合、定理4 によってその 逆対応f^{- 1}: B→A も写像となるが、それを f の逆写像という。

● 以上のことをふまえて、再び 48ページ の 定理7 (a) における ⇒ の証明について考えてみましょう。

  仮定では、f は全射となっています。全単射とは明記されていません。ですから、この場合の f の 逆対応f^{- 1} は写像である場合もありますし、そうでない (= "単なる" 対応である ) 場合もあると、考える必要があります。
  仮定では、f は全射となっていますから、集合B から任意に取り出した要素を b と表わすことにするとき、f による b の 原像f^{- 1}(b) = A_b は空集合ではありません。ですから、A_b が含む要素の数は 1個 以上であるということです。もちろん、A_b は 集合A の部分集合です。
  そして、B から任意に取り出した 2つ の要素を b, b' と表わすことにするとき、b ≠ b' ならば A_b∩A_b' = φ です ( もし A_b∩A_b' ≠ φ ならば f は写像ではなくなってしまいます )。よって、すべての b ∈ B の f による原像をかき集めた和集合は、直和という形になります ( 直和の説明については、16ページ をごらんください )。もちろん、直和という形になっているその和集合は、集合A と等しくなります。

● ANo.3 の [ お礼 ]欄 において、statistics_road さん は次のとおりに記述なさいました。「 f^{- 1}(b)というのは f における b の原像ですよね。これは写像ですから個々の b に対して 1つずつ 設定されているわけですよね 」

  ここでつまづいているようですね。一般に、f^{- 1} は写像である場合もありますし、そうでない場合もあります。

  確実に言えることは、この f^{- 1} は「 f の逆対応 」あるということです。この逆対応については、「 集合・位相入門 」26ページ で説明されています。
  この f...続きを読む

Q環の準同型定理

今、環の準同型定理で詰まっています。
これはどういうことを表しているのですか?
また証明も知りたいです

Aベストアンサー

以下は私の考えを私のことばで書いたものである。きちんと本で確認し、自分で考えを深めてね。


【環の準同型定理とは何ぞや】

R/ker f と f(R) が、自然な対応で加法群として同型になっている。環同型でも見えてるものは同じである。

なのでまず、R/ker f に乗法が入ることを示す。f(R) の方は自明である。
R/ker f の乗法は R から引き継がれる。
剰余類どうしの乗法は、ひとつの類の任意の元にもうひとつの類の任意の元をかけると、そのどれもがただ一つの類に収まることで決まる。
そのことを示すには、a+ker f=a'+ker f 、b+ker f=b'+ker f ならば ab+ker f=a'b'+ker f を示せばよい。
言い換えると、a-a' , b-b'∈ker f ならば ab-a'b'∈ker f を示せばよい。
これは ab-a'b'=a(b-b')+(a-a')b' と変形すれば示せる。
この乗法は R から自然に入るので、結合則も分配法則も従う。
また、1+ker f は R/ker f の単位元であることも容易に示せる。

次に、写像 F : a+ker f → f(a) が同型写像であることをいう。
これはすでに加法群の同型写像なので、F((a+ker f)(b+ker f))=F(a+ker f)F(b+ker f) 、F(1+ker f)=1' を示せばよい。これは容易だ。


要するに環の準同型定理とは、R/ker f には R から引き継いだ環の代数構造が自然に入って環になり、f(R) もまた R から、折り畳まれながら押し付けられてできた新しい環の構造が R' の中にもともとあった部分環として実現されていて、それらの環の構造はぴったり同じであるということである。
その対応は準同型写像 f から引き起こされる。


【環を加法群と見たときの剰余群に、自然に乗法が入るかどうかについて】

実数体 K 上の多項式環 K[x] において、x で生成される部分環は Z[x]x である。一方、x で生成されるイデアルは K[x]x である。イデアルとは、もとの環の元をその元にかけると自身に吸収してしまう部分環のことである。
加法群の剰余群は加法群であるが、それに乗法が入るかどうかを確かめてみる。
K[x]/Z[x]x においては、1.7x-0.7x , 10x-x∈Z[x]x に対して 1.7x・10x-0.7x・x∈Z[x]x でないので、自然な乗法が入らない。
一方、K[x]/K[x]x においては、p-q , r-s∈K[x]x ならば pr-qs=(p-q)r+q(r-s)∈K[x]x なので K[x] から乗法を引き継ぐ。

これが、ただの部分環とイデアルの違いである。


【数学地方の方言「つぶす」】

数学を勉強していると、「つぶす」という表現に出会うことがある。同値関係で「割る」とか、代数系をそのイデアルで「割る」とかのことである。
同値類や剰余類は集合族であるが、「つぶす」とは、それらの集合を点のように扱うばかりでなく、構造のあるものにはその構造が衝突することなく折り畳まれて構造を再構築するようにうまくやることである。(私たちはこれを、{偶数、奇数} の演算で感覚的に知っている。偶数や奇数を集合のように扱ったり、そうでなかったり)
特に環準同型 f の ker f など、f によって 0 という1点につぶれ、他の剰余類も1点につぶれるので、まさに点と見なせてわかり易い。さらに、環の構造も、形は変われども引き継がれる。
ker f の話が分かりやすければ、イデアルで割る場合も同様である。
なぜなら、R のイデアルを I とするとき、自然な準同型 f : R → R/I に準同型定理を当てはめれば ker f = I となるからである。
イデアルで割ることも、イデアルにまつわるものを 0 につぶすことなのである。

つぶしてやると、ときにはオリジナルにはなかった構造が再構築されることがある。
可換にしたり、0 以外の零因子を生み出したり消したり、閉じてないものを閉じたりなどである。


===
伝えたいことを言葉を替えて何度か書いて冗長になった。
さりげなくだじゃれを差し込めて満足だ。

以下は私の考えを私のことばで書いたものである。きちんと本で確認し、自分で考えを深めてね。


【環の準同型定理とは何ぞや】

R/ker f と f(R) が、自然な対応で加法群として同型になっている。環同型でも見えてるものは同じである。

なのでまず、R/ker f に乗法が入ることを示す。f(R) の方は自明である。
R/ker f の乗法は R から引き継がれる。
剰余類どうしの乗法は、ひとつの類の任意の元にもうひとつの類の任意の元をかけると、そのどれもがただ一つの類に収まることで決まる。
そのことを示すには、a+k...続きを読む


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