モーゼの十戒やアダムとイブの話など,これらはフィクション(夢のない言い方ですいません)だと思うんですが,では出エジプト記などのイスラエルの民についてはどうなんでしょうか?
出エジプト記のストーリーは神から約束の地(イスラエル?)を与えられてエジプトから脱出し,何代にもわたってやっと約束の地を得ることができたのもつかの間,さまざまな内戦や敵の侵入に闘い続けるというストーリーだったと思います.これがフィクションならそれで終わりですが,実際でも闘い続け,イスラエルは崩壊し,その子孫がユダヤ人として迫害という形戦い続けます.現在では今問題になっているアメリカのテロ事件へと続いています.

旧約聖書の他の話はとても物語りですが,この出エジプト記だけはそれとはちょっと違う気がします.

出エジプト記に限ってはフィクションですか,それともノンフィクションでしょうか?

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A 回答 (4件)

 


  アダムとヘーヴァの話は、その象徴的意味は別にすると、ほぼ神話・フィクションです。
  しかし「モーセの十戒」は、モーセが神から授かったかどうかは判明しませんが、モーセの頃、モーセ自身も関与してか、制定(成文化)した可能性があります。半フィクションで、ノンフィクションの部分もある可能性があります。
 
  「出エジプト記」は、その全体が歴史事実とは考え難いですが、モーセのエジプト脱出と、約束の地を求めての旅、他民族との戦いなどは、史実を反映している可能性が高いです。どの記述をどこまでということは言えません。出エジプトは、かなり歪曲されているようですが、そのような出来事があったと考えられます。
 
  答えは、ノンフィクションのコアとなる歴史の出来事があり、これに歪曲や修正や、後世の誤解や、また神話などが重なっているというのが実態でしょう。中心となるできごとは、規模や実態はともかく、ノンフィクションである可能性が高いです。(ノンフィクションとも、完全なフィクションとも言い切れないのです。全部作り事かと言えば、それは違うと言うことがはっきりしていると言うことです)。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

大なり小なり話を歪曲しているんだけど、実際にそのような事実があったのですね。

お礼日時:2001/11/16 19:58

 


  No.3 の方にお尋ねしたいのですが、「出エジプト記」は、ユダヤ人奴隷が大挙してエジプトから逃亡したこと、が内容だと思われているのですか。これはタイトルに惑わされているのではありませんか? ユダヤ人が、カナアンの地に外から入って来たことはまず確実で、その来た方向が、エジプトの方向だったことも恐らく間違いないことです。ヒッタイトの土地から来たのではないでしょう。
 
  問題は、「ユダヤ人奴隷の逃亡」という表現です。そんなことは聖書には書かれていないと思います。「奴隷状態」になっていたとは書いてあったと思いますが、「奴隷の逃亡」だなどというと、モーセに関することの前半部分が全部虚構になるではありませんか。
 
  そういうことを述べるのは、迂闊なことです。
  現代時点で分かっていることは、ユダヤ人の「一神教」は非常に特異なもので、他に類例がないものであること。ユダヤ人は、彼等が「エジプト脱出」と記録している紀元前14世紀頃には、こういう信仰を持っていたらしいことです。それは、彼等が、カナアンの先住民(例えばペリシテ)と戦った記録の歴史的信憑性から出てきます。侵略者としてカナアンに入り、先住民と争ったことは事実のはずです。それ以前、紀元前14世紀以前には、彼等がどこにいたのかは分からないのですが。
 
  古代オリエントで、「強固な抽象的一神教神学」は、ユダヤ人のものと、エジプトのアクエンアテンの唱えたアテン信仰の二つしか知られていません。アクエンアテンの方は歴史的に確実です。そして「出エジプト記」の主張する年代は、アクエンアテンの敗北と、アマルナ革命の失敗の時期とほぼ重なっているのです。また、アテン讃歌がアマルナに残っていますが、この讃歌と、『旧約聖書・詩篇』のなかの或る種の古い讃歌は、様式がそっくりなのです。ユダヤ人のヤハウェ讃歌を、アクエンアテンが採用したとは思えませんから、反対の、ユダヤ人が、アテン讃歌を取り入れたということが出てくるのです。文学作品の様式的な一致というのは、かなり強固な証拠であり、また、年代的に、事件のできごと経過からして、ユダヤ人が、かつてエジプトにいたことがあり、アクエンアテンのアテン一神教神学の影響を受けたということは、ほぼ考古学的事実として認められるのです。
 
  「中心となるできごと」というのは、こういうことなのです。
  ユダヤ人はかつてエジプトにいて、アクエンアテンの一神教神学の影響を受けたということです。偶然の一致というには、無理があるのです。すると、アテン一神教の影響を受けたユダヤ人が、アクエンアテン後のアテンを否定するファラオや王朝の時代に、エジプトにいられなくなり、そこを出たというのも極めて蓋然性が高くなるのです。
 
  その場合、奴隷が大挙して逃亡したとか、そんなことを考えていては、それこそ、判断力に欠けるとしか言えないでしょう。(「裏付けとなる別の資料」が、ともかく、アクエンアテンのアマルナ革命の記録で、これは丹念に研究され、ユダヤ人の一神教と、アテン信仰が無関係だと考える方が不自然だという結論になっているはずです)。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
歴史を検証するということはとても奥深くて、複雑なんだな痛感しました。

お礼日時:2001/11/19 00:12

エジプト側の資料に「ユダヤ人奴隷が大挙して脱出した」ことを窺わせる記述が見当たらないことから、まったくのフィクションではないとしても、ごく少数が逃亡しただけだったのではないかと考える説もあるそうです。

聖書の性格を考えても、基本になる史実をもとに、大幅な歪曲や水増しが行われていることはある意味で当然なわけで、出エジプト記がフィクションかノンフィクションかを語るには、裏づけとなる別の資料を丹念に渉猟する必要があるだろうと思います。今の時点で「フィクションだ」「ノンフィクションだ」と断言することは、誰にもできないんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに歴史を調べるには文献などの学術調査が必要ですよね。

お礼日時:2001/11/16 20:07

 昔、新聞で読んだ記事によりますと、「フィクションには違いないが、部分部分として、実際にあったことを織り交ぜている可能性はある」とのことです。



 たとえば、モーゼが海を割るシーン。
 あれは気象条件がそろえば実際に起こりえるそうです。
 もっとも、映画のあのシーンみたいにくっきりと割れるわけじゃないでしょうけど(笑)

 ですんで、戦争かなにかが実際にあって、それをモデルにしたのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>たとえば、モーゼが海を割るシーン
>あれは気象条件がそろえば実際に起こりえるそうです。

そうなんですか、でもオリャって二つに割ったモーゼはやっぱり作り話なんですかね。

お礼日時:2001/11/16 19:54

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Q出エジプト記3章14節について

出エジプト 3:14  神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

ミルチア・エリアーデ著、荒木美智雄他訳「世界宗教史」によると、
「この神の名を巡って、膨大な量の論議が闘わされてきた。」
そうです。

さて、質問です。
神が名を名乗らず無名を押し通した理由を述べた有力な説がありますか。
私の当てずっぽうでは、難しい理屈は全て後世の後付けで、本当はバアルが幅を利かせていて、表立ってユダヤ教徒と名乗り難い状況があったのではないかと推理します。程度は兎も角として、ちょうど江戸時代の仏教にはバアル、隠れキリシタンにはユダヤ教徒が対応するような事情があったのではないかと考えます。ヘブライ勢が非力な時期には非バアル、反バアルであることを無闇には知られたくなかったためヤーウェだの主だのという呼び方は存在しない方が無難だったのではないかと想像します。この阿呆であることを自認しているが故に何でも恥ずかしくなく質問できてしまう特権の所有者の仮説を、否定するなり肯定するなり識者の見解を希望します。
よろしくお願いします。

出エジプト 3:14  神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

ミルチア・エリアーデ著、荒木美智雄他訳「世界宗教史」によると、
「この神の名を巡って、膨大な量の論議が闘わされてきた。」
そうです。

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神が名を名乗らず無名を押し通した理由を述べた有力な説がありますか。
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Aベストアンサー

補足です。
私もちょっと興味があったので調べてみたら、ヘブライ語の原文とそれを解説しているサイトを発見しました。

神の返答の中にHWHという言葉があるようですね。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3902/yhwh.html

Q「出エジプト記」掲出の燭台について

「出エジプト記」25章で燭台の作り方を説明しておりますが、説明のイメージがわかない箇所があります。
25章33節
「一本のの支柱には三つ(三枚のこと?)のアーモンドの花の形をしたがくと節と花弁を付け、・・・」
という箇所です。
・がくと花弁がそれぞれ三枚ずつあるということですか?
・節とは竹の茎のちょっと膨れている箇所のようなものですよね?
・アーモンドの花の形をしたということですが、アーモンドの花の画像を見る限り、花弁の数は五枚ですよね?だとすると、三枚というのは変だと思ったのですが。

また25章35節
「節は、支柱が対になって出てくる所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つと、燭台の主柱から出ている六本の支柱の根の所に作る。」

・ここもわかりません。さきほどの節とは別の節を言っているのでしょうか?

燭台の画像も確認はしたのですが、聖書の記述内容がどう図対応しているのか理解できませんでした。

以上の件、ご教示いただければ幸いです。

Aベストアンサー

参考に
http://www.bdalmonds.com/almond/story.html
にある(3)メノラーの絵が一番近いと思いますよ。
7本の真ん中(主柱)に節が3個あってその節の上から3対の支柱(6個)が出て、6個の支柱には三つのアーモンドの花の形をしたがくと節と花弁がついていますね。
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Q出エジプト記の意義

 私の学校ではキリスト教を布教しているのですが、先日「出エジプト記」について学びました。
 そのことにより質問なのですが出エジプト記が言わんとしていること、開放に対しての意義とは一体どういうことなのでしょうか?

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Aベストアンサー

 No.1です。
 このNo.1の回答は あくまで 信仰の内側での議論だということを重ねて 但し書きしておきます。

 信仰は 人と絶対との関係を想定すれば どこにでも 成立すると考えますが その志向性と言いますか目的と言いますか そのような内実については ドグマがあります。(これは 組織集団としての宗教の以前において その教義の問題よりも以前において 個人の信仰にかんして 起きる現実です)。
 いわく。

  そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ
  られねばならない。それは〔イエスを〕信じる者が一人も滅びないで 
  永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:14,16)

 ですから これを宣教という愚かな手段で 伝えるというとき 二つの場合があります。一つには アブラハムからの信仰内容は 綿々としてここにあると言って この非科学的な事柄を それでも 人にも 告白する(つまり 神を賛美する)という場合と そして もう一つには それとは別に これを或る種の仕方で教義として 固守すべきものとして持たせるという場合とです。
 結社の自由にもとづけば 後者も自由ですが しかも わたしは 結社の自由の以前に 良心・表現の自由が来て これを ゆがめているという疑いが 後者については きわめて濃いとは思います。けれども 前者は 表現の自由までの問題です。そうして 信教の自由という個人内面の問題であり そこにおさまります。おさめなければならないことです。
 このような視点は ユダヤ教が優先されるとか 同じ唯一神信仰であるイスラームでは 神が人になったとは見ないとか そういう事態とはまったく別に成り立つ信仰の領域を示すはづです。互いに同等だということです。

 ついでと言っては いけませんが もう一点 こういう視点もからんで来ると考えます。
 つまり いわゆる二元論の問題です。あるいは 二元論を超える仕方の問題です。
 善悪が すべてまったく 相対的な世界において 一般に ことばとして善・悪と呼ぶ事態のことであり もうほかには考えられないという場合には 唯一神信仰の個人の内面におけるドグマに対して それが二元論を同じく超えているものであっても その超え方をも批判の対象にするようです。
 してもよいのですが 善悪論が そのように 時に二元論であったり もしくは 言うとすれば のっぺらぼうの相対性理論のもとに 抱かれていたりするとすれば そのような場合には 唯一神の一元論の場合とは 理論がちがうというその前提を問題にしなければ 話は始まりません。
 端折って言うならば 善(生命ないし存在)の一元論――ということは 悪は善の欠如としてのみ現象するのだという理論です――に立つときの信仰内容としては 永遠の生命を想定するという意味です。個人の妄想でも幻想でも何でもいいですが そういう信仰だという意味です。

 整理しますと
 (1) 片や 個人の信仰・その内面における信教と良心の自由〔そしてさらに表現の自由〕の問題と 片や 組織集団における宗教としての表現の自由とは 互いに大きなへだたりがあると言わざるを得ないということ。
 (2) 善悪論にかんする思想について 個人内面の信仰内容にかかわる部分と やはり集団の思潮としてのように社会的に持たれる部分とでは まったくと言っていいほど 別の問題に属する。これは これだけのことですが そのことから 帰結する重要なじたいがあります。後者の立ち場の人びとは 社会一般の考え方とは ちがうというただそのことだけを持って 信仰内容や信仰を持つことじたいを 攻撃の材料としがちであるということ。
 (3) 〔ついでと言ってはいけませんが〕 もともと アブラハムは 行けと言われたから行ったという信仰から出発しており またこれが原点です。さらにこの信仰内容が 規範として モーセに与えられたという事情が介在しています。そんなものは要らないというのが 原点ですから。したがって イエスの時に この原点に復帰したというただそれだけのことでもあります。
 もっとも その復帰のためには 大きな出来事として そして神があたかも直接に介在しなければならなかったと解釈される出来事として 信仰の中では 歴史が動いています。そういうドグマです。

 信仰は 自由に 信じていいのです。外化して表現することまでも 自由です。他の信仰もしくは宗教と違うというただそれだけの事由によって 批判するというのは いささか 話がまだ入り口にとどまっているのではないでしょうか。

 No.1です。
 このNo.1の回答は あくまで 信仰の内側での議論だということを重ねて 但し書きしておきます。

 信仰は 人と絶対との関係を想定すれば どこにでも 成立すると考えますが その志向性と言いますか目的と言いますか そのような内実については ドグマがあります。(これは 組織集団としての宗教の以前において その教義の問題よりも以前において 個人の信仰にかんして 起きる現実です)。
 いわく。

  そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ
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Q仏教の十戒について

色々と聞きたいことがあるのですが、
大分長くなってしまったので十戒のうち、
出家したら+される5戒についてお聞きします。
 
出家した場合に十戒が義務づけられます。
整髪料を使うなとか、映画鑑賞をするなとか、
間食をするなとかがあります。

蓄財以外の戒律が仏への帰依とどう関係するのか分かりません。
間食も整髪も全然関係ないような気がしています。

僧侶はこうあるべきであるという見本を示しただけで、
いわゆる後付された世間体というものの気がしています。

間食をしても、映画鑑賞しても良いのではないでしょうか。
間食しないでお腹を減らしたら、煩悩にならないのでしょうか。

ご意見をお待ちしています。

Aベストアンサー

混乱の大きな原因のひとつは、対象とする戒が定まっていないからです。
いま現在「仏教の十戒」といえば、ふつうは大乗仏教のものを指します。ところが、問題とされている整髪料や映画の禁止、といったものは、大乗仏教の十戒にはありません。これは恐らく、昔のインドの時代に出家者が正式の比丘になる前に保っていた規則、いわゆる「沙弥の十学処」を、現代風に翻訳したもののように思えます。

質問者はどこでこの十戒を知ったのでしょうか。どこの教団がいま現在このような戒を要求しているのでしょうか。何ゆえこのような不思議な翻訳がなされているのでしょうか。
まずこういった点をきっちりと押さえておかないと、質問も成り立たないし、まともな回答もできるはずはありません。

整理のために、以下、一応のことを書いておきます。

昔のインドの戒は、3段階式です。在家の信者は五戒を受ける一方で、正式な比丘はいわゆる二百五十戒などという具足戒を守ります。その中間、つまり出家したててまだ正式な比丘でないものに課されるのが、十戒というものです。この場合には、確かに在家の五戒にプラスしてさらに五戒が加わります。

ただ、増えるその五戒の中身ですが、質問のものはちょっと奇妙です。増える五戒は、本来ならこんな内容のはずです。

6、食事は午前中だけ、午後は食事をとらない
7、歌舞音曲を楽しまない
8、装飾品を身につけない、化粧をしない
9、高いベッド・豪華なベッドに寝ない
10、金銀を受け取らない

質問の「間食をしない」というのは、上の6の翻案のつもりなのでしょう。確かに似ている気もしますが、「なぜこのような戒があるのか」と問うのなら、その違いは無視できません。
本来、出家者集団は一切の生産を自らに禁じていますから、托鉢以外に食事を手に入れる手段はありません。最低限のものを人びとからもらって、貯めることなしにその日その日を過ごすのが生活の基本的態度です。この原則から、「朝托鉢したものを午前中に食べきり、午後は何も食べない」、という戒が生まれたわけです。在家信者に対しても、定期的にこの戒の実践が勧められましたから、恐らく修養としての軽い絶食の意味合いもあったでしょう。

この戒は非時食戒といいます。「非時」とはヴィカーラといって要するに午後のことで、文字通り「午後には何も食べない」という戒です。その背景は、「間食を禁じる」のとはかなり違うように思えます。ご質問の戒は、この「非時食」という言葉を「定時以外の食事」と勝手に読み変えている(ないしは間違えている)わけで、私としては少し胡散臭さを感じます(間食を禁じている戒がある、という前提の回答も同様ですが)。

インドでの十戒というのは、インド的な感覚と切り離して考えることはできません。当時のインドの人々が、「こういう行いをすることによって人は清浄になれる」と考えた、その具体的な中身が戒となってまとまっているわけです。逆に言えば、これらを守る出家者に人びとが「清浄さ」を感じたからこそ、人々は彼らに食べ物を施し、出家者は命をつなげたわけです。一度、法句経などに目を通してみて、原始教団が実践しようとした生活スタイルに触れてみるべきでしょう。

余談ですが、殺生について一言。
他の回答に殺生に触れたものがありますが、今問題にしている十戒の時代には、「不殺生」というのは「自ら殺さない、殺させない、殺す現場を見ない・・・」といったもので、必ずしも「食べること」を禁じていません。十戒の時代、比丘は托鉢だけで、つまり原則的には他人の残飯で生活しているわけですから、鉢に肉が入れられればそれを食したのは当然です。食べることまで禁じられるのは、ずっと後の大乗仏教になって、梵網経が十重四十八軽戒などを説くようになってからのことです(それでも「軽戒」でしたが)。

いずれにしても、質問の背景がわからないので、あまり立ち入って書くことはできません。もう少し情報があれば、もっと包括的で有意義な回答ができる、かもしれません。

混乱の大きな原因のひとつは、対象とする戒が定まっていないからです。
いま現在「仏教の十戒」といえば、ふつうは大乗仏教のものを指します。ところが、問題とされている整髪料や映画の禁止、といったものは、大乗仏教の十戒にはありません。これは恐らく、昔のインドの時代に出家者が正式の比丘になる前に保っていた規則、いわゆる「沙弥の十学処」を、現代風に翻訳したもののように思えます。

質問者はどこでこの十戒を知ったのでしょうか。どこの教団がいま現在このような戒を要求しているのでしょうか。何ゆ...続きを読む

Q日本は内戦状態なのではないか

日本は内戦状態なのではないか
この国では年間三万人の自殺者が出ます。
自殺の理由は個人的理由と考えがちなのですが、
もしかすると日本の文化が日本人を殺しているのではないか。
或いは日本人どうしで殺し合いをしているのではないか。
そんな考えが頭をよぎりました。
戦いの中で自分を律する、それに敗れたものは自死によって殺される、
そんな原始的な原理がこの国に蔓延しているのではないでしょうか。

Aベストアンサー

そうですね。年間3万人以上だから3年で約10万人ですね。アメリカとイラクの戦争で犠牲者になった数とどちらが多いか?と言うくらい自殺者が多いですね。本当に戦争犠牲者ほどの数です。

ある高名な霊能者は、アメリカで殺人が非常に多いのは、常に戦争や紛争などに介入したり起こしたりして、世界中で非常に多くの人を殺しています。その報いで戦争が起きたのと同じくらいの殺人事件の犠牲者が出ていると言っています。

日本にも同じことが言えるのかも知れません。これは何かの報いと考えるべきでしょう。

例えば、たとえ日本が戦争をしていなくいても、金銭的にアメリカを支援していたり、後方支援でアメリカの戦争の手助けをしていたりします。朝鮮戦争やベトナム戦争でも特需ということで、日本はアメリカの戦争のおかげで著しい経済発展をして来たのも事実です。

どこかでそういう悪業を積んでいないと、このように異常に多い自殺者は出ないはずです。また、このように自殺した人は成仏できませんから次の自殺者を呼ぶことになり、なかなか自殺者が減るということはないでしょう。

また、成仏できない霊が増えると、強烈なマイナスの波動を発生させますから、社会全体が暗くなり繁栄しなくなります。自殺者を減らし、成仏してない霊を供養しないと日本の景気回復も霊的な次元で難しくなるわけです。

そうですね。年間3万人以上だから3年で約10万人ですね。アメリカとイラクの戦争で犠牲者になった数とどちらが多いか?と言うくらい自殺者が多いですね。本当に戦争犠牲者ほどの数です。

ある高名な霊能者は、アメリカで殺人が非常に多いのは、常に戦争や紛争などに介入したり起こしたりして、世界中で非常に多くの人を殺しています。その報いで戦争が起きたのと同じくらいの殺人事件の犠牲者が出ていると言っています。

日本にも同じことが言えるのかも知れません。これは何かの報いと考えるべきでしょう。
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