日本語教育の文法に明るい方にご教示お願いしたく質問します。

三好達治の「雪」という詩で、
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む」
というのがありますが、太郎や次郎を眠らせているのは「雪」でOKでしょうか。

雪ではなくお母さんなどだととらえる方もいます。
しかしたしか、一文の中でそのように主語が入れ替わるのは不自然なので「日本語として間違い」ではないかと思います。

というのも日本語教育の文法で、似たような一文に「間違い」となっているのを読んだことがあるように思うのです。日本語教育の世界ではそのように教えていたと思うのですが、どうだったでしたっけ。
外国人の方や外国人に日本語を教えている先生、よろしくお願い致します。
そのような例文が取り上げられている教科書の名前がお分かりの方いましたら、教えて下さい。

あるいは国文学の研究の方で、この主語は「雪」であるととっている論文や、他の何かととっている論文の内容などをご存知の方お願いいたします。

図書館に調べに行きたいのですが勝手ながら時間がなく、ここでもともとご存知の方の知識を得てから行きたいかと思いまして。

よろしくお願い申し上げます。

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A 回答 (5件)

#2で回答したものです。

理論言語学は専門ではないので、「プロ」とは呼ばないでくださいませ~。
ただし、例のChomskyの文 colorless green ideas sleep furiously (無色の緑のアイディアは猛烈に眠る)のような、文法的に正しくても意味(語用論・意味論的に)が間違っているものは、言語として間違っているのであれば、文法的に正しいことと、言葉として正しいことはイコールにならないと思いますので、文法だけで、その言葉の正否を判断してはいけないのではないでしょうか。
(うわぁ、ややこしくなってきましたね!)

でも、皆さんも仰っているように、「詩」であることで、上記の「無色の緑」文でさえ、許容されてしまうとは思いませんか?

とはいえ、私は、何が何でも「雪」だと思いますけど。個人的にはこれは譲りたくないですねー。あの雪の音のなさを、静かな太鼓の音で表す(これも矛盾の芸術?)お能のような静けさ。実際、雪が降り積もると外界の音を吸収するので、物理的に静かになりますから、それで子どもが寝てもおかしくないと思います。
でも、だからといって、他の人の解釈が別であっても、よい、それが「詩」かなと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>「詩」であることで、上記の「無色の緑」文でさえ、
詩であることで語用論(というの言葉をよくは知りませんがお示しに文例からはわかる)的に間違いであることを可としてしまうことは分かりますが、
よく考えてみると、文法的な間違いも可とすることは本当にいいのでしょうか。
詩だからって文法間違えてる作品て何があるだろう?

>私は、何が何でも「雪」だと思いますけど。
私もです。どうしても、他の主語をもってくるのは不自然というかこじつけな気がして。

お礼日時:2005/10/08 23:28

 わたし個人としては太郎・次郎を眠らせているのは雪を含めたその場の情景全てではないかと思います。



そこには母の存在があるかもしれないし、一人かもしれません。音を考えてのことはもちろんですが、あえて主語を言わないのは主語を限定して欲しくないという心情からくるものだと思うのです。

 また、文法のお話ですが、今からみる文法としては確かに間違いかもしれません。ですが、当時は今とは文体がかなり違っていると思います。古文の文法も混じっているように見受けられます。例えば「太郎を眠らせ雪降り積む」の「積む」は今言うなら「積もる」ですよね?もし古文の文法とするならばあえて雪といったところからその前の文章の主語は雪ではなくなるという考えもできます。
 
 色々な風に読めるからおもしろい、読めば読むほど奥行きの深さを感じさせる、そのような詩であるからこそ今でも有名な詩なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私も、もし「雪」じゃないのだとすれば、自然全体とかそういう感じで、「母」とかの具体的なものを出すとかえって恣意的だなと思います。

そういえば古文は平気で主語がひねれますね!
なんとなく、そういうときの主語の入れ替わりとこれとは違うような気がするのですが、気ばっかりで文法的に説明できないのがもどかしいです。

お礼日時:2005/10/08 02:29

日本語教育や国文学には一切縁の無い者ですが、私見を述べさせていただいてよろしいでしょうか。



これが詩の文であることを考えると、文法的許容範囲は広がるように思うので、主語が「母」であっても詩としては一応成立するように思います。
(作者が「母」を隠れ主語として想定していたと言っても不思議ではないという意味で。)
しかし、この場合「太郎の屋根」「次郎の屋根」と「屋根」が複数なので母も複数居ることになり、幾分散漫な印象を与えてしまうように感じます。

やはり「雪」を擬人化することで、「寒く冷たいもの」から「暖かく包み込むもの」というイメージへの転換が効果的であり、達治の意図したところでもあるように思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり詩だと文法的なしばりからはやや開放されるととった方がいいんですね。

>やはり「雪」を擬人化することで、~イメージへの転換が効果的であり、
わたしもそう思います。
しんしんと積もる雪の下で子供がぐっすり眠りについていることを、比喩的に「雪が人を眠らせている」と言っていると思うと、「いいなあ!」と思うので。

お礼日時:2005/10/08 02:27

こんにちは、もと国語学、今は言語学専攻で日本語も教えているのですが(しかももと国語教師)、疑問なく主語は雪だと思ってきました。

考える機会を下さった質問者さんに感謝です。
http://www.venus.dti.ne.jp/~yoz/essay/essay.yz.3 …
というのもありましたが、結論は出ていませんでした。
文構造からすると、

S(文) -> NP【空主語e 】+ VP(動詞句) 

で、空主語の類推をどこからするかですね。日本語は、重文の場合、必ずしも2番目の主語に一致しなくてはいけないという文法が存在しない、のではないでしょうか?英語などはそのあたり厳しいですが。
例:行ってきますと言って家を出てすぐバスが追い越してったんだよ。

従って、主語は完全な文脈依存ではないでしょうか?

この詩の場合、視点を母に定めてから読み始めると、
(無理して題名が、「雪-私の子ども達」だったとすると、)母が主語になり得ると思います。

私は、主題が【雪】なので、主語を雪と捕えていました。作者が作ったときに、子どもを見つめる母親になりきって書いていれば、主語が母でも良いかな、と思います。
私(母)は、太郎を眠らせた、そして、太郎の屋根に雪が降り積もっている(のを聞いている)

でも、むしろ生徒に議論させる良い題材かな。教師には決めつけて欲しくないものですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>例:行ってきますと言って家を出てすぐバスが追い越してったんだよ。

そうですね。それだと成り立ちますよね。
でもなにか、日本語教育の授業を取っていて、こういうので主語がひねれてて確かに「なりたたないな」という文が出てきて、で、それとこの太郎のは似てるのです。

おぼつかない話ですみません。

でもプロの方が「どちらにもとれる」と文法的にとらえるということが知れてありがたいです。

---

個人的な感想では「雪が人を眠らせるってのがイイ!」と思うのですが、
こう、雪が音をすいとって静か~にさせるのと、人を眠らせる感じがちょっとイメージ的につながるし。
まあそれは個人の読みですね。

お礼日時:2005/10/08 02:24

ちょうど、こういう授業の記録がありますね。


http://www1.ocn.ne.jp/~tashiro/yuki.html
授業記録に、そのあたりの話がありますが、
文法的なものではありません。

文法的には、省略されているから、いかような解釈も成り立つと、素人の私は考えます。

参考URL:http://www1.ocn.ne.jp/~tashiro/yuki.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

できれば個人的な授業の記録ではなくなにか寄って立てる資料が知りたいのですが。

お礼日時:2005/10/08 02:21

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目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
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これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

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広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
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解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

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Qお米1合はご飯何グラムですか?

お米1合(150g)は炊きあがり後の「ご飯」になった時は大体何グラムでしょうか?
また、炊飯ジャーなどで、容量6L等とありますが、このリットルはどの状態の事を差すのでしょうか?(米?ご飯?、容積?)

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一合150gのたきあがりは約300gです。ちなみにお茶碗一杯150gおにぎり一個100gすし一貫20gカレー一人前300g弁当一個220gが標準です。

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  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Q懲役刑と禁固刑の違い

ニュースで良く耳にする「懲役」と「禁固」とはどう違うのでしょうか?
禁固刑はずっと牢屋に閉じ込められて一切外には出れないのでしょうか?
この犯罪は懲役刑、この犯罪は禁固刑と犯罪によって決まるのですか?
わたしなら、牢屋に閉じ込められるくらいなら禁固刑三ヶ月なら、ある程度自由のある懲役刑1年くらいの方がまだマシです。

独り言のような疑問なのでおヒマな方、回答おねがいします。

Aベストアンサー

処遇の内容については皆さんお答えのとおり
刑務作業(要は強制労働)の有無のちがいです。

懲役刑は軽蔑すべき犯罪を故意に行った「破廉恥犯」に課されますが
禁固刑は政治犯など、自分の政治的信念に従って「正しいこと」と信じて行動した結果が犯罪になった場合、また過失犯など「非破廉恥犯」と言われる場合に課されます。

禁固受刑者で作業をしない人は1%にも満たないそうです。ほとんどの禁固受刑者は自ら望んで刑務作業(請願作業といいます)をします。

と、大学で習いました

Q「早春賦」の歌詞について

 日本語を勉強中の中国人です。「早春賦」の歌詞を読んでいますが、古典文法が入っているので、理解できなくて困っています。特に理解に苦しんでいるところは次の三箇所です。この歌をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか。

 歌詞の参考ページです。
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/sousyunfu.htm

1.「歌は思えど」
2.「さては時ぞと 思うあやにく」
3.「春と聞かねば 知らでありしを
  聞けばせかるる 胸の思いを
  いかにせよとの この頃か」

 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それについてもご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

1.春は名のみの 風の寒さや  
谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど  
時にあらずと 声も立てず 
時にあらずと 声も立てず
  
暦の上では春になったといっても、春とは名ばかりで、風は冷たく、まだまだ寒く感じます。
谷で冬を越した鶯が里に下りて、美しい声で春を告げようと思っても、まだこの風の冷たさに、春はまだ来ていない、まだその時ではないと、鳴き出そうとした声を潜めて春をじっと待っています。

2.氷解け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ 
さては時ぞと思う
あやにく今日もきのうも 雪の空  
今日もきのうも 雪の空
 
川や池に張っていた氷は解け始め、そこに生えている葦も芽をふき始めてきています。
さあ、いよいよ春が来たと思いきや、そんな思いとは裏腹に現実は厳しく、昨日も今日もまだ空はどんよりして雪が舞っています。

3.春と聞かねば 知らでありしを  
聞けば急かるる(せかるる)胸の思(おもい)を  いかにせよとの この頃か 
いかにせよとの この頃か

暦の上ではもう春になったのですと聞かされてなければ、まだ春だとは思わなかったのに、聞いてしまったので、もう、春が待ち遠しくなってしまい、季節の移り変わりさえ遅く感じ、春よ早く来いという待ち焦がれる思いをどう晴らしたらいいか判らないくらいである。

1)歌は思えど
⇒歌おうと思ったけれど。

2)さては時ぞと 思うあやにく
⇒さては時(春が来た)と思うが、その気持ちを打ち消すかのように、(まだまだ雪が降っている。)
⇒いよいよ春が来たと思ったのだが、折悪しくまた今日も雪が舞って来てしまった。(春はまだなのか~)

★あや‐にく【▽生憎】
《感動詞「あや」+形容詞「にくし」の語幹から》

1.[副]意に反して不都合なことが起こるさま。
あいにく。
折悪しく。

2.[形動ナリ]目の前の事柄が、予想や期待に反していて好ましくないさま。

意地が悪い。
不都合だ。間(ま)が悪い。
予想以上に厳しい。過酷だ。

この歌は難しい歌ですよ。
全体に伝わってくるイメージは明瞭ですが、字句の説明は非常に難解です。自信ありません。

1.春は名のみの 風の寒さや  
谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど  
時にあらずと 声も立てず 
時にあらずと 声も立てず
  
暦の上では春になったといっても、春とは名ばかりで、風は冷たく、まだまだ寒く感じます。
谷で冬を越した鶯が里に下りて、美しい声で春を告げようと思っても、まだこの風の冷たさに、春はまだ来ていない、まだその時ではないと、鳴き出そうとした声を潜めて春をじっと待っています。

2.氷解け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ 
さては時ぞと思う
あやにく今日もき...続きを読む

Q「充分」と「十分」の使い分け教えてください

題名のとおりですが、どう使い分けるのか知りたいです。

たとえば、「私はじゅうぶん満足した」のときは、十分でいいんですよね???

どちらをどう使い分けるのか教えてください。

Aベストアンサー

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
 ・漢字の学習の底が浅く安易になった、即ち本来の意味に注意を払わない。
☆この二つの文字の違いは何か?
【十】:1・2・・・・・・と来て数が満ちる。
  原意:古代に枝や縄の結節で数字を示した方法の延長が現在の字形。
     九が数の窮まった値として縁起よく、重視されてきた。
     更に9+1は十分大きい ⇒ 数が足りている状態。 
  ☆数詞、段階を踏むデジタルな思想です。
【充】:満ちる、満たす、余すところなく、担当する、埋める。
  原意:長い、高い から 成長した大人、肥満、肥大、振る舞う、 
     などを意味するようになり、現在に至っています ⇒ 充ちる(満ちる)。
  ☆基本は動詞、切れ目なく満ちる、満たす、果たす、アナログ的思想です。
【分】:実は、発音も意味も一意でないのです。
  【十分】の発音はshi2fen1   【分】fen1の意味は 部分、分割したもの など。
  【十分】の発音はchong1fen4 【分】fen4の意味は 成分、本分、職責 など。 

さて、お尋ねのこと「私はじゅうぶん満足した」はどう書くか。
 ・単純に量的に満たされたならば【十分】。
 ・心または腹が充足感を以って(徐々に内部から)満たされた場合は【充分】。
    としたいところです。
  
【充】については以下の用法で感覚をつかんで下さい。
 充電・充填・充足・充実・充溢・充血・充ちる(潮が、悪意に、月が、刑期がetc)
ついでに、
  「十分ご説明をいただいて、充分満足いたしました」のごとき用法も。

いまや、【十分】【充分】を使い分けるか否かは個人の好みです、読む人の感性に合わなければそれまでのこと、自己満足の域を出ません。いずれにせよ、公式文書や事務的文書では、好悪を捨てて、国語辞典を標準とするに越したことはありません。

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
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Q眼鏡市場とJINSどちらがオススメですか?

私はド近眼で度数は0.02なのでメガネをかけると目がかなり小さくなってしまいます。
新しいメガネ購入で眼鏡市場とJINSで悩んでいます。

●少しでも目が小さくなるのを防ぐための非球面レンズのものししようと思っています。(良店とも非球面レンズ仕様で薄型も追加料金かからず出来るとみたので)
●Hatchでメガネを買ったら2年弱しかたっていないのにフレームが歪みメガネが下がってきてしまいます。
ネジを閉めてもらってもフレーム時代の問題だと言われたのでフレームもそれなりの強度がほしいと思っています。

このふたつの条件でしたらどちらがオススメですか?

また他におすすめのショップがありましたら教えてください。
予算は20000円です。

Aベストアンサー

セルフレームにプラスティックレンズなら2年は寿命です。一流レンズメーカーでもレンズのコーティングに寿命がある。
予算2万円で、JINSなら安けりゃ5本、高くても2本買えますので、
1年に1本買い換えるか、同じ度数で2本作って交互にかければ2倍以上持ちます。そっちのほうがおしゃれでしょう?壊れた時の予備にもなるし。

眼鏡は視力補正器具なので、高ければ長く使えるものじゃないのです。視力は刻々と変化し、レンズは拭けば拭くだけ、拭かなくても顔の油た加水分解でどんどん劣化する。マメな視力検査とメンテとレンズ交換は必要。
安売り系のメガネショップは、その買い替えサイクルを短くして、いつも調子の良いメガネを安定して買い替えできるように大量生産で安価で安価に提供できる、
今までの同じ店に数年おきに通い、メンテなどのサポートを受けるリピーターで成り立つ眼鏡店の、高額な眼鏡とは考え方が違うのです。

正直、JINSのショップと店員の知識サービスはあまりよくありません。でも、商品はかなりいいです。開発力と品質が高い。でも寿命は短い。
眼鏡市場は店員はJINSより大分マシですが、フレーム品質があまりよくありません。値段なり。
どちらも非球面レンズにしても追加料金はかかりませんから、まともな眼鏡店で買うよりレンズ+フレームで1万以上安く済むと思います。

ちゃんと眼科行って、処方箋を出してもらって、自分にフィットする眼鏡を自分で選んだら、どちらの店でも、かなり快適な眼鏡を作ることができます。
その店頭サービス料が安いのです。
自分で知識を持ち選べるならJINS、それなりサポートがほしいなら眼鏡市場になると思いますが、
2万円だとフルサービスのサポート技術料は含まれていないと思ったほうがいいです。

セルフレームにプラスティックレンズなら2年は寿命です。一流レンズメーカーでもレンズのコーティングに寿命がある。
予算2万円で、JINSなら安けりゃ5本、高くても2本買えますので、
1年に1本買い換えるか、同じ度数で2本作って交互にかければ2倍以上持ちます。そっちのほうがおしゃれでしょう?壊れた時の予備にもなるし。

眼鏡は視力補正器具なので、高ければ長く使えるものじゃないのです。視力は刻々と変化し、レンズは拭けば拭くだけ、拭かなくても顔の油た加水分解でどんどん劣化する。マメな視力検査とメ...続きを読む

QFacebookで、誰かにウェーブを送ると、どうなるのでしょうか?

Facebookで、誰かにウェーブを送ると、どうなるのでしょうか?

Aベストアンサー

>どうなるのでしょうか?
相手に
「〇〇さんからウエーブが届きました! タップしてウエーブを返す」という表示があらわれるだけです。
あとは相手次第。ウエーブを返してくるかもしれないし、なにもせず無視するかもしれませんし、どう対応するかは人によります。


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