井伏鱒二は、最晩年に「山椒魚」を書きかえたと聞きました。この書きかえた版をいくら探しても見つからないのですが、どなたかご存じないでしょうか。出版されているなら出版社を知りたいです。

A 回答 (1件)

新潮社から自選集が出るときに井伏鱒二が手を加えた(確か結末をカット)との記憶があります。

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Q井伏鱒二の「山椒魚」で質問です。

小5の子供から質問されました。
「どうして山椒魚と蛙はお互い罵り合い、悪口を言っていたのに、次の年は両者とも黙っていたのか?」
駄目な母です・・・。山椒魚の気持ちも、蛙の気持ちも、全然分かりません(T.T)
心の中で「死んだフリじゃね?」なんて思いましたが、絶対ちがうな~っと思ったので答えませんでした。
どなたか教えて下さい。宜敷くお願いします。

Aベストアンサー

 誠に失礼かとは存じますが、国語の設問には「正解」という存在はありません。正解のある問題が国語にあるとすれば、それは漢字書き取りであり、「文脈」をどう読み取るかとの点で「傍線部に関して著者が違う表現をしている部分がある。その言葉を書け」という出題はなされます。
 井伏鱒二の『山椒魚』に関して言えば、終わりが2種類あって恐らくは改訂版のテクストだろうと思われます。これは私の理解ですが、前日まで罵りあっていた両者が翌日には沈黙を続けていた、という意味は互いに存在を認め合っていたことが次の段階で言葉を交わすことでの認め合いから「言葉はなくとも認め合っている」ことへの深化、じゃないのかということです。
 文学作品は読者によっても理解の仕方は異なります。夏目漱石が好きな人でも『夢十夜』が好きな人もいれば『心』が好きな人もいます。或いは漱石よりも太宰が好きだという人もいます。どれが「一番イイか」などと決めることは不可能で無意味な問い掛けということはこれだけでもお分かりいただけるでしょう。この意味でこんな設問をする公文はロクな教室ではないことだけは確かです。

Q井伏鱒二の「山椒魚」の削除された部分

井伏鱒二の「山椒魚」には、削除された部分があると聞き、昭和66年に改稿されて、「ところが山椒魚~いないんだ」の部分だということは、わかったのですが、なぜ井伏鱒二はこの部分を削除したのでしょうか?

Aベストアンサー

以下のURLを参考にしてみてください。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A4%92%E9%AD%9A_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

  http://homepage1.nifty.com/hamatidori/yodann.2.htm

Q著作権フリー。出版社の版権?

(マンガ「ブラックジャックによろしく」は)著作権がフリーで二次使用?可能とかいう話ですが原作者はよいとしてその書籍を出していた出版社の権利はどうなるのでしょうか。
作家と出版社の契約内容から教えて頂きたいです。期限もなく契約更新みたいな事もなく増刷する限り印税を払いますみたいな契約内容なのでしょうか。
素人感覚では例えば製本流通宣伝在庫リスクを出版社が仕切った結果、手に入れた製本のマンガの絵を何も気にせず?使えると言っても出版社の権利を冒すような気がします(改編も脚本も名称やキャラ利用もOKなんですよね)。
著作権フリーにしないという約束が契約書に盛り込まれていない奇策だったのでしょうか。
突然、作家がメディアなどで今日から著作権フリーだと出版社と関係なく宣言しても不可能だと思います。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「ブラックジャックによろしく」は二つの出版社をまたいで雑誌掲載されたようです。
そしてそのうちの一つのある大手出版社が単行本化する際のジャケット(所謂カバー)画の原稿料を払わないという事で作者が激怒してその大手出版社との契約を解除してしまいました。
このようの特殊な条件の下で、その契約を解除した分のみを著作権フリーとしたものです。
又、作者は二次利用も認めていますので、パロティーやオリジナルの続編を拵えても良い事になります。
ただ、これは雑誌連載時の大手出版社との報酬問題が拗れての事なので極めて例外的な事だと思います。

以上の状況ですから、著作権フリーの分については、現在作者は特定の出版社とは契約がないと云う事です。

誤解されると困るので、敢えて記載すると、その大手出版社の出版したものを表紙迄その儘複写して販売すると表紙の構成は出版社に著作権がありますので権利侵害になります。
オリジナルの表紙ならば問題はありません。
又、複写する際に勝手に画を描き変えたり吹き出しの文章を変えたりしてはいけません。これは同一性権というもので所謂著作権フリーには含まれないとするのが一般的な考え方だからです。

「ブラックジャックによろしく」は二つの出版社をまたいで雑誌掲載されたようです。
そしてそのうちの一つのある大手出版社が単行本化する際のジャケット(所謂カバー)画の原稿料を払わないという事で作者が激怒してその大手出版社との契約を解除してしまいました。
このようの特殊な条件の下で、その契約を解除した分のみを著作権フリーとしたものです。
又、作者は二次利用も認めていますので、パロティーやオリジナルの続編を拵えても良い事になります。
ただ、これは雑誌連載時の大手出版社との報酬問題が拗...続きを読む

Q井伏鱒二

井伏鱒二の作風とは何でしょうかね?

Aベストアンサー

ユーモアと哀愁を合体させた様な独自の文学、と言えますね。太宰治の作風は井伏鱒二の作品が多大に影響しています。

Q井伏鱒二「鯉」について

井伏鱒二著「鯉」を読んだのですが、結局何を言いたかったのかさっぱり分かりませんでした。
この作品が何を暗示しているのか、井伏が読者に何を伝えたかったのか、分かる方は是非教えてください。

Aベストアンサー

この手の質問の多くは「作者は何が言いたかったのか?」という問題の立て方をしています。
これが、作品の読解を妨げているのだな、と、ここで回答をするようになって、わたしは確信を深めました(というと、大げさですが)。
問題の立て方がちがいます。そんなことを考えるから、わかんなくなっちゃうんです。
問題は、「何が書いてあるか」です。

こういうと、バカみたいなんですが、こういうと高尚に聞こえます。
「プロットをつかむ」
高尚だけど、何が言いたいかわからないので元に戻します。

何が書いてあるか、すなわち、
「何が」「どうした」という形で、作品を要約するトレーニングを積んでみてください。

おそらく質問者さんは高校生だと思うのですが、読解の能力はこれでグッとあがるはずです(高校生以外の方にもおすすめです)。

小説というのは、何がどうしてどうなって、つぎはああしてああなって、それからこうしてこうなって、と、だらだらと続いていきます。これを「ストーリー」といいます。

けれども、小説には一本、背骨のようなものが通っています。これが「プロット」です。
人間の背骨が外から見ただけではわからないように、小説のプロットも外から見ただけではわかりません。
けれども、表面(ストーリー)ばかりに気を取られているのは、ちょうど服のひだかざりとか、リボンの具合に目を奪われるようなもので、その人がどんな人だか、ちっともわかりませんね。そんなものなのです。

ストーリーを読みながら、プロットをつかむ。
ちょうど、X線撮影をするように、透かして見つけていくのです。

このプロットは「何がどうした」という形で要約できます。ロランバルトが『物語の構造分析』(みすず書房)の冒頭でそういうことを言っています。石原千秋は『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)のなかでもう少しそれをわかりやすい形で言っています。

実は、本を読みながら、あるいは、マンガでも、映画でもそうなんですが、たいていの人はこれを無意識のうちにやっている。
途中でわけがわからなくなっちゃう人は、これができない人なんです。
これはスキルですから、練習すれば上達します。
だから、「何がどうした」話か、いつも考えるようにしてください。

ここから『鯉』の読解です。

これは「私が鯉を助ける」話です。明快ですね。
どんな複雑な小説でも、プロットは単純です。
語り手である「私」は鯉を早稲田大学のプールに放ってやったのです。

ここから、読解の第二段階です。
第二段階では、「なぜそんなことをしたか」を考えます。

これは冒頭、二番目の文章に、すべてあきらかにされています。
(以下、引用はすべて集英社日本文学全集41井伏鱒二集より)

「学生時代に友人青木南八(先年死去)が彼の満腔の厚意から私にくれたものであるが」

友人がくれたものだからです。
そうして、その友人は、死んでしまっているからです。

ここから導かれる結論はなんですか?
その鯉は、語り手にとって、非常に重要な鯉だということですね。
友人を思い出す「よすが」でもあり、ふたりの友情の証でもある。

まず最初に友人が死んでしまったことをあきらかにしたうえで、一種のフラッシュバックのように、鯉を青木南八が持ってきてくれたところの描写から、この作品は始まっていきます。
下宿を出た語り手は、青木南八の愛人の池に鯉をあずける。
そこで青木南八は急逝する。
語り手は、愛人のもとから鯉を釣り上げ、早稲田大学のプールに放してやる。
やがて、語り手は、ハヤだのメダカだのを引き連れ、王者のごとく悠々とプールで泳ぐ鯉の姿を目撃する。

「私はこのすばらしい光景に感動のあまり涙を流しながら、音のしないように注意して跳込台から降りて来た」

なぜ感動したのか。この点の解釈はさまざまあってよいと思うのですが、決して忘れてはならないのが、語り手の友人である青木南八が、もはやこの世の人ではないということです。

つまり、これは青木南八に対する追悼文なのです。
表面では鯉の話を書きながら、実は、青木南八のことを書いているのです。
故人を悼む気持ちは、作品中に一言も書かれていませんが、絶対にそれを読み損ねてはいけません。
全編にただようほんのりとしたユーモアの底に、悲しみがそっと埋められている。それが井伏文学の持ち味です。

小説には、背骨のほかに「宝」が埋まっています。
作者はそれをはっきりとあきらかにはしません。
読者が自分の力でそれを掘り出してくれるのを、待っているからです。
この作品の場合、作者が埋めておいた「宝」は、その「悼む気持ち」です。

この手の質問の多くは「作者は何が言いたかったのか?」という問題の立て方をしています。
これが、作品の読解を妨げているのだな、と、ここで回答をするようになって、わたしは確信を深めました(というと、大げさですが)。
問題の立て方がちがいます。そんなことを考えるから、わかんなくなっちゃうんです。
問題は、「何が書いてあるか」です。

こういうと、バカみたいなんですが、こういうと高尚に聞こえます。
「プロットをつかむ」
高尚だけど、何が言いたいかわからないので元に戻します。

何...続きを読む


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