江戸時代の綿の生産についてなるべく詳しく早く、
そして美しく丁寧に教えて下さい。

A 回答 (1件)

綿は室町時代、戦国時代に朝鮮や中国から綿が輸入されていたという記録があります。

まだ衣料としては庶民の手には届きませんでした。しかし、戦国大名の武士たちの衣料、船の帆布、火縄銃の火縄などの軍需品としてなくてはならないものとなりました。日本で綿の栽培に成功したのは戦国時代末期と言われ急速に普及しました。
近畿、瀬戸内を中心に我が国の綿作、綿業は目ざましい発展をとげて、江戸時代の経済発展の重要な役割をはたしました。衣料としてこれまで用いられていた麻から木綿へのこの転換は、「繊維革命」といっても良いほどの大きな出来ごとでした。
江戸時代から明治の初めの頃までは、国産綿花による手紡ぎ、手織りの木綿が国民の主要な衣料となっていた。現在の愛知県、大阪府近辺は日本での有数の綿産地として知られ、その流れで綿布工業がおこり、今日まで続いています。

参考URL:http://www.fan.hi-ho.ne.jp/class-pet/futon2000/- …
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Q元号は現在、天皇陛下が代わられると元号を変える事ですが、江戸時代やそれ以前の時代では、どのタイミング

元号は現在、天皇陛下が代わられると元号を変える事ですが、江戸時代やそれ以前の時代では、どのタイミングで変わっていたのでしょうかか?

Aベストアンサー

今のように、天皇の代替わりのときにだけ元号を変える制度になったのは、明治からです。その結果、天皇と年号が1対1に対応するようになりました(ということと関係があると思いますが、明治以降の天皇は、明治天皇のように年号で呼ばれています)。
それ以前は、めでたい事があった、天変地異、疫病がはやったとか、いろいろの理由で年号を変えていました。

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q江戸時代の人は元号を言えたか

 
 以前どこかで前世療法というものの動画を見た際、前世にもどったひとに「年号は何年ですか」と質問すると、「安永○年」とか「天明○年」と、“前世”の人が答えていました。

 最近思い返してふと疑問に思ったのですが、江戸時代の人はその時々の元号を知っていたのですか?
 知っていたとすると、元号が変わったときはどのようにしてその情報が伝わったのでしょう?

 ちょっと不思議に思いました。
 ざっくりしていますがお答えいただければ幸いです。

Aベストアンサー

>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月何日と言う概念すらありませんでした。そもそも日本では中国由来の暦が数百年に渡って使われており。年号では無く「今年は甲子(きのえね)の年」と言った風に考えていました。いわゆる「干支暦」と呼ばれる暦です。

>Wikipediaによる解説:干支 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

江戸時代以前と明治以降の現代文明社会とでは時間の流れ方が全く違います。江戸時代では手紙を送って、その返事が来るのを1ヶ月以上も待って、それからまた返事を送って相互確認を取り、それで互いに了解して~と言った風に物事が運ぶ時間感覚です。厳密に何月何日の何時までに返信を!~みたいな感覚は一切ありません。また個人で時計を所有してる人も居ません。1日は朝昼晩で良かったし、1週間と言う区分も明治以降に西洋文明と共に入ってきた制度です。

江戸時代は主に住んでる地域の神社仏閣で月に行われる「お祭りの日付」を基準に月日を勘定するのが一般的な習慣でした。例えば今ならデートの約束を「明日、2月3日の15時に駅前で」みたいに行います。江戸時代なら「お稲荷さんの次のお祭りの前の日に六角地蔵の前で」みたいになります。現代人みたいに正確に何時何分と言う概念自体がありません。早く来過ぎたり、或いはのんびり出掛けて相手を何時間も待たせて、特に怒ったりはしません。だってそう言うものだからです(なので待ちぼうけやすれ違いも当たり前でした)。

>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月...続きを読む

Q江戸時代の農家の日記で、綿のぬりはざ

江戸時代の農家の日記で、綿のぬりはざ・・という言葉が出てきます。
6月です。天保年間のことですが、寛政年間でも、5月に、綿中ぬりはさ・・とでてきます。
どういう作業をいうのでしょうか。

1月には、はざ取り始、とか・・2月はざ取り・・とかでてきます。
はざ・・とは、稲木のことしかでてきませんが・・。教えてください。

Aベストアンサー

興味を持ちましたので調べてみました。
おそらくこれではないかと思います。「はさ意味」と検索すると出てきます。

はさ【稲=架】

《挟(はさ)む、の意。「はざ」とも》竹や木を組んだ、刈った稲を掛けて乾かす設備。稲掛け。《季 秋》「―の道朝夕きよくなりにけり/林火」

稲木(いなぎ、いなき、いのき)は、イネなどの穀物や野菜を刈り取った後に束ねて天日に干せるように木材や竹などで柱を作り地上から干す材料が地面につかない程度の高さに横木を何本か掛けて作ったもの。地方によって稲掛け(いねかけ、いなかけ)、稲機(いなばた)、稲架(はさ、はざ、はせ、はぜ、はで)など異称も多い。

Q江戸時代の元号の文字 画像あり

添付は、私の先祖(たぶん江戸時代の後期)が、将来の子孫のために、その子孫が亡くなった際の戒名を付けるルールを予め寺と定めたものです。大金を支払い、戒名の文字数の確保や、戒名の下二文字のルールを決めたそうです。

その寺からの許容書の実際の画像です。
左には、元号が見えます。十二月の前は 何と云う元号でしょうか

八良衛門 は 私の先祖の名前です

また、他の文字も読めれば 教えてください

Aベストアンサー

rodste さん、こんばんわ。

たぶん、慶応二寅の年と書かれていると思います。

後半の部分ですが、「永世に○○○居士、大姉を許容せしむものなり。」でしょうか?

Q江戸時代の「江戸」以外

最近では江戸時代について書かれた本が多数出ていますが、
大多数が「文化が熟した頃の江戸」の話で、他所の話はあまり書かれていません。
そして内容も「江戸礼賛」のようなかんじのものがほとんどです。
もちろんそれはそれで構わないのですが。
例えばイザベラバードの旅行記には、明治に入ってもなお東京を離れたら、
不潔、不衛生のオンパレードのような様子が醒めた視点で書かれています。
江戸時代の地方に関して、できれば江戸と対比するようなかんじで、
詳しく解説された本がありましたら教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の人自身が表した書物で、現在でも入手しやすく有名なものとしては、雪国新潟の暮らしを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』、東北・北海道(蝦夷地)に住む人々の暮らしを描いた菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』があります。それぞれ岩波文庫と東洋文庫に収録されています。

Q江戸時代の大名家、官位・伺候席などの一覧

江戸時代の大名家の官位や伺候席、石高等が一覧できるサイトを以前見た事がありました

詳しく見られるサイトをご存知の方、お教えください

Aベストアンサー

参考URLの江戸三百藩HTML便覧のことではないでしょうか。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代以前の江戸

江戸時代以前の江戸とはどのような所だったのでしょうか?

歴史に殆ど登場しないので、太田道灌が江戸城を築城したことくらいしか知りません。

徳川家康は当時無名だった江戸をなぜ選んだのでしょうか?

Aベストアンサー

 もともと江戸は、寂しい漁村に過ぎず、江戸という地名も「入江の門戸」の村を意味していました。

 鎌倉時代に江戸氏がこの地と関わりを持ちましたが、とくに長禄元年(1457)に上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いてから城下町が出来ました。

 その江戸城は、戦国時代には小田原の北条氏の一支城となり、遠山氏が上代を務めて支配していました。

 家康が天正18年(1590)に江戸に入府した頃は、「町屋なども、かや葺きの家百ばかりもあるかなし」で、「城も形ばかりに、城のようにこれもなく」というありさまだったということです。 

 なお、徳川家康が江戸を選んだのではなく、豊臣秀吉から領地替えを命じられ、苦渋の思いをしながら江戸に入府したのです。

Q【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆

【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆に順番に回って行きたいです。

1番最初は京都御所で、2番目が確か兄が弟を殺して、恨みや祟りで平城京を平安京に都を移す際に最初に建てて弟の祟りから逃れたとされるお寺です。3番目はどこか忘れましたが京都の名所が3巻に纏められていた気がします。

Aベストアンサー

都名所図会(みやこめいしょずえ)

Q江戸時代の上方と江戸文化の違い

上方が「いかに生きるか」
江戸が「いかに楽しむか」
だと思っていますが、あっているでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにすること」など、本来の文化に求められるものは全て有していたと思います。

しかし、江戸幕府成立後、江戸の地には新しい文化をつくりあげようとする機運が急激に高まってきたのです。とはいえ、その初期の時代は、いまだ京都を中心とした上方文化の影響を強く受けていました。

ところが、政治の中心地、人口の増加の顕著な江戸には、次第に独自な江戸文化が完成して行きます。これに対し、上方は伝統的な文化が存続し、江戸時代の中期以後は両文化が併存するとも考えられます。 江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。 

江戸時代も後半になりますと、江戸の文化の隆盛に比べ、上方の文化の影がやや薄くなる感もあります。だが、上方文化は消失することはありません。

時代も下ると文化の中心は江戸へとシフトしていきます。
 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だったのです。

このように文化の勢い、新鮮さなどにおいては江戸文化のほうに軍配が上がるかもしれませんが、伝統、質等の面では上方も引けは取らなかったと思います。

「いかに生きるか」は上方も江戸も、というより江戸の方が大変だった時代です。みんな大変な時代にあって、いかに楽しむかを大事にしていたのではないでしょうか。

江戸時代の江戸と上方の文化の違いについての見解が示されておりますが、この見解はあまりにも短絡的ではないかと思います。

徳川家康が江戸の地を踏むまで、江戸は単なる片田舎だったのです。
したがって全ての中心は「上方」(上という字が使われていることに注目)にありました。京都に行くことが「上る(のぼる)」であり、江戸に行くことは」下る(くだる)」だったのです。

したがって、上方の文化が単に「いかに生きるか」だけではなく「楽しむこと、生活に潤いを持たせること、情緒を豊かにするこ...続きを読む


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