足利市に常見町と言う町がありますが、常見町若しくは常見姓についてご存じの方教えて頂きたい。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

 常見町の由来に付いては不明。


 古墳時代に作られた、大きな古墳が正善寺にあり、本堂などがその上に建っている。
 奈良・平安時代は東山道が近くを通り、条理の区画がされていたかもしれない。
 鎌倉・室町時代は農村地帯ぐらいしか分からない。足利荘に入るので足利氏の支配地となり、戦国時代には支配関係がかなり変わるが省略
 江戸時代の支配関係は(途中からですが幕末まで)旗本の真田家・内藤家の知行地で合計370石と比較的狭い村でした。
 コミニテイであるお寺は今の天台宗正善寺、神社は星宮神社で古くは虚空蔵様を祀ってあった。
 袋川が近く。台風シーズンには洪水を受けるが、渡良瀬川の方が台風による実害は多かったと思われる。
 猿田河岸に近く、情報の入手は早かったと考えられる。
 七ヵ村用水が江戸時代に造られている。七ヶ村は助戸・勧農・岩井・山川・常見・八椚・北猿田。寛文7年代官、岡上次郎兵衛の指図を受け袋川を堰き止め引水。これにより百四十町九畝歩の水田を灌漑した、全長は約5Km。これにより農業は大いに発展した。
 明治の情報はほとんどない。鉄道が近くを通るが駅から遠く発展が遅れる。
 大正10年頃電灯が入る(星宮神社の石碑より、この年代は比較的早い方、東京渋谷が大正8年頃なので・・・)。
 昭和に入っても水田地帯が続いた。
情報として、足利市のHPなどを参考に。
 2009/2/5 AS21

参考URL:http://www.watv.ne.jp/~myousho/index.html
    • good
    • 0

参考になるか分かりませんが、GOOGLEで検索したら下のURLのページにたどり着きました。

近代足利市史が少し載っています。
常見は昔は恒見だったようです。

詳しく知るにはその土地の図書館などに置かれた風土記などを見るとよく分かると思います。

参考URL:http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/ashikaga-kindai …
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

QNihon no Kojin no Denwa-Bango

Swiss kara Internet de soko no Kojin no Denwa-Bango sagasemasuka ? US kara Swiss ni
kite 30nen ijo osana-tomodachi, gakko-no-tomodachi no jusho ha wakatte imasuga, Denwa
Bango (kojin) ha mada mitsukeraremasen.
Sochira no Internet no adress o oshietekudasai, Yoroshiku

Aベストアンサー

Nihon no NTT(Nippon Telegraph and Telephone company) deha YELLOW-PAGE(Kojinmei denwachou) to onaji
naiyou o nihon kokunaimukeni pasokon-tsushin housiki de teikyousiteimasu.(internet deha arimasen)
kono service ha kokunai muke de tsuwaryou to jouhouryou o seikyu suru sikumi to natteimasu.
saikin deha denwachou ni keisai o kibousinai hito mo ooku siraberu noha nihonkokunai demo muzukashii kotoga ooidesu.

日本のNTTではイエローページ(個人名電話帳)と同じ内容を日本国内向けに、パソコン通信方式で提供しています。(インターネットではありません)
このサービスは、国内向けで、通話料と情報料を請求する仕組みとなっています。
最近では電話帳に掲載を希望しない人も多く、調べるのは日本国内でも難しいことが多いです。

kono service ha kaigai kara ha tunagaranai to omoimasu.
このサービスは海外からはつながらないと思います。
for example
http://www.ntt-east.co.jp/angel/

Nihon no NTT(Nippon Telegraph and Telephone company) deha YELLOW-PAGE(Kojinmei denwachou) to onaji
naiyou o nihon kokunaimukeni pasokon-tsushin housiki de teikyousiteimasu.(internet deha arimasen)
kono service ha kokunai muke de tsuwaryou to jouhouryou o seikyu suru sikumi to natteimasu.
saikin deha denwachou ni keisai o kibousinai hito mo ooku siraberu noha nihonkokunai demo muzukashii kotoga ooidesu.

日本のNTTではイエローページ(個人名電話帳)と同じ内容を日本国内...続きを読む

Q室町幕府の成立時、観応の擾乱における足利直義と高師直の対立の原因は何だ

室町幕府の成立時、観応の擾乱における足利直義と高師直の対立の原因は何だったのでしょうか?

Aベストアンサー

独裁
簡単に独裁と書きましたが、鎌倉幕府における独裁というのは、鎌倉幕府の中における独裁です。
具体的には、徳宗政権時代において、北条家の当主(=徳宗)の家臣である御内人を中心に決定された事が、鎌倉幕府にとっての公式な組織である評定衆の決議に優先された、あるいは、事後承認されたというのが、鎌倉幕府における北条家の独裁です。
鎌倉幕府自体は、貞永式目という武家法にのっとり、摂家将軍なり宮将軍を上に戴いていました。
摂家将軍なり宮将軍の特徴は、成人してそれなりの政治的な権威が生まれると、退位させられていました。実際の権力を生む可能性が無ければ、退位させる必要はないわけで、執権なり徳宗として、摂家将軍なり宮将軍が「無きゃいけないが、不具合な存在」であったことを示しています。

師直のセリフだったかは忘れましたが、師直派の婆娑羅大名のセリフに
「帝の代わりに木像でもおいておけ」
というのがあります。政治的権限は必要なしという意思表示です。

コレに対して、直義の目指したのは、公式組織として旧来の公家とも融合して合理的な統治を目指します。
鎌倉幕府の評定衆が御家人だけを対象にしたのに対して、全国規模で合理的な統治を目指したわけで、その対象者は、武家も公家も寺社も含まれます。全国統治の足利家が行うという意味では、直義も独裁ですが、旧来のシステムも含めて、合理的に行うことを目指しました。

師直派は、「恩賞がなければ、荘園から盗み取れ」というセリフがあるように、公家や寺社の立場は考えません。足利家を頂点とした武家集団の利益が求めるものです。
このへんの「ナマ」な欲望の肯定が、独裁的な支配体系となります。
公式に公表している「式目」に則るのではなく、権力者が権力のもとに意志を通すという意味での独裁です。

独裁
簡単に独裁と書きましたが、鎌倉幕府における独裁というのは、鎌倉幕府の中における独裁です。
具体的には、徳宗政権時代において、北条家の当主(=徳宗)の家臣である御内人を中心に決定された事が、鎌倉幕府にとっての公式な組織である評定衆の決議に優先された、あるいは、事後承認されたというのが、鎌倉幕府における北条家の独裁です。
鎌倉幕府自体は、貞永式目という武家法にのっとり、摂家将軍なり宮将軍を上に戴いていました。
摂家将軍なり宮将軍の特徴は、成人してそれなりの政治的な権威が生ま...続きを読む

Q浄土系宗派は仏教と言えるのですか? 素朴な質問です

次の疑問について、よろしくお願いします

①仏教は「お釈迦さん」の教えであるとの原則がある。
②お釈迦さん極端な考えは否定されていた(中道)
  その否定されていたひとつに「常見」があり それは現世と来世が連続しているという考え方であると言われていますが・・

上記のことから起こる疑問ですが 日本仏教の「浄土系宗派」は ②については連続しているとの教えが強いように思えます これだと「仏教」と言えないのではないでしょうか? 智恵の無い私の頭は そう思って それより先に進めません ちなみに私の家は浄土宗です
この辺のところは どのように理解すればよいのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

お礼、ありがとうございます。


☆お釈迦さんが中道を重んじられたのは そんなわからないことは否定 または無視された 極端なことは避けられた
◇「あの世があるか?」という質問に対して、歴史上、実在したゴータマは答えず、「悟りを得ることに無関係、益なし」と沈黙を守った。
形而上学的な質問に対しても一切答えなかった、されております。
これが歴史上実在した釈迦、ゴータマ仏陀のスタイル。

ですが、世界最古の仏典とされる『スッタニパータ』には
「修行僧コーカリヤは死んでから紅蓮地獄へ落ちました」と梵天がゴータマに告げる場面があり、そして、これを受けて、ゴータマが地獄について弟子たちに語っている場面があります。
これは後世に挿入されたものと考えられますが、
最初期の仏典において、地獄、つまり、あの世が語られている。
そして、十二因縁が過去世、現世、来世の三世と関連付けられて理解されている。
ですから、仏陀滅後、数百年して作成された大乗仏典以前に、仏教には既にこうした思想、考え方があったのは事実です。
こうした一連の考え方、教説が、歴史上実在したゴータマの説く仏教とどのような関係があるのかは、ゴータマ滅後2500以上経過している現在において、推測の域を出ないのが実情です。

そして、般若経、法華経、阿弥陀経などの大乗仏典は、歴史上実在したゴータマが説いたものではないのと同様に、
原始仏典とされるパーリ語仏典のほとんどすべてもゴータマ滅後100年以上経過した後に作成されたものであって、ゴータマの教えをそのまま記したものではない。
大乗経典が非仏説であるように、小乗の経典も非仏説なんでございます。
歴史上実在したゴータマの教えがどのようなものであったかについては、今となっては、復元できない。推測の域を出ません。

ですが、私の個人的な見解としてですが、
おそらく、実在したゴータマ、そして、その教えを直接受けた仏弟子たちは、
人々を仏教へ導くために、
あの世や地獄という世俗的な教え、考え方を使ったのだと思います。
つまり、《方便》として使ったんじゃないか。
このように考えております。

ただ、
浄土宗系で常用される浄土三部経どれも紀元後、つまり、ゴータマ滅後500年以上経過され作成された(捏造された?)経典なので、歴史上実在したゴータマの仏教とはかなり違ったものになっているのは事実です。
浄土三部経の一つ、『観無量寿経』は、おそらく中国で作成された偽典(偽のお経)であり、中国や日本の浄土教に大きな影響を与えた『浄土論』もインドで作られたものではない。
また、インドにおける浄土思想、信仰も、仏教本来的なものというよりは、たぶんに異教的なもので、インドの土着信仰や民間信仰、そして外来のゾロアスター教やキリスト教などの影響を受けている、とされております。


まっ、そういうことで。
浄土教が仏教でないのか、ゴータマ説を順次拡大し発展させた仏教の発展形なのか、
この判断は質問者さんにお委ねします。

お礼、ありがとうございます。


☆お釈迦さんが中道を重んじられたのは そんなわからないことは否定 または無視された 極端なことは避けられた
◇「あの世があるか?」という質問に対して、歴史上、実在したゴータマは答えず、「悟りを得ることに無関係、益なし」と沈黙を守った。
形而上学的な質問に対しても一切答えなかった、されております。
これが歴史上実在した釈迦、ゴータマ仏陀のスタイル。

ですが、世界最古の仏典とされる『スッタニパータ』には
「修行僧コーカリヤは死んでから紅蓮地獄...続きを読む

Q「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内

「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内与力と同心・勘定奉行・代官・大奥女中・火付盗賊改・乱行大名・悪徳商人などが定番ですが、長崎奉行・京都所司代・京都町奉行・京都六角牢屋敷の雑色・禁裏附・大坂城代・駿府城代・大坂町奉行・日光例幣使・御数寄屋坊主・大目付・御目付・高家(今川氏・織田氏・六角氏など)・参勤交代した旗本=交代寄合(本堂氏・生駒氏・山名氏など)・関東取締出役・御三家・御三卿・五摂家・勅使・武家伝奏・議奏・御三家付家老五家・対馬藩倭館館守・薩摩藩琉球在番奉行・松前藩主・大藩の万石級の大名家臣(徳島藩の稲田氏・薩摩藩の種子島氏・仙台藩の片倉氏・加賀藩の長氏・奥村氏・佐賀藩の諌早氏・高知藩の伊賀氏・広島藩の上田氏・彦根藩の木俣氏など)・寺社奉行・勘定吟味役・甲府勤番支配・山田奉行・飛騨郡代・西国郡代(九州日田)・美濃郡代・奈良奉行・佐渡奉行・御鉄砲百人組頭・大番頭・書院番頭・小姓組番頭・中川番・天文方・阿蘭陀商館長・商館員・清国人商人(唐人)・門跡寺院坊官・公家(土御門氏・日野氏・綾小路氏など)・公家侍・寺侍・大身旗本(横田氏・本多氏・安藤氏など)など、他にも悪役で登場すると面白そうな素材がたくさんあると思うのですが、何故同じ様な悪者ばかり出るのでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内与力と同心・勘定奉行・代官・大奥女中・火付盗賊改・乱行大名・悪徳商人などが定番ですが、長崎奉行・京都所司代・京都町奉行・京都六角牢屋敷の雑色・禁裏附・大坂城代・駿府城代・大坂町奉行・日光例幣使・御数寄屋坊主・大目付・御目付・高家(今川氏・織田氏・六角氏など)・参勤交代した旗本=交代寄合(本堂氏・生駒氏・山名氏など)・関東取締出役・御三家・御三卿・五摂家・勅使・武家伝奏・議奏・御三家付家老五家・対馬藩倭館...続きを読む

Aベストアンサー

>何故同じ様な悪者ばかり出るのでしょうか?

単純な理由ですね。
必殺シリーズは、TBS放送から始まりテレビ朝日で終了しました。
つまり、ローカル番組でなく全国放送番組なんです。
ですから、視聴者の誰もが理解できる江戸時代の役所といえば限られるのです。

もし、関西ローカルキー局(朝日・毎日・よみうり・関西・大阪)が関西地方向けに必殺を手がけていれば、京都所司代・大阪城代・京都奉行所・大坂奉行所などが主流になったでしようね。

Q栃木県足利市出発で半日旅行のおススメ教えてください!

女2人で5月1日に大阪を出発し、友人宅(栃木県足利市常見)に宿泊します。
友人の仕事の都合上、5月2日は大阪から行った私達だけで、
夕方頃までの散策・旅行・観光をしようと思っています。

トチカンがないだけに、どこへ行けば良いのか全く分からないので、
お勧めのスポットを教えてください。

私の希望(条件)は…
・朝~夕方までで帰って来れる場所。
・車はないので、移動は公共機関。
・好奇心旺盛なので、ジャンルなどの希望はありません。

“栃木に行って来たよ!”又は“関東に行って来たよ!”というような
特有のスポット情報お願いします。

Aベストアンサー

ちょっと.興味のない方には最悪のコースになるかもしれません。

足利から両毛線で桐生へ.
桐生から足尾線(渡良瀬渓谷鉄道)でたしか.東村(疑問)だと思いましたが.駅構内に温泉が有ります。
足尾線そおり駅下車徒歩4kmで有名な絵描きさん(人名忘却)の美術館が有ります。時間が有れば草木ダムダムサイトのドライブインによっても良いでしょうし.足尾銅山による事も可能です。注意点は足尾線が1時間に1本以下の運転程度しかないので.列車に乗り遅れたら帰れなくなる事です。ダイヤは十分に調べてください。

別のこーすは.足利から佐野方面に1駅(とみた駅)乗ると.徒歩約500mで栗田美術館があります。さらに隣の佐野には佐野厄除け大師が有ります。両者を歩くと大体1日つぶれます。

生っ粋に関東地方を楽しみたいのであれば.両毛線で小山まででかけ.東北線の小金井で折ります。徒歩2-4kmの範囲に国分寺・国分にじ・かいだんいん跡地などが有ります。ただ.かいだんいんの意味がわからない方には苦痛以外の何者もないでしょう。

日光に出かけたいのであれば.栃木乗り換え・新栃木乗り換えの東武日光線が比較的便利です。

益子ならば小山・下館乗り換えが便利でしょう。休日ならば蒸気機関車c12が運行されるはずなので.ダイヤを調べてから利用するかどうか検討してください。ただ.焼き物の販売が主体なので焼き物に興味のない方には薦められません。陶芸の村・陶芸の森等類似した名称の観光施設があるので混乱しないようにしてください。駅からもっとも東の施設の陶芸の森(アスレチック広場)迄約3kmあります。

ちょっと.興味のない方には最悪のコースになるかもしれません。

足利から両毛線で桐生へ.
桐生から足尾線(渡良瀬渓谷鉄道)でたしか.東村(疑問)だと思いましたが.駅構内に温泉が有ります。
足尾線そおり駅下車徒歩4kmで有名な絵描きさん(人名忘却)の美術館が有ります。時間が有れば草木ダムダムサイトのドライブインによっても良いでしょうし.足尾銅山による事も可能です。注意点は足尾線が1時間に1本以下の運転程度しかないので.列車に乗り遅れたら帰れなくなる事です。ダイヤは十分に調べ...続きを読む

Q徳川姓と松平姓の関係

徳川一門でも、徳川を名乗ったり、松平を名乗ったりしていると思います。
親族でこの2つの姓名はどのように使われているのでしょうか(2つの姓のボーダーラインはどこで切られているのでしょうか)?
又、松平姓は、徳川の遠縁を含んで、皆、徳川家の親戚なのでしょうか?
親戚の中で2つの苗字を分けるのは何の為なのでしょうか?理由があるとおもうのですが・・・。
教えて下さい。m(__)m

Aベストアンサー

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他の兄弟は次男秀康は結城家に4男忠吉は東条松平家に、5男信吉は武田家、6男忠輝は長沢松平家…と養子に出されてました。
つまりたとえ家康の子でも一度他家へ養子に行ったものは徳川姓は与えられなかったと言う事です。

同様に秀忠の4男保科正之も高遠藩主、保科正光の養子となっていて兄忠長と異なりのちに与えられたのは松平姓でした。
徳川家宣の弟・松平清武も越智家の養子となっていたため、のち松平姓が与えられています。

御三卿に関しては吉宗長男・家重に障害あると言うことで、そのスペアとして次男・宗武、4男・宗尹を江戸城内に住ませたのが起源ですので、存在目的が「将軍継嗣」でしかないと言う事もあり、将軍継嗣の条件である徳川姓が与えられたと言う事情によるものです。

なお水戸頼房に関しては徳川姓が与えられたのは徳川忠長死後であり、それまでは松平頼房と名乗っていました。
水戸家に関しては将軍継嗣になれないと言う事柄は公武応勅法制十八ヶ条を根拠としています。しかしこれは偽書であり実際にはこう言う規定はありませんでした。事実水戸綱条が将軍候補者としてに名前が上がった事もあり、水戸光圀も綱条が尾張・紀伊がダメなら水戸が将軍になると発言しています。

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他...続きを読む

Q中国語の「TA」は「彼女」ですか?

中国語の「TA」は「彼女」ですか?

中文の中に羅馬字で「TA」があるんですが、意味は「彼女」ですか?
けっこうこうの書き方は、簡単な書面の中で、よく使われるんですか?

Aベストアンサー

"TA"指出的在日文上是”この人、その人、あの人、彼氏、彼女”
・不過従看上下文来,我的例句上的意思就是”彼氏hai是彼女”
ていうことですか?--------はい

"TA"は”この人、その人、あの人、彼氏、彼女”である
しかし、僕の文脈では”彼氏、彼女”である-------はい

けっこう"TA"と書くことは、常見ですか?-------常見ですか。例えば:他/?很?明=彼はとても聡明です。他/?是我的老?=he/she is my techer=彼は私の先生です。

Q日本の姓と苗字:姓と諱の間に「の」が入るが苗字と諱の間には「の」が入らないことについて

古来、日本では姓と苗字は別です。姓と諱の間に「の」が入るが苗字と諱の間には「の」が入らないですよね。さて
1)「豊臣」は天皇から賜わった「姓」ですよね。苗字とは違います。だったら「とよとみひでよし」ではなく「とよとみのひでよし」というのではないのですか。
2)江戸時代は姓で呼ばれる人はあまりいないようですが、荷田春満 は「かだのあずままろ」、賀茂真淵は「かものまぶち」というからには荷田と賀茂は姓ですか。かれらは苗字でなく姓で呼ばれてたのですか
3)江戸時代で他にも「の」がついてる人はいますか
全部でなくても部分回答でもいいのでよろしくおねがいします。

Aベストアンサー

 
 慣例や原則に関する学説は、誰もが自由に述べることができますが、
人名辞書においては、表記統一のため、二者択一を迫られます。
 どちらが正しいかは別として、わたしは辞書の凡例を重要視します。
 
── 長音符号、中黒(・)は無視し、清濁については、清音、濁音、
半濁音の順とした。
── 《新潮日本人名辞典   19910305 新潮社  》P0007/18000名
 
── 「蘇我・藤原・源・平」など古代から中世にかけての人物の読み
仮名などでは、多くの場合慣例により「うじ名」あるいは「姓」と「名」
の間に小文字の「の」をつけて表記し、「おおとものやかもち」のよう
にした。この「の」は中黒「・」と同じ扱いとして項目配列の際には無
視している。
── 《朝日日本歴史人物事典 19941130 朝日新聞社》P0003/13000名
 
 新潮:ふじわらの「藤原 顕季~藤原 ●子」(●=才+侖)
 朝日:ふじわらの「藤原 顕季~藤原 麗子→陰明門院」
 いずれも「藤原 惺窩=ふじわら・せいか」が孤立しています。
 
 方法論としては、上記の姓と生没年代を抽出し、「の」の有無を分別
すれば、慣例や傾向を知ることができます。回りくどいようでも、諸説
を照らしあわせるよりも、簡明な成果が得られると思います。
 
── 本書は明治十九年に初版刊行以来、学者や専門家だけでなく、広
く一般教養人に支持されて多くの版を重ね、更に増訂を繰り返し、不朽
の名辞典として定評を得た。遠く記紀神話の神々から昭和初年の重要人
物まで、日本歴史上の主要人物は完全網羅。ことに古今の文献を博捜し
た精細な記事は、読んでおもしろいとの評判を呼んだ。
 さらに本最終巻には、名家系譜・歴史年表・刀剣鍛冶叢伝など、他に
類を見ない貴重な歴史資料をも収録した。(カバー)
── 《大日本人名辞書(五)19800810 講談社学術文庫》約10000名?
 

 
 慣例や原則に関する学説は、誰もが自由に述べることができますが、
人名辞書においては、表記統一のため、二者択一を迫られます。
 どちらが正しいかは別として、わたしは辞書の凡例を重要視します。
 
── 長音符号、中黒(・)は無視し、清濁については、清音、濁音、
半濁音の順とした。
── 《新潮日本人名辞典   19910305 新潮社  》P0007/18000名
 
── 「蘇我・藤原・源・平」など古代から中世にかけての人物の読み
仮名などでは、多くの場合慣例により「うじ名」あるいは「姓」と...続きを読む

Qあまり裕福でない人が主人公の漫画

「世界でいちばん優しい音楽」のように、母子家庭ものや、あまり裕福でない家庭が主人公の漫画が読みたいです。
変な注文ですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
川原泉さんの漫画は、主人公が母子家庭か、両親とも亡くなっている、という設定が多いです。
最近は、白泉社文庫から出ているようです。
よろしければ、探してみてください。

Q金さんや朴さんのように、韓国人の姓が1字になったのはいつ頃から? そして日本で最初に姓をもった人は誰?

今の韓国人の99%以上の人の姓は1字で表しますよね。 ごくたまに日本人のように2字の姓をもった人がいるようですが、ほとんど見かけないようです。

金や朴、あるいは李といった姓が多いと思うのですが、これは数百年前 (?) に当時の中国王朝の真似をして1字の姓をもつようになったから、という話を聞いた事があります。 それ以前にはこのような姓は朝鮮半島には存在しなかったようです。

質問ですが、彼らが姓を1字にするようになったのはいつ頃の事ですか?

それ以前の古代朝鮮人の一般的な姓にどのようなものがあったのでしょうか?

それと1字だけの姓が、歴史的に日本に根付かなかったのはなぜでしょうか? だって日本も相当、中国の影響を大きく受けていた時代があったと思うのですが ・・ 

もちろん、一般庶民が姓を持つようになったのは明治以降であるのは知っていますが、たとえば蘇我氏や物部氏など古代日本でもやはり2字の姓が普通だったように思います。

それとすみません、もっと古代の邪馬台国の時代には姓という概念がなかったのかもしれませんが、日本で最初に 「姓」 をもった人は誰ですか? そしてその姓とは?

詳しい人がおられたら教えてください。

今の韓国人の99%以上の人の姓は1字で表しますよね。 ごくたまに日本人のように2字の姓をもった人がいるようですが、ほとんど見かけないようです。

金や朴、あるいは李といった姓が多いと思うのですが、これは数百年前 (?) に当時の中国王朝の真似をして1字の姓をもつようになったから、という話を聞いた事があります。 それ以前にはこのような姓は朝鮮半島には存在しなかったようです。

質問ですが、彼らが姓を1字にするようになったのはいつ頃の事ですか?

それ以前の古代朝鮮人の一般的な...続きを読む

Aベストアンサー

朝鮮の1文字姓は、新羅(前57-676)ですでに見られるようです。
日本書紀には、帰化人の名前で、1字姓ではない人も見られますが、それ以後はほとんどいなくなるようです。
その頃、百済では「扶余豊璋(ふよ・ほうしょう)」とか「鬼室福信(きしつふくしん)」という名前がありました。

日本が1字姓を取り入れなかったのは、儒教を制度のみ取り入れたからだと思います。
当時の中国は、すでに何千年も文化の栄えた大文明国でした。
朝鮮も日本も自分の国を立派にするために、何でも取り入れることをしていました。(平安京も東大寺大仏も、当時の日本の国力では相当無理して作りました)
しかし儒教はその本質に、祖先祭祀「孝」という考えを持つために、日本の婚姻制度に合わなかったようです。
なぜかというと祖先祭祀のためには、名前を絶やすことが出来ず、そのため父と母の名前が違うのが当然になります。(現に韓国・中国は今でもそうです)また、血統が絶えるのが一番困るので、親族での婚姻は絶対のタブーとなりました。(韓国では今でも名字・本貫が一緒だと結婚できない)
それに比べて日本は、いとこ同士が結婚するのは当たり前のような婚姻体系(源氏物語ですね)でしたから、そのまま儒教的なものを取り入れるのが困難だったのではないかと思います。

ちょっとこの文字数ですべてを書けないのですが、とにかく祖先祭祀のためには、家系を残すシステムを作らなくてはならず、そのために1文字性を取り入れるのが一番簡単なのですが、そんなことをすると、やっと出来た大和朝廷(貴族社会で親族婚)が崩壊してしまうために、取捨選択をして、ほかに取り入れなかった文化と共にあっさり捨ててしまったのでしょう。
しかしこれは当時としてはとても勇気のいる選択です。だって2文字以上の名前は野蛮人だといっているようなものですから、せっかく平安京などを作っったのに、当時の文明国からはそうとうバカにされたはずです。

その後日本の名字は、地名や官職などから多岐にわたっていきます。豊臣秀吉の刀狩以後、農民身分は名字を使うことを禁じられますが、もともとはみんな名字をもっていたのです。

日本最初の姓はだれかというとむずかしいですね。姓とか名字とかいう概念は、村程度の集落が出来れば、親戚を表すために必ず必要になります。家名が同じ集落なら、ミドルネームで上田んぼの○○さん、などと表現しますので、これもそのうち名字として認めれられていきました。
強いて言えば、日本武尊(やまとたけるのみこと)あたりなのでしょう。

朝鮮の1文字姓は、新羅(前57-676)ですでに見られるようです。
日本書紀には、帰化人の名前で、1字姓ではない人も見られますが、それ以後はほとんどいなくなるようです。
その頃、百済では「扶余豊璋(ふよ・ほうしょう)」とか「鬼室福信(きしつふくしん)」という名前がありました。

日本が1字姓を取り入れなかったのは、儒教を制度のみ取り入れたからだと思います。
当時の中国は、すでに何千年も文化の栄えた大文明国でした。
朝鮮も日本も自分の国を立派にするために、何でも取り入れることをしてい...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報