以前、寺山修司選「旅の詩集」という本の中で三好達治の「はまひるがほ」という詩を見かけ、気に入ったので改めて三好達治の著作から探したのですが、全集の中にもこの詩が見当たりません。どなたか彼の詩集の中でこの詩が入っている本をご存知ないでしょうか。

A 回答 (1件)

『駱駝の瘤にまたがって』創元社 昭和27年刊行



上記詩集が初出のようです。1960年代に出た筑摩書房の
「定本三好達治全詩集」に収録されています。

現在市販されている本ではどれで読めるかわかりません。
(すいません)

参考になりそうなURLを記しておきます。

参考URL:http://www.comminet.or.jp/~yoshiaki/

この回答への補足

レスポンスが遅れまして申し訳ありません。
ほるぷ出版「日本の詩 三好達治」
中央公論社「日本の詩歌 三好達治」
新潮文庫「三好達治詩集」

いずれも「駱駝の瘤にまたがって」は収録されているのですが「はまひるがほ」はありませんでした。
引き続き情報を募集いたします。

補足日時:2001/02/04 16:00
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。図書館などで探してみます。

お礼日時:2000/12/12 21:11

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q三好達治の「わがふるき日のうた」

 三好達治の「わがふるき日のうた」の中の「雪はふる」の歌詞、”海にもゆかな 野にゆかな かへるべもなき身となりぬ”の意味が釈然としません。
松下泰久氏によると、”海にも野にも死に場所を失った詩人には、帰るべき故郷も生活をともにする家族もなく・・”と解説している一方、口語訳として”死に場所を見つけるために海に行きたい、野に行きたい・・」と逆の解釈をしています。
http://kuradan.hp.infoseek.co.jp/siryou/wagafurukihi.htm
接尾語の「な」には否定の意味もある一方、次の歌に示すような肯定的な使い方もあるようです。

  秋風は涼しくなりぬ馬並めて
     いざ野にゆかな芽子が花見に(万葉集巻一〇ー二一〇三)

 「雪はふる」の場合は、「帰る所もないので、死に場所を求めて海か野に行こう」なのか、それとも「海にも野にも自分が死ねる場所はない」のか、どちらをとるべきでしょうか?
 それから”すぎこし方なかへりみそ”の接尾語の”みそ”についての解説も併せてお願いいたします。

Aベストアンサー

 終助詞(学校文法では「接尾語」には分類しません。)の「な」が禁止の意味を表すのは、動詞・動詞型助動詞の終止形、ラ変型活用語の連体形に付いた場合です。
 
 「行く(文語では四段活用)」は終止形が「行く」ですので、「行くな(ゆくな)」が禁止の言い方になります。

 これに対して、終助詞「な」が動詞・動詞型助動詞の未然形に付いた場合は、「~したい、~しよう」という自身の希望・意志もしくは、他人を誘う「勧誘(~しようよ)」を表します。

 質問者が引用されている万葉の例の場合は、はこの用法に該当します。「行く」の未然形が「行か」だからです。(「馬並めて」ですから、「みんなで」ということで、勧誘でしょう。)
 
参考:yahoo辞書(大辞泉)
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%A4%CA&dname=0na&dtype=0&stype=0&pagenum=51

 達治の詩も「ゆか・な」ですから、ここは後者の用法です。ここは自身の意志を示すと考えればよいと思います。


 中央公論社の「日本の詩歌」の『三好達治』(解説:阪本越郎)には、該当の詩に、「海にも山にも行きどころのなくなった詩人は、終(つい)の栖(すみか)を雪の中に見出だした」として、一茶の「これがまあ終の栖か雪五尺」を参考に引用しています。

 ここでも「海にも山にも行きどころのなくなった」とあるわけですが、文法的には「死ねる場所はない」ととるのは無理があります。そこで私はこう考えたいと思います。

 「海にも行こう、山にも行こう」というのは、海もしくは山を望ましい場所として列挙しているのではないのです。どちらも安らかに暮らせる場所でも、死に場所として適切なところでもないのです。だから結局どこへいっても同じ。海にも山にもこだわってはいなくて、野でも川でもいいのです。ただ、例として海と山をだしただけなのです。
 
 「どうせ私には行くところはない、だから海にでもいってしまおう。あるいは山にでもいってしまおう。どこへいったところで同じだ。もちろん帰るべき所もない身となったからには、故郷も安住の地ではないのだ。」……こんな感じではないでしょうか。


 なお、「なかへりみそ」は、「な・かへりみ・そ」と三つの単語に分かれます。
 「な」が副詞、「そ」が終助詞で、間に動詞の連用形(サ変・カ変動詞は未然形)をはさみ、禁止を表します。「~するな、~してくれるな」という意味です。

 「過ぎこし方」=「過去」ですから、「な・かへりみ・そ」で「(過去を)振り返るな」というような意味になります。自分自身に言い聞かせる言葉でしょう。

 終助詞(学校文法では「接尾語」には分類しません。)の「な」が禁止の意味を表すのは、動詞・動詞型助動詞の終止形、ラ変型活用語の連体形に付いた場合です。
 
 「行く(文語では四段活用)」は終止形が「行く」ですので、「行くな(ゆくな)」が禁止の言い方になります。

 これに対して、終助詞「な」が動詞・動詞型助動詞の未然形に付いた場合は、「~したい、~しよう」という自身の希望・意志もしくは、他人を誘う「勧誘(~しようよ)」を表します。

 質問者が引用されている万葉の例の場合...続きを読む

Q寺山修司の短歌

長年寺山ファンをやっています。
この間高校の国語の教科書に寺山さんの短歌を見つけ、喜んで見ていました。そしたらその中に、「一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを」という短歌が載っていて、その下に、「血とはなんの比喩か」という問題が載っていました。よく解らなかったので教科書ガイドを見たら、「孤独と反抗の心を表している」と書いてありました。ちょっと納得いきません。というか、よくわかりません。「血は立ったまま眠っている」の戯曲を読んでみたら、確かに孤独と反感の心がかかれているように感じましたが、血の比喩といわれると、えー?って、思ってしまいます。詩の意味もわからないようじゃファン失格です。困ります。
だれか、どうして血の比喩が孤独と反感の心なのか教えてください。

Aベストアンサー

mayaroさん、こんにちは。

教科書にかかれているものがすべて正しいとは
かぎりません。

数学などは答えが決まっているものもありますが
国語などで、作者の考えはどれか4択でえらべ
などという問題は、自分の納得できないものが
正解になることがあります。

自分は、国語の試験とか問題って言うのは
ほとんどその人その人、違う考えをもっているので
本当はどれが正解ってきめるのは、間違っていると思うのです。
どうして、血の比喩が、孤独と反感の心かっていうことですが、
本歌取りについて、ご自分で少し調べてみてください。
なにかヒントのようなものがあるかもしれませんので。

「すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。
まわっているけど、前進しない」    
 <寺山修司「あゝ、荒野」>



自分も寺山修司さんのファンです。
よろしければ、↓のページもみてください。
記念碑などの写真をみつけました。

http://www3.alec.ac.jp/~b97102/page/011-06.terayama.html

参考URL:http://www.threeweb.ad.jp/~nanten/air/space/text.html

mayaroさん、こんにちは。

教科書にかかれているものがすべて正しいとは
かぎりません。

数学などは答えが決まっているものもありますが
国語などで、作者の考えはどれか4択でえらべ
などという問題は、自分の納得できないものが
正解になることがあります。

自分は、国語の試験とか問題って言うのは
ほとんどその人その人、違う考えをもっているので
本当はどれが正解ってきめるのは、間違っていると思うのです。
どうして、血の比喩が、孤独と反感の心かっていうことですが、
本歌取りについ...続きを読む

Q三好達治(花のたね)の意味を教えて下さい

下の4行詩ですが、意味がよくわかりません。
分かる方がいらっしゃったら、是非よろしくお願い致します。

たまのうてなをきづくとも
けふのうれゐをなにとせん
はかなけれどもくれなゐの
はなをたのみてまくたねや

Aベストアンサー

 作品は作者の手を離れたときから一人歩きするという考え方もありますから、様々な解釈があってもよいのだとは思います。
 しかし、私は、「花のたね」が収録されている詩集『駱駝の瘤にまたがって』の「閒人断章」の部分の、他の作品と合わせ読んでみて、「たまのうてな=砲台」説には与することができません。

 少し古いですが、旺文社文庫の村野四郎編『三好達治詩集』(昭和44年初版)には、同じ「閒人断章」に含まれている「ひと日むなしく」についての解説には「戦後社会に対する批評的感情がモチーフになっている」と記されてていて、戦時のことを読んだ詩とは理解されていません。

 また、同書では、「花のたね」の解釈として、

> たとえ立派な夢をこしらえて、そこに花を咲かせたところで(よくそうした飾り立てた詩を作る人がいるが)、そのときの本当の心情を、どうしようもあるまい。
 自分が作る詩は、たとえはかない花であっても、紅く咲いてくれと願って蒔(ま)くたねのようなものだ、という

と記されています。

 これも古いですが、中央公論社「日本の詩歌」シリーズの22巻『三好達治』(昭和42年初版)には、まず、「ひと日むなしく」について、

> 三国(引用者注:福井県。昭和19年3月から同24年2月まで過ごす)での空虚な日々、一日を憮然(ぶぜん)として所在なく空費してしまうが、心では世を慨嘆し怒っているのだ。

とあります。

 さらに「花のたね」については、「達治の優美な抒情詩人の一面を物語る」「憂愁の人の悲しい思念をのべている」と評されていて、戦場に向かう勇壮な兵士を詠んだものというのは、やはり一般的な解釈ではないと思わされます。

 深い意味はともかくとして、

 (自分の心を喜ばせようと)宝石で飾り立てた(ような立派な)高楼を築いたとしても、
 今日の私のこの心の憂いをどうしようか(、どうもできない)。
 (それよりは、せめて)はかない(さほど役に立たない)ことではある(かもしれない)けれども、紅色の
 花を(心を慰めてくれるものとして)期待して、(その花を咲かせる)種を蒔くのである。

というような意味になると思います。

 「金で幸せは買えない」というよりも、「自分の悩みは贅沢を尽くしても癒せないほど深い。しかし、その憂いが少しでもなくなることを期待して(種を蒔くという)努力をするのだ」という感じではないでしょうか。」 
 

 作品は作者の手を離れたときから一人歩きするという考え方もありますから、様々な解釈があってもよいのだとは思います。
 しかし、私は、「花のたね」が収録されている詩集『駱駝の瘤にまたがって』の「閒人断章」の部分の、他の作品と合わせ読んでみて、「たまのうてな=砲台」説には与することができません。

 少し古いですが、旺文社文庫の村野四郎編『三好達治詩集』(昭和44年初版)には、同じ「閒人断章」に含まれている「ひと日むなしく」についての解説には「戦後社会に対する批評的感情がモチーフ...続きを読む

Q寺山修司の作品について

最近、学校の授業でいくつかの寺山作品を目にする機会があり、好きになりました。
それでビギナーとしてはどの詩集から読んだらいいのでしょうか?できれば文庫で出ているといいのですが。
教えてください。

Aベストアンサー

詩人としても劇作家としても才能を発揮した人ですが,
何より歌人としての寺山修司の才能には
刮目すべきものがあります。
というわけで,
私は「寺山修司全歌集」をお薦めします。

余談ですが,
私の友人の父親は
たまたま参加した歌会で寺山と同席したことがあるそうです。
私自身は安部公房の芝居を観に行ったとき,
遅れてきて斜め前の席に座った客をよく見ると
寺山だったという経験があります。

参考URL:http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0413.html

Q三好達治の「鐘鳴りぬ」について

「鐘鳴りぬ」の中の(五暁)ってなんでしょうか。
教えて下さい。
(おもひもうけぬ日の空に
ひびきわたらふ鐘の音を
鶏鳴か五暁かしらず)

Aベストアンサー

中国の「史記」にある漢の高祖劉邦の軍師的な人物張良の若い頃のエピソードです。
あるとき不思議な老人に認められ「5日後の夜明けにここに来い」といわれ、それに3度挑戦して、兵法書を頂いたというものです。「鶏鳴」は夜明けに鶏が鳴くからです。
私は、この疑問を20歳頃に感じ、分るまで20年ほどかかりました。rabbitさんは、どうしてこれを調べる気になりましたか?

Q寺山修司

寺山修司が編集した詩集をもう一度読みたいのですが、正確なタイトルが分かりません。記憶していることは
1 「男」をテーマにした詩を選んでいる。
2 「錆びたナイフ」が掲載されている。
3 同じシリーズで、「女」をテーマにしたものもでていた(この
  記憶は少し曖昧)
4 1968年よりは前だと思う。

Aベストアンサー

たぶん、お役には立てないと思いますがご容赦ください。

またまた、たぶん…、新書館から出版された
「ひとりぼっちのあなたに」
「さよならの城」
あたりではないかと思います。

>1 「男」をテーマにした詩を選んでいる。
>3 同じシリーズで、「女」をテーマにしたものもでていた(この
    記憶は少し曖昧)
については少し勘違いされてらっしゃるかもしれませんね。
「男」をテーマに…というよりは、少女の心、瞳がとらえた「愛のイメージ」(受け売りです)を少年(男)の姿を借りて表現しているものと思います。
冒頭で申し上げた詩集も、新書館の「フォアレディースシリーズ」と銘打たれているのをみるとうなずけるものがあり、最近編集されたものでは「寺山修司少女詩集〔平成17年〕改 」に多くの詩が編みいれられてるものと思われます。(>「錆びたナイフ」は「「ひとりぼっちのあなたに」で読んだ記憶はあるのですが、定かではありません。「寺山修司少女詩集」の「海」にあったような気が、これもはっきりしないのですが、あります。)

>寺山修司が編集した詩集をもう一度読みたいのですが、正確なタイトルが分かりません。

詩そのものをもう一度お読みになりたいのであれば、
http://item.rakuten.co.jp/book/1766528/
この「寺山修司少女詩集」角川文庫にたくさん出ていると思いますのでお薦めいたします。
「1968年よりは前」のその詩集そのもの…宇野亜喜良のイラストが印象的でしたね…をご覧になりたいのなら、
http://www.artone.co.jp/feature/bn4.html
になると思いますが、残念ながら手に入れるのは難しいと思います。古書店を根気よくお探しになるか、戸板短大と酪農大の2図書館に置いてあるようなので、叶うならここで閲覧されるかだと思います。
http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/HolderList?txt_docid=NCID%3ABN15645898

冗長になりましたね、申し訳ありませんでした。適正な回答になっていないことを恐れるばかりです。

たぶん、お役には立てないと思いますがご容赦ください。

またまた、たぶん…、新書館から出版された
「ひとりぼっちのあなたに」
「さよならの城」
あたりではないかと思います。

>1 「男」をテーマにした詩を選んでいる。
>3 同じシリーズで、「女」をテーマにしたものもでていた(この
    記憶は少し曖昧)
については少し勘違いされてらっしゃるかもしれませんね。
「男」をテーマに…というよりは、少女の心、瞳がとらえた「愛のイメージ」(受け売りです)を少年(男)の姿を借りて表...続きを読む

Q中学か高校時代の教科書に載っていた詩がどうしても思い出せません。

中学か高校時代の教科書に載っていた詩がどうしても思い出せません。
作者はおろか題名や断片の一語も思い出せないので恐縮ですが、
確か、雪国の冬のどんよりした厚い雪雲に覆われた空、
雪に閉じ込められたうっとおしい気分を詩にしたものだったと思います。
何故かその詩が気になって、
時々その詩を思い出そうとするのですが、
いよいよ全く思い出せなくなってしまいました。
これだけの情報で申し訳ないですが、
思い当たる方がおられましたらお教え下さい。

Aベストアンサー

 
 該当作ではなさそうですが、冬の雪をうたった、代表的作文……。
 
── 雪がコンコン降る。人間はその下で暮しているのです。
── 石井 敏雄《雪(詩)19491221 山びこ学校》
(山形縣山元村中学校生徒の生活記録)
 
http://chihiro-s.tumblr.com/post/181066461
── 山本 稔《名作散歩 199809・・ 東京新聞&中日新聞》http://www.zusi.net
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19511030
 

Q寺山修司さんの

みなさんこんにちは。
寺山修司さんの詞なんですが、原文を避けますけれども、

「マッチをする、海には霧が深く立ちこめている、身を捨てるほどのふるさとというのはあるのだろうか」

という内容の詞があると思いますが、これの解釈がいまひとつしっくりこなくて気になっています。どういうことを言おうとしているのでしょうか?皆さんの解釈をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

寺山修司の短歌に昔、はまっていた頃がありました。
思春期から青年期に移行する頃だったと思います。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 
身捨つるほどの 祖国はありや」

これは寺山作品の中でも大好きな短歌でした。
現代語での解釈はNo.1さんのおっしゃっている通りだと思います。
ただ、言葉どおりの意味でとろうとすれば、
解釈は確かに難しいものなのかもしれません。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし」
作者の寺山修司には、
くわえ煙草で少しはにかんだような写真がよくあります。
きっと霧のかかる海を眺めながら、一服をしようとしたのでしょう。

孤独と不安を感じ、自分が何者かを確かめたい欲求は、
青年期には誰もが、ふとどこかで立ち止まった時、
少なからず体験しているのではないでしょうか。
そこで突然湧き上がった思いが

「身捨つるほどの 祖国はありや」
という表現になったのだと思います。
身を捨てるほどの情熱を傾けるものよ、現れてくれ・・!
という彼の心の叫びだと、若い私は思っていました。
今でも、ボランティアを志願する多くの若者の尊い気持ちは、
これに近いのかもしれません。

ずっと私は、この時寺山は煙草を吸いながら涙を流していたのだ、
という情景を思い浮かべていましたが、10年ほど経った今は、
彼は静かに、ただ海を見つめていたのかもしれない、と思います。
寺山がどう思って作ったのかということより、
この珠玉の言葉が私の中で、私と共に変わっていくことを感じます。
彼の言葉がオーケストラとすれば、私はただの客ですから、
これでいいと思っています・・答えにならないですね(笑)

仕事に忙殺され、豊かな心をきっとすり減らしている今の私は、
思いがけずこの歌に出会えたことが何よりうれしく、
もうすぐ今夜も徹夜になりそうな、嫌な気分が晴れてきました。
ヘンかもしれませんが、お礼を言いたい気持ちです。
ありがとうございました。

寺山修司の短歌に昔、はまっていた頃がありました。
思春期から青年期に移行する頃だったと思います。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 
身捨つるほどの 祖国はありや」

これは寺山作品の中でも大好きな短歌でした。
現代語での解釈はNo.1さんのおっしゃっている通りだと思います。
ただ、言葉どおりの意味でとろうとすれば、
解釈は確かに難しいものなのかもしれません。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし」
作者の寺山修司には、
くわえ煙草で少しはにかんだような写真がよくあり...続きを読む

Qお気に入りの詩を探さなければいけないんです。。。

詩集などを紹介している(詩を掲載している)サイトはありませんか??(オリジナル・個人的な詩ではない詩)
1つお気に入りの詩を探さなければいけないんです。。。詩人の名前を全く知らないので、詩人の名前も教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

八木重吉詩集より(1898年~1972年)

 草に すわる
わたしの まちがひだつた
わたしの まちがひだった
かうして 草にすわれば それがわかる

 母をおもふ
けしきが
あかるくなってきた
母をつれて
てくてくあるきたくなった
母はきっと
重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだらう

  愛の家
まことに 愛にあふれた家は
のきばから 火をふいてるやうだ


堀口大学詩集より(1892年~1981年)

   お七の火
八百屋お七が火をつけた
お小姓吉三に逢ひたさに
われとわが家に火をつけた

あれは大事な気持ちです
忘れてならない気持ちです


北川冬彦詩集より(1900年~1990年)

 瞰下景
ビルディングのてっぺんから見下すと
電車・自動車・人間がうごめいてゐる

眼玉が地べたにひっつきさうだ。


以上原文のまま。親しみやすい作品を選びました。
現代詩はとても難しい解釈が必要ですので避けました。

Q寺山修司の短歌について

今短歌を勉強しているのですが、寺山修司の担当になり、作品の出典を調べる事になりました。
しかしいくら検索しても出てこないのでここで質問させて頂きたいのです;

「大いなる欅にわれは質問す 空のもつとも青からむ場所」
という短歌の出典を教えて頂けないでしょうか?
知っている方いらっしゃったら回答お願いします。

Aベストアンサー

未刊歌集「テーブルの上の荒野」に入っています。
その中の「飛ばない男」の中にあります。

未刊歌集なので、単独の本はないと思うのですが、たとえば参考URLの寺山修司歌集の133ページに収録されています。

参考URL:http://www.kokubunsha.co.jp/archives/ISBN4-7720-0190-5.html


人気Q&Aランキング

おすすめ情報