単刀直入に伺います。
鎌倉幕府が滅亡した時(した後というべきか)、傀儡であった宮将軍はどうなったのでしょうか。(幕府の事実上の頂点である執権・北条高時が一族ともども自刃、で幕府滅亡ということだったと思いますが、名目上の頂点である将軍はどうだったのだろうかと。)

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A 回答 (1件)

では要点をしぼってお答えします。


最後の宮将軍 守邦親王は1333年に鎌倉幕府が滅亡したとき
征夷大将軍を辞任して出家しました。ただし、同年、死去しました。
病死?他殺?自殺?いろいろな憶測があるそうです。享年33才。
ちなみに当時の執権は北条守時です。もちろん、権力は高時が握って
いたんでしょうけど。
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この回答へのお礼

お早い回答ありがとうございます。
なるほど、辞任して出家ですか。すっきりしました。(京都へは戻れなかったんでしょうね。)

>ちなみに当時の執権は北条守時です。もちろん、権力は高時が握っていたんでしょうけど。
そうなんですか。ご訂正ありがとうございます。

お礼日時:2001/11/22 13:00

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Q鎌倉幕府の年号変更について

鎌倉幕府が、守護地頭を置かれた年に変えられているようですが、幕府と言うものの定義がわからないのです。征夷大将軍によって、開かれるのが、幕府だと思うのですが…。
秀吉が、幕府が開けなかったのは、源の血ではないと言う理由で征夷大将軍にれなかった…。なので、代わりに、関白になった…。と思っているのですが…。違うのでしょうか?
そう思うと、征夷大将軍が、幕府を開くことができるのであって、守護地頭を置いても、征夷大将軍でなければ、幕府を開くことは出来ない…。と思うのですが?どうなのでしょうか?
ただ、幕府と言う言葉が、いつ名づけられたのか…。それによっても変わってくるとも思います。当時の人が、将軍が開いたものが、幕府と言ったのなら、当然、それは、将軍になった時点で、開かれたものだと思いますし、後世の歴史学者が便宜上名づけたのなら、問題ないと思います。
実際のところ、年号変更することは、適当なのでしょうか?

Aベストアンサー

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、1189年に右近衛大将になっておりますので、この段階で幕府とも言えます。
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、それが、在京職でなかったからだという説があります。つまり、右大将では、朝廷からの「任官したんだから京都に来い、ずっといろ」という要請に対して抵抗できなくなるが、征夷大将軍は、現地将軍なので、京都に行く必要がないというものです。
※ 役職的には 征夷大将軍<<右大将です
吾妻鏡でも、1196年段階で、頼朝のことを前右大将家と呼んでいます。それは右大将の方が位階として上位だからです。

武士の統領による政府形態を幕府と呼ぶようになったのは、江戸時代後期に入ってからです。
それまでは 鎌倉殿 であったり 室町殿であったり 柳営だったりしております。

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、...続きを読む

Q鎌倉幕府執権北条氏の集団自害

北条氏が滅びたとき得宗家、六波羅探題をはじめ地方の出先機関の一族の多くが集団自決をしてるようですが、日本の歴史のなかで戦に敗れて集団自決したのは平家と北条氏と先の大戦の一般市民だけだと思われますが他にもあるのでしょうか?北条氏は平家の子孫ですから先祖の例に倣ったのでしょうか?また切腹という自害方法は鎌倉時代以前にもあったのでしょうか?その思想はどこからうまれたのでしょうか?腹切といえば薩摩武士が思い浮かびますが、やはり島津家の鎌倉時代の名残なのですか?

Aベストアンサー

初めて切腹をしたのは、平安時代末期の武人で、弓の名手、鎮西八郎と呼ばれた勇将、源為朝だそうです。彼は戦い敗れた時、敵に捕まり首を落とされるのを嫌い、自ら切腹して果てました。彼の潔い鮮烈な死は、敵方にも感銘を与えたと言われます。後の鎌倉時代に武士道が広まるに従って、敵に捕まり斬首されるよりは、源為朝を見習って切腹するという考えが定着していったと言われます。

北条氏が平氏に倣って集団自決したのかはわかりません。その可能性はあります。ただ、戦いに破れ、もはや再起を諦めた者が自決の道を選ぶのは決して珍しい事ではありませんでした。湊川の戦いに敗れた楠木正成は弟の正季以下50余名と共に自決しています。

Q鎌倉幕府

いとこの子供(幼稚園)に、
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結局お茶を濁してしまったのですが、
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教えるとしたら、なんて説明しますか?

Aベストアンサー

天皇と貴族が政治を行っていたんだけど、皆自分の家(荘園)を守るのを武士に任せていてたら、武士が政治もやりたいって言うから、天皇が、じゃあ征夷大将軍ってい名前で政治をやって良いよって言って、鎌倉で武士に政治をやらせてあげたんだよ。

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Q鎌倉執権北条氏と、戦国時代の後北条氏の家紋・・・

はじめまして。

鎌倉執権北条氏と、戦国時代の後北条氏は、同じ「北条」でも血のつながりがあるとは言えないと聞きました。
それなのに、どうして家紋が同じ三つ鱗なのでしょうか?

Aベストアンサー

ただ単に後北条の始祖伊勢早雲が自家の繁栄を願って北条と名乗ったのです。
つまり家紋もそれにあやかったんだと思います。

Q鎌倉幕府の成立年に疑問

NHKの義経を見ていてふと疑問に
1192年鎌倉幕府成立は、本当は正しくないのではと
確かに、1192年に、征夷大将軍に任官をしていますが
頼朝自体が鎌倉幕府を作ったぞと、宣言をしてもいないし、当時鎌倉幕府などといった言葉すらなかったはず。
文治元年十一月二十八日・・1185には、勝手に全国に守護地頭を配置しちゃってるし
1180年には、侍所など勝手に作ってるし
ま、これは東国の武士の国を作ったぞといっているのだけれども
幕府というのは、中国では将軍の柳営のことだけど
日本の律令制度の下では、近衛大将をさしているので
1190年年に右近衛大将となっているので、幕府が作れちゃうし
どーなっとるんぢゃ?

Aベストアンサー

 こんばんは。

 補足、御礼ともにありがとうございました。

 まず、律令制度は中国に淵源がありますが、中国の制度をそのまま写し替えたわけではありません。言葉の意味もちがいます。
 そもそも、この時期には、制度自体が危うくなっていたのはご存知かと思います。

 制度史を見る場合、制度の呼称だけにとらわれては本質を見失う虞れがあると思います。

 また、「武士の統領」という意識もなかったのは仰るとおりです。ただ、頼朝は、朝廷を超える政権を志向していたのは明らかといっていいでしょう。

>征夷大将軍=武士の頂点と言う認識は、
>徳川家康のころのようです。

 ひとつの歴史観といえると思います。

 ただ、鎌倉時代以降(もっと言えば、実朝以降)、征夷大将軍は、「源氏」の姓を持つ家だけに限られ、武士の統領的な意味合いを持たせられたのは、事実に近いかと思われます。
 そのため、足利尊氏も征夷大将軍に任官したときは「源尊氏」ですし、秀吉が任官されなかったのも、「源」姓を得ることができなかったためです。とても欲しがったといいますね。家康は「源家康」でした。これは当時の外公文書に残っています。

 今の歴史観が、徳川時代につくたれた枠組みを脱しきれていない、というのは、ここ20年くらいででてきた反省です。それによる新しい史観の構築も行なわれています。これは、科学としての歴史学を取り戻す、いい傾向です。 
 
 しかし、まあ社会史的に見て、「武士の統領=征夷大将軍」という意識が、それ以前から準備されていなければ、徳川政権は、あれだけ磐石なものとはならなかった気がしますが、いかがでしょう。

 この問題は、歴史観の相違からくるものですし、合意に達する必要もないでしょう。

 ただ、制度=歴史、ではない、というのは、ぶれてはいけないことだと思われますが、いかがでしょう。

 最後に、よけいな一言かもしれませんが、これは、showtaさまのご意見の成否を云々しているのではありません。そんな権利は誰にもない。
 あくまで、冷静、真剣で、楽しい意見交換を望むものであることを申し添えます。

 こんばんは。

 補足、御礼ともにありがとうございました。

 まず、律令制度は中国に淵源がありますが、中国の制度をそのまま写し替えたわけではありません。言葉の意味もちがいます。
 そもそも、この時期には、制度自体が危うくなっていたのはご存知かと思います。

 制度史を見る場合、制度の呼称だけにとらわれては本質を見失う虞れがあると思います。

 また、「武士の統領」という意識もなかったのは仰るとおりです。ただ、頼朝は、朝廷を超える政権を志向していたのは明らかといっていい...続きを読む

Q徳川歴代将軍で名君だった将軍、いまひとつだった将軍を教えてください

家光や吉宗は比較的有名ですが他の将軍の評判や実績などを教えてください。

Aベストアンサー

徳川綱吉ですかね。名君、とはいきませんが、世間的な評判は実は誤りであるとする説の方が有力です。
犬公方というあだ名で有名ですが、少なくともそのように揶揄される程の暴君ではなかったと思われます。

詳しくはwikiでもなんでも調べた方が詳細です。
全角800字までしか、この回答は作れませんので。

Q鎌倉幕府の御家人は税は払っていたのでしょうか?

鎌倉幕府と御家人の間には、ご恩と奉公という強い結びつきがあったとされています。その中で、御家人は将軍から土地を安堵された、とありますが、この安堵とは税は払わなくていいから、土地は自由に使っていいよ、ということなのでしょうか?
 また、鎌倉幕府の財政は何によって支えられていたのでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

ありがとうございます。でも、京都の権門とはどういう意味なのかよく分からないので教えてください。朝廷?ではないですよね?
そして、御家人達は京都の権門に税を払っていたのでしょうか?



権門

天皇家
摂関家
有力寺社
などなどの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%98%E5%AE%B6
領家にあたるものが権門

将軍家も実はこの権門の一つです。
他の方が指摘している、「関東御分国」という知行国というのは

1 古代的な税制度があったよ
2 荘園が拡大してきたよ
※ 荘園って、力の強い奴が国の税金分を横取りする制度だねぇ
※ おっと、まてよ、摂関家より力の強い奴がいたぞ!国家じゃねーか
3 というので、国衙領というの生まれます。
※ 受領ってやつだ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E9%A0%98
4 釣り堀の代金を支払えば、釣り放題
釣り堀 = 領国
代金 = 国家に支払うべき税金
釣り放題 = 受領の取り分

で、この受領の任命権(=それに伴う、受領からの感謝の賄賂(?)を貰える権利)を持つことを知行国と言います。


この受領の大成功者が平清盛だったり源頼朝だったりします。
そして清盛が受領からさらに知行国主となり、その知行国主の権利を引き継いだのが頼朝



====
ざっくり統治の歴史では

古代
統一的に税制度とか考えて、政治をやりましょう

中世
個人間のお付き合い中心で、統一的なことなんてしませんぜ

近代
国民に対して国家は責任があるし、国民も国家に対して責務があるよね

現代は近代に住んでいるので、中世を見る時に「何か統一的な原理があるよね、きっと」と思っちゃいますが、基本的には中世では、個人同士の約束事で世界が成り立っています。


なので「税」などというなにか「公的」な臭いがするような言葉で理解すると、誤解しちゃう。

ありがとうございます。でも、京都の権門とはどういう意味なのかよく分からないので教えてください。朝廷?ではないですよね?
そして、御家人達は京都の権門に税を払っていたのでしょうか?



権門

天皇家
摂関家
有力寺社
などなどの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%98%E5%AE%B6
領家にあたるものが権門

将軍家も実はこの権門の一つです。
他の方が指摘している、「関東御分国」という知行国というのは

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2 荘園が拡大してきたよ
※ 荘園って、力の強い奴が国の税金分...続きを読む

Q戦国時代の北条早雲って鎌倉幕府の北条氏の子孫ですか?

鎌倉幕府の北条氏は室町幕府に倒されたと思いますが、戦国時代に出てくる北条氏はどんな関係なのでしょうか?
子孫?親戚?無関係?

どなたか教えてください。

Aベストアンサー

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲自身は最後まで伊勢氏を名乗り、北条姓に変わるのは2代の北条氏綱からですが。
この改姓は非常に重要な意味を持ちます。つまり鎌倉幕府の実質上の主であったあの名門、北条氏の流れを汲む者であると名乗れることは、大きなハクがつくことになるからです。このような権威付けは当時では非常に重要なことと思われます。由緒ある家柄だということは、支配者としての「資格」のあることを意味するからです。もちろん資格があっても実力がなければすぐに亡ぼされてしまいますが、実力があっても資格がないと、人々は支配者としてなかなか認めたくはない。室町幕府の権威が低下し、実力の世となっても、人心の変化は、まだまだそういった古くからの権威をあがめ、由緒を尊ぶ気風は十分に残っていました。戦国時代、下克上の三羽烏とも言われる北条早雲、斎藤道三、松永久秀のうち、道三と久秀はまもなく滅んでしまったのも、このあたりに原因の一つがあるのではないでしょうか。

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Q鎌倉幕府 封建制度について

鎌倉幕府 封建制度について

将軍と御家人の主従関係につて詳しく教えて下さいm(_ _)m

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>鎌倉幕府 封建制度について

御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)で成り立っています。

主人と従者が相互に利益を与え合う互恵的な関係で成り立っていました。ここで、主人が従者へ与えた利益を「御恩」といい、従者が主人へ与えた利益を「奉公」と言いました。

御恩:
御恩の具体的な内容は、主人が従者の所領支配を保障すること、又は、新たな土地給与を行うことです。前者は本領安堵(ほんりょうあんど)と呼ばれ、後者は新恩給与(しんおんきゅうよ)と呼ばれました。鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿が御家人を地頭へ任命するという形で本領安堵、新恩給与、すなわち御恩がほどこされるようになりました。

奉公:
奉公の具体的な内容は、従者が主人に対して負担した軍役や経済負担などです。鎌倉幕府が成立すると、御家人は鎌倉殿に対して、緊急時の軍役、内裏や幕府を警護する大番役、その他異国警護番役や長門警護番役などの軍役奉仕のほか、関東御公事と言われる武家役を果たしました。

Q鎌倉幕府滅亡後、鎌倉は政治的にどういうところだったのでしょうか

幕府消滅後も、鎌倉公方などとか言う役職があったかと思うのですが、なにか政治的役割を担い続けたのでしょうか。その後の鎌倉の政治的遷移について知りたいのですがお願いします。

Aベストアンサー

足利幕府は鎌倉公方をここに置き、尊氏は弟の直義を成良親王を奉じて鎌倉に下向させますが、その直義と不仲になり、これを平定した後には次男の基氏を鎌倉公方として派遣します。その意味では副首都的な意味を持ちますが、管領の上杉が実権を握り、さらにはその家臣が上杉に叛乱を起こすなどして収まりがつかなくなり、鎌倉公方が廃止されて以降は戦国の争乱の中に埋没してしまいます。そして関東は小田原に本拠を置く北条氏の手に落ちてしまいます。


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