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『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは

1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。
2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。
3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。
4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。
5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。

などが書いてあります。

特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。
つまり兵力の逆転現象が起きています。
ということは、やはり奇襲攻撃だったのでしょうか?

司馬遼太郎は信長が桶狭間の戦いで勝利した理由としては
「騎兵の集団活用により、思いもよらぬ速度で今川の陣に突撃したため」といった理由を挙げています。
また、日本史上、騎兵のみで編成された部隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。
武田の騎馬隊は歩兵との混合部隊なので純粋な騎馬隊とはいえないそうです。
モンゴルやハンニバルのように騎馬隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。
司馬遼太郎が挙げる桶狭間の戦いで勝利した理由は正しいのでしょうか?

あなたが知っている『桶狭間の戦い』の真実を教えて下さい。

A 回答 (6件)

桶狭間に限らず、戦国期の合戦については、なかなか良質な史料が残っておりません。

従って合戦の実態を把握するのに骨が折れます。史料によっては双方の兵数に格段の差も出ていますし、合戦の流れも大きく食い違う場合もあります。

さて、桶狭間の戦いについていえば、江戸時代にベストセラーだった「甫庵信長記」や明治時代に参謀本部が編纂した「日本戦史」の影響により、桶狭間=奇襲、とのイメージが完全に出来上がってしまいました。これらは史料とは言い難い、創作物といっても過言ではない著作物です。

これらを払拭し、桶狭間=正面攻撃を唱えた最初の本が藤本正行氏の「信長の戦国軍事学」(現在は講談社から「信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学」というタイトルで出版されています。)ご覧になってみてください。超お勧めです。

なお、個人的には、こういう流れであったと考えています。
・義元本陣(5千くらい?)が桶狭間山に布陣。
・信長、桶狭間山の西方麓まで達する。
・西から東に向け暴風雨が吹き荒れ、雨は止む。
・義元本陣は暴風雨を避け、隊列が乱れ、しかも西に背を向けていた。(まだ風は吹いていた?)
・西より信長突撃。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061595 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに、小瀬甫庵の書いた「信長記」は信憑性の低い資料ですね。
1、桶狭間=奇襲
2、長篠の戦いでの鉄砲三段打ち
3、武田騎馬隊
など、間違ったイメージを植え付けられました。

『信長公記』などの信用できる資料を元に、桶狭間の戦いや長篠の戦いを再研究してほしいです。

お礼日時:2005/10/30 02:59

そのほかについてはすでに述べられたいて特に書くこともありませんので、


5番について少し。
太閤記などでは秀吉の初陣は桶狭間と言うことになっていますが、そもそも、太閤記などは資料的な信憑性に疑問がありますので、これをそのまま信頼することはできません。ちなみに、秀吉の名が信頼の置ける資料に始めて登場するのはなんと小谷城攻めのときのもので、「木下秀吉」とありますので、書いていなくて当然と言えます。仮にそれが事実だとしても、大将首を落としたら名前も記録されますが、ただ参加しただけなら記録に残ることはありませんので、まあそんなところです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに小瀬甫庵の書いた書物は信用できないですよね。
「太閤記」「信長記」など、創作の部分が大きすぎます。

お礼日時:2005/10/30 02:54

桶狭間の戦いは、今川軍25000、織田軍3000と言われていますが、3番の方が言われるように、今川軍の約半数は、小荷駄隊(輸送部隊)で、実質戦闘部隊は、13000程度だといわれています。



この13000程度の部隊の約半数程度が、織田軍の前線の砦を攻めている一方、松平元康が、大高城ほうめんに約3000程度の兵でおりました。

そのため、今川軍本体の実質兵力は、3000ていどでした。

また、いくつかの研究から、織田軍の動きは、今川軍から丸見えであり、不意をついた迂回奇襲ではなさそうだというのが、最近の理論のようです。

「前線で動く織田軍を、今川側は、牽制部隊と思い込み、織田軍の正面奇襲攻撃により、崩壊した」という説が、有力となっています。
当時の常識として、開戦は早朝で、夕方には、停戦となるのに対し、織田軍の攻撃が、昼ごろだったためと言われています。

織田軍がこの時に、騎馬隊を利用したとの話は聞いていません。
足軽歩兵を中心としていた織田軍が、騎馬隊を持っていたとは思えません。
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この回答へのお礼

なるほど。やはり織田騎馬隊は存在しなかったのですね。

最近の研究では
1、織田軍の動きは、今川軍から丸見えであり、不意をついた迂回奇襲ではない。
2、今川軍は織田軍の正面奇襲攻撃により崩壊した。
ということですか。

なぜ不意をついた迂回奇襲ではないのに正面奇襲攻撃により崩壊したのでしょうか?
正面からの攻撃なのに、なぜ奇襲攻撃になったのでしょうか?

私個人の意見では「補給部隊を伴わない織田軍の素早い動きが、今川軍の予想を上回った結果、奇襲攻撃になった。」
と推測します。

お礼日時:2005/10/30 02:49

司馬遼太郎氏の歴史認識は、世評ほど高度なものではありません。



桶狭間の戦いについて、原資料を元に考証した本として
桶狭間の戦い 戦史ドキュメント
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30723531
があります。手軽に買える本ですので推薦します。

織田軍は、騎兵部隊ではなかったと思われます。ただし、地元で戦うわけですから補給部隊を伴う必要がなく、その分早く機動できたということはあるでしょう。

織田軍は、地形を良く知っていたので、今川軍を迂回して本陣を側面から攻撃できたということのようです。

また、織田軍は2千人程度と言われますが、この人数は全て戦闘員です。一方、今川軍の人数の中には、補給部隊などの非戦闘員がかなり含まれていると小和田氏は考証しています。

補給部隊を入れて5千人の今川本隊に、戦闘員だけの織田軍2千人が手薄な方向から奇襲をかければ、織田軍が優勢でもおかしくないでしょう。実際にそうなったようです。

この戦いに限らず、戦史では「戦闘準備が整わない敵への不意打ち」で、少数が多数を破った例がいくらでもあります。

ナポレオンは、自分の戦法を「敵を上回る速度で機動し、常に自軍の全力で敵軍の一部を叩く。その場所では常に優勢である。だから勝つのが当たり前」と解説していたそうです。言うのは簡単でも実行はナポレオンでないとできなかったわけですが、桶狭間の戦いも、「織田軍が、巧妙かつ迅速な機動によって全力で今川本隊を攻撃し、勝利した戦例」と総括できるでしょう。

この辺については、戦史家の松村劭氏の著作に詳しいです。一例は下記です。

名将たちの戦争学
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30845642
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この回答へのお礼

織田軍は騎兵部隊ではなくても、補給部隊を伴う必要がなく、その分早く動くことができたという意見は参考になりました。

「今川軍を迂回して本陣を側面から攻撃」というのは、詳しい資料を示してほしいです。

『信長公記』を読む限り、「奇襲」「迂回して本陣を側面から攻撃」という記述は見当たりません。

『信長公記』には織田軍は正面から攻撃という記述はあります。
また信長も「奇襲攻撃のつもりはない」という意図が『信長公記』から伺えます。
さらに『信長公記』では信長は今川本陣を攻撃しているのを知らなかったと思われるのです。
一度、信長公記を読んでみて下さい。

「敵を上回る速度で機動し、常に自軍の全力で敵軍の一部を叩く。」というナポレオンの言葉を借りるならば、
1、補給部隊を伴わない織田軍の動きが、今川軍の予想を上回った結果、奇襲攻撃になった。
2、敵軍の一部を叩いた結果が、偶然に今川軍本陣だった。
と『信長公記』を読んだ感想です。

お礼日時:2005/10/30 02:43

その時代に生きていたわけではないし、現場を見たわけでもないので真実はわかりませんが、良質な資料から言えることは


1.今川勢は大軍であるので前線の将兵はともかく後方では、織田勢は城にこもって防戦に終始し、まさか後方まで攻撃してくるとは思っていなかったということでしょう。それでなければ大将の本陣が無防備ということはありえません。
2.織田軍も騎兵だけではなく徒歩兵もいましたが、今川勢のように補給部隊などはいなかったということで行動は自由でした。どちらにせよこの頃の馬は日本馬ですからモンゴルの馬のように長距離を疾走するわけにはいきません。
それよりも重要なのは情報を重視していたということで、今川義元の本陣の位置を信長はつかんでおり、あとの恩賞でも今川義元の首を取ったものよりも、今川義元の本陣の情報をつかんだものに多くの恩賞をあたえています。
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この回答へのお礼

やはり勝敗を決したのは情報でしたか。
私個人の意見では今川軍の油断も大きいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/30 02:30

私の知っている知識では、



1.今川軍は2万とか3万とかだったのに対し、織田信長軍は2,3千人だった。

2.桶狭間は盆地であり、本陣は頂上付近に陣をかまえており、下への見晴らしがよかったが、急襲を受けた。

3.信長軍のスパイが本陣に送り込まれていたために、休憩時間など容易に知ることができた。

4.信長軍は本陣を今川軍に見えるような位置にあるかのごとく振る舞い、今川軍の本陣に気づかないよう近づくことができた。または油断させることに成功した。

やはり織田信長が勝てた勝因は、敵の分散作戦と情報力の強さだったと思います。圧倒的多数の敵を分散させ、本陣を狙うという作戦は圧巻です。

また、近臣にも情報を漏らさない徹底した情報力もよかったですし、当時霧で視界が利かなかったのも信長軍に有利に働きました。計算され尽くした勝ち方で、信長はこれを契機に勢力を拡大させることができました。
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この回答へのお礼

なるほど。
圧倒的多数の敵を分散させ、数が少なくなった本陣を狙うとは、情報戦術を重視した信長に今川軍は騙されたわけですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/10/30 02:29

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