単刀直入に、
ナポレオンのヨーロッパ遠征についてのことを教えて下さい。

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A 回答 (1件)

学問的に深く研究するのならば別ですが、


大雑把にナポレオンが何をしたかを知りたいときは
「エロイカ」著者:池田理恵子
を読んでください。(注:マンガです)

けっこう大作です。
当然ながらナポレオンがしてきた戦争についても詳しく
触れられています。
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Q外国の国名の漢字表記で「剳」は何国

外国の国名の漢字表記で「剳」と書くのは何国でしょうか。いろいろ調べましたが、判りません。多分、ヨーロッパの国名だと思います。駐剳大使という風に書かれていました。

Aベストアンサー

「駐剳」というのは「駐在」とほぼ同じです。「なになに国駐剳大使」と書かれていた筈です。
「剳」という国はありません。
No. 1 さん、ブラジルは「伯」です。

Qナポレオンは、なぜモスクワ遠征に遠征したのでしょうか。

ナポレオンが、ロシアと戦った時に、モスクワに遠征し、敗北しましたが、なぜ、当時のロシアの首都であるペテルブルクではなく、モスクワに遠征したのでしょうか?

普通に考えますと、首都を目指して攻め込むものだと思います。

また、ペテルブルクの場合、海に面していますから、補給もモスクワより楽だったと思います。

さらに、モスクワへ進撃する場合、南北両方の側面を敵にさらすことになりますが、ペテルブルクへの進撃の場合、南方だけに配慮すれば、足りますので、絶対にモスクワより楽だったと思います。

そりを、あえて進撃先としてモスクワを選んだのは、なぜなのでしょうか。

Aベストアンサー

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを
”仮定”を使って説明したわけです。
わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返してみてください。


実際にはロシア軍の増援の到着で攻略を諦め、封鎖を続けて挙句に、撤退です。

マクドナルの軍団の兵力は約3万1千名。
エッセンのリガ守備隊は初め1万2千名、10月にフィンランド軍団の来援があって2万7千まで増加します。
加えて海上にイギリスの戦列艦18隻、河には砲艦21隻以上があって完全包囲を困難にしていました。

4万というのはどこの数字でしょうか? 間違いでょう。
ロシア軍は規格よりも大きい第25師団(軍団規模)、フィンランド軍団の二個師団しかないので、4万になることは絶対ないです。
ロシア軍の編成だと概略で、師団が6千、軍団が1万2千ぐらいです。


ポメラニアはスウェーデン領とプロシア領の二つがあります。
スウェーデン領なのはリューゲン島のある方です。
1807年にもフランス軍に一回占領されましたが、翌年に関係改善されて返還されています。
そして1812年に再度占領されるのです。

ナポレオンは最初、第二次ポーランド戦役と号してこのロシア戦役を始めたので、
リガ攻略の意思はありましたし、リトアニアの解放という政治的意図は明らかでした。

ただし結果的にはナポレオンはスモレンスク街道を急進することを選び、ロシア軍も第一西軍と第二西軍を合流させたので、野戦軍撃滅という目の前の最優先課題にとりくむことになったわけです。
だからマクドナルの消極性もあって、結果的にリガは封鎖になったというだけです。

現実的に考えて、ペテルブルグ方向にはそれほどのチャンスはなかったでしょう。
敵の主力を無視して自由にさせるわけにはいかないですし、ペテルブルク方向にはヴィトゲンシュタインの1個軍団があるだけです。
逆にクツーゾフ統合西軍は歩兵と騎兵をあわせて11個軍団もあるわけで、どっちを狙うべきかは明らかでしょう。
サン=シールやウディノの軍団があったので、それでヴィトゲンシュタインを追いかけてもよかったわけですが、補給線の維持につかっただけになりました。

イギリス軍は地上部隊が数個大隊ありましたが、分断の必要があるほどではないですし、オランダ戦線と違って海から直接支援を受けていたわけではないので、海側に追い詰めてもあまり意味はないでしょう。
むしろ南方ウクライナ方面が穀倉地なわけですから、あっちを分断したほうが論理的です。

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを
”仮定”を使って説明したわけです。
わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返して...続きを読む

Qヨーロッパ人の考えるヨーロッパ国間格差は?

ヨーロッパ人の考えるヨーロッパ国間格差はありますか?
○○(国名)製のモノは、安っぽい造りで壊れやすくてダメ。など、ヨーロッパ人が感じることはあるのですか?

たとえば、偏見御幣があるとしても日本では現実として、東南アジア製は、『低く』見られてますよね?
それと同じような感覚はあるのでしょうか?

Aベストアンサー

 西欧、中欧、東欧のあいだには、明らかな認識差がありますね。
とくにイギリス、ドイツ、フランスの3大国は、他の国を見下して
いるので、自国の製品をありがたがる傾向にあります。

 とくに東欧は最近、安価な労働力を目当てに自動車工場をはじめ
とする工業地帯化が進んでいます。その付近で作られた製品に対し、
品質が劣るという認識はあります。ただ、東欧の製品は西欧企業主
導で作られたもの以外はほとんど競争力がないので、そもそも市場
に流れてこないという現状はありますが。

 おもしろいのはスペインで、スペインは意外に大国なんですね。
GDP は世界8位でカナダより大きいですし、観光収入は世界でも
トップクラスです。ただ、一人当たりGNPはドイツやフランスの
6割ほどで、中進国と先進国のあいだくらいという微妙な位置です。

 そのためスペイン製品はヨーロッパでは、あまり高い評価を得て
いません。ブランド品も有名なのはロエベくらいじゃないでしょうか。
ただ、中南米への影響力はいまでも強大で、中南米諸国の富裕層が
スペインに住んでいることもあり、リッチな人はものすごくリッチです。

 西欧、中欧、東欧のあいだには、明らかな認識差がありますね。
とくにイギリス、ドイツ、フランスの3大国は、他の国を見下して
いるので、自国の製品をありがたがる傾向にあります。

 とくに東欧は最近、安価な労働力を目当てに自動車工場をはじめ
とする工業地帯化が進んでいます。その付近で作られた製品に対し、
品質が劣るという認識はあります。ただ、東欧の製品は西欧企業主
導で作られたもの以外はほとんど競争力がないので、そもそも市場
に流れてこないという現状はありますが。

 おも...続きを読む

Qナポレオンのイタリア遠征と第一回対仏大同盟について

ナポレオンがイタリア遠征をしオーストリア軍を撃破した結果、第一回対仏大同盟は崩壊したそうですが、
オーストリア軍の撃退と大同盟の崩壊はどんな関係があるんでしょうか?
大同盟をの中心はイギリスなのでは?

あと、ナポレオンがイタリア遠征をした理由も教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

大同盟が崩壊というのは、
あくまでも大同盟が大同盟でなくなったというだけで、
特に第一次の場合、対仏同盟がなくなったわけではありません。
つまりはイギリスは講和してませんが、
ロシアを除く他の国が抜けたというだけです。
ただしロシアはこの時点で軍隊を派遣しておらず
イギリスも大陸から軍隊をほとんど引き上げていたので
戦争は小休止となり、ここに後世の歴史家が
第一次対仏同盟の終わりをここにおいているわけです。
この大同盟の時期の分け方は、いろいろな方法があって
必ずしも絶対的なものではありません。
便宜上わけただけでであるということは理解する必要があります。

第一次の場合、1792年から革命フランスが一方的に
各国に順次、宣戦布告をしていって
1793年の国王処刑を機に、イギリスのピットが提唱して
宣戦布告を受けた国々が集まって大同盟を結成するわけですが
1794年になるとフランス軍が窮地を脱して優勢となるので、
スペインが攻め込まれてまず単独講和、
オランダは占領されて共和国になり、イギリスは地上軍を引き上げます。
1795年にはポーランド分割に関連してプロシアが単独講和で離脱し、
オーストリアと神聖ローマ帝国諸邦が戦い、イギリスが金を出すという
状況に戦争はなるのですが、ウィーンにナポレオンが近づいたことで
1797年に停戦が成立して、カンポ=フォルミオとなるわけです。
「オーストリア軍を撃退した」というのは、1796年前後の状況を反映してませんね。
ハプスブルク家領内深くに侵攻していたのはフランス軍ですから。
基本的に革命戦争に防衛的性格があったのは本の短い期間で
おおむね侵略的性格のものです。

あと大同盟の中心がどこかというのは、あまり意味が無いです。
中心的国家はもちろんイギリスですが、主に金を出していることが多く、
戦争を実際に行ったのはオーストリアが主です。
イギリスとフランスというのも伝統的なライバル国ですが、
フランスとオーストリアというのも地理的な敵対関係にあり
何百年も戦い続けてきた中ですからね。
フランス、あるいはナポレオンの戦略として、
イギリスを直接攻撃できないので、オーストリアを集中攻撃して
大同盟を崩壊させるという手と何度か使っています。
これは逆に言えば、オーストリアが同盟の鍵だったということを
意味してます。

1796年の段階で、要するにオーストリアとその他の帝国諸邦との
戦いとなったわけですから、国境を接した部分から侵攻するのは
明らかでしょう。
そこがライン地方とイタリアだったというだけです。
基本的に、フランスとオーストリアの伝統的な戦い方では
ライン方面が主戦場で、イタリア方面は常にそのサブグランドだったのですが、
これは自然国境の確保というのがフランス側の戦略目標であり
イタリアは常に交渉材料(占領した土地を交換する)でしかなかったからです。

ナポレオンは1795年に地理局(フランスの参謀局にあたる)に勤務して
戦争計画の一部原案にも関与したのですが、彼の持論は
イタリアで攻勢をとって、まずピエモンテ(サルディニア)を脱落させ、
ロンバルディア(ハプスブルク家領)を占領し、北イタリアを支配して
そこからチロルを通ってライン地方で対峙する敵軍の背後を脅かし、
決戦を強いるか、講和にもちこむかで、戦争を終結させるというものでした。
ナポレオンは学生時代からイタリアの研究をしていて、
その地形、過去の戦争の戦略の歴史に精通しており、
アルプスに囲まれ、ポー川が流れる入り組んだ地形が、
中規模の軍隊の活動に適していることを知っていたわけです。
イタリアを”柔らかい下腹”と表現したのはチャーチルですが、
彼はマールバラ公爵の子孫でナポレオン戦争にも精通していたからでたセリフであって、
まさに大同盟の弱点だったわけです。

大同盟が崩壊というのは、
あくまでも大同盟が大同盟でなくなったというだけで、
特に第一次の場合、対仏同盟がなくなったわけではありません。
つまりはイギリスは講和してませんが、
ロシアを除く他の国が抜けたというだけです。
ただしロシアはこの時点で軍隊を派遣しておらず
イギリスも大陸から軍隊をほとんど引き上げていたので
戦争は小休止となり、ここに後世の歴史家が
第一次対仏同盟の終わりをここにおいているわけです。
この大同盟の時期の分け方は、いろいろな方法があって
必ずしも絶対...続きを読む

Qヨーロッパの白地図

期末テストでヨーロッパについて出題されるのですが、
多分ヨーロッパの国名を答えさせるような問題が出ると思うので、国境線で区切られているヨーロッパの白地図がほしいので、どこかのホームページのものでよいので教えてください。 お願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。
たまに利用していますが、ここで探してみてはいかがですか。

参考URL:http://www.hir-net.com/link/map/blankmap.html

Qナポレオン ロシア遠征

ナポレオンによるロシア遠征が失敗した大きな理由は何か

Aベストアンサー

そのテーマは、聞くのは簡単ですが、答えるのは以外と難しい問題です。
というのも、いろいろな観点があるからです。
もちろん単純に兵站面に失敗の原因を見るのは簡単なのですが、
それは逆に言えば、最初から分かっていたことであって、
ナポレオンはそうなることを予期していたし、カール12世の失敗をよく研究していました。
しかしそれでも彼が試みて失敗したのは、全く別の観点から彼が
戦役を考えていたということであって、また彼が考慮せざる得なかった
複雑な経緯と情勢があったということを理解しないと、
どうして失敗したのかという本当の理由を知ることはできないのです。

ナポレオンが兵站や補給を重視しなかったというのは間違いで、
逆にナポレオンはこの時代のどの将軍、どの政治家よりも兵站の重要性を認識し
その準備に可能な限りの万全を期そうとしました。
しかし戦術的観点から、輜重隊のスピードに捕らわれて戦うことはできなかったし、
物資を広範囲に分配することは、この時代のインフラと輸送手段では不可能だったわけで、
無補給下で軍を機動させるというリスクは、勝利のためには必要だったのです。
だからもうこの時代の装備では(というか第二次世界大戦当時でも無理だったわけで)
ロシアを短期間で制圧することは不可能であったというのが
兵站面からの結論といえるのですが、ナポレオンは実は全く別の計画を持っていました。

そもそもナポレオンは、短期間でロシアを征服することが不可能であると
開戦前から理解していて、複数年に及ぶ戦役を計画していたのです。
だからこそこの戦役当初、「第二次ポーランド戦役が始まった」と称したわけです。
彼はロシアの野戦軍の撃滅を試みつつも、初年度は旧ポーランド・リトアニア領を占領するにとどめ、
ロシアの西と南の主要穀物生産拠点を占領して、ポーランド人の解放というなで
分離させようと考えていたようです。これは彼と側近が交わした幾つかの会話記録でわかります。
ただ、問題は国際情勢がそれを許さなかったことで、特にスペインでの半島戦争での劣勢が
ヨーロッパの東西の端で戦争を維持するという危険から、
戦争の早期終結の必要性をナポレオンに迫ったのです。
サマランカ会戦でのマルモン元帥の大敗で、半島が同盟軍の手に落ちることが
確実になり、スペインはフランスの隣国であり、ここの陥落は本国に敵が迫ることを意味していて、
ナポレオンは散々躊躇しまいたが、
スモレンスクからさらに前進して、モスクワ前面で待つであろうクトゥーゾフ軍と
決戦を交えようと考えるにいたるわけです。
最初の計画では、一年目はスモレンスクよりも東に行く予定はなく、
リガなど沿岸部の都市の攻略を待ちながら、冬営するつもりだったのが、
結局のところは急遽変更ということになったのです。

さて、いかにして戦争を終結させるか、ということなんですが、
クラウゼヴィッツが言っているように、戦争の終結は政治的に続行不可能になった場合に起こるということであって、
ナポレオンもロシアのツアーリが戦争継続を諦めるような状況を作り出すという
観点から行動することになります。
クラウゼヴィッツも同意するところですが、ナポレオンの戦略目標は、
野戦軍の撃滅、もしくは、首都モスクワに占領しつつさらにロシアに脅威なりうる兵力を保持するというものでした。
これについて詳しく説明しませんが、これが合理的にアレクサンドルが講和に応じざる得ない状況というものです。
で、結果論でいうと、ボロディノ会戦において、ナポレオンは野戦軍の撃滅に失敗し、
かつ塹壕での砲撃戦となった当会戦で大きな損失を出したことから、
兵力を減じ、アレクサンドルに講和を強要するに至らず、
冬の到来とモスクワの大火、破壊工作によって冬営も不可能となったことから
大敗走となるわけです。

ナポレオンがロシア遠征に失敗した本当の理由は両面作戦、
スペインで戦争をしていたということが大きいです。
そもそもロシア遠征と半島戦争の原因が、大陸封鎖令の徹底ということで、
因縁めいているけれども、これだけの大計画にもかかわらず、
細部がつめられていなかったのは、ナポレオンにしては珍しい感じですが、
突然の計画変更や、情勢の変化はナポレオンの足を引っ張りました。
逆に言えばこれだけの総力戦に近いような大規模動員・大量物量の作戦を
一人の人間の脳みそで処理するには大きすぎたといえるかもしれません。
しかし紙とペンと伝言ゲームだけで、全てを準備して、60万余の大軍を動員して
モスクワを占領するに至るのはとてつもないことでした。
ナチの機械化軍団がやれなかったことを、ナポレオンの軍隊は徒歩で達成したわけですからね。

そのテーマは、聞くのは簡単ですが、答えるのは以外と難しい問題です。
というのも、いろいろな観点があるからです。
もちろん単純に兵站面に失敗の原因を見るのは簡単なのですが、
それは逆に言えば、最初から分かっていたことであって、
ナポレオンはそうなることを予期していたし、カール12世の失敗をよく研究していました。
しかしそれでも彼が試みて失敗したのは、全く別の観点から彼が
戦役を考えていたということであって、また彼が考慮せざる得なかった
複雑な経緯と情勢があったということを理...続きを読む

Q日本の県名、世界の国名などの勉強ソフト

日本の県名や世界の国名を覚えるのに役に立つソフト、できればフリーソフト、またはシェアウェアなどはないでしょうか? (白紙の地図の上に名前を当てはめていったり、パズルのように形を当てはめていったり、、)
その他、アメリカの州名やヨーロッパの国名などでも結構ですので、あったら教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ベクターだと数多くのソフトが、紹介されています。その中で定評有るソフトが、ピックアップソフトとして紹介されています。

 県名クイズ DoKoDaというのがありましたが、如何でしょうか。

参考URL:http://www.vector.co.jp/vpack/browse/pickup/pw5/pw005413.html

Qナポレオンのエジプト遠征について

アレキサンドリアに上陸し、カイロを制圧した後、ナポレオンは
なぜピラミッドまで向かったのでしょうか?

エジプトを旅行したことがありますが、ピラミッドのあたりは田舎で
わざわざ軍を率いて制圧しに行くような場所ではなく、カイロと
アレキサンドリアをおさえれば十分なような印象を受けました。

そこにマムルーク朝の本拠地かなにかがあったのでしょうか?

おわかりの方、ご教示下さい。

Aベストアンサー

補足ですが、ナポレオンがピラミッドに実際に行ったのは、1798年9月19日です。

ピラミッド会戦はそれよりもずっと前の1798年7月21日で、
しかもこのときはギザには行ってません。この会戦は名前だけで、
場所は全然違います。

ピラミッド会戦の後、カイロ制圧、カイロ蜂起があるので、時期的に違います。
ピラミッド観光は、ナポレオンが唯一見学した史跡として知られます。
カルナックなどはナポレオンは見てもいません。

あとイギリスとインドとの交易を遮断するというのは、東方遠征のたくさんあった名目の一つに過ぎませんが、
具体的に実行可能な目標ではなかったため、実行はほとんどされてません。
インドの諸王に手紙を送ったぐらいです。

実際的には、東方遠征軍は自活と自衛を求められたので、マムルークの鎮圧とエジプトの諸民族の統治、
それに後半は、オスマン=トルコが宣戦布告したために、トルコ軍の侵攻に対する対応ということに終始します。
結局は、高エジプトの支配はムラッド・ベイに委譲するため、
基本戦術は、シリア砂漠からの侵攻と、海岸から上陸する二つの敵を撃退することで、
ナポレオンとクレベールはそれを何度となく行いますが、次の後任のムヌーが無能だったために、これに失敗し
最終的には、東方遠征軍はアレクサンドリアとカイロの二都市で包囲されるのです。

補足ですが、ナポレオンがピラミッドに実際に行ったのは、1798年9月19日です。

ピラミッド会戦はそれよりもずっと前の1798年7月21日で、
しかもこのときはギザには行ってません。この会戦は名前だけで、
場所は全然違います。

ピラミッド会戦の後、カイロ制圧、カイロ蜂起があるので、時期的に違います。
ピラミッド観光は、ナポレオンが唯一見学した史跡として知られます。
カルナックなどはナポレオンは見てもいません。

あとイギリスとインドとの交易を遮断するというのは、東方遠征のたくさんあった名目の...続きを読む

Q欧州に多い国名の語尾(ア)の意味

主にヨーロッパの国名で最後に「ア」が付くのは、何語から来ているのでしょうか? ラテン語? ギリシア語?

バルト三国やロシア、オーストリア、ブルガリア、クロアチア、等々。確か、元々は土地とかを意味する言葉だったような。。。

参考のURL等があれば併せてお願いします。

Aベストアンサー

「ア」ではなく「イア、ia」です。

語源はギリシャ語→ラテン語→各国語
意味は国名や地方名の語尾につけて「地方、国、」また一般名詞の後につけて「xx屋、職業、地位」なども表します。


コロンブスに因んで「Colombia 南米の国」独立の英雄Bolivarに因んで「Bolivia 南米の国」ヨーロッパには
古い民族名+iaの国名が多いと思います。

Qナポレオンとヨーロッパ

(1)「ナポレオンは解放者と独裁者という2つの側面をもっている」とあるのですが、この2つの側面について説明するにはどうすればいいでしょうか?
(2)フランスの7月・2月革命では男子の~制が実現したのですか?
どちらか1つでもいいので回答お願いします。

Aベストアンサー

1番についてですが、解放者としての側面は、貴族制・中世の支配原理からの住民の解放という面を指しているのかと思います。
フランス革命による庶民の権利意識を高め、それまでの貴族による簒奪からの解放者としてヨーロッパの庶民に期待を与えました。
一方独裁者としての側面は、みずからが皇帝となり、フランス中心、自分自身が中心となった独裁政治をおこないました。
一方フランス以外の国においては、簒奪者としての側面も持ちます。
ナポレオンの戦い方は、自軍の補給を考慮せずに進軍・戦闘を行う事を優先し、補給は現地での徴発を主としました。
この方法は、旧日本軍と同じで、補給部隊を待たずに戦闘でき、敵を捕捉殲滅できるのですが、現地徴発のためその地区の住民の反発をまねきやすいという欠点があります。
ナポレオンが諸国民の解放者としての支持を無くしたのは、ナポレオン軍の簒奪者としての側面によるものです。

2番については、質問の意味が理解できません。
フランスの7月革命は、1830年の事、2月革命は、1848年の事です。
この間18年の間がありますが、共通して実現した「~制」ってなんなのでしょうか?
格好の課題であれば、質問が本質的におかしいと思います。

1番についてですが、解放者としての側面は、貴族制・中世の支配原理からの住民の解放という面を指しているのかと思います。
フランス革命による庶民の権利意識を高め、それまでの貴族による簒奪からの解放者としてヨーロッパの庶民に期待を与えました。
一方独裁者としての側面は、みずからが皇帝となり、フランス中心、自分自身が中心となった独裁政治をおこないました。
一方フランス以外の国においては、簒奪者としての側面も持ちます。
ナポレオンの戦い方は、自軍の補給を考慮せずに進軍・戦闘を行う事を...続きを読む


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