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教養の一環として質問させてください。
仏教が日本に広まったのは政治的な理由であることは
昔々の歴史の授業で習いましたが(^^)
仏教を国教にしようとしたことでどんなメリットがあったのでしょうか?また、自然信仰だった日本人が仏教を受け入れられたのはなぜでしょうか?

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A 回答 (6件)

「メリット」


仏教を取り入れるメリットは中国追随型の国家にする所にあったと思います。

崇仏派の藤原鎌足は幼少時代から中国発の学問取得に熱心で、
政治制度を中国型にすることに生涯を費やしたと言っても良いです。

当時の中国は唐。中国では、唐の前の随から
仏教が国教のような存在になり、唐代は最も仏教が進化した時代です。
中国の政治スタイルを学び取り入れるためには、
仏教を欠かすことはできませんでした。

当時、日本は白村江で新羅と唐の連合軍にボロ負けした後で、
遣唐使も中断していました。
朝廷とその周辺には朝鮮半島派と中国派がおり、
かなりの政治闘争があったのですが、その勝者が
藤原鎌足を中心とする一派です。


「普及」
天皇が受入れ、貴族がそれに追随したので、
権力の中枢に近づくためには仏教が必要だったこともあり、
いわゆるトップダウン型の普及があったことは確かですが、
下々の者達が仏教を受入れたのは単純です。

信仰は仏教的な言葉で言えば現世利益のためにやるもので、
他の宗教を信仰していてもそれは同じことです。
既存の宗教より強い効力があれば、そちらに乗り換えるのは普通のことです。

仏教の場合、治水事業や病気治療の技術を持った僧が
全国各地を回り、明らかな現世利益を施したので、
急速に普及しました。
この方法論はいつの時代にもどの宗教でも登場していますが、
たぶん最初は行基あたりだったでしょう。

現世は苦労しても来世で、というのは信仰が普及した後に受入れられた思想だと思います。
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この回答へのお礼

わかりやすかったです。ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 08:55

>自然信仰だった日本人が仏教を受け入れられたのはなぜでしょうか?


仏教受容の理由としてまず基本的に思想的な土壌が上げられます。
それはみなさんが指摘されている古代神道の多神教的柔軟性の他に、
仏教が持つ受容性が上げられると思います。
仏教はキリスト教やイスラム教の様に一神教に見られる排他性がほとんど在りません。
実際に、ずいぶん後になりくますが、1543にキリスト教が日本に流入しましたが、
当時の記録を読むと宣教師達は仏教と神道を激しく排撃し宗論を仕掛けており、
結果的に当時の神道からも敵対視されています。
御存じの様に初期仏教は蘇我氏等の渡来系部族により保護されますが、
物部氏等神道系の氏族の攻撃を受けたとは言え
仏教自身の教義にも神道を排撃する要素はほとんど在りませんでした。
結果的に仏教・神道両派の柔軟性と融通性が基本と成り
対立要素と成らず吸収されたと言う事が上げられると思います。

その思想的前提をしての相互の柔軟性に立脚する形で、
僧侶がテクノクラートとして中国からの土木・農業技術を広め指導した事や
仏教に付帯する仏教建築・仏教美術等が持つ人工テクノロジーの先進性等が
日本人を魅了した事により「実益」として
民衆心理に認識され、実利的な信仰対象として許容された事があります。

そうした現実を旨く利用しながら
政治的には
自然の相対としての人工物である「国家システム運営」という点において
鎮護国家という仏教によって国家システムを精神的・信仰的に守り安泰にするという考え方が
日本民衆に「国家意識」を根付かせる為にも重要であり、
支配階級のにおいても法華経・仁王般若経・金光明最勝王経などの
護国経典を読誦し、種々の修法を行うことで国家の災いを鎮め安全を守ろうとする
呪術的国家システム保護の必要性が在りました。
>仏教を国教にしようとしたことでどんなメリット?
メリットとは将に上記の支配階級における呪術的国家安全保障と
被支配階級に対して国家システムへの帰依と思想的補強を強く働かせる効果を
仏教が持ち合わせていた事が上げられると思います。

仏教が後に戸籍制度や国家体制護持に現実のシステムとしても
精神支配と言う面からも有効であった事は後の様々な歴史が能弁に語っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 08:54

たしかに中央集権国家建設の為の「道具」でした。


そのために仏教利権が生まれ、民衆に仏教系の関連施設の建設を強要し、過酷な使役を課しました。
そして豪族は仏教を盾に重税を課す政府に対して反乱を起こします。
これが壬申の乱です。
これにより地方はある程度の独立自治を得ます。
それと同時に明治まで自然崇拝と仏教の共存が始まります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 08:55

#1さん、ご指摘のように、まずは「仏法の功徳」ですね。


また、
古代豪族は、それぞれ一族の神を氏神として信仰・崇拝していました。たとえば、物部氏の石上神宮(布都斯御魂大神を祀る)のように。
7C初頭、聖徳太子(実在は疑問視する向きもありますが)は、天皇を中心とした中央集権国家の建設を構想したとされています。この構想実現にあたっては、諸豪族の力を抑え、独立性をそぎ落としていく必要がありました。したがって、諸豪族がそれぞれの氏神を祀るような独自性は、中央主権国家建設の阻害要因であったと考えられます。ゆえに、独自性を奪い、仏教という均質的な宗教が有用であったと考えられます。

>自然信仰だった日本人が仏教を受け入れられたのはなぜでしょうか

もともと自然信仰は、一神教と異なり、さまざまな神、霊の存在を前提とし受け入れます。したがって、仏教も「さまざまな神の一つ」として受け入れられていきます。(もっとも物部氏から見れば邪神ですが)
なお、日本古来の信仰である神道の神々(やおよろずの神)と、仏の関係は平安時代には融合(神仏習合)するとともに、(神と仏の「主従」をめぐって)「本地垂迹」の信仰(例えば八幡大菩薩信仰)を生み出していきます。(神と仏のいずれを主=本地とするかは、その人の信仰上の立場によって異なります)
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この回答へのお礼

わかりやすかったです。ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 08:56

仏教が、当時「ナウでかっこいい」流行だったからです。


身も蓋もない回答ですが、当時の先進国である、中国や朝鮮と互して外交をするには、それ相応の宗教(この場合、自然信仰ではなく、体系だった教義が必要)を持ってないと、相手にしてもらえないわけです。

この辺の宗教受容は、ヨーロッパ史における辺境国家の宗教受容と同等になります。

中央アジアにありました、カザールという国は、周りの一神教国家と互してつきあうために、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教を比較検討してユダヤ教を取り入れたそうです。
当時の日本においては、仏教以外に選択肢が無かったので、仏教を取り入れたのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 08:56

本来の仏教とはかけはなれますが現世利益ですね。


具体的に言うと仏の加護により王家や国家の安泰を図ったということでしょう。
ですから、物部守屋は仏を振興したために災害が起きたと廃仏をとなえますし、護仏派は仏を粗末に扱ったために災害が起きたと主張しています。
このような国家仏教は平安時代初期間で続き、一般民衆にまで仏教が広まるのは平安時代末期になって新仏教が出てきてからでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 08:56

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聖徳大使や天武天皇はなぜ仏教を日本に広めたのでしょうか。
為政者が宗教を保護するのに「ただ好きだったから」
なんて単純な意味とは思えないんですが、
どのような意味があったのでしょう?

Aベストアンサー

 現代日本人の宗教観からすれば、宗教は個人のものですが、奈良時代までの仏教は、国家仏教と呼ばれるように国家が管理したものでした。

 その導入の目的には、天皇を中心とした中央集権国家を作るためのイデオロギー(思想・理念)としての側面があります。

 元々、大和朝廷はその成立の経緯から、地方・中央の有力豪族の連合国家で、天皇家といえども絶対的な権威・権力があるわけではなく、言わば地方分権でした。
 しかし、国の規模が大きくなり、外国とも交流が行なわれるようになり、天皇を中心とした中央集権国家を作ろう(=国力のアップ:外交上の有利・政権担当者の権限の強化。中国という国家を見ることで、中央集権国家の国家としての能力の高さに目覚めたのではと思います。)という流れが起こってきます。

 中央集権にする以上、政権成立の経緯から、天皇―豪族の長―部民(豪族に属する人々。天皇家も豪族の一つとして直接支配する部民を持っていました。)という所属関係となっている国民を、直接天皇が支配する関係にしなければなりません。

 つまり、天皇家に属する部民のみが、天皇の命令に従う意識を持っていただけで、他の国民はそれぞれの豪族の長に従うという意識を強く持ち、「天皇や朝廷との直接のつながりは全く意識されていない。」という現状を、変えなければなりません。

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 国家仏教が導入されれば、国=天皇=朝廷=仏教=寺院(国分寺)と仏教を信じる人々が、豪族の長を通さず、直接つながりを持つ政治体制が始まります。

 当然、既存の豪族は最有力の物部氏を中心にその導入に反対し、逆に天皇家の家老(古代ではこのようには言いませんが)的な立場で、勢力を伸ばしていた蘇我氏としては、当然導入に賛成しました。

 物部氏が敗れたのは、豪族の中にも「中央集権」でないと、今後は他国との関係で不利になると考える人が結構多かったからでは、と思います。

 現代日本人の宗教観からすれば、宗教は個人のものですが、奈良時代までの仏教は、国家仏教と呼ばれるように国家が管理したものでした。

 その導入の目的には、天皇を中心とした中央集権国家を作るためのイデオロギー(思想・理念)としての側面があります。

 元々、大和朝廷はその成立の経緯から、地方・中央の有力豪族の連合国家で、天皇家といえども絶対的な権威・権力があるわけではなく、言わば地方分権でした。
 しかし、国の規模が大きくなり、外国とも交流が行なわれるようになり、天皇を中心...続きを読む

Q中国は儒教の国なのに何故、日本で仏教が

日本の文化は中国から様々な影響を受けていますが

中国は儒教の国なのに何故、中国から日本に仏教が広まったのでしょうか?

Aベストアンサー

簡単な理解
中国、朝鮮、日本でも、儒教も、仏教も伝わった。
儒教と仏教は排斥しあったことが多い。(そうでないときもあるけれど)
日本へは、最初は朝鮮から、続いて中国から、仏教が伝わった。
中国から直接仏教の新しい教えを取り入れるようになったのは、朝鮮経由だけでなく、中国の先進的なものを直接入手するネライもあった。
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Q鎌倉時代に新仏教が興った理由

鎌倉時代に新仏教が次々と興っています。
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また新仏教が興る前の民衆にとっての仏教とはどういうものだったのでしょうか?
お寺でお葬式をして、お寺に墓を作るというようなことは行われていたのですか?
それとも庶民には縁の薄いものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

簡単にいうと、既成仏教が堕落し、平安時代は貴族のものであった仏教が、武士や民衆のニーズに応えて盛んになったといえるのではないでしょうか。

既成仏教とは南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の各宗)、天台・真言の二宗です。南都七大寺や、延暦寺・園城寺などの大寺院は、各地に広大な荘園を持ち、多くの僧兵を養うなど、財力・武力を蓄え権力にも介入し、ことあるごとに朝廷に強訴したり、他の寺院に武力闘争をいどむなど、仏教集団というよりも、武力集団となっていたのです。

それは当時の人々の目には、釈迦の教えが力を失う「末法(まっぽう)」の時代の到来と写っていたようです。
末法思想がひろまるにつれて弘まったのが、法然を祖とする専修念仏(浄土宗)です。
平安時代の末期から絶えない戦乱、あいつぐ天災、生活苦などで、どこにも救いを求めるすべがなかった民衆や、旧仏教に絶望していた僧たちが、浄土信仰に引かれていったようです。

鎌倉武士に流行したのは禅宗です。
当時の最高権力者の北条時頼は本格的な禅宗寺院の建長寺を建てています。
なぜ禅宗が武士の間に弘まったかというと、禅宗が中国の風習を取り入れて、葬式や法要を厳粛に行ったため、家門を尊び祖先を大切にする武士に用いられたとする説が有力です。(一般的なイメージだと、座禅による心身鍛錬がありますが)
また中国(宋)の文物や学芸が、渡来した禅僧によって日本に持ち込まれ、禅宗寺院が最新の外来文化の窓口になっていたせいもあるようです。

その他の宗派については長くなるので割愛します。

死から埋葬までに関わったのは、当時は僧侶ではなく陰陽師です。
年忌法要については、武家などの上流階級の場合は、僧侶が関わっていましたが、やはり陰陽師が要所に関わっており、僧侶の独壇場ではなかったようです。

庶民は自分たちの葬儀のために僧侶を呼んだり塔婆供養をするという習慣はありませんでした。庶民を対象とする新仏教の本来の目的は葬送儀礼ではなかったのですから、武士や貴族階級の葬法とは大きな違いをみせています。
死体は道のほとりなどに、山積みにして捨てられていたのです。(集団埋葬地のようなもの、寺の中などではない)葬って墓標が立てられ、誰の墓か分るような物は庶民の墓としては上等でした。また葬儀や埋葬をできる庶民は、僧侶より陰陽師に依頼するのが普通でした。死と死後の諸儀礼は、庶民の中にはほとんど成立してなかったといえます。

簡単にいうと、既成仏教が堕落し、平安時代は貴族のものであった仏教が、武士や民衆のニーズに応えて盛んになったといえるのではないでしょうか。

既成仏教とは南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の各宗)、天台・真言の二宗です。南都七大寺や、延暦寺・園城寺などの大寺院は、各地に広大な荘園を持ち、多くの僧兵を養うなど、財力・武力を蓄え権力にも介入し、ことあるごとに朝廷に強訴したり、他の寺院に武力闘争をいどむなど、仏教集団というよりも、武力集団となっていたのです。

それは当時...続きを読む

Q日本の仏教の受け入れ方

日本は仏教をどのように受け入れたのでしょうか?
また、仏教のどういった部分を受け入れなかった、あるいは受け入れられなかったのでしょうか??
教えてください!!お願いします!

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>日本は仏教をどのように受け入れたのでしょうか?

回答から先に述べますと、

天皇が中央集権国家の樹立を目指すための「政治的な道具?」として利用しようとして受け入れました。
仏教伝来よりも、ずっと後年になりますが、聖武天皇の発願で745年(天平17年)には、奈良の大仏様の造立が開始され、民衆の心の拠りどころとする一方で、天皇の「威厳の高揚」目指しています。

(1)日本への「仏教伝来」は、「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ=聖徳太子の伝記)や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」(がんごうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう=元興寺縁起)では538年に伝来したと記されており、歴史の教科書などでは、こちらが主流。

(2)これは、百済の聖明王から欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などが献上された、とされる事からきています。
一方で、「日本書紀」では552年とされている。

(3)しかし、それまで仏教はなかったのか・・・と言うと、奈良県北葛城郡の新山古墳からは「三角縁神獣鏡」が出土されており、鏡の面には「獣」の変わりに「三仏」が連座に彫られ、円形の「頭光」もある。
そして、これに類似した「仏」が彫刻された「鏡」は、千葉県、長野県、岡山県でも発掘されており、いずれも、炭素年代法で538年よりも古い時代(卑弥呼の時代)である、と、されている。

(4)さて、538年に百済より仏像や経典、仏具が贈られましたが、すぐに仏教は広まったか・・・と、いうと、そこには、血なまぐさい抗争へと発展していったのです。
欽明天皇は百済から贈られた仏像や経典、仏具を曽我稲目(そがのいねめ)に授けました。稲目は自宅を改修して日本初の「寺」として安置しましたが、やがて、国内に疫病が流行し、神道を信奉する物部尾興(もののべのおこし)は「疫病の原因は神の祟りだ」と、稲目の寺を焼き払ってしまった。しかし、金銅の仏像だけは焼けずに残ったため、尾興は怒って仏像を難波の池に投げ込んだ。
しかし、疫病は治まらず、天変地異も続き、欽明天皇は、ただただ曽我氏と物部氏の戦いを「傍観」するだけでした。と、言うよりも、天皇としての統治権限が微弱で二人の対立を抑えることができなかった、というのが本音かもしれません。
その後の欽明天皇が崩御され、続いた敏達天皇も用明天皇も疫病で早くに亡くなり、天皇の後継者争いで、再び、曽我氏と物部氏が対立。武力闘争となりましたが、曽我馬子が平定し推古天皇と曽我氏の血を引く厩戸皇子(14歳・後の聖徳太子)の奉仏派が物部氏一族を完全に滅亡させました。

(5)593年聖徳太子が正式に摂政となり、17条憲法を作り、その第二条に:

二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。

と、仏教を正式に受け入れました。

(6)聖徳太子は斑鳩に法隆寺を造立し、日本の仏教の「祖師」といわれるゆえんは、ここにあるのです。

>>また、仏教のどういった部分を受け入れなかった、あるいは受け入れられなかったのでしょうか??

これは、先述のように、日本古来の信仰としては「神道」がありましたので、昨今でもそうですが、舶来のものをすぐには受け入れられない、という日本人特有の?「排他的心情」があったからです。

(よもやま話)
(1)日本に伝来した頃、中国でも百済でも「宗派」は分かれてはいませんでした。
ただし、「大乗仏教」と「小乗仏教」の違いがあった。

※大乗仏教・・・修行した僧侶が仏教の精神を広く説き、何人(なにびと)であれ、「念仏」を唱えることで極楽に行ける。つまり、庶民は修行をしなくても「念仏」さえ唱えれば「極楽」へ行ける。と、言う考え方。
インドの「釈迦」から「三蔵法師」によって中国へ、中国から百済へ、そして、百済の聖明王から日本の欽明天皇に対して、仏像や経典、幡蓋(ばんがい=かざりの道具)などが献上された。と、言われています。これは「大乗仏教」でした。

※小乗仏教・・・大乗仏教に対して「差別的」にそう呼ばれるようになりましたが、本来の仏教は「上座部仏教(じょうざぶ ぶっきょう)」と言い、修行(苦行)をして「悟り」を得ることが目的でした。この教えは東南アジア(タイやカンボジア、ラオス、ミャンマーなど)で発展し、仏教を本当に信仰しているのは僧侶だけで、他の人々は「僧侶」を敬い、その僧侶の「修行」を支えるだけです。ただし、自分の信仰の証として、寺へも詣でますが・・・。
よくTVなどで、「黄」の衣を着て「托鉢」してまわる僧侶に庶民が「ご飯」や「金銭」を快く差し出し僧侶に向かって手を合わせるシーンがありますよね。これが「小乗仏教」です。

(2)やがて、奈良時代に「三輪」「成実」「法相」「倶舎」「華厳」「律」の6宗派に分かれ「南都六宗」と呼ばれましたが、「三輪」「成実」「倶舎」の3宗派はすぐに衰え、今日まで伝承されているのは「法相」「華厳」「律」の3宗派だけです。

※法相宗
入唐した僧侶、道昭が653年に持ち帰った。
宗旨は一切が心を離れて存在しないという唯心・唯識の立場にたって迷・悟の因縁を究めていけば執着からも次第に離れることができると教えています。「一水四見」が代表的な教えです。
本山は興福寺と薬師寺の二山です。戦後独立して聖徳宗を名のる法隆寺や北法相宗を名のる清水寺も、元は法相宗所属の寺院でした。

※華厳宗
唐の道せん(どうせん、日本には「せん」の漢字がありませんので平仮名で失礼します)が華厳経の注釈書を持参した時に始まるとも、また賢首大師法蔵に師事した新羅の審祥が良弁の求めによって本経を講義した時に始まるとも言われています。
宗旨は華厳経をもとに体系づけられたもので、全世界は因縁によって成り立ち、すべて仏の世界であり「一即一切・一切即一」の関係において成り立っているということを信じ悟ることができれば自在の境地にいたるであろうと説かれています。
総本山は東大寺で、我が国華厳宗では良弁、高弁、凝然、鳳潭などの高僧が有名です。

※律 宗
律宗は754年唐僧の鑑真和上によって伝えられました。
鑑真和上(688~763)は日本への渡航には暴風・失明などの苦難ののち六度目にようやく成功、東大寺に戒壇(戒を授けるために設けた壇)を設け、聖武天皇をはじめ多くの貴族たちも戒を受けたと言われています。
律宗は戒律を重んじ、それを自ら実践することをもって成仏の因とする宗旨で総本山は唐招提寺です。
律宗のなかで高名の僧は覚盛、叡尊、忍性、滋雲などで律宗系の寺院としては西大寺(奈良)・浄瑠璃寺(京都)、南京律の泉涌寺(京都)、安楽律の安楽院(比叡山)があります。

(3)また、聖徳太子の教えを今も伝えるのが「太子信仰」と呼ばれる人々です。こうした人々は鎌倉時代から徐々に勢力を広めていった親鸞の唱える「一向宗(浄土宗)」とほぼ同世代に隆盛を迎え、「太子信仰(太子講)」の人々は「寺院建築」「灌漑」「治水」「鉱山開発」などの「特殊技能」を持つ集団として「太子衆」と呼ばれ、各地で活躍しました。なお、現在でも「太子衆」はいますし、聖徳太子を祀る神仏混合の「寺?」「神社?」も各地で見られます。
ご存知かとは思いますが、「神仏分離令」が明治になってから発布され、神仏は切り離されましたが、それ以前は、「神仏混合」でした。

(4)話は変わりますが、比叡山延暦寺を造立する時に、麓の「日枝神社」に地鎮祭を執り行ってもらっていす。
延暦寺へ行くと、寺の外れに小さな「祠(ほこら)」がありますよ。

少し長くなりましたが、あなたのお役に立てば・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>日本は仏教をどのように受け入れたのでしょうか?

回答から先に述べますと、

天皇が中央集権国家の樹立を目指すための「政治的な道具?」として利用しようとして受け入れました。
仏教伝来よりも、ずっと後年になりますが、聖武天皇の発願で745年(天平17年)には、奈良の大仏様の造立が開始され、民衆の心の拠りどころとする一方で、天皇の「威厳の高揚」目指しています。

(1)日本への「仏教伝来」は、「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうし...続きを読む

Q本免学科試験を1度で合格したいです

次 本免学科試験なのですが受験生なのでなんとしても1度で受かりたいのです。
こちらの方で本免学科試験についてけんさくしたところ
○自動車学校の試験より難しいと考えがちだが同じレベルと考えてよい
○自動車学校の効果測定(なんですか?それ)の問題集をやれば問題ない
○半分が常識的な問題なのでひっかけ対策より基礎をやればまあ大丈夫
というアドバイスを見つけたのですが他になにかアドバイスあったら教えてもらえないでしょうか?
お願いいたします。

Aベストアンサー

教習所でもらった(と思います)「学科問題集」を完璧に仕上げておきましょう。
「学科教本」の各単元末に復習の意味で付いている問題じゃなくてね。

もらっていなければ、市販の(都道府県によっては免許センターで販売されている)「模擬問題集」がベターです。同じ問題が出題順を変えて出るだけですので、これを繰り返しやっておくと良いでしょう。

なお、「効果測定」というのは、教習所によっては「仮免学科試験/卒業学科試験」とか「模擬テスト」と称しているかも知れません。名称は違っていても、ro852さんの卒業された教習所でも何らかの形で学科試験は有ったはずです。
これをきちんと復習しておくと良いということです。

いずれにしても、これまでの回答にありましたように、きちんと勉強しさえすれば(ここがホントはポイントなんですがね)、それほど難しいこともないと思いますよ。
ご健闘をお祈りいたします。

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。

Q宗教って何のためにあるんですか?人はなぜ宗教を信じるんですか?

宗教が原因で世界中で戦争や人殺しやテロが勃発してます。でも、今生きている人の中で神様を実際いることを証明した人は誰もいません。なぜ、実態があるかもどうかもわからないものを人は信じるのでしょうか?宗教を信じる事に何か利益があるのですか?しかも個人的に信じるならまだしもそれが原因で人殺しが起きたり、政治に介入したり、教育や司法、あらゆる場に介入しています。
また、宗教をねたに詐欺や金儲けをしている人が大勢います。宗教って一体 何のためにあるんですか?信じている人はどうして信じるのでしょうか?
何か信じて利益になるんですか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私も前の方と同様に思います。

神さまも仏様もキリスト様も結局は人の心の中に存在するのだと思います。

イエスキリストやゴータマシッタルダ(仏陀)も実在の人であったようですが、その後進達によって、実在の姿からかけ離れた姿で言い伝えられています。

教祖は人間でも死去すれば、弟子達によって神格化されてしまうのは、洋の東西によらないでしょう。

結局、宗教で信じているのは、教祖(始祖)ではなくて、神格化された教祖の姿なわけです。

その言葉なり戒めを信じて疑わずにやっていけば、迷う部分が大幅に減り、ストレスなども相当減らせます。
そういう意味で宗教は有益だと思います。

ただ、近頃はやけにお金を貢がないといけない宗教が多いですね。
私はそういうのは宗教だと思ってません。
人の悩みや弱みに付け込んだ詐欺だと思ってます。

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参考アドレスも掲載しておきます。

参考URL:http://www.city.miura.kanagawa.jp/index/download/007385;000001.pdf

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どうも分かりません。

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既に適切な回答があるので蛇足かもしれませんが、刑事手続きがどうなっているのかを知ればその違いが自ずと分かるので刑事手続きの概要を必要最小限(のつもり)説明しておきます。長いですので覚悟してください。

刑事手続きの大雑把な流れは、
捜査->起訴(公訴提起)->公判->判決->刑の執行
というところ。全部話をするわけにもいきませんしその必要もないので質問に関するところ(主に捜査)だけ説明します。

犯罪が犯罪として処罰の対象になるためには、まず裁判に先立って、その犯罪の存在を捜査機関が知り、必要な証拠を集め、被疑者(=容疑者)の身柄の確保をしないとなりません。これを捜査と言います。
被疑者の身柄の確保というのは、「後で裁判になった時に被疑者の出廷が必要」なので逃げられては裁判ができなくて困るというのが第一点。それと「自由にさせておくと証拠を隠滅するかもしれない」というのが第二点。
ですから逆に言えば、「逃げも隠れもしない、証拠隠滅のおそれも無い」のであれば身柄を確保する必要はありません(一定の軽微な犯罪につき、更に例外あり)。入院しているような人間なら逮捕しないことはよくあります。この身柄の確保のための手続きが、「逮捕」であり「勾留(起訴前勾留)」です(起訴前と言っているのは起訴後というのがあるからですがここでは関係ないので説明しません)。
「逮捕」というのは、被疑者の身柄を確保する手続きの内、「短時間のもの」。具体的には、身柄を拘束し最大48時間拘束し続けることです。この制限時間が過ぎると釈放しなければなりません。
しかし、それでは困る場合には、引き続いて身柄を拘束することができます。これが「勾留」です。勾留は最大10日間身柄を拘束できます。なお、勾留は1回に限り最大10日間延長することができますから、都合20日間まで勾留できることになります(例外として25日可能な場合もあります)。

ところで勾留の申請ができるのは検察官だけです。ですから警察官が逮捕した場合には、検察官に勾留申請をしてもらうかどうか決めてもらう必要があります。そこで48時間の逮捕の制限時間内に検察官に証拠物、捜査書類と一緒に身柄を送致しなければなりません(刑事訴訟法203条1項)。これを「検察官送致、略して送検」と言います。無論、警察限りで釈放する場合は必要ありません。
検察官送致を受けると検察官は24時間以内に釈放するか勾留請求をするかしなければなりません。ですから、警察官が逮捕した場合の身柄拘束は48時間+24時間の最大72時間に及ぶ可能性があることになります。このような身体を拘束した被疑者を送検することを「身柄付送検」と言う場合があります。これはなぜかと言えば、質問にある「書類送検」と明確に区別するためです。ただ、一般には単に「送検」と言えば「身柄付送検」を意味します。

さて、では「書類送検」とはなんぞや?ということになりますが、まず前提として犯罪捜査は常に被疑者の身柄を拘束するわけではないということを知っておかなければなりません。全犯罪件数から見れば、身柄を拘束しない事件の方が多いです。身柄を拘束していない場合には、先に述べたように「(203条1項による)検察官送致」をする必要がありません。と言うか、身柄を拘束していないのでできません。たとえ逮捕した場合でも、警察限りで釈放すればやはり検察官送致の必要はありません。
しかし、それとは別に、警察は犯罪の捜査をしたら原則として必ず検察官にその捜査についての資料、証拠などを送らなければなりません(刑事訴訟法246条本文)。これを「書類送検」と呼んでいます。書類(証拠物、捜査資料、捜査報告書などなど)を検察官に送致するということです。正確には送致しているのは「事件」なのですが、実際に何を送るのかと言えば「書類」であるということです。
つまり、「(身柄付)送検」と「書類送検」は同じ送検でも別の条文に基づく別の手続きです。と言っても、(身柄付)送検をすればそのとき書類も一緒に送っているので、重ねて書類送検を行う必要はないので、(身柄付)送検は書類送検を実際には兼ねていますが(と言っても、身柄付送検をすれば書類送検をしなくていいのはあくまでも246条本文に「この法律に特別の定のある場合を除いては」と書いてあり、身柄付送検が「特別の定」だから)。

というわけで、「逮捕」と「送検」というのは次元の違う話であることがわかると思います。
まとめれば、
1.「逮捕」とは、捜査において被疑者の身柄を確保すること。
2.警察が「逮捕」した場合は、刑事訴訟法203条1項により、釈放しない限り48時間以内に被疑者の身柄を検察官に送致しなければならず、これを「(身柄付)送検」と呼ぶ。
3.「書類送検」とは、警察が捜査した事件について刑事訴訟法246条本文に基づきその証拠、捜査資料を検察官に送致すること。
4.「(身柄付)送検」は「書類送検」を兼ねている。
5.警察が「逮捕」した場合でも、釈放すれば「(身柄付)送検」はできないので、その場合は「書類送検」を行わねばならない。
ということです。

そして、「書類送検」するということは「身柄付送検」をしていないということですからつまりは「身柄を拘束していない」ということになります。身柄を拘束していない場合というのは大概は相対的に軽微な犯罪であることが多いのでその意味では、逮捕した事件(これを身柄事件と言う場合があります)に比べれば罪が軽いことが多いのは確かです。しかし、それはあくまで結果論であって、書類送検だから、逮捕したから、と言うわけではありません。既に述べたように逮捕しても身柄付送検せずに釈放すれば書類送検ということになりますし。

なお、先に述べたとおり、「捜査した事件はすべて検察官に送致する」のが原則(全件送致の原則)ですが、例外として検察官送致にしないものが幾つかあります。例えば、検察官が指定した事件について、月報でまとめて報告するだけの微罪処分ですとか、あるいは報告すらしない始末書処分などがあります。ちなみに、交通反則通告制度については、微罪処分の一種とする文献もあるにはありますが、多少なり疑問のあるところではあります。
そういうわけで、どういう場合に書類送検となるかと言えば、「刑事訴訟法246条前段に当たる場合」ということになります。もう少し具体的に言えば、「微罪処分等で済ませることのできない事件で、かつ、身柄付送検等もしなかった事件」ということになります。

ところで、前科というのが何かと言えば、これは法律用語ではないということになっているのですが、法律的に見れば「有罪の判決を受けたこと」を言うと思ってください。ですから、前科が付くためには、「裁判を経て有罪判決が出なければならない」ことになります。しかし、最初に述べたとおり「検察官送致」というのは単なる捜査手続きの一部でしかなく、この後で検察官が起訴するかどうかを決め、起訴して初めて裁判になるのですから、検察官送致だけではまだ前科は付きません。その後どうなるかはその後の話です。無論、逮捕だけでも前科は付きません。逮捕=有罪ではありません(そう勘違いしているとしか思えない報道が多いのは事実ですが、有罪判決が出ない限りは被疑者、被告人はあくまでも「無罪」です)。
ちなみに、捜査したが起訴しなかった犯罪事実について「前歴」と呼ぶことがあります。

既に適切な回答があるので蛇足かもしれませんが、刑事手続きがどうなっているのかを知ればその違いが自ずと分かるので刑事手続きの概要を必要最小限(のつもり)説明しておきます。長いですので覚悟してください。

刑事手続きの大雑把な流れは、
捜査->起訴(公訴提起)->公判->判決->刑の執行
というところ。全部話をするわけにもいきませんしその必要もないので質問に関するところ(主に捜査)だけ説明します。

犯罪が犯罪として処罰の対象になるためには、まず裁判に先立って、その犯罪の存在を捜査機...続きを読む


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