律令制時代・室町時代・江戸時代の「関所」について調べようと思うのですが、律令制時代のことがなかなか見つかりません。律令制時代はどのような目的で関所が設けられていたのか、どなたか教えてください。

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A 回答 (3件)

出典が不明ですが.「通行税を取るため」です。

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本格的に調べられるのですと、Amazon.co.jp で 和書で「関所」を入れて検索すると小説ありますが、


関所の変遷や近代関所などの本が数冊出てきます。
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「古代 関所 目的」をgoogleで検索、少し見えてきます。

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Q釜飯の中身って結局、鳥飯ですか?

お店によって違うでしょうけど鳥飯などを釜で
炊くから釜飯という呼び名でしょうか?

味付けとかが炊き込みご飯と釜飯とは違う
んですか?

Aベストアンサー

まあ、一番ポピュラーなのが鳥飯ですが。。。

栗ごはん、松茸ごはん、キノコごはん、豆ごはん等、釜で炊けば釜飯になります。

味付けもいろいろありますよ。

こちらは釜飯屋のメニューです
http://www.kamatora.jp/
http://www.kamanoya.com/
http://www.ekamameshi.com/
http://www.kama-ichie.com/system001/menu/#rice

Q江戸時代の関所には関銭はありましたか?

室町時代の関所には関銭を徴収するという習慣がありましたが、それは信長・秀吉の時代に廃止されたというのは歴史の本などにありました。
江戸時代の関所は「入り鉄砲」「出女」の取り締まりのための関所で通行手形がある人が通れたというようなことかと思いますが、そこでは「関銭」「VISA発行料」のようなものがあったのでしょうか?

Aベストアンサー

No3です。
「江戸の宿―三都・街道宿泊事情」 (平凡社新書)
深井 甚三 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582850529/

の第三章に、江戸時代における、関所に近い宿場と関所の関わりについて記述があります。かなり詳しい内容ですので、上記の本を図書館等で探してください。

なお、
「関所を(円滑に)通るために、関所の役人に袖の下を払う必要があった」
などという記述はありません。

Q江戸時代の関所って関所を通らなくてもよかったのでは

江戸時代の関所ですが、別にそこの関所を通らなくても迂回することは可能ですよね?例えば箱根の関所ですが、やる気になれば街道から一歩山の中へ分け入り、そこから関所を越すという感じでやれば関所を通らなくてもOKのような気がします。もちろん道なき道をわけいるのは面倒で勇気のいることだとは思いますけど、やってやれないことはないと思います。

入り鉄砲・出女と言われますが、鉄砲商人だったら死ぬ気でやれば見つからずにできたと思います。今みたいに山の中へ入ったら装置が作動して電気が付くなんていう事もできなかったと思いますし。あと時代劇とかで出女が関所を通るときに身分を偽って顔を隠すみたいな事をしていますが、これも関所を通らずに別のルートで出て行けたような気がします。

そこで質問ですが、関所はそれなりに機能はしていたと思いますが、本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

Aベストアンサー

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるようになった頃には、関所自体、あまり取締が厳しくなくなっていた現実もあるようです。

でも、士分はそうはいかない。
入り鉄砲・出女は武士を対象にした規制ですが、例えば(こんな例はないと思いますが)、大名の妻が江戸から国へ帰った場合、関所を通ったという記録が残っていないと後が大変です。
幕府と戦をするつもりがあると見られてもしょうがない。

身分に関係なく、江戸を出る時は許可を得る必要がありますし、
大名の場合は大目付によって妻子が江戸藩邸にいるかどうかチェックされていましたので、入り鉄砲・出女は関所だけがチェック機関だったわけではないのです。

ただし、幕末になると妻子を国に返してもかまわない、ということになり、出女については意味がなくなっています。
討幕運動が一気に盛り上がれた要因の1つかもしれません。

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるよう...続きを読む

Q鎌倉・室町、戦国、江戸時代の天皇 権威はあったの?

鎌倉・室町、江戸時代の天皇は権力がなく、室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、その時代には天皇の権威はあったのでしょうか?
あったとすれば、それは祭司王としての権威でしょうか?過去に作られた神話をもとにした権威でしょうか?古代の神(同時に鬼としても)信仰があったのでしょうか?ピースメーカーとして機能していたの?
権威があったのならあの時代、貧窮しなかっただろうし、江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが。。。
そこらへんを詳しく解説していただけると助かります。

Aベストアンサー

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
『象徴天皇の発見』文春新書、1999年)
『象徴天皇の源流 権威と権力を分離した日本的王制』(新人物往来社、2011年)

 今谷氏は、女性宮家創設の是非について、日本政府から公式に意見を聞かれたりもしています。

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権...続きを読む

Q陶芸で釜飯の釜は焼けますか?

七輪に続いて質問です。

陶芸で釜飯の釜は焼けるでしょうか?
2合炊き程のお釜で
釜飯を炊いてお釜のまま食卓に出したいのですが。

Aベストアンサー

>知りませんでした。
家庭用機器の範囲内として、炊飯が可能な電気オーブンでたしか120-150度で1-2時間放置です。
温度と時間の違いは内容物と機械の違いです。電気オーブンの「ご飯の炊き方」に順じてください。
ただし、私の機械の場合、メーカー付属金属せい容器よりも10-15分程度時間をかけた場合がうまくいきやすかったです。

ハイドは、磁器土(焼き締め温度SK8-10用)に1-2割(磁器土によって変化)炭酸マク゛ネシウムを混ぜてください。熱衝撃にある程度強くなります。しかし、成型はかなり困難になります。

Q江戸時代の江戸での墓は両墓制でしたか?

江戸の長屋はずいぶん狭かったようで、
それだけ土地が足りなかったのだと思います。
江戸では、両墓制だったのでしょうか?
「捨墓」と「参り墓」があったのでしょうか。
又、火葬はしてましたか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

両墓制かどうかは知りません。

荒川区の荒川ふるさと文化館に参考となる展示があります。
江戸では火葬と土葬の両方があったようです。
安政年間のコレラ(ころり)流行のとき、火葬場に次々と運ばれてきて、焼き待ちの棺おけが並んでいる絵が展示されていました。
火葬場と各寺院が経営している火葬寺と呼ばれていました。コレラ菌を殺すために火葬したとのことです。
現代と同じく大都市江戸も墓不足でした。土葬は場所もとるし、墓穴を掘るのも大変なので、火葬も増えてきたようです。

参考URL:http://www.city.arakawa.tokyo.jp/a002/d05200001.html

Q峠の釜飯だと思う…

先日あさま1号で長野に行ったのですが
乗った車両が悪かったのか車内販売がきませんでした…
以前新幹線に乗った時は釜飯を売っていましたが
最近は高崎のだるま弁当しか見かけません…
車内販売の人に聞くと「あぁこの電車○○駅に停まらないから…」
と言っていましたが…
峠の釜飯は今も新幹線あさま車内で買えるのでしょうか?

もう一つ
JRA夏競馬のCM今やっていますがどう見ても不自然なんです。
CMは、競馬場に行く途中の電車内という設定なのですが
そこでこの釜飯が出てくるんです。(どう見ても新幹線車内で峠の釜飯でした。)
が!、夏競馬は新潟か福島なんですよ…
長野からの上りなら「競馬場へ行かれるんですか?」と言う会話も変かと…
長野→直江津→新潟競馬場へもおかしいですよね…

しっくり来るのは…
東京→新潟の車内で峠の釜飯を売っているor
高崎駅で停車中に峠の釜飯を買ってきた…
となるのですが、この2つの状態はどうなのでしょう…
暇な時で良いので回答ください。お願いします。

Aベストアンサー

おぎのやのサイトによりますと
「長野行き新幹線開通高崎・軽井沢間にて釜めし車内販売開始(日本レストランエンタープライズさん通し)」
とのことです。

CMの件ですが…そこまで考えてなかったんだと思います^^;
もしくは軽井沢で1泊してから新潟に向ったとか…

参考URL:http://www.oginoya.co.jp/fanclub/profile.html

Qなぜ江戸時代の関所は女性を取り締まった?

江戸時代の関所では「出女、入り鉄砲」といわれるように、
女性の通行と、江戸に入る鉄砲を特に管理していたということを知りました。
そこで、鉄砲はともかく、なぜ女性の通行が厳しく取り締まられていたのでしょうか?
とりあえず、当時女性に対する差別があったから、という理由を思いつきましたが、
それだけでは納得できません

Aベストアンサー

教科書に載ってる話。

江戸時代、大名の奥方や子供は「人質」として江戸に住まわされていました。それがこっそりと国元に帰ってしまうのを防ぐ為に、特に女性(奥方)には敏感だったようです。
江戸以外といっても、どんなルートで国元に逃げ帰るか知れませんから。。。

Q関所

箱根の関所以外ではどこに関所があったのでしょうか?
箱根は小田原藩が管理していた様ですが、他の関所は誰が管理していたでしょうか?

Aベストアンサー

関所は主要なものでも35ヶ所、山間の小さなものを含めれば50ヶ所ほどもありました。
そのうち重関所については、管理者は時期により変わっている場合もありますが、1742年では次のようになっていました。
関所名  場所  管理者
碓氷  上野国碓氷郡  安中藩主板倉伊予守
猿ガ京 上野国吾妻郡  稲垣藤四郎
大戸  上野国吾妻郡  布施孫三郎
大笹  上野国吾妻郡  布施孫三郎
杢ケ橋 上野国群馬郡  高崎藩主松平右京亮
五料  上野国那波郡  前橋藩主松平大和守
関宿  下総国葛飾郡  関宿藩主久世大和守
房川渡中田 武蔵国葛飾郡  竹垣三右衛門
金町松戸  武蔵国葛飾郡  小野田三郎右衛門
小岩市川  武蔵国葛飾郡  小野田三郎右衛門
新郷川俣  武蔵国埼玉郡  忍藩主阿部豊後守
小仏  武蔵国多摩郡  伊奈友之助
箱根  相模国足柄郡  小田原藩主大久保加賀守
根府川 相模国足柄郡     〃
福島  信濃国筑摩郡  山村甚兵衛
関川  越後国頚城郡  高田藩主榊原式大輔
今切(新居) 遠江国敷知郡  三河吉田藩主松平伊豆守
気賀  遠江国引佐郡  近藤石見守
柳ガ瀬 近江国伊香郡  彦根藩主井伊掃部頭

関所は主要なものでも35ヶ所、山間の小さなものを含めれば50ヶ所ほどもありました。
そのうち重関所については、管理者は時期により変わっている場合もありますが、1742年では次のようになっていました。
関所名  場所  管理者
碓氷  上野国碓氷郡  安中藩主板倉伊予守
猿ガ京 上野国吾妻郡  稲垣藤四郎
大戸  上野国吾妻郡  布施孫三郎
大笹  上野国吾妻郡  布施孫三郎
杢ケ橋 上野国群馬郡  高崎藩主松平右京亮
五料  上野国那波郡  前橋藩主松平大和守
関宿  下...続きを読む

Aベストアンサー

上記の方が言っておられますが、仏教が伝来したのは聖徳太子の時代ではありません。
伝来の時期については諸説ありますが、欽明天皇(539年即位。第29代天皇)が百済の王から伝来されたという説について簡単に説明します。
このとき、朝廷では蘇我氏や物部氏が権力を握っていました。欽明天皇が仏教を受けいれるべきかと聞いたとき、蘇我氏が賛成し物部氏が反対しました。一旦受け入れたものの、流行り病等が起こったので物部氏はこれを「日本古来からの神のたたり」と主張し、廃仏が実施されます。
後年にも同じようなことが起こりますが、最終的に、この両氏の戦いは蘇我馬子の時代に蘇我氏が物部氏を倒したことにより、決着。後に、馬子が支持していた推古天皇が即位したことにより、仏教を受け入れることが決定的となりました。
聖徳太子は推古天皇(593年即位。第33代天皇)の摂政として政治を行いましたが、幼少期の伝説や彼の建てた法隆寺を見れば分かるとおり、仏教を受け入れました。馬子と協力して仏教の道徳観に基づいて政治を行ったといわれています。
聖武天皇は(724年即位。第45代天皇)、在任中に病気や災害が数多く起こったため、仏教に帰依しました。結果、東大寺を建立し大仏を作りました。


余談ですが、日本における律令時代とは大化の改新を皮切りに始まる(近年では疑問視され始めていますが)天皇に全ての権力を集めようとする一連の流れもしくはその制度が施行されていた時代のことです。この大化の改新は、中大兄皇子と藤原鎌足が、前述した蘇我馬子の孫・蘇我入鹿を暗殺しその父蘇我蝦夷が自殺したことに始まります。これにより、蘇我体制の政治が終わりを告げ、数代の天皇を中大兄皇子や中臣鎌足がサポートするようになります。最終的に中大兄皇子は天智天皇(661年即位。第38代天皇)となり、その死後、壬申の乱で勝利した大海人皇子が天武天皇(673年即位。第40代天皇)として、さらに中央集権を推し進めました。
この律令制は、聖武天皇が墾田永年私財法により、「土地は天皇のもの」という律令の根幹が揺らがされ、桓武天皇(781年即位。第50代天皇)の時代に、大きく行政改革がなされたことで終わりを迎えました。(この終焉にも諸説在ります。)


上に幾度か書いていますが、この仏教伝来の流れについては諸説あります。ご自分で調べて見られるのもいいと思いますよ。

上記の方が言っておられますが、仏教が伝来したのは聖徳太子の時代ではありません。
伝来の時期については諸説ありますが、欽明天皇(539年即位。第29代天皇)が百済の王から伝来されたという説について簡単に説明します。
このとき、朝廷では蘇我氏や物部氏が権力を握っていました。欽明天皇が仏教を受けいれるべきかと聞いたとき、蘇我氏が賛成し物部氏が反対しました。一旦受け入れたものの、流行り病等が起こったので物部氏はこれを「日本古来からの神のたたり」と主張し、廃仏が実施されます。
後年にも同...続きを読む


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