19世紀末から20世紀にかけて多く発見された
彼らですが、カンブリア大爆発の中で、よく「孤児のように語られる」
と聞きますが、どういう意味で孤児なのでしょうか?
その種の末裔がいないからでしょうか?いくつかサイトを
めぐってみたのですがわかりません。

よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

まんま引用ですが。


>いくつかサイトをめぐってみたのですが
具体的にどこだかわかんないので、重複しててもご容赦を。

引用ここから------------------------
現生生物との類縁関係ははっきりしない。『ワンダフル・ライフ』の著者であるスティ-ブン.J.グールドは、現在の動物門の枠組みには収まりきれない奇妙奇天烈動物であり、動物界の孤児であるとして、カンブリア紀動物相の現在との異質性を主張したが、その後、専門家からの反発が強く、そこまで言うほどの異質性はないとの主張も多い。
ここまで-----------------------------

参考URL:http://encyclopedie-ja.snyke.com/articles/%E3%82 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私が巡ってきたサイトは、
だいたい以下のURLとそのリンク先くらいです。

http://www.museum.fm/Cambria/HistoryOfAnomalocar …

http://www.museum.fm/burgess.htm

お礼日時:2005/11/06 10:55

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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

近くの古墳公園で埴輪を見て以来、不思議な魅力に魅せられてしまいました。
そして、何より驚いたのは大きさと数の多さです。
製作工房で多くの専門の工人の手によるものだと直感しました。

2について。
朝日新聞で読みましたが、埴輪は、わが国特有のものだそうです。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201201190251.html
埴輪は3世紀に日本列島で生まれ、数百年にわたって用いられた日本列島の古墳特有の副葬品だ。朝鮮半島南部でも一部出土した例があるが、それは、日本列島から移り住んだ人々が作ったと言われている。典型的な「倭(わ)系」遺物だ。

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http://ci.nii.ac.jp/naid/120003501393

6について。
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5について。
南関東と畿内とに交流があったと推定されています。
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http://ci.nii.ac.jp/naid/110000985385

4について。
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Q3~4世紀の日本

古代3世紀の日本については、魏志倭人伝などで
卑弥呼率いる邪馬台国連合が紹介されていて
親魏倭王の金印、漢奴国王の金印があり
北九州を窓口に中華の国との交易を重視した国がある一方

唐書、日本書紀では、神功皇后が新羅出兵を行う
三韓征伐など南朝鮮半島(新羅、百済)への侵攻
日本府や弁韓(後の任那・加羅)支配を行っています。

これは、当時の日本には、二つの勢力があっと考えるべきか
一つの政権が中華と朝鮮と二つの対応を同時に行っていたのでしょうか。
以下は勝手な推測です。

推測1
  北九州と近畿に二つの勢力国があった。
  北九州の連合国は帯方群など通じて中華の国に王として認められた。
  卑弥呼が送った朝貢は、男女生口10名など貧しいものであったが
  その対応が早く感動を与えて親魏倭王の金印となる。
  近畿勢力の国々は、百済、新羅が弱小国であるので、支配下に置くために
  1万人規模の軍などを贈り統治を行う。
  朝鮮半島=>壱岐・対馬=>北九州の航路に対して、朝鮮半島=>若狭湾=>近畿の
  航路を作っていた。
推測2
  北九州から近畿まで統治する一大勢力があり、そのトップに当たる国(国王)がいた。
  中華には、伊都国の一大率に対応を任せており、卑弥呼も邪馬台国も作り話
  倭は、まだ文明にも遅れていて呪術で国をまとめている。朝貢も貧しい国を演じる。
  一方で、弱小国新羅に対しては進攻戦略を行う。
  神功皇后も神話であり、当時の政権のトップが軍事部門に命令して行った。
  唐書にも神功皇后の名前が出ているのは、日本書紀などを参考にしてので同じ内容に
  なっている。

卑弥呼=神功皇后とすると。一人の女性が、国内的には呪術を行い、中華には和睦関係
朝鮮半島には侵攻で力技と、とても一人で出来るとは思えません。
当時の日本の情勢をどの様に考えると、各歴史の書記や遺跡類と話が合うのでしょうか。
朝鮮へ送り込んだ軍は、どこの誰と考えるべきでしょうか。

古代3世紀の日本については、魏志倭人伝などで
卑弥呼率いる邪馬台国連合が紹介されていて
親魏倭王の金印、漢奴国王の金印があり
北九州を窓口に中華の国との交易を重視した国がある一方

唐書、日本書紀では、神功皇后が新羅出兵を行う
三韓征伐など南朝鮮半島(新羅、百済)への侵攻
日本府や弁韓(後の任那・加羅)支配を行っています。

これは、当時の日本には、二つの勢力があっと考えるべきか
一つの政権が中華と朝鮮と二つの対応を同時に行っていたのでしょうか。
以下は勝手な推測です。

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Aベストアンサー

卑弥呼と神功皇后では約150年の時代の差があります。三韓征伐がいつなのか分からないなどとボケたことが書かれていたりしますが、おおよそ390年代で確定的なはずです。(卑弥呼は240年ころ)

記紀には三韓征伐の前に九州征伐(日本統一)の話があったと思いますので、その150年の間に北九州・邪馬台国が消え、畿内ヤマト王権が日本を統一したと見るのが正しいでしょう。個人的には南九州の熊襲に北九州・邪馬台国がほろぼされ、その熊襲を畿内ヤマト王権が討ち日本統一と考えています。
中国の歴史書(どれか忘れたけど)にはちゃんと、畿内ヤマト王権を邪馬台国などの今まで知っていた倭国とは”別種”の倭国であると明記されていたはずです。

記紀には、日本は生まれてから神様にもらってずっと天皇家が支配してきたから”別種”なんてないよ、という見え透いたウソが書かれているのですが、いまだにこのウソを見抜けない日本人が沢山いて笑えますね。

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とっくに滅びてた時期ですよね?

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Aベストアンサー

 お探しのものに合うかどうか分かりませんが,昨日書店で参考 URL の本を見かけましたので御紹介だけしておきます。

「平凡社新書 71 夷(えみし)の古代史」
 工藤雅樹 著,本体 740円,新書判 256頁,2001.01

参考URL:http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=85_071


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