どういう場合に「その人の意志は自由だ」と言えるのでしょうか?
例えば、麻薬中毒者が麻薬を服用する場合、それは中毒者の自由な意志と言えますか?「止めたいと思っているけど依存症なので手を出さずにはいられない人」と「止めようとは思わないし、むしろ中毒者でいたいと思っている人」の違いとか・・・。意見をお願いします。

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A 回答 (6件)

なぜ意志をするのでしょうか。


意志をしようとしたから、でしょうか。
ではまた、なぜ意志しようとしたのでしょうか?

自由とは何にも縛られていないことをいいます。
しかし、すでに「人」として縛られている。

その前提の上での自由意志。でもなぜ自分にこの意志なのでしょうか?
他を選ぶ自由もありながら、なぜそれを選んだのでしょう?

自由に意志できる、と言いながら実は自由ではないのではないかとも思います。
一見は自分で自由に選んだように思えますが、でもそれは偶然的必然ではないか、と思います。
何かに縛られていると思います。その縛りが何かまではわかりません。
その「縛り」がある何かを好むようにし、それを自ら意志したように偶然的に見せて実は必然だった。
でも、それはすなわち不自由、ということではありませんが。
別にある誰か限定に起きる何かの「声」、ということではありません。

自由意志を人に表明し、求めるのは大抵行動をするときです。でも行動するのは当然縛られます。他にも人がいるからです。
ですから行動を前提とした自由意志は意志までは勝手にできても、自由には行動できません。

この世は何を行動するのも自由は自由です。
でも自由に意志して人に多大な迷惑をかけるような行動をしても一切捕まらない、一切怒られない、一切人から嫌われない等々という保証までは「自由」には付いていません。
自由には責任が伴う、の謂ですね。

しかも麻薬の場合は自分自身を縛る結果となる。おそらく自由が嫌になったから麻薬をしたのではないでしょうか?後者の「止めようとは思わないし、むしろ中毒者でいたいと思っている人」などまさに。
前者は麻薬が何だかも知らなかったのかもしれません。病院に行き、麻薬解脱療法、治療プログラムを受けましょう。

とにかくその自由を行動的な部分、大抵は自分勝手なことで他人に自分の自由意志を求めれば求めるほど、つまり行動すればするほど自分の首をしめるということになります。どこが自由なのでしょうか?
そういう人が増えれば増えるほど法律も当然増えますね。
自分勝手な自由を求める人は本当の自由が何だかを知らないのかもしれません。結果、自分のみならず、ときに他人の首までをもしめることとなるくらいですから。その場合またもう一度、つまり二度も自分の首をしめることとなります。
ほとほと自分の自由が嫌なのかもしれません。

いずれにしろ、「身体」と言う縛りのある「人」というものとして生まれた限り、自由意志とはすなわち自分自身の表れでもあると言えるでしょう。
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諸々の選択肢に惑わされず、選ぶべきことを知っている時、自由意志が実現できるといえるのではないでしょうか。

どれにしよっかなぁ~と迷っている状態は、自由意志は働いてないでしょう。バッターに打たれて、普通なら余裕でホームランでしょ!?というようなボールが、突如ぐいんと向きを変え、ピッチャーの頭に落ちてくる。ホームランボールと、ホームランになるはずだったのにピッチャーの頭に落ちるボールと、どちらが自由意志を象徴的にあらわしているかといえば、後者でしょう。
自由意志のところに、しかるべきということがあります。ホームランボールは、実はダサダサのキャッチャーフライでも、しかるべきならホームランにできます。ホームランボールに見える球も、しかるべきならピッチャーフライでアウトになりえます。でも、しかるべきとは結果を見てからいうものではありません。もちろん予測でもありません。ホームランになっても、しかるべきでないなら、それは惰性によるホームランです。当然の事で、誰もほめてくれません。しかも、しかるべきホームランボールが、ピッチャーフライのアウトになる。これが多くの人間です。アウトになるわ、かっこ悪いわ、ほめられんわ、です。
 満塁。外角高めストレートを4番のパワーバッターがミートした。そしてそれはキャッチャーフライで倒れるのです。それは、しかるべくしてアウトになったのです。それが「偉大なボール」、です。なるはずのないことがなるのです。自由意志と、しかるべきの関係はそういう関係です。
ここで自由意志とは何かに戻ります。先ほどの偉大なボールが、自由意志を持たねばホームランになっていたのは明確です。自分で動けないですから。。自由意志をもたない者というのは、他者の意志のまま、周辺環境のまま、惰性で動く者です。ピッチャーゴロになればピッチャーゴロで終わってしまうのが自由意志を発揮しない人です。
 自由意志とは、しかるべきを実現させるためのものです。そして、自由意志は、しかるべきものならどんな境遇でもそれを実現できます。刀がもとのさやに収まるのが当たり前の様にです。
 いいでしょうか、ホームランボールでもしかるべきならキャッチャーフライでアウトになれるのです。ピッチャーゴロでもしかるべきなら、ホームランになれるのです。サード正面でも、アウトになるべきならアウトになればいいのです。そのときエラーはありません。そこには野球のルールの他に、しかるべきというルールがあるからです。
 わかってらっしゃると思いますが、アウトが悪く、かっこ悪いとかということじゃないのです。味方にしたら、守備にも、攻撃にもファインプレーはあるのです。このように敵・味方と言いたくありませんが、敵の打球として、アウトになると、味方は喜ぶのです。僕が野球で示した事の意味を汲んでいただけたでしょうか。
しかし、間違いのないように言葉を借ります。
「隣人をあなた自身のように大事にしなさい」
スポーツマンシップを忘れてはいけません。哲学という竹筒から、見え隠れする世界を感じていただければいいですね。
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「自由」とは、事物に囚われない状態ではないでしょうか。


yuya-chanの麻薬の例をとれば、最初に麻薬を吸う人は、法律や社会から自由であり、自分の自由意志と言えるでしょう。依存症の人は、すでに麻薬にとらわれていて、自由とは言えないでしょう。
問題は、中毒患者でいたい人、又は依存症になる以前?の複数回の麻薬利用者が自由な意思かどうかです。
これは本人にしかわからないし、本当にやめようと思っていないのか、本当に中毒患者でいたいのか本人にもわかっていない場合もあるのではないでしょうか。
自由とは客観的な概念であり、個別の主観に接近するには限界があるのではと考えています。
たとえば、私は「やさしい」小父さんなので回答していますが、他の回答者の中にも「やさしい」小父さんがいるかもしれませんが、決して同じ「やさしい」人ではないと思います。
遅ればせながら、自分の考えを整理するために回答させてもらいました。
念のため、社会から自由な人間はいないと信じています。
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「その人の意志は自由だ」といえるのは


二者択一、もしくはそれ以上の選択肢があり
どれを選択したとしても、選択段階において
犯罪行為、もしくは社会や他人に大きな負担をかける行為にならないと判断できる場合だと思います。

例えば、どの服を買おうか、どういう部屋に住もうかなど。身近すぎる例ですが。

あなたが提示した例は、麻薬を服用するという時点で犯罪行為ですので
「その人の意志は自由だ」ということにはならないと思います。

最近は「個人の自由」という意味を勝手に解釈しいて
簡単に犯罪を犯す人が多すぎます。
麻薬、売春、買春、交通違反など
「自分のことで、自分の意志でやってるんだからいいでしょ?」
っていうのは「その人の意志は自由だ」ということにはなりません。
それでは世の中が成り立たないからです。
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 「自由意志」とは、選択が、何の拘束もなくできることでしょう。


 本人が、洗脳、薬中、催眠等で正常に思考が出来なくても、本人の意志ならば、自由選択がなされたということでしょ。
 本人の思考状態にまでは、立ち入れませんし、立ち入れば、「自由意志」でなくなります。
 破滅するも、治癒するも、正常になるのも、本人が決めたことです。
 選択を強制すれば、規制していることになります。本人の意志というよりも、拘束していますね。
 如何でしょうか?
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一般人なので専門的な意見じゃないですけどいいですか?



自由意志とは、本人が正常な判断力があるとみなされる状態で、法律内で行う洗濯であると思うのですがいかがでしょう?それだけ制約があれば自由ではないと言われるかも知れませんが、社会生活に置いては、何事も法律の枠内であることを前提にしないと、社会自体が成り立たないような気がするので・・・。

上記例にあるようなばあい、薬物により正常な判断力が奪われており、法律にもひっかかると思うので、自由意志ではないと思われます。やめたいけど依存症の人は言わずもがなですし、やめようとは思わないという、一見意志的な決定のように思えますが、違法の、しかも判断力を失っていると思われる条件下での決定は、意味がないように思えます。
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Q全てを創造した神が人間に自由意志を与えたのは、人間が神の意志どおりに動

全てを創造した神が人間に自由意志を与えたのは、人間が神の意志どおりに動くロボットなら、神にとっては面白くもなんともないからではないのでしょうか。

神が、人間に自由意志を与えた目的はなんだと思いますか。

Aベストアンサー

神が、人間に自由意志を与えた目的はなんだと思いますか。

○頓知じゃありませんが「聞いてみればわかることですね。」
私の知りうるところでは、「金太郎飴のようなものはお嫌いなようですね。」
例えば、花畑でも様々な花が咲き乱れるというのが好きということですね。様々な花ということは花に「自由意志」を持たせないと様々な花になりませんからね。
つまり、言葉で言えば、百花繚乱、百家争鳴が創造神のよしとするところじゃないかと思うのですね。
神の創った箱庭に様々な花が百花繚乱ですね。それを愛でることが神の楽しみのようですね。
箱庭が宇宙ですね。地球人にとっては地球が箱庭ですね。百花繚乱、百家争鳴ですから地球人もそうですが、宇宙にもたくさんの人類型生物がいるのでしょうね。そんなところから「自由意志」を与えた理由がわかりますね。
また、創造神は遥か昔にこういったそうですよ。「我は、水の試練も、火の試練も与えよう、しかして限りなく強くなれ、我のようになれ。」とね。百花繚乱だけじゃなく「我のようになれ。」ですから人間は神に近づく努力をしなさいということですね。それも自由意志がある大きな理由の一つでしょうね。
仏教的には、仏に向かって悟りを求めよ。ということですね。
・・・そのように思いますよ。

神が、人間に自由意志を与えた目的はなんだと思いますか。

○頓知じゃありませんが「聞いてみればわかることですね。」
私の知りうるところでは、「金太郎飴のようなものはお嫌いなようですね。」
例えば、花畑でも様々な花が咲き乱れるというのが好きということですね。様々な花ということは花に「自由意志」を持たせないと様々な花になりませんからね。
つまり、言葉で言えば、百花繚乱、百家争鳴が創造神のよしとするところじゃないかと思うのですね。
神の創った箱庭に様々な花が百花繚乱ですね。それを愛で...続きを読む

Q似たような言葉である ”自由意思” と ”自由意志” とは、(本来)どのような使い分けがあるのですか

似たような言葉である ”自由意思” と ”自由意志” とは、(本来)どのような使い分けがあるのですか?

Aベストアンサー

意思は、自分の考えや思いのことです。例えば次のように使います。

・彼は大学に行く意思はないようだ。

これを簡単に言い換えてみると、彼は大学に行く考えがないらしい。

意志とは、ある行動を「する!」とを決意して、その気持ちをキープしようとする積極的な心の持ち方を意味します。個人の中ではっきりと決定された意向、意図をあらわすものですね。例えば次のように使います。

・彼はなんとしてでも大学に行くという意志を持っている。

これを簡単に言い換えてみると、彼はなんとしてでも大学に行きたいらしい。


例文で見たように、意思は「考え」という言葉で置き換えられるのに対して、意志には「~したい」という強い感情がはいっているのがわかるはずです。

http://manapedia.jp/text/1453

Q麻薬の製造者と麻薬、どちらが悪でしょうか?

麻薬と麻薬の製造・販売者。
どちらが、より悪いのでしょうか?

Aベストアンサー

物質には、罪はありませんね!

Q《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも

 【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?

 ・ これが 問いです。

 【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。

 【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。

 【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。

 【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁起連関)によって成るだけではなく その網状の集まりを成すそれぞれの結び目(結節点)もがあって これは 言わば社会的な独立性をうったえるところの人間の自由意志である。そのハタラキである。

 ・ 次のヰキぺの解説記事の中から 《龍樹の空観》を取り上げますので その理論とからませて 上の問いにこたえていただければ さいわいです。

 
 
 ▼ (ヰキぺ:空(仏教)) ~~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

 § 2.2.2. 龍樹の空観

 (あ) 龍樹は、

  ( a ) 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っている

 ことを論証している。

  * 【質問者の問い・δ】 すなわち 網の目を織り成すネットワークの結節点は あると言っているのかどうか?



 (い) この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹は説一切有部に対する反論というスタンスを通して、より深く一般化して説き、

  ( b ) 関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっている

 ことを明らかにした。これを空もしくは「空性」と呼んでいる。

  * 【ε】 相互依存の関係において モノゴトが縁起していることに間違いない。自由意志に当たると見る結び目は 存在するか?




 (う) さらに、

  ( c ) 関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない

 ことを明かしている。

  * 【ζ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    あぁ! 《自由意志》はないか? けれどもただし この《それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない》というのは どうも そうではなく 《この世に絶対的なものが存在しない》と言っているだけのようにも見受けられる。
    つまり 絶対的な存在ではなく 有限で移ろいゆく相対的なものであるが それとして自由意志もしくは人間の主体性は 存在する。のかどうか?
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  ( d ) (最高の仏である如来だけがしかし、「自性輪身」〔三輪身の一つ〕)と呼ばれ、自性であるとされている)。

  * 【η】 これは まさしく《絶対》のことである。法身仏のことである。したがって ひとの自由意志とは 別である。



 (え) これを以て、

  ( e ) 縁起により全ての存在は無自性であり、それによって空である

 と論証しているのである。龍樹の空は、これにより「無自性空」とも呼ばれる。

  * 【θ】 依然として 結び目は 存在するや否や? である。





 (お) しかし、これらの関連性は、現象面を人間がどのように認識するかということとは無関係のものである。

  * 【ι】 おお! 《現象面》では ひとの主体的な意志の選択が自由である。と言えるかも。・・・



 (か) これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。

  * 【κ】 むむ? 何のことだろう? 意志自由は あると思えば 勝手に あると規定すればよい!?!? 分からんなぁ。



 (き) 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。

  * 【λ】 それは そうであろう。すべて 相対的なものごとだと言っているのだから。肝心の問いには 答えていない?

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 【α】 《空(シューニャター)》とは ひとの自由意志をも 存在しないと見るのか?

 ・ これが 問いです。

 【α-1】 《存在する・しない》というのは あくまで相対的なものごととして 現象がある・ないという意味に用いている。

 【β】 色即是空のあとにただちに 空即是色と言えるのなら 空だけれど その《色受想行識》としての現象はある。と言っているはずだ。

 【β-1】 すなわち 意志自由は 現象している。《行》のことだろうか。

 【γ】 すなわち 世界のものごとは 関係性(縁...続きを読む

Aベストアンサー

なるほどそういうことでしたらば、と思い再回答します。ただし、私の理解するところの空観による説明であることを断っておきます。
まず、空観においては、一切を透徹したような知の閃きのような感覚を得ます。その時、世界の事物の一切は、生じることもなく滅することもないと知り、同時に二項対立の概念を克服し、全一なるものを知覚します。また、全一なるものもまた空であることを見て、無一物とも言うべき言葉を超えた識見を得ます。
さて、この時には、自由を獲得したという確かな感覚があって、束縛を脱するということを感覚すると同時に、空観もまた一つの見方に過ぎないことを知ります。こうして空から自由になった時に、自由を行使する私というものが現れます。従って、その私は空を行使しており、空にとらわれず、空を超えています。
空観において、自由を行使する私は確かにある、と言って良いでしょう。

Q自由意志について

自由に論じてください。

ウィキペディアの《自由意志》です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97

わたしは 責任との関係および神学との関係に関心があります。

たとえば こうです。約束をしたとき それを果たせなかったとします。事情を説明し――多少の償いをしつつ―― 詫びて治まると思いますが ここには 自由意志がからんでいるのではないでしょうか。意志の自由な選択によって 約束をしたのであるからには それを違えたことについて 何らかの責任が発生するという具合いです。

一般に表現の自由を言うからには その言動責任ないし文章責任が生じていると考えられるのだと思いますが いかがでしょうか。つまり 自由意志が ほんとうに存在するか否か これは 分からないかも知れないのだけれど 社会的な取り決めとして 上のような事態にかんして 自由意志はあると想定されていると考えるのですが そのあたりについて 自由な見解をおしえてください。

Aベストアンサー

bragelone様 ここ2日程あまりに忙しなく投稿出来ずに居りました。投稿が遅くなり大変失礼致しました。また、 bragelone様のHNも意味を履き違え誠にお恥ずかしい限りです(大汗)、どうぞお許し下さい。それでは今回も宜しくお願い申し上げます。

> 一点 こう感じたところがあります。つまり 【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】の《体験・認識・感得》につきましては これまでお伺いした限りでは けっきょく 行きっぱなしではないだろうかと。 むろんその実践じたいがよくないというものでは毛頭なく 往きと還りがあるという記憶を思い起こしたのですが。 わたしのかつて習ったところでは 往相・還相があって たとえ彼岸に実際に到達していないとしても あたかも一たん達したとして そこから還ってくる・還って来たという姿(還相)でさらに修行に励むのであるし また 人にも接するのでもあるというふうに覚えているのですが いかがでしょうか。

○まず「行きっぱなしではないだろうか」につきまして、「彼岸」への片道切符的(笑)感覚で捉えられているとしたら、それは全くもって私の本望ではありません。振り返りますに、これまでの投稿はどちらかと言うと【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】に対する「認識論」的内容が濃かったと思います。誤解を恐れず申し上げれば、 bragelone様は「大乗的衆生救済」無くてして何の悟りか?!…と仰せではないかと思います。私は過去の投稿(> 理解不能な自分を愛する事が総てを愛する事に繋がります。それが「自分が良くなる為に人を良くする」(抹香臭く申せば所謂「自利利他」)に発展して来ると思います。… / bonnnou03 )で申しました通り、この現実世界に於いて自分の映し絵である現象を整える事(例:困っている人への人助け 及び 導き)は恐らく bragelone様の仰る「往相・還相」と近い、若しくは ほぼ同意ではないか?…と思います。私が知る言葉としては「 上求菩提 下化衆生 」がこれにあたります。論点が自由意志に始まる「意識の構造認識(略)」から「現実世界の処し方」にシフトするのであればそのように致しますし、私が申しました「肉体を全うする」は当然 bragelone様の仰る「往相・還相」を包摂するものとお考え頂いて結構でございます。

> 気概の現われを抑えることができないという限りで この信仰は わたしが選んで持ったのではなく 与えられたものであるということになります。そこから 《人間(現実)が変わる》という表現をも得てしまったという事情です。

○『信仰』に付きましては個々人の自由だと思いますので、他人様の『信仰』に対し とやかく口を出す筋合い物ではないと思いますが、先日来の私の投稿で「信じる」(…「信じる」と言う打算的期待で自己を成り立たせなければ成らなくなります… 等々 )と言う語句の見解が遠因してご不快な思いをさせてしまっているようであれば、恐らく誤解であり 伏してお詫び申し上げます。本意は盲目的に「信じる(信じすぎる)」と言う行為から「依存症」や「マインドコントロール」を生み、結果 人の心を「自己喪失」状態に追いやり人生の歩みを阻害するのを憎むものであります。決して純粋な信仰(心)を揶揄したものではありません。どうぞご理解頂きとうございます。

> 焦点は結びました。このわたしの法螺吹きが 法螺吹きでどうもすみませんと言わなければならないというのは 往相還相の問題が 唯識にはないという場合だということになりますが いかがでしょうか。

○「法螺吹き」について …完全な誤解です。自らの不徳の致すところです。この箇所【 …常に自らの体験を持って語る事を旨として参りたいと思いますし、そうでなければただの大法螺吹きになってしまいます。… 】は私 bonnnou03 自身の投稿にあたっての決意として挿入した文言でした。それ以上の文意はありませんし、私には bragelone様を「法螺吹き」呼ばわりする理由が毛頭見当たりません。どうぞご理解頂きまして、お許し願えればと思います。

また『往相還相』については上述の通りです。因みに『唯識』も仏教の中の学問としてある以上「 上求菩提 下化衆生 」の一面を離れないと思いますが、(意識の)上下間の双方向性の説明は『大乗起信論』(ちとマイナーですが!)がより詳しいと思います。内容はさほど理解が深くないため割愛します(失礼)。

> これは 大乗であるべきか 上座部のままにとどまるべきかという主題にもなるのでしょうか。

○いいえ、そうは思いません。この場合、私は「密教(特に真言密教)」を提示させて頂きます。この理由については様々在るのですが、大きくは2つです。1つはこの身このまま仏になる『即身成仏』(≠「即身仏」入滅してミイラになる)(参考:多くの大乗仏教では悟りまでに大変時間の掛かる「三劫成仏」と言われています)と『現世利益』の【(結果を出す)実践哲学】と言う事。もう1つは教義の面で亜細亜に於ける【統合宗教】(儒教・道教・上座部・大乗・バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教・インド哲学…等々を包含している。想像ですが恐らく「景教」= キリスト教 の影響も受けていると思われます)であると言う事からです。

> 面白いとも思われることは 信仰〔なる賭け〕による希望派が あくまでこの《いま・ここ》に立っていて 前世・来世を気にしていないことであり それに対するに 修行による希望派は 逆に 《【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】》といった表現も持たれてくるということのように感じられる。

○【(仮に)信仰〔なる賭け〕による希望派】が『前世・来世』をどのように捉えているか?についての統計は恐らく「無い」と思いますので、コメント控えさせて頂きます。他方【修行による希望派】に付きましては、一先ず… 決して「乱暴な賭けではない」と申し添えておきます。

以上です。

最後までお読み下さり、ありがとうございます。あくまで私の認識(体験)に基づく投稿です。徒然なる文面です。お役に立てればと思いますが、ご参考程度にされてください。どうぞご自愛下さい。

bragelone様 ここ2日程あまりに忙しなく投稿出来ずに居りました。投稿が遅くなり大変失礼致しました。また、 bragelone様のHNも意味を履き違え誠にお恥ずかしい限りです(大汗)、どうぞお許し下さい。それでは今回も宜しくお願い申し上げます。

> 一点 こう感じたところがあります。つまり 【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】の《体験・認識・感得》につきましては これまでお伺いした限りでは けっきょく 行きっぱなしではないだろうかと。 むろんその実践じたいがよくないというものでは毛頭...続きを読む


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