人が生きていく中で、良くも悪くも己の意思では如何ともし難いうねりというものに直面する時というのがあると思います。うねりとは一過性のものではなくある程度の期間を持ちその中で連続性のあるもののことです。このうねりの正体とは何で、それを支配(コントロール)することは可能だと思いますか?その他、うねりについての貴殿の考えをお聞かせ願いたい。哲学、宗教、実体験等いろいろな側面からの見方があると思われます。

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A 回答 (6件)

例えば、コイン投げをやってみて記録を取っていくと、{表、表、表}


{裏、裏、裏、裏}などの偏りを多く見ることができます。また、ガラス
ビンの中に赤玉と白玉を入れて滅茶苦茶にかき混ぜてみると、どの部分も
均等に混ざるわけではなく、赤や白が固まって島のようになっている部分
をいくつも発見することができるでしょう。

このようなものが運のうねり、ツキの流れの正体だと思われます。つまり、
ランダム現象の「結果」をみるとそういうものがあるように見えるという
だけのものです。ですから、運勢はランダム現象に過ぎず、過去のツキは
未来とは関係無いものとして、人生でなにが起ころうと運やツキにとらわれず
いつも通りに対処するという考え方には一理あるものと思います。

しかし、人間というものは運勢が上がっているように思えるときは自信を
持ち、下がっているような気がするときには自信を失いがちです。自信を
持ってものごとに当たれば、やる気も起き、注意力も集中し、相手も
気圧されて、結果的にうまく行き易い。自信が持てなければ、行動力も鈍り、
注意力は散漫、他人のペースにはまって失敗を犯す可能性が高くなるで
しょう。

そのように考えると、運が向いていると思えばそれに乗り、逆風にいると
感じられれば大人しくしているという考えにも一理あるといえるでしょう。
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この回答へのお礼

#3とまとめさせて頂きます。よろしくお願い致します。

お礼日時:2001/12/01 23:45

一過性のものではなくある程度の期間を持つ人生の流れ(貴方の言ううねり)というのは、つまりその時代の思想や価値観を指すのでしょうか。



個人がその時代の流れをコントロールするのは不可能ですが、微力でもその流れに影響を持つのも真実だと思います。

僕は10代の頃から年功序列社会には疑問を持っていて、10代でも60代でもその持ち味が違うだけで人の優劣を決めるものではないと思っており、これまで年上の人と感情的に対立する事も多々ありました。

ところがここ何年かはムキになる事はなくなってきています。
それは時代の流れが変化しており、僕がその流れに乗っかっているからでしょう。

しかしよく考えて見ると、凡庸な僕がそのような考えを持ったのは、僕個人の発想ではなく周りの人やその時の空気の影響があってこそだと思います。

結局人はその(うねり)の中で生きていくしかなく、その(うねり)の中の良い所に感謝を見出せる人は恵まれたいい人生なのではないでしょうか。

(哲学は面白いよね)
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この回答へのお礼

お礼が大変に遅くなり申し訳ありませんでした。
ここで取り上げたうねりとは、思想や価値観ではなく各人の人生の調子や勢いのことを書いたつもりでした。人それぞれ感じ方が違うので難しいところですが、tiger-ryujiさんから見れば昨今の世間はそういうように見えるのでしょうね。最後の部分ですが、tiger-ryujiさんの書かれているうねりでも結局は大多数の人間が作り上げた結果だと思うので、人によってはそれを変えていくことができる人やそのきっかけを作れる人もいるのではないかというのが私の感想です。他に感謝の気持ちを忘れてはいけないというのは私も常日頃感じていることでした。回答誠にありがとうございます。

お礼日時:2001/12/07 22:07

時期が来た。

って思うときはあります。今が機会(一定の期間で)だとか。
僕らの生きる世界には様々な、言ってみれば、それぞれの性質を持った波長のようなものが無数にあると思います。
僕が言えるほど簡単なものではないと思いますが、波の干渉というのがありますよね?複数の波がぶつかって、大きくなったり、融和したり、波の進行方向が変わったり、という現象です。カオスでありえるこの世界が見えるのは(カオスは見えない。)そのような波長が、必ずあるからだと思います。そして、かつカオスの様に複雑なのは、それぞれが干渉しあい、さらなる波長に変幻、分裂していくからです。それらの現象は、細かい世界で見ても、大きく世界を見ても、観測されうるものと思います。また、大きい波が細かい波の内の一つでありえるほど、この世界は限りがないといえます。ですから、あなたにおける(個人における)うねりも、時代の波も、存在します。しかし、我々が観測したのはすでに起こったものであり、つぎの波はどの様な者か?というのは理性的に予測された事はないと思います。現代ではカオスの数学とか、複雑系の科学というものがそれに挑んでいると言えるでしょう。竜巻に巻き込まれたバッタからちぎれ飛んだ触覚が何処に落ちるかが分かれば、あなたのうねりもまた分かるかもしれません。これをコントロールするということは、世界の一部をつくることになります。諸々の、あまたの波長を言葉というなら、たとえカオスを知り、それをコントロールできても、最初に言葉を放ったわけではないので、世界を創るとはいえません。
 ところで、僕がコンビ二強盗をする事で、あなたがくしゃみして、そのせいでシベリアのタイガの一本の木に稲妻が落ちた。だから、アンドロメダ星雲と銀河系が衝突するのだという風になるでしょうか。考えるべきことがあります。細かい波は大きな波を支配するのか?僕の考えでは無理です。大きい波は確かに無数の細かい波によって起きています。しかし、大きい波はやはり大きい波であるのです。そのもの唯一の大きい波としてある波長を持ちえ、それが一つの言葉だといえます。
慣性の法則とでもいえそうなことです。大きい波に細かい波がある。我々は地球が周っている事を知らなかったのです。
 より大きな波に気付く事、より普遍的な慣性を見出す事が、あなたの発する言葉(波長)を大きくしえます。より大きなことを知っている、考えている者が、大きなことを成します。そのことに属するそれより細かい事はすべて、コントロールできるといってもおかしくありません。川の流れが変われば中の生物や水の分子達の方向も川の流れに沿います。彼らが川というなんらかの慣性を知るなら、変わったと感じるだろうし、知らないなら何も感じません。
 ここまでも長く読みづらい文で申し訳ないですが、今から重要な事を書こうと思います。
 我々は人間という独立した一分子で、無数の細かい波のひとつだといえます。
しかし、自由なものを持ちます。心のみが自由であると考えます。我々の属する大きな波を見ることが出来るのは心なのです。心とは理性活動や自意識の事でしょうか?違います。それは、繋がれていないものです。心に到達する、立ち返るということは、最も大きな波に立ち返るということです。あなたが最も大きな波になることです。大きな波は、すべての波を細かい波とします。それを支配する波はありません。だから偉大な波といえます。だから自由であるといえます。自由な者は一つしかありません。一つしかない者は真理です。それはそうであるのです。そして、心に属さない者は何ひとつありません。そのすべてである心において、われわれは無数の内の一つの個であるのです。その意味はまだわかりません。しかし、試験的な意味で言えることがあります。カオスの様に広がった偉大な波がある、偉大な波は飛散したので、それが個の波となりカオスをさらに形作る事になった。なぜそうなったのでしょうか?それが偉大な最初の波の本質であったとしかいえません。それは真理であり、それはそうなのですから。
 ですから、あなたの持つ、偉大な波の本質を持った心を知れば、それは真理を知ることとなり、自由となります。すべての属する慣性の波を知ることが出来ます。しかし、世界を知るということと、心を知るということは違うのです。あなたの人生の波を知るには、知りえないカオスを、あなた自身がその自由な者により、そうであるように形作らねばなりません。そして、その人生の波はあなたが創ったものであるので、あなたはそれがどの様な者か当然知っているのです。だからそれは、コントロールする必要のない者なのです。あなたの心の現れであるのです。
 余談ですが、今、この僕が書いたものを読んでいるのですが、まじで今においては重要な事を書いてしまいました。無数の波が僕に属している事に気付きます。絶対的な信頼の置ける、生きている限り、二度とはなれる事のない多くの味方がいたことに気付きました。これからも見方は増え続ける事でしょう。
僕はもうすぐ悟るかもしれません。
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この回答へのお礼

お礼が大変に遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
3回じっくり読み返してみましたが、言わんとされていることが完全には分かりかねませんでした。せっかく長い文章を書いて下さったのに本当に申し訳ございません。波長というものが存在するとして、それが万人に同じように作用しない(良い効果、悪い効果が人により違う)のはどうも理屈が合わないような感じもしますが、それゆえのカオスなのでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2001/12/07 21:58

うねりという表現が抽象的なため一概には言えないのですが、他の方もおっしゃっている通り、人生・生活には高低の波があり良いときも悪いときも存在しますよね。

調子のいいときは良い方に理解できたり受け入れることができたりするのが、調子が落ちている時には同じことでも受け入れることができなかったりと、その時の調子にも簡単に左右されがちです。でもそれで良いと思います。

コントロールもできたと思えば、できたであり、不可能と感じれば、そうかもしれませんし、知る(悟る)ことにより理解を深めていくのも人間ですが、知ることにより逆にその知識が必ずしも自身や周りの人に良い影響を与えていない可能性もあるわけで、できることならそういったことに左右されず、気持ちをゆったりと持てるような気構えを持てるようになっていければ良いな、くらいの気持ちで良いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答誠にありがとうございます。
everyoneさんのご意見としても、精神的な部分による時々の感じ方の違いということでしょうか。確かに己の精神状態をコントロールするというのは大切なことだと思います。少しずれてしまいますが、私は普段の生活で他人(あまり親しくない人たち)の言動による自分の気持ちや感情の取り乱れを極力排除するように努力しています。常に平常心を持つということです。私としてはそうすることが悪意を持っている時の相手の思う壺にはまらない為に必要だと思うからです。しかし、こうすることは人間関係を現状維持するのには有効ですが、今以上のものに発展させようと思う時には選んではいけない選択肢でしょう。
うねりとは一体何なのでしょうね。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/12/02 00:27

先ほどの#2の回答に追加です。



うねりをコントロールすることが可能か?
という質問に対してですが、先ほどの視点で言えば、最初の
確率の面からは、コントロールは不可能となりますが、
「待てば海路の日和あり」ということもできます。

人間の心理の面から言えば、うねりが下降、底にあるとき
は小さな成功体験を積み重ねて、自分を調子付かせていく
という方法が考えられるでしょう。日常のささいなことから
着実にこなしていって、次第に大きなチャレンジを行う、
ということです。
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この回答へのお礼

興味深い切り口のご回答ありがとうございます。
コインの例は実感として湧きますが、赤玉・白玉の例は果たしてそうなるのかな、と思ってしまいました。赤玉・白玉を入れてかき混ぜた時に初期の段階ではそういう現象は期待できますが、最終的には均一に混ざり遠目にはピンク色にできあがると思うのですが。理屈としては赤液・白液を混ぜた時と同じではないでしょうか。書いていて思ったのですが、書かれているコインの例も玉の例も、短いスパンの中での結果の偏りをおっしゃりたいということですよね。
redbeanさんのご意見としてはこのようなことはその人の気持ちに大きく左右されるということですね。もちろん私もそう思うのですが、どうも世の中には自分の意志や他人の意思が介在しようがないことでのうねりというものが存在しているような気がしてならないのです。良い例が思い浮かばなくて申し訳ないのですが。やはりそのようなことでもマクロ的に見れば精神状態に依存していると考えるべきなのでしょうか?私は運命論者でもない、自分では普通の感覚を持った人間だと思っていますが、29年間生きてきてこのようなことを感じています。回答誠にありがとうございます。

お礼日時:2001/12/02 00:11

 人は、いろんなことに触れ、一喜一憂している。


 それが、世間に流されているという証拠であろう。
 「うねり」というよりは、罰の現証ということでしょ。
 その原因を知らず、無意味に過ごしているからそうなるのでしょう。危機感、危惧がないともいえます。
 堕獄を恐れず、それすらないと思っているのではないか?
 信心が、何故、必要なのかということです。これは、何かの質問でも回答した内容ですが・・・、

 それは、諸々の苦しみや不幸の原因を断ち切り、幸福になるため、であります。
 仏法においては、私達の生命の奥底に、「仏(仏界)」という最高の生命が内在していることを教えています。そして、この内在する最高の生命を、現実に引き出す方途を説き明かしています。
 私達が、この仏界を現実生活の原動力として生きるならば、仏界の力強い生命力と智慧の働きにより、直面してくる諸々の問題を真正面から解決して、あたかも波乗りのような歓喜の人生を送ることができるようになるのであります。それは、まさに、変転する現実生活を悠々と切り開いていける、崩れぬ絶対の幸福、安心立命の境涯ともいえましょう。

正法に従わぬことが不幸の原因

 ところが、この正しい仏法が世に存在するといっても、これを信じようとせず、また背くならば、まことに恐るべき結果をもたらします。
 それは、我が胸中に偉大なる仏の生命を開顕するための大法に背くのですから、かえって自らの手で仏界を破壊するようなもので、その結果、生命力はしぼみ、物心両面にわたって諸々の行き詰まりをきたして、その人の人生は地獄の苦しみに陥るのであります。
 そのことを仏法では、
 「夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ」
と教えています。
 現実を振り返ってみてください。経済的な問題、対人関係の悩み、病気、家庭不和、性格的欠陥等々、誰もが必ず問題を抱えて苦しんでいるはずです。それこそが、正しい仏法に背いてきたために生じた苦悩なのです。
 この厳粛なる事実を知らず、また、知ってなお背き続けることが、一切の不幸を招き起こす根本の原因となります。ゆえに、時々刻々いたずらに不幸の因を積み重ねる
ことなく、一刻も早く正しい仏法を信受し、真の幸福境涯を獲得すべきであります。
 如何でしょうか?

この回答への補足

早速のご回答ありがとうござます。突然に急用ができてしまい今から外出します。お礼は今晩書かせて頂きます。

補足日時:2001/12/01 14:09
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この回答へのお礼

改めて丁寧なご回答をありがとうございます。
過去のご回答も拝見させて頂きましたが、odd-artさんは敬虔な仏教徒のようですね。ご回答の冒頭部分にも書かれているように私は仏の道や心というものは信じていません。信じていないと言うよりは、むしろ知らない、興味が持てないと言った方が適当だと思います。世の中の幸福というのは、絶対的な幸福もあるとは思いますが相対的な幸福(当該事象において人により優劣が生じるもの)もたくさんあると思います。全ての人が、仏界を現実生活の原動力として生きた場合に相対的な幸福の部分で矛盾がでてきます。これは間違った解釈なのでしょうか?丁寧なアドバイス感謝します。

お礼日時:2001/12/01 23:44

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わたしの考えるSM論でもOK。
ファッションなどの流行に敏感です、
ホニャララさんは、わたしの《神》です、
ニーチェは間違っている、
などなど、
この質問に関係することならば、どのような内容でも大歓迎です。

Aベストアンサー

基本的には、人は「支配されたい」という欲求はなく、あるのは、「所属したい」「つながっていたい」という欲求だと言われています。

アメリカの心理学者のアブラハム・マズローは、人間の基本的欲求を低次から述べると、以下の通りであると述べています。
1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96

1と2は生物の本能的な欲求で、3番目から社会的欲求と言われます。
この「所属したい」「つながっていたい」という欲求の中で、このルールに従わないと仲間に入れないとか、この人の言うことを聞かないとつながっていられないという場合に、支配されているような状態になるわけです。

ただ、欲求の大きさが大きいほど、支配の幅が広がり、欲求が小さいほど、支配されない状態になると言えると思います。


4が「認められたい」という欲求で、高じて支配への欲求となります。
5は自己実現で、これは支配への欲求がさらに高じて、支配を使命と考えるようになる時の欲求といえます。

基本的には、人は「支配されたい」という欲求はなく、あるのは、「所属したい」「つながっていたい」という欲求だと言われています。

アメリカの心理学者のアブラハム・マズローは、人間の基本的欲求を低次から述べると、以下の通りであると述べています。
1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E...続きを読む

Q現代の支配者と支配層

今の日本で、国の支配者や支配層といったとき、具体的な人物や集団を挙げることができるでしょうか。

民主政体下では「法治」ということですから、軍隊の統帥権は文民統制のもとにあり、また三権による統治が「おこなわれていることになってい」ます。裁判所も国会も統治機構の構成要素と考えます。

かつては将軍と天皇というダブル・スタンダードがあり、また武士階級という支配層があったこの国で、民主主義という制度のもとに、こういった支配者や支配層が見えにくくなっているのではないか、という疑問です。

管見では、支配者は人格を持たない「場の空気」(伝統や前例、異説を排除する集団力学、有力者の恣意等により形成)、支配層は国家公務員のピラミッド型組織の頂点近くにあり国に方針を決定できるポジションにいる集団。

いずれも責任を取らないで済む体制であり、それがこの国を「ダメ」にしている一つの構造的元凶となっているのではないか、という仮説です。

どんなもんでしょうか。

Aベストアンサー

社会が複雑化するに伴い、行政事務が山積します。その結果、行政部に権力が集中することになります(行政国家現象)。そして、行政部の内部においても政策決定権限は、政治的リーダーよりもむしろ行政エキスパートの手中に移る傾向があります。なぜなら、社会の複雑化が進行する過程で、官僚のもつ知識は膨大なものとなり、政治家よりも知識のうえではるかに優位に立つからです。

こうした制度は必然とも言えるでしょう。なぜなら、経験上、こうした行政国家現象は、衆愚政治によってもたらされる大きなリスクを回避することができ、一定の政策的安定をもたらすからです。国民もその点について暗黙の了承をしていることでしょう。

ただし、彼らは政治家と異なり、国民に直接責任を負う立場ではなく、且つ、政策決定も見えにくいという理由で、ご指摘のように支配層が見えにくくなっていると言えるでしょう。

なお、官僚評価システム上、官僚は事なかれ主義に陥る傾向がありますので、社会の変化に十分対応できないという問題点が指摘されています。加えて各省庁の縄張り意識や利権による弊害も指摘されているところです。

Q数というものについての一つの側面

普段の感覚では数は直線状に1~∞まで並んでいるように感じますが、
素数という視点から見るとそれぞれの素数が作る帯(もちろん幅があるわけではないが)がたくさん折り重なっているようにも見えます。
このことについて哲学的解釈ってできますかね?

Aベストアンサー

縦軸を中心にして回転させて
ちょっと巨視的にみると大まかに円錐状になります。
そこから
「円錐の頂点という一つの可能性が無限の土台の上で開花できているんだなぁ。」
「その頂点の‘1‘という起点からさらにミクロ方向にもマクロ方向にも展開できそうだなぁ。」
みたいな感じで発想を転がしてみました。
この世の中の一つの存在がそこに存在する理由と、そこからの発展性ということを想起させてくれる
数字の並べ方だと思います。
空の表象としての色の移り変わり、タオの表象としての現実、
みたいなものにまでイメージは膨らみますね。

Qキリスト教とギリシア哲学の関係性を教えてください。 国教化される以前からギリシア哲学(ローマの知恵?

キリスト教とギリシア哲学の関係性を教えてください。
国教化される以前からギリシア哲学(ローマの知恵?他)を取り込み広まって言ったとネットで読みました。
ギリシア哲学との関係は教義を統一しようとした時からだと思いこんでいたので正しい知識が知りたいです。お願いします。

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ギリシア哲学の字句が念頭にあるのならば「西洋哲学を学ぶためにはキリスト教の理解が必須だと聞きました。理由をできるだけ詳しく教えてください。」の質問はしないだろう。お前、馬鹿じゃないの。

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人間の生殖において、例外はあると思いますが、標準的には「よし、生殖しよう!」という”意思”力でもって完成することはないと思われます。生殖という概念を離れ、肉欲を満足したいという本能に従った結果、それが訪れるということでしょう。
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つまり、生殖というものを本能や運命に従わせるのでなく、仕事や趣味活動のように”意志”を仲立ちにして計画的にするもの、ということだった場合、人間の根本的意識が変わるような気がします。当然望まれない子は生まれないということになります。

また、なぜ女性の”意志”でもって妊娠を決定できないということになっているのでしょうか?

Aベストアンサー

#2です。
>たとえば、レイプ(なんか最近「強姦」ってつかわないんですかね。はっきり日本語を使ってはっきり言えよって感じです)され中だしされても、「受精させてたまるか!」と女性が思えば、受精可能な時期であっても受精しない体の仕組みがあるという事態を想定したいです。

日本では古くから妊娠をコントロールしていた歴史があります。昔は「間引き」といって、東北の農家の縁の下を掘ると、何代にも渡って小さな骨がいくらでも出て来たそうです。ですから、自分たちの意志で、受精をコントロールして子どもを育てなかったと言う現実は、幾らでもあったわけです。堕胎を決意するのは、受精を認めないと言う頭脳の仕組みですから、脳という身体の一部の仕組みでもあります。

質問者さんが時間つぶしの興味本位ではなく、本気でこの問題を論じることによって何らかの説得力のある結論を得たいのなら、この「間引き」という現実に存在した悲劇とその社会的な影響を、ご自分で民俗学的かつ実証的に調べて、そのときの女性の心理や家族の心理を分析しみるのも、疑問を解決する一つの方法かもしれません。底知れぬ人間のありようを認識できるかもしれません。

#2です。
>たとえば、レイプ(なんか最近「強姦」ってつかわないんですかね。はっきり日本語を使ってはっきり言えよって感じです)され中だしされても、「受精させてたまるか!」と女性が思えば、受精可能な時期であっても受精しない体の仕組みがあるという事態を想定したいです。

日本では古くから妊娠をコントロールしていた歴史があります。昔は「間引き」といって、東北の農家の縁の下を掘ると、何代にも渡って小さな骨がいくらでも出て来たそうです。ですから、自分たちの意志で、受精をコントロール...続きを読む


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