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加賀藩は並みの大名百人分の規模がありながら、どうして激動の幕末にさして重きを成す事が出来なかったのでしょうか?加賀藩はどういうスタンスだったのでしょうか。

A 回答 (1件)

禁門の変のとき加賀藩の嗣子前田慶寧の手兵も警備にあたっていましたが、慶寧は桂小五郎とも通じるところがあり戦闘には加わらずに近江の飛び地まで引き上げています。


このころ加賀藩では藩論が二分されていたため、藩主斉泰は慶寧を金沢に呼び戻して蟄居させ、若殿付の家老には切腹、その他の士卒も40人が死刑や流刑にされました。
そういうことで加賀藩はどちらにもつかずに日和見をしていましたが、政情がへんかするにともない、藩主は隠居して慶寧に当主の座をゆずりましたが、天下の形勢をみて動くだけで積極的にどちらかへかたんしないままに明治をむかえました。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
藩内の内紛で日和見だったのですね。

お礼日時:2005/11/19 13:59

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徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

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大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
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この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
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Aベストアンサー

加賀前田は日和見というよりも、自藩存続を第一に考えて行動してました。
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ただ、京都詰家老に絶対的な権限が無かったことと、北陸に閉じこもっている国許の家老の情報判断の無さが致命的でしたし、藩内の意見もまとまりきらなかったので、後手後手を踏む結果になったのが、後世から日和見と言われる所以だと思います。
一ツ橋慶喜は加賀藩に期待していたみたいで、書簡などもたくさん送っていますし、加賀藩側も幕府に尽くすという態度は取りつづけるのですが、それは幕府と一蓮托生という強い気持ちではなく、幕府のほうが旨味が大きいといったものなので、禁門の変や戊辰戦争で幕府の敗北の可能性が大きくなると、一転していくわけです。。

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ただ、質問者さんがいうように、動向や活動を聞くことがないのは、後世の歴史家が、幕末を近代化の課程の第一歩と結びつけたためと思われます。近代化という点では、加賀藩や仙台・伊達なんかは何もしていません。
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全国の諸藩が影響力がなかったというよりは、後世の取り上げ方が恣意的だったと考えても良いと思いますよ。

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