ただいま、学校のレポートで信長について調べています!
そこで、なぜ織田信長は、ほかの戦国諸大名を圧倒するほど強かったのか、直接の原因を教えて下さい!

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A 回答 (8件)

 信長の成功例は多くあるんですけれど、僕が最も尊敬する点は「発展的解消」を実践していったところです。

これは、新たなものを想像するために、敢えて既存のものを破壊するというものです。(きっと、今の日本にも求められているような気もしますが)
 また、過去の成功例を繰り替えりしたり、安穏としたりせず、次々に新たなものを生み出していこうとした想像力・向上心があったからではないでしょうか。
 具体的なところになりますと、信長は軍隊の整備、とりわけ兵農分離を行ったと言われます。これにより、信長軍は結束力の強い軍になり、諸大名を軍事的に圧倒したとのことです。
 Nakaさんも言われていますが、人材と地の利も大きな要素です。あれだけの人材を登用したこと自体もすごいのですが、なんと言っても活用できたことが天晴れ・信長!といった感じです。生産性の無くなった実績ある家臣を切ったり(リストラですね)、木下藤吉郎に墨俣城を築城させたりと人材活用術は当時の常識では考えられなかったのではないでしょうか。
 最後に地の利ですが、広大で豊かな濃尾平野を本拠にしていたことがよかったのでしょう。家康もいるので後顧の憂いは断っていたし、一時期は信玄とも盟約を結んでいましたしね。
 
 まとまりに欠けてごめんなさい。
 
 
 
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既に皆さんの書かれていることで事足りるかと思いますが、蛇足的に書きます。

当時、三河や甲州、美濃、越後、関東の兵隊に比べ、尾張周辺の兵の質は低い、という見方もあったようです。桶狭間は博打的に勝ちましたが、信長はその他の戦争では概ね慎重ですし、合理的です。信長は意外に苦戦したり負けたりすることも多々あり、斎藤、浅井、本願寺を始めとして、難しい戦争を幾度もしています。そのため信長は戦争のために大枠で2つのことに腐心しました。(1)兵農分離や関所の廃止、堺の自治の廃止などにより、多方面に大量の軍隊を動かせる素地をつくること(物量面の充実)(2)勝てそうにない相手には勝てそうになるまで外交によって穏便に済ましておくこと(武田や上杉など東方勢力には卑屈なほど柔軟な外交を展開した時期があります)。
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 織田信長は、まず発想がその時代の10年以上先を常に行っていたとおもいます。


 鉄砲の有効活用、家臣統制、積極的かつ奇抜な戦略、そしてあまり知られていないかもしれませんが、領民からのウケがよかった(^.^)
 うつけと言われていた若かりし時代、じつは様々なことを、尾張国主になるまえに試していたという見方もできます。そのなかでも、後々にわたって信長が多用した鉄砲(当時は火縄銃)の改良が私は好きです。
 何をしたかというと、当時火縄銃は、弾丸をつめて火薬をつめて(順番ちがうかもしれませんが)、そしてそのあと、それらを棒でしっかり押し込んで火を付けて発射、というとても面倒くさい段階を踏まないといけなかったんです。それを信長は、弾丸&火薬のセットを作って、そんな面倒なことをせずに、なるべく短時間で撃てる装置を発想していました。
 家中の家臣達は結局、うつけの言うこと、と取り合わず、最終的には本格的な実用にはいたりませんでしたが、他にも巧妙かつ大胆な発想で、うつけと呼ばれながらも、様々な工夫をしていたんだと思います。
 
 あと実際にレポートの役には立てないかもしれませんが、週刊少年サンデー連載の「ミスターシパング」をオススメします(^.^)
 それまで、実はあまり信長が好きではなかった私ですが、この漫画を読んでファンになりました!
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私は、Mhiroさんもおっしゃていますが、兵農分離がかなり大きかったと思います。

確かどなたかの著書にもありました。

楽市楽座での経済の安定化
→兵を専門職化させた。
兵の農地からの解放
→強兵を身近におくことが可能になり機動力UP。
戦争から戦略以外の季節要因を排除した
→兵を練兵と戦争のみに集中できた。

で、あとは典型的な信賞必罰ではないでしょうか。
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信長は当時の観点にとらわれず、常に新しい観点で時代を見抜いたからだと思います。

その例として、鉄砲の導入がそれを物語っています。諸大名は、鉄砲は使いにくい兵器だと考えていましたが、信長は使いにくさを数の多さで克服し、さらに長篠合戦では鉄砲隊を3列構成にして、弾の装填に時間の空きがないようにしたことは有名です。
 次に内政面でも革新を起こしました。楽市楽座です。領地内では関所、税金を撤廃し物流をスムーズにし本拠地岐阜はかなり栄えたと、聞いています。
 以上、自分の考えが入っていて必ずしも正しいとはいえませんが、信長はその時代の考えにとらわれず、常に新しいことを考えていた人物だと私は確信しています。
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質問に対しては少し異なる答えですが、織田信長について世間一般と異なる視点で書かれた本があります。


『二人の天魔王 「信長」の真実』 明石散人 講談社文庫
読み物としてもおもしろいし、織田信長に対する見方が変わるので必見です。
ただ、授業で用いるには少々難かもしれないので(授業で要求しているのは世間一般の見方の話でしょうから)、あくまで参考に。
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◆Naka◆


popesyuさんがうまくまとめてくださっているので、オマケ程度に…

やはりまず第一に来るのは、桶狭間(田楽狭間)の戦いにおける勝利でしょう。現在では歴史研究も進み、桶狭間は台地の上にあったことがわかっていますが、信長軍は丘を匍匐しながら登り、ゲリラ的に今川氏を壊滅させることができましたね。これがはずみになったことは間違いないでしょう。

信長の強さは、米の安定収入を計ったところにもあります。
「検地」というと秀吉が有名ですが、実は信長もやっております。(もちろん秀吉のように全国的なものではありませんが)
米の収穫の2/3を年貢として徴収していましたが、自然災害時には年貢の減免も行っていました。それによって農民の人心を得た、ということが言えます。
また、堤防の修復など治水や開墾にも力を注ぎ、一部費用を出したりして生産を安定させることに腐心しました。

あと、優秀な家臣を持ったことも強さの秘密と言えるかもしれません。
武田氏と並び、綺羅、星の如く人材が揃っていましたからね。
有名所では、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、明智光秀(結局、この人に倒されちゃいましたが…)、丹羽長秀、中川重政、柴田勝家、滝川一益など、誰でも名前ぐらいは聞いたことのある家来が集っていたんですね。
また、その家臣たちを適材適所(とは言えない場面もあったけど)うまく使ったのも勝因の一つと言えるでしょう。

こんなところでしょうか。
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直接となると…運が良かったとかになると思うのですけど(^^)


まぁ間接的な理由から言いますと
1.地の利
尾張が京都に近からず遠からずの丁度良いところにあり、
♯近すぎるとライバルが多いし、先の内戦でぼろぼろだ
♯し、遠すぎると京都までの補給線が長すぎる。
また土地が裕福だった。戦争における信長の戦略は桶狭間を除いて勝つべくして勝ってます。それはひとえに土地が豊かだったからです。

2.信長の個性
これは有名なんで言うこともないでしょう。一言で言えば経済・軍事に関する先見の明でしょうか。

3.有力な同盟国
前半は斎藤道三、後半は徳川家康の存在が大きかったでしょうね。まこれも信長の外交力のおかげとも言えなくもないでしょうが。
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Q中学の歴史について質問です。 戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、

中学の歴史について質問です。
戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、足利義昭を将軍としたのに、1573年に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしたのですか?

Aベストアンサー

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によって殺害され、替わりに義栄が14代将軍として擁立される、ということまで起きています。

信長が義昭を将軍に添えたのも、理由としては同じです。
世の中に色々と命令などを出したいが、自分の名前で出すと周囲の大名たちの反発を生んでしまう。義輝を殺害して、義栄を擁立した三好氏と同じように信長も、義栄を追放して、義昭を擁立することで、義昭の名前を利用しようとしたわけです。
実際、足利義昭を将軍に添えてから数年で近畿地方における勢力を確立しました。
しかし、信長の力が伸びることに反発した義昭は、周囲の大名に対して信長を討って自分を助けよ、というような書状を出すなどしました。
信長としては、近畿地方をほぼ制した上に、自分の敵ばかりを作る義昭、室町幕府はもはや用無し。なので、追放し、幕府を滅ぼした、ということになると思います。

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によ...続きを読む

Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

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もしなにか小説を知っておられる方がいるなら織田信長か武田信玄のものをよろしくお願いします。

Aベストアンサー

戦国時代のことを全体的にくわしく知りたいのでしたら「クロニック 戦国全史」/講談社をお勧めします。写真や図解・イラスト・系図・全国城郭リストなどの資料もあります。織田信長が主人公の小説でいえば、司馬遼太郎の国盗り物語/新潮文庫、を面白く読んだのを憶えています
。これは前半は斉藤道三ですが、やはり織田信長の登場した歴史的時期や背景を認識できて楽しめるので最初から読んだ方が面白いと思います。

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だから江戸時代には藩、藩主と言う言い方は無かった。

Q織田信長 斎藤竜興 森辺の合戦

私は外国人ですが、日本の戦国時代に興味が沸いて、戦国時代年表を見ていますが、
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これは永禄4年5月14日(1561)の森辺の合戦とは違う戦いでしょうか?森辺の合戦では織田信長軍が勝利ですね?どういうことでしょうか、教えていただけると助かります。

Aベストアンサー

ASAHIーNET の内容に問題があります。
森辺(今の地名は森部)の戦は永禄4年5月14日
が定説で、織田信長が斎藤龍興軍に勝利でした。

日付けの相違の解釈は先答えの通りでしょう。

勝敗の結果の相違は、その戦いのあとにあった
5月23日 の(美濃)十四條の戦いと混同した誤り
と思います。

この戦では斎藤龍興軍が優勢で、織田信長軍は
退却しましたが、夜戦を警戒し斎藤軍は追撃せず
撤退。
織田軍も洲俣の砦を放棄して撤退したので、
結果的に斎藤軍の勝利でした。

Q守護大名・戦国大名の領国支配~一円知行~

鎌倉とかでも見たことありますが、「一円知行」とは、正確にどういう意味なのか知りたいのです。「誰も入れずに、すべて自らの手で管理する」みたいな意味かと解釈しているのですが、いかがでしょう。詳しい方、教えてください。

Aベストアンサー

一円知行ということはまとまった領域のすべての権限を一元的に掌握して支配することです。
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そういう重層的、分散的な支配権のすべてを掌握したのが一円知行です。

Q織田信長以外の戦国大名はなぜ同じことができなかった?

織田信長が、今日の基準からみて、軍事政策でも、経済政策でも、人事政策でも、合理的な体制をつくったことは、よくわかるのですが、
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織田信長が、革新的で合理的な体制をとったので成功したとすれば
他の優秀な戦国大名は、なぜ、信長と同じように、革新的で合理的な体制をとれなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

信長は圧倒的に天才的な人物です。単なる優秀な人とは全く異なると思います。
父親が亡くなり家督を継いだ段階では尾張の弱小勢力という段階でしたが、
桶狭間で今川義元を倒した頃から尾張全体を手中に収め、その後は美濃を攻め
京へと進んで行った訳ですが、この時代の戦国大名は京に上り天下人になろう
などと誰も思っていなかったと思われます。

落ちぶれたとはいえ当時は足利将軍家の末裔が健在であり、各地の大名は
あくまでも将軍家の部下という立場になっていて、その足利将軍家を倒して
自分が天下人になろうなどと誰も考えておらず、戦国大名が考えているのは
隣国と戦って少しでも領土を広げようと考えているだけです。
武田も上杉も朝倉も毛利も天下人になろうなどと考えていなかったのが実際でしょう。

それに比べて信長は早くから「天下布武」という印を使うようになったことから
天下統一を念頭に置いて行動し始めた人です。
信玄や謙信とは志が全く異なるのが分かるのではないでしょうか。

またこの時代は農業が根本であり商人は軽く見られていた時代ですが、楽市楽座政策
でも分かるように信長は早くから商業を大切にしていた人です。
岐阜など信長の支配する城下では商業が盛んになり、他の地方に比べてかなり
賑わっていたようです。
こうした好調な経済を背景にして鉄砲を爆買いすることができたといわれています。

また、いつまでも信長に反抗していた為に比叡山や本願寺を焼き討ちにしたので
あって、その後の日本では政教分離が為されることになり信長の功績は計り知れません

信長のことは当時の常識では理解されなかったでしょうが、現在では理解できるような
政策が多いのです。日本史上もっとも天才的な人物だったことは間違いないか思います。

信長は圧倒的に天才的な人物です。単なる優秀な人とは全く異なると思います。
父親が亡くなり家督を継いだ段階では尾張の弱小勢力という段階でしたが、
桶狭間で今川義元を倒した頃から尾張全体を手中に収め、その後は美濃を攻め
京へと進んで行った訳ですが、この時代の戦国大名は京に上り天下人になろう
などと誰も思っていなかったと思われます。

落ちぶれたとはいえ当時は足利将軍家の末裔が健在であり、各地の大名は
あくまでも将軍家の部下という立場になっていて、その足利将軍家を倒して
自分が天下人に...続きを読む

Q戦国大名と守護大名って何が違うのでしょうか?

戦国大名と守護大名って何が違うのでしょうか?
どちらも武将ではないのですか?

Aベストアンサー

「守護」とは室町幕府の役職で「守護職」と言います
幕府からその土地の守護を任された大名が名乗ります
「守護」の下には「守護代」があります

たとえば 武田信玄は「甲斐守護」の役職でした
一方 長尾景虎(上杉謙信)は「越後守護代」です
「守護代」は守護大名の変わりに国を治める事を任されています

守護の上には「探題」という役職もあります
これは広域の支配者という意味です
例えば伊達家は「奥州探題」を名乗っていました

これらはみな「守護大名」です。


一方戦国大名とは
幕府から守護や守護代には任じられていない大名で
主君を倒してのし上がってきたりした大名です

徳川家康は守護ではありませんね
守護大名だった今川義元の家来でした

織田信長も守護代の家来の一族です

幕府の力が弱まると
守護大名という肩書きは何の意味も無くなります

Q日本の戦国時代を書いた小説

僕は昔から織田信長に興味がありました。それで信長に関する本は何冊か読んだのですが、最近信長以外の人物にも興味を持ちはじめました。というより戦国時代ってどんなものだったのか知りたくなってきました。信長に興味があったのでそれなりには戦国時代についてわかりますが、詳しく全体的なことを知りたいのです。
そこで何かいい本、できれば小説はありませんか?
教えてください、お願いします。

Aベストアンサー

 司馬遼太郎といえば「新撰組」が有名ですが[国盗り物語]も彼の代表作としてお薦めします。

 国を取るのでなく「盗る」とした題名の意図、これこそ将に戦国時代の申し子「斎藤道三」に相応しいタイトルです。

 派生して出てくる信長、濃姫ほか人間模様の多さと司馬遼太郎の筆の軽やかな運びに魅せられる作品です。

Q戦国大名で「頼」のつく名前の大名家は滅ぶ?

武田勝頼 土岐頼芸 豊臣秀頼 三大名とも、「頼る」 という字がついていましたが、滅びました。
これは偶然なのでしょうか?ご教授お願いします。

Aベストアンサー

偶然です。

「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、織田、そして秀吉に仕えた人。秀吉から4万石を与えられました。

(5)相良頼房・・・九州の小大名。関が原では最初は西軍につくも東軍に寝返り2万石の所領安堵を受けました。

(6)小笠原貞頼・・・信長に仕え、ついで秀吉に仕えるも秀吉の怒りをかい改易に。しかし徳川家康が召抱え3万石の大名に。小笠原諸島はこの人が発見したとのこと。

(7)有馬則頼・・・秀吉に仕え1万石の大名。秀吉没後は家康に接近し関が原でも東軍につき、合戦後は加増を受け3万石に。

(8)諏訪頼忠・・・武田に謀殺された諏訪家当主、諏訪頼重の親戚。頼重死後は浪人していたものの武田家滅亡後に諏訪に舞い戻り諏訪家の再起を図りますが、徳川家康に破れ臣従。家康の関東への移封にともない武蔵で1万2千石を与えられます。息子も頼のつく頼水という名で関が原合戦で功績を上げ信濃に2万7千石の所領を賜りました。

(9)新庄直頼・・・浅井長政、織田信長、そして秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、合戦後に改易に。しかし後に許され家康から3万石を与えられ大名に復帰しました。

(10)吉見正頼・・・大内家、つぎに毛利元就に仕えた人。元就に1万5千石を与えられました。

(11)村井長頼・・・前田家家老で1万石。既に隠居していた時、主君利長の母が江戸に人質に行くと聞き、付き従って江戸に赴き、江戸で亡くなった忠義の人。



「頼」がついて滅びた人。

「原長頼」・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後に自害。

「石川頼明」・・・秀吉に仕えた人。1万2千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後、東軍に降伏しますが切腹に。

「木下頼継」・・・大谷吉継の次男ですが秀吉に可愛がられ厚遇を受けた人。2万5千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、敗北後は領国に逃げ帰りますが病死。15歳という若さでした。

「宇多頼忠」・・・豊臣秀長、秀吉に仕えた人。1万3千石を与えられました。娘が石田三成に嫁いでおり、関が原合戦では、佐和山の城を守備するも東軍に攻められ自害。息子も頼のつく頼重という名で、こちらも父と同じく佐和山の城で自害。なお頼忠は所領を返上して娘婿の石田三成のところに身を寄せていたという話もあり。


なお、石高などは書籍によって微妙に違いがあるので、必ずしも正しいとは限りませんが、私の手元にある本の数字を書いています。また、この他に石高など不明な人もいまして、大名(1万石以上)に該当するかどうか分からない人も、まだいます。

このように「頼」のつく大名は結構おり、滅びなかった人も二桁を数えられるので偶然だと思います。

偶然です。

「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、...続きを読む


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