1)「北条早雲」と呼ばれている人物
名字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。
号は早雲庵宗瑞。または伊勢宗瑞。
正式な名のりは、平長氏、あるいは平盛時。
北条氏を称したのは子の氏綱の時であるので
従って、「北条早雲」は存在しなかった。


2)「聖徳太子」とは呼ばれている人物
本名は厩戸皇子。
別名、豊聡耳・上宮王とも呼ばれた。
『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。
『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。
聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した『懐風藻』にて初めて見られるものである。
従って、「聖徳太子」は存在しなかった。


3)「任那日本府」
『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那日本府」が見え、
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那日本府」が多く登場し、
『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」と見えている。
しかし、6世紀の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかった。
日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。
従って、「任那日本府」は存在しなかった。


以上の理屈により、現在は「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったという者がいます。
「北条早雲」と呼ばれている人物は歴史上存在しなかったのだから、伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼうということです。
(韓国では「任那」の存在すら認めていませんが・・・)

あなたは以上の理屈は正しいと思いますか?
つまり「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったと思いますか?

A 回答 (9件)

以前任那日本府について回答したものですが、主旨が伝わらなかったようですので補足します。



「日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。従って、任那日本府は存在しなかった。」というのは、単に言葉の遊びで言っているのではありません。

「日本(にほん、やまと)」という言葉は、天皇という唯一の主権の存在を前提とした国家」を表す言葉です。一方「倭(わ)」は単一政権の支配力が及ぶ範囲を示す言葉ではなく、「倭人の居留する区域」を意味します。ですから、狗奴国さえ支配できなかった卑弥呼にも「倭王」の称号が与えられたのです。倭人の中の有力者には違いないですからね。

「日本府(やまとのみこともち)」は「日本」という統一国家の「主権の及ぶ範囲」を意味します。しかし6世紀以前の倭は、倭王の下に有力部族が集結した共同体のようなもので、当時の「やまと」はその中心勢力ではあっても、倭人全体を示す言葉ではなかったのです。このことはヤマトタケルの「やまとは国のまほろば・・・」の国偲び歌をみても明らかです。

当時の朝鮮半島に倭人が多数居住し、また倭王に従った国や小邑があったことは十分に想定されることであり、だれも否定していません。ただ、それを統一国家という概念が形成された7世紀以降の判断基準でとらえてはいけない、ということです。
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この回答へのお礼

大変良い回答をありがとうございます。

1、朝鮮半島南部には倭人が多数居住していた。
2、朝鮮半島の国の中には、倭王に従った国や小邑があった。
3、しかし、それは統一国家というレベルではなく、もっと原始的なものだった。

ということでしょうか?

お礼日時:2005/12/10 23:19

 聖徳太子の実在は、まず疑問視されませんね。

『日本書紀』以外にもその実在を示す史料は多く、『天寿国しゅう帳銘』『法隆寺釈迦三尊像光背銘』『道後湯岡碑銘』『上宮記』『元興寺伽藍縁起』『上宮聖徳法王帝説』等これらを対照吟味して実在を導き出せるのです。

『任那日本府』についてのかつての定説は、現在では動揺しており、新たな進展を求めつつ今なお論争中です。
 旧説では、『任那日本府』は近代の『朝鮮総督府』とオーバーラップして理解され、大和朝廷の【植民地】たる任那地方を支配する出先機関であると説かれてきました。しかし現在では、そのような『任那日本府』は虚像として否定されたといえます。
 当然のことですが、朝鮮史料を重視する韓国・北朝鮮の研究では日本列島の政治的影響が朝鮮半島に及んだとみる学説は一顧だにされないのが現状です。以下韓国・北朝鮮の代表的学説を簡単に述べると、
 『分国論』という学説によると、『日本書紀』に記された『任那』とは日本列島内に存在した任那系渡来人による殖民国すなわち任那本国の『分国』であり、『任那日本府』はそれを統括するために大和朝廷が設けた機関だとします。また任那は巨済島を指すとの見解もあります。このように韓国・北朝鮮では『任那日本府』を朝鮮半島を舞台とした歴史とは切り離して考えようとします。

 一方、最近の日本における研究では【植民地支配の出先機関】とする旧説こそ退けるものの、当時の日本列島の政治勢力が朝鮮半島南部の政治動向に何らかの関与をしたとの視点はなお継承されており、朝鮮における研究とは今なお大きな相違点があります。
 以上のような研究状況ですが、以下では主に日本における研究を中心に説明します。

○『任那日本府』とはどういうものか
 本来、任那とは現在の韓国釜山市付近を本拠とした国の名称です。朝鮮史料では、任那加羅、任那加良あるいは金官国と呼び、また単に伽やということもありましたが、任那と略称する使用例はありません。一方、『日本書紀』は、この国を任那・金官・南加羅などと呼びます。
 ところが、厄介なことに、『日本書紀』が記す任那とは必ずしも任那加羅国を指すとは限らず、他に(1)加羅(加耶・伽や)他地域全体の地理的名称、(2)加羅地域に存在した小国郡の総称、(3)任那日本府、などを意味する場合もあるのです。それでは、『日本書紀』に描かれた『任那日本府』とはいかなるものかということになります。
 現存最古の『日本書紀』注釈書である『釈日本紀』は『任那日本府』を『任那之倭宰』と注釈しています。つまり、『日本府』とは、『倭宰』(ヤマトノミコトモチ)の意味というのが、平安・鎌倉時代の解釈だったのです。(『ミコトモチ』とは『御言持』の意であり、天皇の使者を指します)。
 この『釈日本紀』の注釈を勘案しつつ、『日本書紀』を注意深く読めば、『在安羅諸倭臣』とあるのが注目されます。つまり、『日本府』の実体とは倭の使者そのものあるいはその集団であって、何らかの権力機構・機関を想像するのは妥当とは言えないのです。
 ところで、これらの『諸倭臣』が530年頃から安羅(慶尚南道咸安)に駐在したとの確証はありますが、任那加羅も含め安羅以外に居た証拠はないのです。従って、厳密には『任那日本府』と呼ぶのは正確ではないのです。
 要するに、『任那日本府』の実像は、安羅に駐在する『諸倭臣』が大和朝廷と連絡をとりつつ、任那諸国の代表と外交上の問題を協議し、時には百済王とも連絡している、ということになります。
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この回答へのお礼

充分な説明をありがとうございます。

お礼日時:2005/12/10 23:22

「任那日本府」に関して:


これは日韓の所謂「歴史認識問題」においても問題とされて居るものの一つです。
一つの事実として、日本が統治していたときに、旧日本軍が「任那日本府」の跡を探して、朝鮮の南部を出来る限り、聞いた所では1千万カ所以上とも言われていますが、発掘をしました。
しかし、「任那日本府」に関する遺跡、遺物は一つも見つかりませんでした。
これが「任那日本府」が無かったとする一つの根拠にされているようです。
また、当時の中国・朝鮮の文書にも記載がないはずです。

この回答への補足

中国史料における任那
(日本書紀(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高い。)

『魏志東夷伝』弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説があるが、一般には認められていない。
『広開土王碑』400年条の「任那」が史料初見とされている。
『宋書』では、「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲され、『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている。類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
これらから、中国史料における「任那」は、

三国時代(220年 - 280年)の「弁辰」に替わって、
宋代(420年 - 479年)にはすでに成立しており、
450年頃、加羅が任那から分立した。
任那は、梁代(502年 - 557年)に、特に525年以前に新羅に滅ばされた。
任那の故地に関する記憶は唐の高宗(649年 - 683年)の時代まで残っていた。
と総括できる。


朝鮮では任那の存在は殆ど認められていないが、
新羅が朝鮮半島を統一した時に、ほとんどの文献を焼いた際に、
任那の存在を記載した資料を焼いたからだと言われています。

『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立)に「任那」が見えるが、
『三国史記』(1145年成立)の『本紀』には全くみえず、『伝』に僅かに1例が認められるのみである。

補足日時:2005/12/10 23:07
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「北条早雲」「任那日本府」についてはわかりませんが、恐らく実在したと思います。


「聖徳太子」については谷沢永一著「聖徳太子はいなかった」(新潮選書)をお読み下さい。
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他の方の回答にもありますが、energyflow2005さんは自分の中で明確な見解を


もっているわけですから、この質問はOKWeb/教えてgoo!の趣旨にあった質問
ではありませんね。
歴史について議論をしたいのであれば、OKWeb/教えてgoo!は、ふさわしい
場所ではありません。


ついでですが、釣られたついでにコメントします。
普通に歴史を覚えるのであれば、『北条早雲』『聖徳太子』で覚えてかまわない
と思います。
歴史について話をする際に、とりあえず学校で教える程度の知識は必要であり、
学校で習う際には早雲庵宗瑞とか厩戸皇子で覚えるより、覚えやすいからです。
(もっとも厩戸皇子の名前は、聖徳太子を題材にしたマンガが多いこともあり、
 知っている人もかなり多いと思いますが)

『任那日本府』は別の意味でなかったと私は考えていますが(逆説の日本史
の見解が正しいのではないかと思っているので)、まあ学校で習う分には
やはり『任那日本府』で覚えておいてよいかと思います。
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energyflow2005さんの質問は、質問ではありませんね。


ご自分の考え方への同意を求められています。

しつもんであれば、少なくとも質問の体裁をとるべきです。

ご質問(?)内容も、まともに答えるに値しないものです。
「中国史」と言った場合、「中国」と名乗るのは、中華民国以後であるので、それ以前に中国は存在しなかったとするのと同じです。

この回答への補足

失礼ですが、私は「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」も歴史上存在したと思っています。
そして呼び方もこれでいいと思っております。
こんなものは屁理屈です。

先日、学会に参加したところ、「北条早雲と呼ばずに伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼう。」と日本人の歴史学者が言っていたことです。

当時、日本という名称がなかったので「任那日本府」は存在しなかったと言っているのは、韓国の歴史学者のほとんどです。

nacamさんは何か勘違いしていませんでしょうか?
同意を求めているとありますが、どちらの意見に同意を求めるとお思いでしょうか?

補足日時:2005/11/23 10:55
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先日、室町に移転したのは足利義満になってからだから、足利尊氏が開いたのは〈室町〉幕府ではないという質問がありましたが、それと同じ揚げ足取りで、バカバカしいと思いますよ。


聖徳太子の事績とされている物は、厩戸皇子とは無関係だから、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は実在しなかったという説なら、論じる価値があると思いますが、呼び方だけで〈存在しなかった〉に飛躍するのは屁理屈です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私もそう思います。
当時、そういう呼び方がなかったから、存在しなかったというのは屁理屈ですね。

お礼日時:2005/11/23 11:06

 おはようございます。



 「日本府」は情報不足なのですが。

 「北条早雲」、「聖徳太子」は、後世にそう呼ばれることになった人物が存在した、ということでいいのではないかと思います。それに、早雲は、北条一族の族祖として奉られた名前ですし、太子も、その徳(だけじゃなく、まあ政治的な事情もあったんでしょうが)を記念してつけられた名前でしょう。諡号に近いという解釈です。

 ただ……。

 「滝沢馬琴」と「ラフカディオ・ハーン」は、考えるところがあります。

 馬琴は、「曲亭馬琴」(亭号+号)もしくは「滝沢解」(本名)と呼ばれるべきで、滝沢という本姓と、馬琴という号をくっつけるのは変でしょう。例えば、古今亭志ん生は、本名を美濃部孝蔵といいますが、それを「美濃部志ん生」といってるようなものですから。
 これは、後世の人が奉ったというよりは、間違えて呼んでる、という方が正しいのではないかと思っています。
 もちろん、近世文学研究者の間では、「曲亭馬琴」ですが、いざ本を出す時、一般向けの場合、それでは分りませんからと、出版社に「滝沢馬琴」に直されたという話も聞きます。
 犯人は誰でしょうね。たぶん明治あたりの誰かだと想像しますが。

 「ラフカディオ・ハーン」は、明治26(1893)年、小泉節夫人の家に入る形で日本に帰化します。「八雲」という名も自分で選んだものです。
 研究者でも、帰化以降も「ハーン」と呼んでる人が多い気がします。
 自分がこう呼んでもらいたい、といってつけた名は、そう呼ぶのがいいと思うんです。
 異論はあるでしょうが、私としては、最終的な名前―「小泉八雲」―で通すべきだと思います。

 名前は、人から与えれるのが本質といいます。だから昔の人は、名がしょっちゅう変わったんでしょう。ややこしいです。でもそれにはおのずと「筋」があって然るべきでしょう。確かに正当な筋からつけられた名だったら、それが正しいと思います。
 むしろ、なくなって送られた名が、名前の本質としてはいちばんいいかも(じゃあ戒名で呼べってのは違うけど)。
 馬琴なんか、筋としても変だし、名として明かに間違いですから、論外なんですけどね。
 でも、「こう呼んで欲しい」といった人は、そう呼ぶべきでしょう。八雲なんか、とくにそうです。

 なんだか余談になりました。個人的な感想です。乱文陳謝。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「滝沢馬琴」と「ラフカディオ・ハーン」は、参考になりました。
滝沢という本姓と、馬琴という号をくっつけるのは変ですね。
「明石家さんま」なら「杉本さんま」になるということですね。
名称の統一は後世の研究にとっても重要ですね。

お礼日時:2005/11/23 11:09

「当時は××と呼ばれていた」は言えると思いますが、それが現在と異なっているからといって「存在しなかった」はおかしいです。



この理屈で言うと、例えば昭和天皇もいないことになります。
天皇陛下の正式名称は、存命中は「今上天皇」ですから、死ぬまで「昭和天皇」は存在しません。したがって歴史上存在しない事になります。
明らかにおかしいですよね。

「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しました。
任那日本府が、日本の領土だったか保護国だったか、単に館(領事館或いは商館のようなもの)があっただけかは私には論証出来ませんが、何かがあったことは事実です。また他の二人(北条早雲、聖徳太子)は、呼び方は兎も角、存在したのは確実であり、その事跡も可成りの程度分かっています。


> 「北条早雲」と呼ばれている人物は歴史上存在しなかったのだから、伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼうということです。
当時の名で呼ばなければならない必然性はなく、単に「伊勢宋瑞」を「北条早雲」と呼んでいるだけなので、実体としては何も変わらないです。
呼びたければご自由に、というところですね。
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この回答へのお礼

ありがとうざいます。
北条早雲と呼ばずに伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼう。」と言っている日本人の歴史学者が多いことや、
当時、日本という名称がなかったので「任那日本府」は存在しなかったと韓国人の歴史学者のほとんどが言っています。

明らかにおかしいですよね。

お礼日時:2005/11/23 11:14

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 明示学院大学のページのようだとはわかりましたが、これ以上進むことができません。

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Aベストアンサー

このような場合は、元のURLを適当なところで切ってenterします。
するとどこかで入り込むことができます。
中ごろのpdf/で切ってenterします。

http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/pdf/

すると、「01」は「覚書」で、日米交渉の外交文書が出てきます。
「02」は、日本書紀ですから、ここを開きます。

ここから次のURLを選びます。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/pdf/

すると、お目当ての文章が出てきますが、1ページだけです。


開き方によっては、こんなページも出てきます。
だれか個人のメモ帳を盗み見することになります。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/02_nihonshoki.html

Q任那は存在した???                       (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説)

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。
当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。

2、「広開土王碑」
広開土王碑には次のような記述も見られる。
曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」

3、「日本書紀」
日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。
その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年)


韓国側の主張

1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。

2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。

3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。



任那は存在したと思いますか?

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記...続きを読む

Aベストアンサー

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我慢しろ、という訳です。

珍は既に実態の存在しなかった秦韓・慕韓を加えてまで国の数を水増ししていましたから、任那と加羅が全く別物なら、当然加羅も加えて「七国諸軍事安東将軍」を自称したはずです(実際、済の次の武はそうしています)。

これは、珍が任那=加羅と考えていたからに他なりません。任那は、加羅諸国連合の中心部分(おそらくは大伽耶+金官伽耶)を指す言葉だったのです。

ただ、任那「日本府」が実在したとは考えられません。宋書に書かれている通り、当時の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかったからです(日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降です)。

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我...続きを読む

Q古事記・日本書紀って現存するの?

タイトルどおりですが、古事記や日本書紀なんて原書は現存するんでしょうか?

Aベストアンサー

原書というのは伝わってないはず、

古事記の現存する最古の写本は真福寺本『古事記』で1371年にかかれたものですね、

日本書紀は奈良国立博物館蔵の『日本書紀』巻第十残巻(国宝、田中本)が一番古いそうな。

Q任那日本府について

任那日本府について書かれたお薦めの書籍を教えて下さい。

日本書紀 現代語訳は読んでおります。

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大平裕 著
韓国が決して教えない歴史「知っていますか任那日本府」
PHP研究所発行

朝鮮の古文献三国史記と日本書紀と支那の三国志魏書弁辰伝、後漢書倭伝など多くの文献を対比させ解説、図と写真とをもって懇切丁寧に。

特に半島に残る12基だったかの前方後円墳については、韓国学者の自己流事実否定説を突っ込んで否定し詳しく解説がなされています。

是非ご一読を。

Q日本書紀の『呉国』とは?

日本書紀の『呉国』とは?

自称歴史家です。

日本書紀の卷第十一大鷦鷯天皇(仁徳天皇)に、
「五十八年・・冬十月呉國高麗國並朝貢」(仁徳58年10月、呉國の使人と高麗國の使人が並立して天皇に朝貢した)とあります。

日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、
「六年・・夏四月呉國遣使貢獻」(雄略6年4月、呉國が使人を遣わして天皇に貢物を献上した)とあります。

日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、
「十四年・・三月命臣連迎呉使即安置呉人於桧隈野因名呉原」(雄略14年3月、臣連に命じて呉國からの使人を迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それでその地を呉坂と名付けた。)とあります。

日本書紀卷第廿二豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)に、
「十七年夏四月・・百濟僧十人俗人七十五人・・泊于肥後國葦北津・・曰百濟王命以遣於呉國其國有亂不入更返於本郷忽逢暴風漂蕩海中然有大幸而泊于聖帝之邊境」(推古17年4月、百濟僧十人ら合計85人の舟が肥後國の葦北津に入港して、「私達は百済王の命を受けて呉國へ行ったところ、呉國は戦乱状態で入国することが出来ず、帰国しようとしたが途中、暴風に逢って漂流し天皇の御国に流れ着きました・・)とあります。

中国の正史(宋書など)によれば仁徳天皇と雄略天皇は5世紀の時代の天皇です。また推古天皇は、日本書紀によれば593年から628年の時代に在位した天皇です。しかし、これらの時代、歴史の地図や年表を調べても、中国大陸にも朝鮮半島にも『呉』という名の国は存在しません。
※三国時代の「呉」は3世紀(280年)に晋(魏の後身)に滅ぼされたので、仁徳天皇、雄略天皇、推古天皇の時代には存在しません。

日本書紀でいう『呉國』(呉国)とは何を指すのでしょうか?ご存じの方、教えて下さい。

日本書紀の『呉国』とは?

自称歴史家です。

日本書紀の卷第十一大鷦鷯天皇(仁徳天皇)に、
「五十八年・・冬十月呉國高麗國並朝貢」(仁徳58年10月、呉國の使人と高麗國の使人が並立して天皇に朝貢した)とあります。

日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、
「六年・・夏四月呉國遣使貢獻」(雄略6年4月、呉國が使人を遣わして天皇に貢物を献上した)とあります。

日本書紀の卷第十四大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)に、
「十四年・・三月命臣連迎呉使即安置呉人於桧隈野因名呉原」(雄略14年3月、臣連に...続きを読む

Aベストアンサー

大学で東洋史を研究しているものです。


『日本書紀』は、中国の南北朝対立の時期においては、南朝の方を「呉国」と表現しています。
私の考えですが、中国の地名である「呉」から取ったのでしょう。

また、余談ですが『日本書紀』では推古紀の前後に、十年以上(恐らく十二年)のズレのあると考えられています。

Q任那日本府は、現在は学校教育ではどういうふうに教えられていますか?

4~6世紀の頃の南朝鮮にあった馬韓、辰韓、弁韓の三韓のうち、韓国では
伽[イ耶]と言われる弁韓には、任那日本府があったという事になっています。

私の子供の頃には、学校で朝鮮半島の南側に大和朝廷が任那日本府と言う、
植民地を創った習いました。

これについては、いろいろな学説が議論され、韓国では日本府は九州に有っ
たと言う学説もあるようです。これについては、ともすれば、話が政治的に
なってきますが、そのことは抜きにして、今の学校教育では、任那日本府は
どういうふうに教えているか、先ずはそれだけ、回答願えないでしょうか。

Aベストアンサー

現在の教科書で任那日本府を前面に出して説明しているものはないようです。加羅や伽耶諸国という説明でふれています。

せっかく手元に教科書があるので少し引用すると、

・「~はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)*と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も~」(山川出版社p22)
 *脚注として、統一国家ではなかったこと、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

・「大和政権は、そのころにも小国分立の状態が続いていた弁韓の地に勢力をのばし、これを任那*と称した。」(実教出版p43)
*脚注として、「加羅・伽耶」の表現の存在に言及。

・「弁韓はいぜん伽耶(加羅)*とよばれる小国連合体がつづいていた~伽耶や百済を足がかりにして、鉄などの資源や農業・土木・建築、各種の手工業の技術を手に入れようとするヤマト政権(倭)にとって~」(三省堂p19)
*脚注として、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

 実教の場合、この前の文脈として高句麗好太王碑文に見られる大和政権の半島進出が述べられているので、そのことも考慮すべきでしょうが、支配・植民地的な書き方はしていませんね。現在の研究段階でも交流レベルで指摘されているようですし。なかなかすっきりとしない難しい問題ですね。

現在の教科書で任那日本府を前面に出して説明しているものはないようです。加羅や伽耶諸国という説明でふれています。

せっかく手元に教科書があるので少し引用すると、

・「~はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)*と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も~」(山川出版社p22)
 *脚注として、統一国家ではなかったこと、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

・「大和政権は、そのころにも小国分立の状態が続いていた弁韓の地に勢力をのばし、これを任那*と称した。」(実教...続きを読む


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