文革が起こった当時のあなたの感想、思い、考えを教えてください。40~50代の方の意見お待ちしてます。

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A 回答 (1件)

中国の社会がどう変化しようと、それはあちらの国のことと冷静というか無関心というか、とにかく他国の意見に耳を傾けるような



国家ではないので成り行きを傍観しているだけでした。

(登β)小平などが失脚しても当時はどの程度の人物かも知らなかったし、江青女史の権力が本当はどの程度かも判らなかったのです。

ただ彼らが犯した一番の罪は[中国4千年の文化遺産]を、何もわららない無教養なガキに破壊させたことで、これが我々中国

文化愛好者や、専門の学者、理解者にとっては許すことの出来ない汚点だと感じていました。
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Q当時の戦闘機 戦艦をみれるところ。 当時を知るなら靖国神社ですか?

第二次世界大戦の時代の、戦闘機を当時のままみれる場所はありますか?レプリカなどがあるのはインターネットでみかけました。でもピカピカでどでかいおもちゃのようで、なんだか求めてるものとは違いました。とうじのまま、というか、本当に戦闘してきたというのが残っている戦闘機を保存している博物館みたいなところはないのでしょうか?戦艦なども。。。

あと、特攻隊や当時の歴史に関するものをみたいです。どこかいいところはありませんか?やはり靖国神社でしょうか?教えてください

Aベストアンサー

国内に限りモノの大小問わず、であるならば
http://homepage3.nifty.com/ki43/index.html
が網羅的です。

 なお、飛行機については結構残っています。
 これは大体埋まってたり沈んでいた奴を発掘して足りない部品を補う形で当時の姿に近付けています(レストアといいます)。
 逆に様々な趣旨からそれをしていない展示もありますし、部品だけ、なんてところも多い。
 どちらにせよ「当時のまま」というのは難しい状態です。前者は展示用にピカピカですし、後者は”使用後”の姿ですからね。

 船に関しては戦艦はおろか、小艦艇の類ですら現在は残っていません。
#ついこの前まで1隻残っていましたが、貧乏な行政が解体してしまいました
 国内の船でWW2に絡んだのは横浜に繋留されている「氷川丸」(病院船)、船の科学館に展示されている「宗谷」(特務艦として輸送・観測などに従事)ぐらいでしょうか。

 もっとも、海外に目を向ければ、戦艦・潜水艦などは記念に保存されているモノもありますし、当時から保存されていた機体やレストアした機体を(趣味で)飛ばしている団体もあります。

国内に限りモノの大小問わず、であるならば
http://homepage3.nifty.com/ki43/index.html
が網羅的です。

 なお、飛行機については結構残っています。
 これは大体埋まってたり沈んでいた奴を発掘して足りない部品を補う形で当時の姿に近付けています(レストアといいます)。
 逆に様々な趣旨からそれをしていない展示もありますし、部品だけ、なんてところも多い。
 どちらにせよ「当時のまま」というのは難しい状態です。前者は展示用にピカピカですし、後者は”使用後”の姿ですからね。

 船に...続きを読む

Q文革の失態の後も中国共産党が権力を握り続けた理由

タイトルの通りです。
第二次世界大戦が終わったあとの話ですが、相次ぐ内乱、混乱を極める権力闘争、派閥争い、
そして文化大革命の失敗による餓死者等を合わせると、なんと死人は5千万人を超えるそうです(出典未確認)。
なぜこれほど甚大な損害を出しながら、中国人はその元凶であった共産党に対して反対の狼煙を掲げ、
新たな革命、そして新政権樹立という道を歩まなかったのでしょうか?
中国の下層民は自身の不幸が共産党の腐敗にあると感じているはずです。下層民どころか大半の中国人がそう思っているのではないですか?
中国共産党の強権を支える権力基盤はいったいどこにあるのでしょうか。どうして悲惨な過去を持ちながら権力を握り続けることができているのでしょうか。

Aベストアンサー

>文化大革命の失敗による餓死者等を合わせると、なんと死人は5千万人を超えるそうです(出典未確認)。

ちょっと、歴史理解に誤解があるようなので、ここで少し纏めてみたいとおもいます。

第二次世界大戦後、孫文>蒋介石と続く「中国国民党(中華民国)」勢力と毛沢東率いる「中国共産党(中華人民共和国)」勢力との間でしばらく内戦が続きました。
それぞれ、前者には米国が、後者にはソ連がバックについていましたが、米国側が一歩引いたために蒋介石は破れ台湾は台北に首都を移したことで、事実上の中国共産党の勝利と「中華人民共和国」の成立が確定しました。

その後、毛沢東はマルクス=レーニン主義による経済発展し米ソに追いつけ追い越せを目標に政策を打ち立てていきます。
最初は農業振興に力を注ぎます。
誰も彼もを農業に狩りだし、農地拡大と生産量の増大を目指しました。
地主から土地を取り上げ貧民に与えることで、小作人や農村を豊かにするため、「農業集団化」を進めようと考えます。(第一次5カ年計画)

イケイケドンドンと行きたかった毛沢東ですが、周恩来に代表される現実路線派の意見を一応取り入れます。
その結果、中国経済は少し持ち直しますが、毛沢東はこれを自分の計画の成果だと捉えます。
しかし、実際は周恩来の修正によって悪化が食い止められただけでした。
それでも、毛沢東の右派弾圧が始まってからは周恩来もおとなしくなってしまい、毛沢東のブレーキ役がいなくなってしまいました。
そして、1958年から第二次5カ年計画が始まります。
これがいわゆる「大躍進政策」と言われるものでした。
これは、第一次と違い農業よりも重工業に重きをおいた政策でした。
15年でアメリカを追い越せという無茶な目標を掲げ、農村からも人を割いて重工業の躍進に突き進みました。
しかし、もともと重工業は高い技術が要求されるもので、昨日まで農業をやってた人間が一朝一夕でできるものではありませんでした。
結果、重工業分野では粗悪品の山ができ、農業生産も落ち込み、全体として経済の衰退をもたらします。
そこに、運悪く1958年から1962年まで続いた異常気象により大飢饉が発生します。
結果、多くの餓死者を出すこととなりました。
この時の死者数がは3千万人~5千万人に登ると言われています。
結局、毛沢東は1959年に政策失敗を認めて国家主席を辞任し政界から姿を消します。(というか消えたように見えました)


その後を受け継いだのが、鄧 小平・劉少奇コンビでした。
この二人が主導して「改革開放」を推し進めようとしていきます。
しかし、彼らの立場を修正主義とし毛沢東は激しく批判します。
そして、四人組と呼ばれる「江青、張春橋、姚文元、王洪文」の四人を刺客として送り込みます。
その結果、10年に渡り毛沢東派と鄧 小平・劉少奇派の間で政治闘争が繰り返され中国の経済成長は停滞し続けます。
この権力闘争が「文化大革命」と呼ばれる一連の運動・事件です。

1976年1月の周恩来の死去を契機に、第一次天安門事件が勃発、民衆の反四人組(毛沢東)感情が爆発します。
その結果、四人組は失脚、政治犯として裁判にかけられそれぞれの運命を全うしていくこととなります。(現在は、全員死亡)

以上のように、1959年以降の中国は内乱状態であり、一枚岩というわけではありませんでした。
一見、中国共産党という一党独裁によってまとまっているように見える中国ですが、実は様々なレベルで様々な思想を持った人々が闘争を繰り返してきたのが中国の歴史といえます。
とはいえ、1987年の第二次天安門事件でも民主化がならなかったように、中国共産党の政党機関や人民解放軍による民衆の弾圧や抑圧というのがあるのも事実です。
その一方で、第二次天安門事件が失敗に終わったように反乱勢力を一枚岩にまとめ上げる指導者が居ないといのも中国共産党に利する形となっています。

長文で失礼しました。
ではでは、参考になれば幸いです

>文化大革命の失敗による餓死者等を合わせると、なんと死人は5千万人を超えるそうです(出典未確認)。

ちょっと、歴史理解に誤解があるようなので、ここで少し纏めてみたいとおもいます。

第二次世界大戦後、孫文>蒋介石と続く「中国国民党(中華民国)」勢力と毛沢東率いる「中国共産党(中華人民共和国)」勢力との間でしばらく内戦が続きました。
それぞれ、前者には米国が、後者にはソ連がバックについていましたが、米国側が一歩引いたために蒋介石は破れ台湾は台北に首都を移したことで、事実上の中国...続きを読む

Q1940-50年に起こった大きな出来事

戦争、経済関係中心で、お願いします。

また、日本と世界の2つの観点から教えて下さい。

Aベストアンサー

●1940年

・9月27日 - 日独伊三国軍事同盟成立。

●1941年

・10月18日 - 東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣。
・12月9日 - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告。

●1942年

・1月18日 - ベルリンで日独伊軍事協定調印
・2月15日 - 日本軍がシンガポール陥落
・6月5日 - ミッドウェー海戦( - 6月7日 )

●1943年

・1月14日 - アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相によるカサブランカ会談
・4月18日 - 山本五十六大将、米軍機の攻撃を受け戦死

●1944年

・7月18日 - 東条内閣総辞職
・11月7日 - ゾルゲ事件: リヒャルト・ゾルゲ・尾崎秀実が処刑される。
・12月7日 - 東海道沖で東南海地震発生(軍需工場の崩壊により戦争敗北が早まったと言われる)

●1945年

・2月4日 - ヤルタ会談開催
・3月10日 - アメリカ軍が東京を空襲(東京大空襲)
・4月1日 - 米軍が沖縄本島に上陸
・4月30日 - 独総統アドルフ・ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺
・7月26日 - ポツダム宣言発表。連合国は日本に降伏を要求する
・8月6日 - 午前8時15分米軍が広島市へ原子爆弾投下
・8月9日 - 午前11時02分、米軍が長崎市へ原子爆弾投下。
・8月14日 - 午前11時、天皇が御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明。日本政府としての戦争終結
・8月15日 - 午後0時、昭和天皇の玉音放送で日本国民にとっての戦争終結
・8月30日 - マッカーサー元帥が沖縄本島より厚木飛行場に到着し、米太平洋軍総指令部GHQを横浜税関に設置。
・9月2日 - 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印

●1946年

・1月1日 - 天皇の人間宣言
・1月10日 - 国際連合総会第1回開催
・2月28日 - 公職追放令公布
・5月3日 - 極東国際軍事裁判所開廷
・7月1日 - 米ビキニ環礁で原爆実験
・11月3日 - 日本国憲法公布

●1947年

・5月3日 - 日本国憲法施行
・7月3日 - GHQ: 財閥解体の一環として三井物産・三菱商事の解体を要求
・9月14日 - カスリーン台風来襲

●1948年

・1月26日 - 帝銀事件発生。警視庁は旧731部隊員を調査するが、GHQが調査停止命令
・2月16日 - 朝鮮民主主義人民共和国樹立宣言
・3月17日 - イギリス、オランダ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクにより、ソ連に対抗するブリュッセル条約締結(NATOの前身)
・6月28日 - 福井大地震
・7月20日 - 李承晩が大韓民国初代大統領に当選
・8月15日 - 大韓民国樹立宣言
・9月9日 - 朝鮮民主主義人民共和国成立

●1949年

・3月7日 - 日本、ドッジ・ライン(財政引き締め)実施
・4月4日 - アメリカ合衆国を中心に北大西洋条約を調印。NATO発足
・7月5日 - 下山事件発生(自殺説・共産党員、国鉄労働組合員による他殺説)
・7月15日 - 三鷹事件発生(日本共産党員をGHQが調査)
・8月17日 - 松川事件発生)日本共産党員をGHQが調査)
・9月7日 - ドイツ連邦共和国(西ドイツ)正式に発足
・10月1日 - 中華人民共和国成立
・10月7日 - ドイツ東部のソ連占領地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)成立

●1950年

・6月25日 - 朝鮮戦争勃発

です。

●1940年

・9月27日 - 日独伊三国軍事同盟成立。

●1941年

・10月18日 - 東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣。
・12月9日 - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告。

●1942年

・1月18日 - ベルリンで日独伊軍事協定調印
・2月15日 - 日本軍がシンガポール陥落
・6月5日 - ミッドウェー海戦( - 6月7日 )

●1943年

・1月14日 - アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相によるカサブランカ会談
・4月18日 - 山本五十六大将、米軍機の攻撃を受け戦死

●1944年

・7月1...続きを読む

Q月待ち講・月待ち塔・三日月信仰

画像は月待ち講の石碑だと思いますが
中央に”三日月”、、その下に
”二十三夜” ”十三夜”と彫ってあります。

これは三日月信仰の石碑なのですか?

神奈川の湘南地方です。
小高い丘の上にあります。

Aベストアンサー

群馬や栃木など、関東地方の一部にみられる「三日月様」の供養塔ですね。月待講と言えば、普通は二十三夜などが中心で、三日月を信仰するのは珍しいとされています(日没後すぐに沈んでしまうので)。
http://mblg.tv/satakeshi/entry/214/

湘南地方の三日月信仰については、『広報ちがさき』(2012年10月1日号)に記事がありました。
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/856/20121001_3.pdf
女性のお祭で、安産祈願が中心のようです。記事を担当した茅ヶ崎市文化資料館に聞かれれば、問題の石碑についても、さらにくわしいことがわかるかもしれません。電話(0467-85-1733)のほか、メールフォームでも問い合わせることができます。
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/bunkashiryokan/

なお、栃木や茨城の三日月信仰については、松崎かおり「ミカヅキサマを祀る習俗」(東京成徳大学『研究紀要』6号)という論文で、くわしく紹介されています。
http://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/11/P093-112.pdf
このほか、参考になりそうなサイトは以下の通りです(すでにご存じかもしれませんが……)。
群馬県みなかみ町の三日月信仰↓
http://www2a.biglobe.ne.jp/~kitao/oaaminzoku11.htm
三日月神社・三日月塔など↓
http://www.maroon.dti.ne.jp/starlore/bunka/kbunkazai.html
福島県会津美里町の三日月供養塔↓
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10064.102.aizuhongou/html/00006.html

群馬や栃木など、関東地方の一部にみられる「三日月様」の供養塔ですね。月待講と言えば、普通は二十三夜などが中心で、三日月を信仰するのは珍しいとされています(日没後すぐに沈んでしまうので)。
http://mblg.tv/satakeshi/entry/214/

湘南地方の三日月信仰については、『広報ちがさき』(2012年10月1日号)に記事がありました。
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/856/20121001_3.pdf
女性のお祭で、安産祈願が中心のようです。記事を担当した茅ヶ崎市...続きを読む

Q1930~40年代のピストル

 どちらかというとミニタリー系統の質問ですが、よろしくお願いします。
 松本清張の「昭和史発掘」あたりを読んでいると、昭和初期くらいの事件でやたらと簡単に日本人がピストルを手に入れて使用しているんですが…。
 ただ単に「ピストル」としか書かれてないんですが、これって具体的にどこの会社が生産したなんていう名前の拳銃なんでしょうか。(まさか昨今流行のトカレフではないでしょうし)
 この時代を舞台にしたドラマとか見ているとワルサーっぽいシルエット(あの先っぽに何か付いている全体的に細いやつです)のものを大陸なんかでは使っていますが、あれは陸軍の制式銃って設定でああなってるんでしょうか。
 素朴な疑問で、あの時代ってたとえ地下活動家とかでも、一般に生活している日本人が、そんな簡単に銃が入手できたんでしょうか。

 「銃火器のことを語らせたらちょっとうるさいぜ」という方、お待ちしております。

Aベストアンサー

まず、当時の士官が持っている拳銃は概ね「私物」です(下士官などに対しては貸与もあった。ちなみに制服やらクツやらすべてにおいて官給品はない。ので下級の士官は結構貧乏だったりします)。つまり銃砲店で個人の趣味にあったモノを買えば良かったし、別段買わなくてもよかったわけです。

購入は法令が直接出て来ないので分かりませんが、
1)民間人には持たせない
2)所持、運搬は許可制
だったようです。ただ、今よりもはるかに銃をあつかう軍人が身近な存在だったことも事実です。

じゃ、どの位市中に出まわっていたのかというと、
参議院の議事録(参考)に

拳銃の所持許可数につきましては(中略)昭和十二年に戦争が始まったその当時、警視庁管下の所持許可をしておりました拳銃を、戦争が始まると同時に、一括警視庁で保管するために警視庁に集めました。そのときの数が約二千丁でございます。この警視庁の二千丁から推定いたしまして、全国で約二万丁くらい所持許可数があったと推定されます。
とあります。

 この年の男の人口がおよそ3500万人。分かりやすく子どもなど拳銃を持たない人が1500万として、およそ1000人に1丁の割合で拳銃が存在していたわけです。
 さらに、この数字、戦場に出掛けていった人が持って行った数は含まれていませんので、実数はさらに大きくなったモノと考えられます。それでもこの10倍=20万丁あったとしても100人に一丁。

 ちなみにドコモの「PHS」の契約数が17年2月現在で130万件ほど。ポケベルが65万件ですから、極端に推定値の10倍が流通していたとして、この程度の普及率だったわけです(実際にはもっと低いでしょう)。

参考URL:http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/040/0320/04002270320010c.html

まず、当時の士官が持っている拳銃は概ね「私物」です(下士官などに対しては貸与もあった。ちなみに制服やらクツやらすべてにおいて官給品はない。ので下級の士官は結構貧乏だったりします)。つまり銃砲店で個人の趣味にあったモノを買えば良かったし、別段買わなくてもよかったわけです。

購入は法令が直接出て来ないので分かりませんが、
1)民間人には持たせない
2)所持、運搬は許可制
だったようです。ただ、今よりもはるかに銃をあつかう軍人が身近な存在だったことも事実です。

じゃ、どの位...続きを読む


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