AKB48の推しメンをセンターにできちゃうかもしれない!? >>

江戸開府以来、大・大名だった加賀・前田家や仙台・伊達家は幕末から明治維新の時期に全くと言って良いほど、その動向や活動を聞くことがありません。
特に伊達家は本家ではなく宇和島の伊達家が幕末に活躍しています。
本来、大名家の中でも大規模な両家が幕末期に何の影響力を果たさなかった(発揮しなかった)理由みたいなものはあるのでしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

長州力」に関するQ&A: 長州力

A 回答 (3件)

加賀前田は日和見というよりも、自藩存続を第一に考えて行動してました。


加賀藩は幕府との結びつきも強く、佐幕派の領袖ですから、公武合体の周旋なども積極的に行っています。京都の公家や調停に対しても、姻戚関係がある二条家などを通じて、積極的に働きかけています。
ただ、京都詰家老に絶対的な権限が無かったことと、北陸に閉じこもっている国許の家老の情報判断の無さが致命的でしたし、藩内の意見もまとまりきらなかったので、後手後手を踏む結果になったのが、後世から日和見と言われる所以だと思います。
一ツ橋慶喜は加賀藩に期待していたみたいで、書簡などもたくさん送っていますし、加賀藩側も幕府に尽くすという態度は取りつづけるのですが、それは幕府と一蓮托生という強い気持ちではなく、幕府のほうが旨味が大きいといったものなので、禁門の変や戊辰戦争で幕府の敗北の可能性が大きくなると、一転していくわけです。。

つまり、それなりに京都で情報収集したり、政治活動を行ったりするのですが、藩内もまとまっていないのと、薩摩や長州みたいに自藩をぶち壊してまでの改革する強烈なビジョンは持ち合わせていなかったという結論になります。
おそらく、加賀藩は江戸時代的な思考だったんです。情報処理、政治判断など極めて江戸時代的でしたから、むしろ、幕末にいたっても藩機構がしっかりしていたというべきなのでしょう。
長州や薩摩みたいに、下賎の輩に政治を支配されていなかったということですw

ただ、質問者さんがいうように、動向や活動を聞くことがないのは、後世の歴史家が、幕末を近代化の課程の第一歩と結びつけたためと思われます。近代化という点では、加賀藩や仙台・伊達なんかは何もしていません。
それに対して薩摩・長州の功績ははかりしれないものがあるから、喧伝されてきたし研究もされてきたのです。
加賀藩や仙台・伊達のような滅びゆく江戸時代的なものと、新しいエネルギーに満ち溢れた長州・薩摩を中心とした明治政府なら、明治政府に焦点があたってきたのも当然かと思います。

全国の諸藩が影響力がなかったというよりは、後世の取り上げ方が恣意的だったと考えても良いと思いますよ。
    • good
    • 0

加賀前田家については禁門の変のときに嫡子が手兵を率いて御所の警備をしていましたが、長州勢との衝突を避けて近江の飛び地に移動しましたが、これが藩主のいれるところにならず嫡子は蟄居、ついていた家老は切腹、さのた幹部は蝋に入れられたり流刑になったりしましたが、薩長勢の討幕派が優勢になると藩主は隠居し嫡子に地位を譲りました。

ういうことで前田家はどちらかというと佐幕派のスタンスでしたが結局日和見に終始しました。
仙台伊達家についても佐幕派のスタンスで、幕府が倒れて合会津藩が追悼され根ことになったときに奥州諸藩は奥羽越列藩同盟を組んで官軍に対抗しましたが、そのときに仙台藩が盟主になりました。
しかし、白川口ほかの戦闘に破れたあと同盟の足並みが揃わなくなり官軍に願えるところも多くなって同盟は腰砕けになり仙台藩はなすところなく降伏してしまいました。
仙台藩の場合はまずひとつは明確なビジョンをもてなかったこと、奥州諸藩をまとめる指導力がなかったことが維新で影響力を及ぼせなかった原因でしょう。
    • good
    • 0

加賀・前田家は独自に海軍を創設しています。

梅鉢海軍と称しました。戊辰戦争では長岡に出兵しています。

仙台・伊達家は東北の奥羽越列藩同盟の盟主でしたが、兵の質が悪く「ドン五里兵」と呼ばれるほど体たらくな軍隊でした。

「ドン五里」とは大砲がドンとなると5里後退するという意味です。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q加賀藩と幕末

加賀藩は並みの大名百人分の規模がありながら、どうして激動の幕末にさして重きを成す事が出来なかったのでしょうか?加賀藩はどういうスタンスだったのでしょうか。

Aベストアンサー

禁門の変のとき加賀藩の嗣子前田慶寧の手兵も警備にあたっていましたが、慶寧は桂小五郎とも通じるところがあり戦闘には加わらずに近江の飛び地まで引き上げています。
このころ加賀藩では藩論が二分されていたため、藩主斉泰は慶寧を金沢に呼び戻して蟄居させ、若殿付の家老には切腹、その他の士卒も40人が死刑や流刑にされました。
そういうことで加賀藩はどちらにもつかずに日和見をしていましたが、政情がへんかするにともない、藩主は隠居して慶寧に当主の座をゆずりましたが、天下の形勢をみて動くだけで積極的にどちらかへかたんしないままに明治をむかえました。

Q戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

Aベストアンサー

前田利家が参戦した戦は37です。
その中でも、近江箕作城の戦い及び越前金ヶ崎城の戦いでは槍をふるって敵の首を取っている。また、摂津・春日井堤の戦いは「堤の上の槍で」と信長に讃えられている。武勇に優れていた事は間違いありません。

慶長4年(1599年)2月、病躯をおして、利家は和解の実を示す為に伏見に家康を訪ねている。
また、同年3月、家康は病気見舞いと答礼をかねて、大阪城に利家を訪ねている。その際、利家は病状が悪化し、やっと床を這い出て中の間で家康と対面している。この二つの状況からも利家の「律儀さ」が窺えると同時に、家康が一目置いてた大大名利家の存在感を現しています。

石田三成は病中の利家を訪ね、看病と称して前田邸に詰めた。加藤清正、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、福島正則、細川忠興、加藤嘉昭の七大名から逃れるためであった。七大名も利家の顔を立てて、三成に手だしをしなかった。ここでも、利家のすごさが窺えます。

意見の分かれるところですが、もし利家があと10数年生きていたならば、徳川幕府は生まれていなかったかもしれません。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング