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「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか?

単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか?

もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか?

クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。

一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。

「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

A 回答 (107件中1~10件)

同じことを自分も考えたことがあります。



自分と同じDNAから「クローン」が出来たとしても、それは間違いなく自分自身ではなく、自分と寸分違わぬ「物」であると言うだけの存在であって、その「物」を介して自分自身が「今の世界を見る事」は、出来ないのだと思います。

頭の中にある記憶を蓄積する「ハードディスク」たる「脳」は、同じ時間を共有出来てこその唯一の存在で、複数存在する事はない物と思います、たとえ記憶の全てを、データー化できたとして、新しい「脳」に移し替えたとしても、従来のオリジナルのものとは違う「物」になるのではないでしょうか?

第三者から見れば紛れもない「自分」に写ると思いますが、自分から見た世界は、この「物」を介して見ることは出来ず、オリジナルになりえないものでしかないはずです。

酒を飲んで「記憶がない」行動をしたり、深い眠りについて「夢さえ見ない」この時間は、自分自身が「この世界」にいない時間なのでしょうか?

死んだ場合は、自分自身の記憶は何処に行くのでしょう?「この世界」にいない時間が永遠に続くだけなのでしょうか?

質問者が問われている、「この世界が見える」は、別の人からは同じものに写っているのでしょうか?
自分は、空は「青」に見えますが、「青」は何なのでしょう?「丸」は本当に他の人にも「丸く」見えているのでしょうか?

他人の「ハードディスク」たる「脳」の中が自分には分からないため、知る由もないのですが、「この世界が見える」のは、本当は今の自分だけなのかも知れません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/26 18:15

 人の一生、つまり誕生から死に至るまでの時間的な経過は、一人一種で総て異なります。

例え、クローン技術が高度なものになったとしても、同一個体ではありません。従ってあなたの仰るような「私の肉体の完全なる再生」はあり得ないし、その様な論点には至らない訳です。
 それと、いま一つ忘れてはならないものに『心』があります。これは、誕生から死に至るまでのそれぞれに与えられた条件に因ってこれも又、一人一種で総て異なっております。従って、この二つの想像を超えた組み合わせの”たった一つ”が『あなた』です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/26 18:16

眼が必要です。

それは私と世界をつなぐものです。しかし、私が狂うことと世界が狂うことの違いを私には知る由もありません。ゆえに、私にとって私と世界は同じものなのです。それならば、私と世界をつなぐ眼の役割はなくなります。私が存在することが世界が存在することと同じことなのです。「私が存在する」ということが私にとって「この世界が見える」という条件ではないかと思います。”私にとって”というのですから、「私が存在する」というのは当たり前のことかもしれません。ただ、私=世界ということは、”私にとって「この世界が見える」ための条件”というのは、”この世界にとって「私が見える」ための条件”と同じになってしまいます。「私が見える」というのはよくわかりません。私=世界が間違っているかもしれません。いえ、私にとって、私=世界なのですから、世界にとって、私=世界なのではありません。私が狂うことと世界が狂うことは私にとって同じであるというだけであって、世界にとっては同じであるかわかりません。”私にとって「私が見える」ための条件”というのはどうでしょうか?これならいいのではないでしょうか?私が見えることが世界が見えることの条件なのだと思います。「私が見える」というのはやはりわかりません。「私が見えると気づく」ということでしょうか?

それから、クローンとオリジナルの両方から世界を見えたら世界が二重に見えるとありますが、それはわからないとおもいます。現にわれわれは眼が二つあっても世界が二重に見えることはないのですから。もちろん、眼が二つあるのと脳が二つあるのとでは全然違うということもあるでしょうが。

この回答への補足

確かに眼は必要でしょうね。でも、「私」にとって「この世界が見える」ためには、眼や視神経や脳があっただけでは、やはりダメでしょうね。他の人も持ってますから。

補足日時:2005/11/26 18:20
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/26 18:18

>「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?



これは、記憶の問題ですね。
生まれたばかりの赤ん坊でも少しは目が見えるらしいですね。
二・三ヶ月もすれば、視覚による実験も可能らしいです。
条件としては、生物学的に眼や視覚神経・脳の中の多数有る視覚野が正常だと言うことが必要です。
もちろん、問題は「私」に有るのですが、此処ではベルクソンの説にしたがって説明してみます。
彼曰く、純粋知覚は物質であると、つまり、外部から入る光・色覚細胞の刺激・視覚神経の発火も伝達物質も物質だというようなことでしょう。
それに対して、純粋記憶(もしこの様な物が有るのならと言う注釈がつきますが)は精神だと言います。つまり、物質である知覚に精神である記憶が重なる事により「私」独自の「世界が見える」と説明しています。
この事を、ベルクソンは表象ではなく「イマージュ」と呼びます。
さて、どんなものでしょうか?

視覚に記憶が影響する事は、錯覚などの事実からある程度了解できるようですし、その影響力に二種類あることも了解できそうです。
例えば、「隠れたダルマシア犬」の錯覚は一度見えると消えませんが、老婆と少女の錯覚や立方体の錯覚は、行ったり来たり繰り返します。
この二種類の影響の違いは、進化心理学的に説明できるらしいですが、「ボロ」が出そうですので割愛いたします。

それと、食堂とかで遠くのメニューを見る場合、最初読めなくとも、となりの目の良い人に教えてもらうと、読めてしまったようなご経験はありませんか。私はそんなときに、視覚に記憶が影響すると実感できます。

私の知覚は記憶と他者に影響を受けていますから、私の見る世界には「過去の経験が必須条件」物質だけでは再現されないと思います。以上私見です。
参考URLは、下のほうの「だまし絵」を見て下さい。

参考URL:http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/basics/vi …
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この回答へのお礼

見えるために必要な一般的条件のような話でしょうか? 「私」にとって「この世界が見える」ためには、そのことは必要条件ではありますが、十分条件ではないと思います。一般的に見えるための条件だけなら、「私」のクローンでもいいということになりますので。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/26 18:26

「私」として再び「この世界が見える」ことができるなら、それはクローンとは呼ばないでしょうね、やっぱり。

少なくとも本人自身が「私は私のクローンですよ」とは言わないでしょうね、やっぱり。

『子供のころの自分と大人になってからの自分は肉体的、精神的、また記憶の上でも、全く異なる存在です。』
これは語弊のある表現かなと思いますが…

難しいですよね、スピリチュアル的なことを御考えなのでしょうか。尽きせぬ問いですよね。

もし御面倒でなければ下のURLを御参照なさっては?
御質問者の琴線に触れる投稿もあるかと存じます。

参考URL:http://personal.okwave.jp/kotaeru.php3?q=20857
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/26 18:28

『この世界が見える』のは、『肉体の完全なる再生』でいいのではないでしょうか?


問題は、『私が』という部分でしょう。突き詰めれば、『クローンは私か?』という事ですね。

クローンが精神的,記憶の上で、全くの同一であったとしても私はそれを『私』とは認めません。

DNAが同じならということなら、完全な一卵性双生児の兄弟は離れたところで違うものを二重に見る事が出来るって事になりますよね。そんな事は普通は無いでしょう。たまに変な話を聞いたりしますが・・・・・

分かりにくい言い方ですが、私にとって、『私がこの世界を見れる』条件は『私が私である事』です。私が私らしく生きられないなら、私としての私は死んだも同然です。ならば私は私として個を認識する事を認めません。

もし、あなたが完全なクローンがいたとして、目の前にそれがいてどの様な感情を持つでしょう?リアルな鏡を見たような気分になるのでしょうか?まぁ実際に起こらないとなんとも言えませんが、それが日常でないのなら何らかの普段と異なる反応は示すでしょう。
違う反応を示すという事は、それは自分ではないという事です。自分だということは当たり前の事ですから。もし、あなたの足がなくなって、義足を付けたとしたら、あなたはすぐにあなたの足としてその義足を使えないでしょう。同じ事で、あなたはクローンをあなたとしてすぐには認識できないでしょう。

そもそも、非科学的ですが生物に全くの同一のものは存在できないと考えています。全く根拠はないのですがね・・・・・
完全なクローン,全く同一のDNAを持つ一卵性双生児ですら違うのです。思考,感情など、表に見えにくい物は、今までの人生を通して『私が』感じて学んで来た物です。それら無しで、今の私はありえないからです。

蛇足ですが、記憶ですら全く同一の超完全なクローンならどうなんでしょうね・・・・
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この回答へのお礼

「見えるかどうか」は、記憶には関係しないと思います。というのは、自分が子供の頃は、当然その後の記憶はなかったわけですが、「私」にとって「この世界が見えた」のですから。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/11/26 18:34

クローンについては他の方がお話しているので大体一致していますので、私は「私」について少し別の視点から考えます。


ところで、質問者様は「私」が「見ている世界」を一つしかないと考えているようですが、本当でしょうか。
実は私と言うのはたくさん存在していて、そのうちの一つに対して「私」という表現を用いているに過ぎないのではないでしょうか。
私個人の話をさせていただくと、私は忘れっぽい性質(たち)です。昔に人に言われたことをすっかりと忘れるのが大得意です。
この時、昔の私は今の私と同じなんでしょうか。もしかしたら私は昔は違う世界を見ていて、それを忘れてしまっているだけかもしれません。ただ、なんとなく自分の頭の中に、この世界と同じような風景が浮かぶから、「多分これが私の昔見てきたものなんだろう」と思ってしまっているだけです。「この世界が見える」と回答者様はおっしゃいますが、もしかしたら、そもそも「私」は、「今までずっと」「この世界が見えて」いたのかどうかも怪しいわけです。
つまり私の回答は、復活云々を考える以前に、「私」は「世界を見てないかもしれない」と言うことです。
なら、別に復活したところで、あなたが二人いたところで、今と状況は大して変わらないことになります。
もう一つ言いたいのは、「私」というのは、時間を経て変化すると言うことです。
貴方は昔からこの世界を見ていたわけではありません。(仮に見ているということでここからは話をしています。)赤ん坊の頃はこの世界を見ていなかった可能性があります。その証拠に貴方にはその記憶がありません。何らかの条件が整った時に、貴方はこの世界をはじめてこの世界として見たことになります。そしてこれからも同じような条件において、貴方はこの世界をあの世界としてみる可能性もあるわけです。
ということは、二人の自分がいて、初めはダブって世界を見ていたとしても、後々それぞれが別の状況下におかれる可能性は、そうでない可能性に比べてきわめて高いですから、そのうち二人の見る世界は変わることになります。
以上によって、貴方の考えた仮説は解決しました。いかがでしょうか。

この回答への補足

済みません。おっしゃっていることが、あまりよくわかりませんでした。

>この時、昔の私は今の私と同じなんでしょうか。

肉体的には同じ「私」だけど、時間の経過に従って「私1」、「私2」、「私3」.....と変化しているということでしょうか? それは、おっしゃると通りだと思いますが、でも、5年前に「私1」が人を殺したら、5年経って「私」が「私5」に変わっていたとしても、やはり、「私」は逮捕されますよね。

>つまり私の回答は、復活云々を考える以前に、「私」は「世界を見てないかもしれない」と言うことです。

確かに懐疑論的には、おっしゃる通りかも知れませんが、現実の人生でそういうことを信じて生きている人はいないと思うのですが。例えば、昨日会った彼女を実は私は見ていなかったんだと思う人は、あまりいないと思います。

>二人の自分がいて、初めはダブって世界を見ていたとしても、....

ここで、二人というのは、「私」と「私のクローン」という意味ですか? そうだとした場合、世界がダブって見えるというのは、「私」の見ている世界と「私のクローン」が見ている世界がダブって見えるということでしょうか? 現実的には、そんなことは起き得ないと思いますが。というのは、「私」が大阪にいて、「私のクローン」が東京にいた場合、「私」は、大阪と東京の現場が同時に見えることになりますが、実際には、東京の情報を大阪に送信するのは人間の肉体だけでは不可能だと思います。

補足日時:2005/11/26 18:45
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どうやらご理解いただけなかったようです。

はじめの議論は、逮捕どうのこうのという話ではありません。自分というのは常に変化しているという話です。昔の自分と今の自分というのは性格や考え方も少しずつ変化しているということです。二つ目の議論は、質問中に、『「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。』とありますが、この二重の話をしているんですよ。そしてあなたと同じように不合理だと私も考えますが、それと同時に私はそのあなたのクローンが見ているものはあなたとみているもの、角度が違うのだから、その人間は仮に最初の瞬間あなたと同じ考えを持っていたとしても、その後の体験によって別の人格となるので、何の問題もないという話をしているのです。
つまり私が言いたいのは、『私』だけが見ているこの世界というのは、今までの記憶の積み重ねを加えて初めて現れるものだということです。
つまり、肉体と記憶によって、あなたはあなたになったのです。
これならどですか?

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>自分というのは常に変化しているという話です。

おっしゃるとおりだと思います。

>昔の自分と今の自分というのは性格や考え方も少しずつ変化しているということです。

おっしゃるとおりだと思います。

>その後の体験によって別の人格となるので、何の問題もないという話をしているのです。

おっしゃるとおりだと思います。

>つまり、肉体と記憶によって、あなたはあなたになったのです。

おっしゃるとおりだと思います。

で、私の質問は、そのように常に変化している肉体と記憶を抱え込んだこの「私」にとって、「世界が見える」ための条件は何かということです。最初の質問の繰り返しになってしまいますが、単に私の肉体と同じものがあっただけでは、クローンという話ですから、ダメですよね。譬え、そのクローンが自分の過去の記憶を持っていたとしても、やはり、クローンは他人ですから、その体を通して私が「世界を見る」ことは不可能ですよね。では、クローンではない「何」なら可能なのかということです。その答えが、もし、「私の肉体」だということなら、私の肉体と私のクローンの肉体とは一体何が違うのかということになります。

補足日時:2005/11/26 19:47
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お礼を拝見いたしましたが、


老婆心ながら再度確認させていただきます。

私とクーロンが同時に空間を占有できるのでしょうか?

この回答への補足

私とクローンは、物Aと物Bの関係と同じですから、「同時に同じ場所を占めることはできない」ことは確かです。逆に、同じ時間に違う場所や、違う時間に同じ場所を占めることは可能です。

補足日時:2005/11/26 19:48
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なるほど、では、他者の存在はどうしますか。



他者は、私とは違う世界で生きています。

私とクローンの平等を守る為に、同じ事をわざわざしてくれますか。

言葉だけで意思を伝えるのは恐らく不可能ですから、
程々にしておきましょう。失礼しました。それに疲れますね(笑。
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