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本能寺の変で信長とその長男は討たれたみたいですが
どうして、その他大勢の跡継ぎが織田の所領を守れなかったのですか?

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A 回答 (7件)

長男の信忠が死んでしまったので、有力な後継者は次男の信雄か三男の信孝になります。


信雄は安土城を焼いてしまったりした非常に出来の悪い人物で、信忠同様生駒氏を母としたため次男とされていますが、実際には信孝の方が年長になります。
信孝は信雄に比べれば益しな人物(優秀とはいかないまでも大名としては勤まる力量はある)ですが、身分の低い坂氏を母親としているので、どうしても信雄の下に置かれてしまいます。
その為、信雄・信孝兄弟は仲が悪く、協力するということはありませんでした。
山崎の合戦でも信孝は参加をし、一定の評価を受け、清洲会議では三法師の保護者として岐阜にいましたが、信雄により自刃に追い込まれ26歳で源義朝同様野間にて亡くなります。
生き残った信雄も秀吉・家康に翻弄され、小田原の役で改易されながらも、子孫は小大名として明治まで残ります。
信長の子供達は長男信忠を除けば出来のよい方ではなく、周囲に利用されながら滅んでいきます。
長女徳姫も、世が世なら2代将軍の正室として春を謳歌できたのですが、夫の岡崎信康と姑の築山殿を死に追いやり、歴史の裏でひっそりと生きていくことになります。
これ以外に歴史上名のある子供は
 4男:羽柴秀勝(於次丸)---秀吉の養子になり、18歳で死亡
 5男:織田勝長(御坊丸)---女城主で有名な恵那の遠山氏の養子になり、     武田氏の人質になる。後に本能寺の変で信忠と共に死亡
 7男:織田信高-------------江戸期は高家となり、明治維新を迎える
 2女:冬姫----------------蒲生氏郷の室、81歳の長寿をまっとう
   永姫----------------前田利長室(玉泉院)
 多いのでこのあたりで

信長には26人の子供がおりましたが、あまり幸せな生涯ではなかったようです。
#4さんがちょいと書いた「津田信澄」は信長の甥で、父親は若い頃の信長の対抗馬だった信行の子供で、それもあって疑われたようです。
Ifがあれば、信長の越前攻めの時のように信忠がさっさと馬で逃げ、信孝と合流すれば、この時点では信忠が織田家当主で信長の正当な後継者ですから、四国遠征軍に近畿の大名が加わり、明智軍と十分に対抗しうる状況と考えます。
この場合、負けないように戦線を膠着させれば秀吉や家康・勝家の軍団が時間と共に集まってきますから、何の問題も無く明知軍を破り、信忠は手堅い武将ですから、2代目として間違いなく天下を治めたと考えます。
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簡潔に私の考えを。



1.信長が独裁的すぎたから:
重大な意志決定という観点で見ると、織田家=信長…でした。権力が集中しすぎていたのでしょう。

2.後継者は長男の信忠しか想定していなかった:
信長としては織田家の後継者として着々と信忠を育て、権限を徐々に委譲しつつありました。しかるに一緒に死んでしまいました。
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このあいだ、杉本苑子さんの『月宮の人』という本を読んだのですが、そこに織田家の崩壊の様子が書かれていました。



それによると、どうも内輪もめで織田家の結束が弱くなったからのようです。

跡継ぎだった長男は本能寺の変に関わって死に、その跡目になる2男以降の子供たちを、信長の兄弟たちや豊臣秀吉や徳川家康、柴田勝家など有力な武将がそれぞれ擁立しようとしたり、秀吉が天下をとって以降は「信長の血筋」というのを利用されたようです。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022606 …
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織田信長は跡目相続による混乱を避ける為に、嫡男の信忠以外はほとんど他家へ養子として出し他家の跡目を継がせています。

例えば信雄は北畠家へ、信孝は神戸家、弟の息子で織田家の雄物とされた信澄は津田家へなどなど。その所領は織田家の明智・羽柴・柴田・丹羽・滝川や同盟国の徳川に比較し微々たるものでした。

その為に信忠以外の諸子弟は、織田の行政組織や軍団の統括者として勢力を持っていませんでした。唯一、信孝は四国征討の名目上の主将に選ばれていましたが、軍団を掌握する前に丹羽長秀ともども秀吉の軍団に取り込まれてしまいます。津田信澄などはこの混乱の中、明智光秀の女婿であったこともあり、丹羽長秀と信孝に殺されています。

結局、織田家の御曹司たちは、軍団を掌握していた配下武将のバックアップなしに自力で跡目を継ぐ実力を持たされていなかった為に、秀吉に政権を奪われたと言えるでしょう。
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こんばんは、面白い質問ですね。


#1さん、ご指摘のように信長があまりに傑出していたので、他の連中は皆小粒にみえたことは事実でしょう。

全くの私見ですが、こう考えてみました。
尾張という土地の気風がありはしないかと。尾張というと、濃尾平野もありますが、どちらかというと「東海道」「港」を中心とした商業的色彩の濃い地域ではないかと。事実、織田家の財政は、年貢もありますが港や南蛮貿易からあがる収益が大きいですね。軍団も、土着農民ではなく傭兵を用います。そのような地域で、織田信長という起業家が大成功を収めたわけです。その過程で、織田家代々の家臣のほかに、新規に召抱えた「社員」がたくさん生まれます。彼らは、ある意味「契約」ギブアンドテイクで織田家に仕えます。じゃあその跡は?というと「血」よりも、織田株式会社を維持しライバルに勝ち抜いていく「経営手腕」が重視されるわけで、庶民、特に商人からすれば「マネイジメント能力に秀でた者」が後継者としてふさわしい、という判断があったんではないでしょうか。後継者としては、秀吉がまさにそうですね。

一方、家康のような三河岡崎の小領主から叩き上げてきた大名の場合は、三河七党ですか?先祖伝来の土地に居ついた地縁・血縁が濃厚です。いわば、地方の町工場が地域住民、取引先と密接に結びついて次第に業績を拡大していく、みたいなものですか。したがって「おらが殿様・若様」にはどこまでもついて行く、みたいな気質が大きいと思います。

信長・秀吉は「商業・マネイジメント重視」、家康のようなタイプは「農業・人間関係重視」でしょうね。その点で言うと、日本のその後の歴史は後者の道を進んだわけで、信長・秀吉ラインだったらどのような日本になったか(個人的には)興味深いですね。
飛躍するかもしれませんが、某放送局等と某IT界の風雲児(複数)の一件も、(勝手かもしれませんが)こういう視点でみたらどうなのか?と想像(妄想?)していますけど。

何か質問の回答になってませんね、失礼しました。
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この回答へのお礼

面白い所見 ありがとうございます

お礼日時:2005/11/29 04:48

豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の清洲会議をはじめとする狡猾なまでの(良く云えば天才的な)謀略に、次男信雄も三男信孝も長男信忠の子三法師を信孝と共に擁する織田の重臣柴田勝家も苦もなくひねられてしまったようです(四男秀勝は秀吉の養子となっていました)。

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信長の兄弟・親戚のすべてにおいて、


信長ほどのカリスマ性を持って
代わりに織田軍を率いる資質を持った人材ではなかった
ということでしょう。
弟などは武士より茶人として有名ですよね
銀座の近くの有楽町は織田有楽斎の屋敷跡なので
地名になりました。
また首領が死ねば所領は反古同然。領地管理できなければ
領国経営を他者に委ねることになります。
織田家、豊臣家の親族の領地変遷は歴史バラエティでも
取り上げられることが少ないので
疑問を持つ方も多いと思います。
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